WOTONAKICHI
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煩悩からハマったヤクルトファンという修羅の道から抜けられない。

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「煩悩からハマったヤクルトファンという修羅の道から抜けられない。 」。フミコフミオさんが書かれたこの記事では、プロ野球・東京ヤクルトスワローズへの偏愛を語っていただきました! はじめに 如何にして僕はヤクルトスワローズファンになったのか。 僕はフミコフミオ、本職はブロガー、副業で食品会社の営業部長をやっている50歳のおっさんだ。このたびは、この場をお借りして、人生のほぼすべての期間をかけてハマっている東京ヤクルトスワローズとプロ野球について語りたい。 僕はヤクルトスワローズ沼にズブズブにはまっている。数年に一度の頻度で、ふと我にかえり「ヤクルトに費やしている時間を仕事に向ければ、もっとビッグな存在になっていたかもしれない」と思い、ヤクルト断ちをすることがある。 だが、数分のうちに「落ち着かない」「不安を覚える」といった禁断症状が起き、また自ら沼へ頭から飛び込んでしまう。ツバメになって自由に大空を飛び回りたいが、沼にはまりすぎて半魚人に接近しつつあるのが実態だ。 東京ヤクルトスワローズとの不幸で幸せな出会い ヤクルトスワローズとの出会いは、小学校低学年にまで遡る。1980年代前半。当時、プロ野球は国民的スポーツで、毎晩のようにナイター中継がテレビ放送されていた。中継はほぼ巨人戦だった。そのため読売巨人のファンになる友達が圧倒的に多かった。 当初、僕も巨人ファンだった。だが、巨人戦のナイターを観ているうちに、対戦相手のヤクルトスワローズに興味がわいてきた。弱く、大概負けているが悲壮感がなくて明るかったのだ。 80年代のヤクルトはとことん弱かった。成績は散々。80年代の順位は1980年の2位以降6、6、5、6、6、4、5、4位(暗記している)。10年間でBクラス9回うち最下位4回。調べたら勝率5割を越えたのは1980年のみで勝率3割台を3回記録。暗黒時代真っ只中だった。それでもヤクルトは明るかった。観客席のおじさんたちは東京音頭で楽しそうだった。 当時、ヤクルトスワローズを追うには、ラジオのナイター中継か新聞のスポーツ欄しか手段がなかった。一般紙のスポーツ欄のヤクルト戦の記事は、悲しいほど小さかった。写真もなかった。記載されている選手の出場成績とスコアから、どういう試合だったのか想像するしかない。今でもデータをみればどんな試合経過かだいたい想像できるのは、このころの経験が活かされている。  ファンになった決定打は、神宮球場での野球観戦。無料チケットで、神宮球場の内野席の僕の隣の席に、赤いミニスカートをお召しになったセクシーなお姉さんが座ったときだ。お姉さんはヤクルトの攻撃のたびに足を組み替えた。それを見ているうちに、僕は、完全にヤクルトスワローズのファンになった。以来、僕の血管には煩悩とヤクルトミルミルが流れている。  余談だが同時期、僕はロッテオリオンズ子供会にも入っていた。ヤクルトとロッテという負けてばかりの二チームを応援するうちに、勝ち負けに対する感情やこだわりは完全に焼失した。ロッテは高校三年のときの千葉移転を機に別のチームになった気がしてファンをやめた(今でもパ・リーグではいちばん好きな球団だが)。ロッテがいなくなってからはヤクルトへの偏愛を持ち続けてきた。そして、球団名が東京ヤクルトスワローズに変わった現在にいたる。 偏愛ポイント1:「BBAの法則」で病みつき! 東京ヤクルトスワローズ(以下ヤクルト)は、80年代の暗黒期、90年代の黄金期を経た現在でも成績が安定しないチームだ。Bクラス(4〜6位)が続いたかと思うと突然Aクラス(1〜3位)に快進撃をする戦いぶりは一部ファンから「BBAの法則」「躁鬱球団」と呼ばれている。「BBAの法則」とは2シーズン停滞(BB)後突然躍進(A)するヤクルトの傾向をあらわしたものだ。 最近も2年連続最下位に沈んだ翌シーズンに突然リーグ優勝を飾り、勢いそのままに日本シリーズまで勝ち取ってしまった(2021年)。ジェットコースターのようにファンの心を揺さぶるツンデレぶりに病みつきになってしまうのだ。ダメンズが突然覚醒してヒーローになるのだ。たまらない。 ヤクルトに強豪球団というイメージを持っている人は少ないだろう。安心してください。その認識は正しい。ヤクルトファン自身が強豪球団とは思っていないのだから。はっきりいって弱いときはひたすら弱い。 ただ「BBAの法則」で勝ち始めて調子に乗ると強い。球団黄金期と評価されている野村監督時代も常勝ではなく、1位と4位を繰り返していた印象。直近10年間の成績もファンの心を激しく揺さぶっている。直近10年間は、2014年の6位からはじまって、1、5、6、2、6、6、1、1、5である。勝つか(1位)負けるか(下位低迷)の二極、1位かビリかである。 普段は弱くてだらしないけれど勝ち始めるとたのもしい。それがヤクルトである。まるでテレビシリーズでは情けないけれど、劇場版だと頼もしくなる「のび太」のようだ。 なお、この原稿を執筆している時点で最下位。昨シーズンは5位に低迷。だが、ここ10年間でビリに4回なっているが1位3回日本一1回を達成しているので満足度はすこぶる高い。日本シリーズは通算でも強い。なんと出場9回で優勝6回だ。強豪球団みたいだ。 普段はダメだけれども突然大勝する中毒性の高いコンテンツ、それがヤクルト。弱いとき、ファンはあたたかく、弱いチームを見守る。「明日は勝てるさ」「ドンマイ」と。前触れもなく快進撃を見せて強敵を打ち倒していくときは、弱い時期を共に耐えている分喜びもひとしおだ。「よし頑張ろう」という気力をもらえる。常にAクラスにいて優勝に絡んでいるチームでは味わえない。こんな極端なチームは日本のプロ野球には他に存在しない。沼である。 偏愛ポイント2:家族のように仲がいい。 ヤクルトはファミリー球団といわれている。家族経営ではなく、家族のように仲がよいチームという意味だ。選手同士が仲良くて「わちゃわちゃ」していて、見ているだけで微笑ましい。そのチームカラーは近年ますます強くなっている。 ヤクルトは主力を他のチームに引き抜かれてきた歴史がある。90年代から約20年間、苦労して獲得して、日本野球に慣れるまで使ってきた外国人選手を、引き抜かれる。悲しかった。 ハウエル、ペダジーニ、ラミレス、グライシンガー、ヒロサワ、カズシゲ、バレンティン。とりわけエースで最多勝を取ったグライシンガーと不動の四番ラミレスを引き抜かれた2007年は……いや、誹謗中傷になるからやめておこう。悲しかった。好きだった女の子が、嫌いなクラスメイトの彼女になっていたときのような悲しみだった。 このような歴史があるため、今のファミリー球団ぶりは楽しい。近年の外国人選手、リーグ制覇に貢献したバーネットやマクガフは、メジャーリーグに移籍してもヤクルト愛を見せてくれている(バーネットは球団スタッフになった)。 嬉しい知らせが入った。なんと、現在主力のオスナ・サンタナのコンビが、選手サイドからのヤクルト残留を希望して、来シーズンから新たに3年契約を結んだのだ。40年以上、他球団も含めてプロ野球を見てきたけれど、こんな外国人選手は知らない。 仕事をしているとストレスを感じるけれども、ヤクルトの仲良しぶりはストレス軽減効果があるらしく、心身ともに良いのでやめられない。仲が良すぎるあまり皆さんが仲良く不調に陥って大型連敗を喫することもある。 だが、火ヤク庫と呼ばれるように打線が大爆発するときもあって、それはファミリー球団の団結力が生み出している。また、石川、青木といった40代おじさんレジェンドたちが、いい味を出してチームに影響力をもっているのも、同じおじさんとして嬉しい。 偏愛ポイント3:大谷さんをチェックしている暇がなくなる。 世間は国民的スター大谷翔平さんの活躍に夢中だ。だが僕は彼がホームランを打っても特に何も思わない。大谷翔平さんがヤクルトの選手ではないからだ。 ヤクルト以外のチームに興味がない。ヤクルトが勝つと最高だが、負けても楽しい。ヤクルトを通してプロ野球を、勝ち負けを越えた部分で楽しんでいる。 長年ファンクラブに加入しているが、応燕グッズはもっていない。東京音頭で有名な傘も、自宅に一本飾ってあるだけで持参はしない。僕は応燕より観戦を重視しているのだ。ちなみに応燕と書いているがヤクルトファンは応援のことをこう呼ぶ。念のため。 神宮球場その他の球場で観戦するときは試合に全集中。応援歌も歌わない(山田哲人の応援歌は例外)。試合前のキャッチボールやブルペンの様子。試合中頻繁に変わる守備シフト。中継ではわかりにくいポイントを見ていると応燕をしている暇がないのだ。写真を撮る時間もない。 日常のタスクは多い。シーズンオフも忙しい。ファン感謝祭、新人ドラフト、秋季春季キャンプ、現役ドラフト、新入団外国人選手、戦力外通告のイベントやデータサイトなど、追わなければならない項目が多く、忙しい。僕のように、仕事中、「支配下選手枠があと三つだから…」とぶつぶつ言うようになってようやく本格的なファンだといえる。 シーズン中はさらに忙しい。平日の試合は年休を取るか、早退をしなければ現地観戦はできない。管理職に就いてからは幹部ミーティングが増え、早退できなくなった。休日には家族サービスがある。そのため、球場での試合観戦は、年間十数試合。自然とネットやテレビの試合中継が中心となる。 各スポーツメディアのヤクルト関連ニュースをチェックすることから朝がはじまる。昨日の試合の詳報や裏話等。余裕があれば選手のSNSもチェックする。 日中も3時間毎に信濃町の方向を向き、つば九郎神社に向けて必勝祈願。2軍のデイゲームが13時からはじまるのでネットで出場選手と成績をチェック。空いた時間があればヤクルト関係のニュースをチェック。こうした本業の合間に、副業の営業部長の仕事をこなす。多忙だ。 出場選手登録が16時に発表されるのでチェックして、18時の試合開始に備える。ヤクルトの試合中継を見るために有料チャンネルに加入し、スマホでいつどこでも観戦できるようにしてある。18時に仕事を終えると、一回表裏の攻防が終わるまで部長席に座って仕事をしているふりをしながらスマホで観戦。 帰宅後は、表向きは奥様対応を第一に、心と精神は野球中継に集中して試合終了まで観戦。深夜までスポーツニュースや野球系サイトをチェックしたいが、そこまで没頭すると奥様から叱られるので、就寝するようにしている(朝に戻る)。 休日も仕事が家事と家族サービスに変わるだけで、基本的には同じ。これが火曜日から日曜日、試合日のすごし方になる。試合がない日は、プロ野球のデータを扱っているサイトをチェックする日に当てている。このように、ヤクルト漬けの忙しい生活を送っているため、大谷翔平さんを追うことはできない。完璧な大谷翔平さんの唯一の欠点、それは彼がヤクルトの選手ではないこと。ヤクルトでなければ僕の心を動かすことはできないのだ。 まとめ/2024年夏のヤクルトファン 現在(2024年8月20日)、ヤクルトはセ・リーグ最下位である。セ・リーグは近年にない接戦が続いているのでまだ優勝の可能性は残っている。ヤクルトは、既存戦力と新戦力で粘り強く戦っている。西川や松本といった、他球団を戦力外になった選手や、長く二軍で苦労していた選手が活躍していて今シーズンも面白い。 ヤクルトは、つば九郎人気もあって、昔と比較すると人気のある球団になった。ヤクルトの神宮球場主催試合のチケット購入も難しくなっている。かつてタダ券で観戦していたのが嘘のようだ。素直に嬉しい。 リーグ連覇、トリプルスリーの山田哲人キャプテンや、三冠王の村上などのWBC出場からファンになった人たちは、ヤクルトスワローズという浮き沈みの激しく、仲の良いプロ野球チームを長い目であたたかく見守ってほしい。そこに人生を重ねると病みつきになること間違いなしである。 僕の夢は、ヤクルト対ロッテの日本シリーズをこの目で観ることだ。それが叶ったらこの世に未練はございません。

ボーカルの叫び(フェイク)が好きすぎる…

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「ボーカルの叫び(フェイク)が好きすぎる…」。かんそうさんが書かれたこの記事では、ボーカルの叫び(フェイク)への偏愛を語っていただきました! 私はボーカルの叫び(フェイク)が好きすぎる男です。フェイクとは簡単に言うと「歌詞には表示されていない叫び声」です。 まったく予期せぬタイミングでブチ込まれる「イェーイ」や「ウォーウ」などの叫びを聴いた瞬間、私の耳と脳は沸騰し全身が溶けるような興奮に襲われます。 私が一番最初に「フェイク」というものを意識した叫びの原体験は、2000年にリリースされたロックバンド・ポルノグラフィティの代表曲「サウダージ」でした。曲終盤、ボーカル岡野昭仁が放つ、圧巻の叫びをぜひお聴きいただきたい。(3分30秒あたりから) https://www.youtube.com/watch?v=lzsB4eKPdJI 岡野昭仁「夜ォオオ空をォオオオ〜〜!焦ォオオがしてェェエエエ〜〜〜〜〜〜!私はァアア…!生きたわァアアアア…!恋心とオオオオオ〜〜〜〜〜〜ォオオオ……〜〜〜〜ォオオオオ…オオオ…」 新藤晴一「トゥトォワントォワン〜〜〜トゥルルル〜〜〜ティレレ〜〜〜レレ〜〜〜ェェトォワァ〜〜〜〜ァァレ〜〜〜ェン!キェレレレ〜〜〜〜トォワァントォワ〜〜ントゥルルルトォワァントォワ〜〜〜ン!トゥルントゥルントゥルントゥルントゥルルルトォワ!」 岡野昭仁「ベイベェェエエエエエエ〜〜〜ッ!!!!!!!」 新藤晴一「トゥトォワントォワン〜ワントォワンワントォワンワントォワンレ〜ワントォワン」 岡野昭仁「…ンナァッ…!ナナッツ…!ナナッツナァアォッ……!!」 新藤晴一「ギュイイイ〜〜〜〜〜ン!!」 岡野昭仁「オォン…」 新藤晴一「トゥトォワントォワン〜ワントォワン〜トォワン…トゥルゥルトゥルトゥルトゥル!」 岡野昭仁「ヒィイッヒィ〜〜ッ!!!!」 まさに常軌を逸した、驚天動地の叫び。特にラストの「ヒィイッヒィ〜〜ッ!!!!」を聴いた時の衝撃たるや、未知の世界に生まれ落ちた感覚でした。本当に意味が分からなかった。前述した「イェーイ」や「ウォーウ」ではない、掟破りの「ヒィイッヒィ〜〜ッ!!!!」がそこにはありました。 しかし、曲の主人公のどうしようもないほどの寂しさと切なさ、それでも日々を生きていかなくてはならない現実、そんな感情を表す言葉は「ヒィイッヒィ〜〜ッ!!!!」以外にはあり得ない。岡野昭仁の天を突くような高音から放たれるレーザービームのようなフェイクは、私の耳と心を掴んで離さなかったのです。 この瞬間から私の新しい人生が、フェイクに取り憑かれた人生が始まりました。それからというもの、叫びが素晴らしいと感じたボーカリストの叫びを分析、調査し、リリースした楽曲全ての叫びの部分だけを文字に起こしたブログを運営しているほどです。 もう曲などいらない、叫ぶだけのライブに行きたい。いやむしろ叶うのならば、私自身がボーカルの叫びそのものになりたい、そう考えています。 今回はそんな叫び、フェイクの魅力を余すことなく伝えたいと思います。そしてこの記事によって全てのアーティスト、ボーカリストがもっともっと叫ぶ世界を作りたい。そう考えています。 そもそもフェイクの起源とはどこにあるのか。諸説ありますが、9世紀から10世紀にかけて西欧から中欧のフランク人たちのあいだで発展した神の祈りや礼拝で歌われる宗教音楽「グレゴリオ聖歌」が発祥なのではないか、と言われています。 グレゴリオ聖歌で使用されるフェイクは「メリスマ」と言われており、1音節のなかで音符が複数歌われることを意味しています。そう、我々が生まれるずっと前から人々は叫んできたのです。 「フェイクなくして名ボーカリストなし」とは、私がたったいま興奮して作った名言ですが、人々の心を虜にするボーカリストたちは必ずと言っていいほどフェイクを得意としています。最後に、私が調査した最強のボーカリストたちのフェイクの魅力を紹介します。 Mr.Children桜井和寿 https://www.youtube.com/watch?v=ShhoC3nHX8E&pp=ygUT6Laz6Z-zIOODn-OCueODgeODqw%3D%3D 卓越した言語能力で日本中を共感の渦に巻き込む歌詞と、誰もが耳に残るメロディセンスはまさに日本を代表する鬼才。そんな桜井和寿を桜井和寿たらしめているのは唯一無二のボーカルです。 2015年に放送されたNHK「SONGSスペシャル」で桜井和寿は自身のボーカルについて「曲によって求められている感情っていうのがきっとあると思って、その感情にできるだけ近い声の柔らかさや硬さだったりとか、音の切り方とか、何度も主観と客観を繰り返しながら歌入れをしていく感じですね。だから、イントロがあって、最初の歌の声の出し方とかニュアンスはすっごいこだわる」 と語っています。曲によって自分の声をまるでカメレオンのように変化させているのですが、そこには燦然たる「桜井和寿」が輝いているのです。地声と裏声が入り交じる少しかすれた声は、どれだけ他のボーカリストが真似をしても小手先のテクニックでは到達し得えません。 その個性はフェイクでこそ輝くものがあり「桜井和寿が一回フェイクを歌うごとにどこかで争いが一つ消える」と言われるほど。まさに声のバタフライエフェクト。特に2014年にリリースされた『足音 〜Be Strong』で見せたフェイク「イェッヘッへ!」は、サウダージの「ヒィイッヒィ〜〜ッ!!!!」と双璧を成す二大フェイクとして語り継がれています。 B’z稲葉浩志 https://www.youtube.com/watch?v=td8WGpkJt50&pp=ygULYid6IGNhbGxpbmc%3D 一度聴いたら二度と忘れることが出来ないクセと圧倒的なパワーが融合した声は、日本ロック界のキングの名を欲しいままにしています。 楽曲中に含まれるフェイクの数は、私が調査した中ではブッチギリの日本一で(B’zのリリースした楽曲全412曲中、フェイクが含まれているのは驚愕の312曲)、フェイクと言えば稲葉浩志、と言っても過言ではありません。 特に楽曲の随所で音符と音符の間に自由自在に挟まれる「アウイエ!」「ヘェイ!」などの「アマングフェイク」の多さは、もはや稲葉浩志の叫びなのか楽器なのか分からなくなりました。 三浦大知 https://www.youtube.com/watch?v=iC5VaWOPRzI&pp=ygUG6IO95YuV 「和製マイケル・ジャクソン」と評されることもあるほどの日本人離れしたダンスとボーカル能力は日本国内でもトップクラスの実力を持ち、「人間に歌えるのか…?」と思うような歌と「人間に踊れるのか…?」と思うような踊りを同時に行う正真正銘の怪物。 その実力はフェイクにおいてもいかんなく発揮されており、低音から高音まで曲を縦横無尽に駆け巡るフェイクで楽曲のスピード感を何倍にも加速させています。特に、2023年にリリースされた楽曲『能動』のラストでは 「全てを懸゛げェエてェエエエエエエエェェエエエ〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!!ェエエエエエエエエエエエエエエエエェ……エエエエヘェェエエエエエイエヘエエエェェェェエエエエェェェエエェェェェエエエエエエェェェェェィ………………アア゛ァァァァアアアアアアアオオオオッッッ!!!!!!!」 と、腰を抜かすほどの恐るべきロングトーンとフェイクを披露しています。 Official髭男dism藤原聡 https://www.youtube.com/watch?v=CbH2F0kXgTY&pp=ygUV44Of44OD44Kv44K544OK44OD44OE 女性ボーカリストにも出せない刃のような鋭いハイトーンボイスが武器の藤原聡。ヘビーメタルをルーツに持つ彼のフェイクは優しそうな外見からは想像できないほど激しく攻撃的で色気に満ち溢れています。そんな彼の魅力とは「ギャップ」。大人気アニメ『SPY FAMILY』の主題歌にもなった代表曲「ミックスナッツ」ではイントロが始まるやいなや 「ヌ゛ァァァアアアアアアアア!!!!!」 と、まるで檻から解き放たれた猛獣のような雄々しい叫びを聴かせてくれています。 藤井風 https://www.youtube.com/watch?v=Nt6ZwuVzOS4 地元である岡山弁の訛りと、幼少期より父から教わったネイティブな英語の発音をミックスさせた独特の歌い回しは、高層ビルに囲まれたきらびやかな都会と大自然に囲まれた雄大な田舎の風景が共存しているような錯覚を起こさせます。フェイクにおいてもその自由さは存分に発揮されており、従来の日本人歌手では考えられないようなフェイクを聴かせてくれる。特にデビュー曲『何なんw』で見せた 「裏切りのブルースゥバラベレンベベレベレン ベベレンババランバ!!!!」 は、まさに「革命」。叫びボーカル界の新星がここに誕生しました。 …なぜボーカリストたちは叫ばずにはいられないのか…その理由は「言葉を超えた魂からの叫び」にあると私は考えています。そしてそれこそがフェイクの最大の魅力であり、人間を狂わせる魔力。 ボーカリストが歌詞の主人公そのものになり、曲が紡ぐ物語をまるで自分のことのように捉え、言葉にできない感情が爆発し、音として現れた姿がフェイクなのです。 そしてそのフェイクを耳にした瞬間に我々リスナーも曲と同化し、理屈ではなく「本能」で曲に共感することができるのです。 ぜひボーカリストたちの叫び、フェイクに耳を傾けてみてはいかがでしょうか。

なぜ”デカい犬”は”いい”のか。――巨大な犬の出てくるフィクションについて

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「なぜ”デカい犬”は”いい”のか。――巨大な犬の出てくるフィクションについて」。千葉集さんが書かれたこの記事では、デカい犬への偏愛を語っていただきました! 犬はいい。 かわいいとか、かしこいとか、無垢とか、役に立つとか、ネットミーム化すれば仮想通貨のアイコンになってなぜか日本に像が建つとか、そういう次元での「いい」ではありません。ただ、ひたすら、犬はいい。 (仮想通貨になった犬の像。千葉県にある) 【ソース:Wikimediacommons/Fred Cherrygarden】 ところで、デカい犬というジャンルがあります。 これもまた、いい。 あなたがゴールデンレトリバーなりセントバーナードなりを飼っているならば、すかさず、「いいよね〜、大型犬」と同意することでしょう。それに飽き足らず、手元のハイテクスマホを駆使して、SNSで大型犬のよさを訴えるツイートを飼い犬の写真とともに拡散して全世界に共感の嵐を巻き起こし、その犬をネットミーム化して仮想通貨のアイコンとし、イーロン・マスクの投資を得てその犬の像を建てることにもなる。 まあ、わかる。それは、そう。 それはそうなんですが、ちょっと慌てないでほしい。私はここで大型犬の話をしているのではありません。デカい犬の話をしています。 デカい犬、というのはもちろん大きな犬なのですが、大型犬のことではありません。超大型犬のことでもない。 デカい犬とは、人間などを遥かに超える体高を持つ犬のことです。 そんな犬、実在するのか。します。 (京丹後市にある犬ヶ岬。犬に似ているからこの名がついたそう。昔の人の感性はよくわからない) 【ソース:WikimediaCommons/VinayaMoto】 こんな話があります。むかしむかし、今の長野県の東のあたりに犬ヶ峰と呼ばれる山がありました。そこによそから新しい殿様がやってきて、あの山クソ邪魔だなー、とおもいました。その山を遠回りするのがめんどうなので、領外からの交易商たちから避けられまくり、経済に大ダメージをあたえていたからです。 殿様は「あの山さえどければ、うちの藩は大繁盛!」と一心に信じ、山にトンネルを開けることを決意します。自らツルハシをかついで工事現場の先頭に立ちました。 そうして、殿様は犬ヶ峰の麓の固そうな岩に、カツン、と最初の一撃をくわえます。すると、たちまち、山が震えだしました。殿様は地震とおもいましたが、これが違う。 山が突然隆起し、四肢が生えました。そして、キャインキャイン喚きながら暴れ出したのです。 そう、犬ヶ峰は実は山岳サイズの巨大な犬だったのです! たちまち殿様は巨大犬に踏み潰されて圧死。山だった犬はそのままどこぞへと駆け出して、ついぞ戻ってきませんでした。 こうして、邪魔な山と邪魔くさい殿様を除いた藩は交易で栄えるようになったのでした。めでたしめでたし。 この昔話の示す教訓はふたつ。ひとつは経営者は下手に現場にでしゃばらないこと。 もうひとつは、デカい犬は実在するから注意しろ、ということ。 (北欧神話のフェンリル。そういえば、阿部桃子『フェンリル姉さんと僕』(秋田書店)という主人公の憧れの先輩が実はフェンリルで姉な北欧神話伝奇まんががありましたね。かわいらしい高校生の先輩がデカい狼に変身して戦います) 【ソース:パブリックドメイン(A.Fleming)】 こんな話もあります。私も、そのむかし、デカい犬に会いました。 幼い時分、祖父の家では巨大でふさふさした犬を飼っていました。たいていは居間のすみっこの座布団ですやすやとねむっているだけでしたが、たまに起きて立ち上がり、もそもそと餌などをむさぼっておりました。その体高は私が見上げるほどもありました。 私はその犬に抱きつくのが好きでした。汗臭くて角ばっていましたけれど、ふしぎと心地よく、安心できたのです。 私はその犬とよく一緒に昼寝もしていました。が、ある年の夏休みに祖父の家に行くと、犬はいなくなっていました。 犬はどこに行ったのかと祖父母に訊ねても、ろくな返事は返ってきません。あいまいにはぐらかされたまま、犬の行き先はけっきょくわからないままに終わりました。 この話の教訓もふたつあります。ひとつは大人というのは子供に対してつねに明瞭な答えを返してくれはしないのだということ。 もうひとつは、デカい犬は存在し、すぐにどこかへ消えてしまうから注意しろ、ということ。 とにもかくにも、私はデカい犬が好きです。 私だけではありません。デカい犬ファンは全世界に存在します。神話や民話をひもとけば一目瞭然です。たとえば、北欧神話には災厄の狼フェンリルがおり、ギリシア神話には地獄の番犬ケルベロスがいる。他にも英国には「皿ほどに大きな眼をもつ」デカいバーゲストがいる。 (伝説系のデカい犬で愛らしさナンバーワンのジェウォーダンの獣。もちろん、遭遇すると死ぬ。映画にもなりました) 【ソース:パブリックドメイン】 これらの神話的なデカい犬の共通点は大雑把に要約すると「会うと死ぬ(か死んでる)」です。 デカい犬を見ると、人は(あと神も)死ぬ。 たぶん、よすぎて死ぬのでしょう。 三国志の武将の八割が孔明におちょくられて憤死するように、デカい犬に出会った人間はよすぎるあまりに死ぬ。この現象をデカい犬の専門家である私は「デ犬よ死」と呼びます。呼びにくすぎる。今後は使わないから憶えなくてもいいです。 しかしフェンリルにしろケルベロスにしろ、いずれも神話のデカい犬です。紀元前に最高潮を迎えたデカい犬ブームはもう二度とリバイバルすることがないのでしょうか? (ケルベロス表象。ギリシア神話を題材にしたビデオゲーム『Hades』のケルベロスはとてもかわいかったですね。ディズニーの『ヘラクレス』に出てくるケルベロスもいいよね) 【ソース:パブリック・ドメイン(Felton Banquest)】 いやいや、現代においてもデカい犬はそこそこいます。 筆頭といえば、クリフォード。 「クリ……だれ?」とお思いの読者も多いでしょう。たしかに「パディントン=クマ」、「プーさん=クマ」、「宇多田ヒカル=クマ」といったように名と対応する動物が即座にイメージされるような代名詞的な認知度はないかもしれません。 (映画とは全く関係ない赤い犬の切り絵) 【ソース:WikimediaCommons/Fanghong】 しかし、デカい犬界では随一のビッグネームです。元は児童書で、一昨年には日本で映画も公開されました。邦題は『でっかくなっちゃった赤い子犬 僕はクリフォード』。 もう、なんか、タイトルだけで「ああ、赤い子犬がでっかくなっちゃうんだな」ということが一発でわかります。ニコニコしちゃいますね。 ところで、『でっかくなっちゃった赤い子犬 僕はクリフォード』はある定式を映画界にもたらしました。「デカい犬は狭い室内にいれると窮屈そうでいい」と「室内で窮屈にしていたデカい犬が外に出て駆け回ると開放感がハンパなくていい」のふたつ。抑圧と解放。映画の快楽の基本がここに完成されています。 これらのパターンを組み合わせると、そのままデカい犬物語のプロットができあがる。流用すれば、あなたも今日からデカい犬物語作家です。すばらしい。 この事実に気づいた界隈では「クリシェ好きなハリウッドの脚本家連中にこんないい道具を与えたら、映画界にデカい犬ブームが起きちゃうんじゃないか?」とにわかに期待が高まりました。映画は気の長いビジネスなので波が来るのは早くても三年後です。われわれは待ちました。三年、待ちました。 そうして今日、『クリフォード』につづくデカい犬映画は現れていません。 このエピソードの教訓はみっつ。 ひとつ、デカい犬は商業的に成り立たないと思われている。ふたつ、期待はつねに裏切られる。みっつ、ハリウッドはクソ。 日本のフィクションにもデカい犬は登場します。 私はまんがを読むのでまんがの話になるが、本邦におけるMFDD(モスト・フェイマス・デカい・ドッグ)といえば『HUNTER×HUNTER』のミケです。 ミケは暗殺一家ゾルディック家の番犬で、まあデカい。デカいだけではありません。高度に訓練された狩猟犬で、不正な侵入者を秒で食い殺すんですね。 そんなミケに対して主人公であるゴンは野生児として育った自分なら動物と仲良くなれるぜ的に突っ込んでいこうとするのだけれども、そのあまりに「異物」すぎる瞳に見据えられ、自らの思い違いを悟る。 自分のものさしでは絶対に超えられない壁がある。それを思い知らされる。しびれますね。 動物というのはいついかなるレベルにおいても人類にとって他者であるわけですが、デカい犬というのはとりわけそのことを痛感させてくれます。非常に啓発的な存在といえるでしょう。どうりで会ったら死ぬわけだ。 しかし、基本的にフィクションにおけるデカい犬というのはミケのようにワンポイント(犬だけに、犬だけにね)で出演するか、よくてマスコット的なサブキャラに限られます。なかなか主役級で扱われる例は見かけない。 そんなデカい犬不毛の時代に彗星のごとく現れたまんが作品がありました。 スケラッコの「大きい犬」。 https://to-ti.in/product/bigdog (トーチの公式ウェブサイトで無料公開中。いまならデカい犬が無料!) あらすじはこう。インドに出かけるという友人から離日期間中の留守番を頼まれた青年・高田。彼が留守番先の友人宅へ向かうと、住宅街の一角にデカい犬が鎮座していた。 犬好きであるがゆえに犬語を解する高田はそのデカい犬こと大きな犬さんと知り合い、交流していくこととなる――。 20ページ程度の短篇ではあるのだが、大きな犬さんのほわほわした質感といい、犬をリスペクトするがゆえに「さん」づけで呼ぶ高田といい、実によさしかありません。いきなり出てきていきなりデカい犬まんがの最高峰に到達してしまいました。 デカい犬で短篇もいけるなら長編もいけるのでは? そう考えたかどうかは知りませんが、デカい犬まんがの最新版が昨年登場した『凍犬しらこ』(安原萌)です。 内容としては氷河期の訪れた北海道を舞台に、ある青年が雪でできた犬である「凍犬」のしらこと旅するポストアポカリプス股旅もの。 なにはともあれ、ビジュアルがいい。犬でできた犬。しかも喋る。「大きい犬」といい、デカい犬はなぜか人間とコミュニケーションを取れるという風潮ができつつあります。よい。 ハーラン・エリスン曰くポストアポカリプス世界において「少年は犬を愛するもの」だが、犬は別に少年の占有物ではありません。あまねく世界に開かれたみんなのアイドルです。デカい犬であればなおさらね。 そういうわけで、この記事の教訓はひとつだけ。 デカい犬は、いい。 よきドッグ・ライフを。

終末SF小説の魅力とおすすめ作品:ベストセラーから定番の名作まで偏愛者が完全ガイド

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「終末SF小説の魅力とおすすめ作品:ベストセラーから定番の名作まで偏愛者が完全ガイド」。冬木糸一さんが書かれたこの記事では、終末SF小説への偏愛を語っていただきました! こんにちは。 SF/ノンフィクションの書評を活動の中心におくライターの冬木糸一と申します。 「冬木糸一」という名前は「終末」をバラバラにして再構成したペンネームなのですが、名前のもとにしているぐらいなので僕は「終末」、あるいは「ポストアポカリプス」と呼ばれるフィクションのジャンルが大好きです。 そもそも終末、ポストアポカリプスものの定義はなにかといえば、人類の文明が一度崩壊した後の世界を描き出すSF(サイエンス・フィクション)のサブジャンルになります。人類文明が崩壊する理由それ自体はなんでもよく、核戦争、気候変動、感染症の蔓延、隕石の衝突あたりが時代によって移り変わり(冷戦期は核戦争が多かったですが、今は気候変動や感染症が多い)、終末を迎えたあとの情景もさまざまです。 たとえば砂漠に覆われた世界(宮崎駿『風の谷のナウシカ』や鳥山明の『SAND LAND』)、氷や雪に覆われた寒い世界(藤本タツキ『ファイアパンチ』、ボン・ジュノ『スノーピアサー』、コーマック・マッカーシー『ザ・ロード』)。逆に人間がいなくなったことで緑豊かになった世界(稲垣理一郎・Boichi『Dr.STONE』)までなんでもござれ。 ゾンビ・パニック系の作品もこのジャンルに含めるとその作品数は膨大で、最近もオリジナルアニメーションの『終末トレインどこへいく?』やNetflixのオリジナルアニメ『キャロルの終末』など、毎月レベルで新しい作品が供給されています。SFの中で宇宙を舞台にした作品などと比べてものすごく目立つわけではないものの、かなりの人気を誇るサブジャンル。しかし、なぜそんなにも人は終末に惹かれるのか。 終末ものの魅力はどこにあるのか 旧約聖書の『創世記』(6章-9章)のノアの方舟のくだりでは、神は堕落した人類に絶望し地上から一部を除いた生物を一掃するために、地上に雨を降らせ洪水を引き起こしますが、このように古くから人類は何度も文明が崩壊する様を描き出してきました。 この世の形あるものはすべて壊れますが、文明や文化、国家や共同体、人々の生活、そうした「当たり前に存在するもの」が崩壊した時、人類はいったい何ができるのか。立ち直ることができるのか、できるとして、どうすればそれが可能なのか。人間性や善性といったものはどれぐらい残すことができるのか──そうした、「もしも」の状況を空想の中で体験させてくれるのが終末作品の魅力だと思います。 と、終末作品の魅力について語ったところで、今回はそんな終末ものを偏愛するライターが「定番の名作」、「ベストセラー」、「個人的なおすすめ」の三点を軸にして、終末SF小説を紹介していこうかと思います。作品数の多いジャンルなので網羅的に語るのは難しいですが、今回紹介するのはどれも忘れられない傑作ばかりです。 名作──コーマック・マッカーシー『ザ・ロード』 最初に紹介したい、終末SF小説ならこれは外せないでしょう! という名作枠は、『ブラッド・メリディアン』や『すべての美しい馬』など、苛烈な暴力を硬質な文体で描く傑作群で知られるコーマック・マッカーシーによる『ザ・ロード』。 物語の舞台は何らかの理由によって地上の文明が崩壊し、灰に覆われた終末後のアメリカ。文明の崩壊度は相当なもので、政府もなければコミュニティに相当するものも見当たらない。仮に道で人と出会ったらまず身の危険を確保せねばなりません。道や家の中には死体が転がっていて、食料の自給自足もろくにできないので、生き延びるためにはスーパーマーケットや家の中に押し入って缶詰などを探すしかない苦しい状況です。 主人公は父親とその幼い息子の二人。北緯では冬を越せないと悟った父親は、ナップザックとわずかな食料と息子とともに、暖かいはずだ、というわずかな希望をいだいて南に向かって歩き出します。二人は食料もぎりぎりで、5日間何も食べることができない状況もザラなので、息子は道中何度も、「ぼくたち死ぬの?」「ぼくが死んだらどうする?」と死や終焉について父親に問いかけ、父親もそれに対して「いまは違う」と力なく否定を返します。はたして二人は生き延びることができるのか──。 幼い息子はこのような状況下にあっても、飢えている人に食料を分け与え、自分たちを襲った危険人物であっても助けて欲しいと懇願する善性を発揮しますが、世界は過酷で、「善き人」であろうとすることにも限界がある。父親は、善き人であろうとする息子と過酷な現実の板挟みになり、葛藤していく──というのが本作のポイント。 実際、このような状況下になった時、自分はどこまで善性を発揮できるだろうか、と本作を読んでいるとつい考えてしまうでしょう。自分はこの息子のように、自分自身が飢えている状況で、誰かに食事を差し出せるだろうかと。 本作の一節に、『おそらく世界は破壊されたときに初めてそれがどう作られているかが遂に見えるのだろう。』(p.243. Kindle 版. )とありますが、これは終末ものの魅力、その本質をとらえた言葉だと思います。世界や文明が崩壊していく過程をみることで、逆にそれが作られたプロセスがみえ、その価値があらためて照射される。終末SFの魅力はだいたいここに詰まっていると断言できる、名作中の名作です。 ベストセラー──貴志祐介『新世界より』 続いて紹介したいのは、『黒い家』や『悪の教典』といったホラー・サスペンスなどで高い評価を受ける作家貴志祐介のSF系の代表作『新世界より』。現在は上中下巻の文庫が刊行されていて、合計100万部を超える大ベストセラーです。 物語の時代は今から約1000年後の未来で、神栖66町と呼ばれる人口三千人ほどの町が舞台になります。この世界ではとある理由からはるか昔に科学文明が崩壊していて、この時代の人々は科学技術ではなく、物を動かしたりすることができる呪力を文明の基盤にして過ごしています。主人公はそんな神栖66町で暮らす渡辺早季。物語は34歳の彼女が書いた手記という体裁をとり、その子供時代から幕を開けます。 文明崩壊後とはいえ世界はあらたな安定状態へと移行していて、神栖66町での日々も最初は牧歌的なものです。子どもたちの多くは10歳ぐらいで呪力を発現するのですが、その正しい使い方を学ぶために最初は《ハリー・ポッター》のホグワーツ魔法学校みたいな”全人学級”に入ります。そこで同い年ぐらいの子どもたちと呪力で切磋琢磨する平和な日々が描かれていくわけですが、次第にこの世界で何が起こったのか、その秘密が解き明かされていく──という構成になっています。 たとえば当たり前のように「呪力」といっていますが、これはなんなのか。なぜ、子どもたちには呪力が発現するのか? そもそも、なぜ栄えていたはずの人類文明は一度崩壊してしまったのか。彼らの暮らす町とその周辺には呪力を持つ者に従う巨大なバケネズミ、袋牛など奇妙な動物たちが存在するほか、たしかにいたはずの同級生の子どもが、いつのまにか姿を消し、みんなの記憶からも消えているなど、読み進めていくたびに違和感がひとつひとつ積み重なっていきます。 幼少期の渡辺早季は同級生の友人等と利根川の上流に夏季キャンプに行った際に先史文明が遺した「国立国会図書館つくば館」の端末機械と遭遇。文明崩壊の真実、また、呪力を用いた暗示によって事実上管理社会化された神栖66町の実態を知ってしまい──と、そこから先はアンストッパブル。散りばめられた違和感の謎にすべて答えが与えられ、最終的には呪力を使った壮大な戦闘/戦争にまで発展していきます。 終末ものの魅力──一度滅び、そこから再度やりなおすことができるのかというテーマ──があるのはもちろん、呪力を用いた能力バトル的な魅力あり、少年少女の学園モノのおもしろさあり、ホラー小説の名手らしく恐怖の演出も素晴らしく──と、あらゆる要素がハイレベルにまとまっている傑作です。今回紹介した三作の中でも、とっつきやすさとおもしろさのバランスでは一番かと。 個人的なおすすめ──N・K・ジェミシン《破壊された地球》三部作 近年の終末系SFの中でも僕が個人的にオススメなのは、アメリカの大きなSF賞のひとつであるヒューゴー賞を史上初めて三年連続で受賞した、『第五の季節』『オベリスクの門』『輝石の空』からなるN・K・ジェミシン《破壊された地球》三部作です。 物語の舞台はスティルネスと呼ばれるたった一つの巨大な大陸が存在する世界。ここでは数百年ごとに大規模な地震活動や天変地異が発生し、地上には冬が訪れます。この世界ではそれを〈季節〉と呼び、これが発生するたびに多くの人間が亡くなり、文明が滅んできました。とはいえ、この世界には造山能力者(オロジェン)と呼ばれるエネルギーを操作することのできる能力者らが存在し、彼らのおかげもあって人類はまだぎりぎり命を保っている──というのが世界の状況です。 しかし、巨大な天変地異に対抗しうるほどの能力なので、一般的な人間からすればオロジェンはたとえ自分の身を守るために役に立つとしても危険な存在です。エネルギー操作能力を的確に操作できるオロジェンばかりではなく、力が暴走すればたやすく周囲の人間に危害が及ぶ。そのためオロジェンはこの世界では激しく差別されるマイノリティでもあり、繰り返される破滅/終末というテーマと並行して、「繰り返され、終わりのない差別」もまた本作のテーマのひとつとなっていきます。 三部作を通して、オロジェンである母娘(エッスンとナッスン)を中心に物語は展開していきますが、この二人の活躍とこの世界での旅を通して、はたしてなぜ世界は破滅を繰り返すようになってしまったのか。それをもとに戻すことはできるのか。それとも、終わりもなく人々が争い続け、抑圧や差別が繰り返されるこんな世界は、救済するのではなく一度完全な破滅をむかえてしまったほうがいいのではないか──物語が進むごとにこうした問いが繰り返され、世界の真実の姿が明らかとなっていきます。 幾度となく繰り返される破滅。そして、終末SFがよく直面する「人類社会の秩序の崩壊」をはるかに超えたスケールの「惑星の終焉」を描き出そうとした本作は究極の終末SFといえるかもしれません。 おわりに 今回紹介した三作品はどれも「終末もの」でくくれますが、作品の世界観も描き出そうとしているテーマも大きく異なっていることが、本記事を読んでもらえればわかってもらえると思います。多様で豊穣なこの世界を偏愛するきっかけになってもらえれば幸いです。

この世にクソ映画なんてない。どんな映画も絶対に楽しめる映画鑑賞のテクニック

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「どんな駄作も楽しめる映画鑑賞のテクニック 」。ギッチョさんが書かれたこの記事では、駄作映画への偏愛を語っていただきました! みなさま、はじめまして!私は2000年から運営を続けている映画サイト/ブログ「破壊屋」の管理人、ギッチョです。 映画が多すぎる 日本はアメリカ・インドに次ぐ映画大国で、毎年1000本以上の映画が公開されます。去年(2023年)は1200本以上の新作映画が公開されました。毎日3本の新作映画を観ても追いつきません。 そのうち日本映画は毎年600本ほど製作されるのですが、ここ数年は日本映画の躍進が凄いですよ。2022年には『ドライブ・マイ・カー』が日本映画で初めてアカデミー賞作品賞にノミネートされました。今年は『ゴジラ-1.0』がアジア映画で初めてアカデミー賞視覚効果賞を受賞して大きな話題になりました。 変な映画も多い でも私がサイトの運営を初めた2000年以降、変な日本映画も多かったです。例えばですが… ビッグダディの元妻を映画化した『ハダカの美奈子』 ボクサーの亀田大毅を主役にした『ヒットマン 明日への銃声』 ゼロ年代の王子ブームに便乗した『銀幕版 スシ王子! ~ニューヨークへ行く~』 などといった謎企画の映画が大量生産されました。私はこのような映画を好んで観ていたのですが、友人知人に留まらずネット上からもよく「何であんなに駄作を観続けられるのか?」と何度も何度も言われました。でもその答えは簡単です。面白くて楽しいから観ていたのです。 駄作も楽しく鑑賞する方法 これは私の自慢なのですが、私はどんな駄作でも絶対に面白く鑑賞できます。といっても日曜洋画劇場の淀川長治氏(※)のように慈愛の精神で映画を観ていたわけではありません。日本映画には観ていて脳汁が発生するような面白ポイントがあって、私はそこを押さえているのです。今回はそんな日本映画の脳汁発生ポイントを皆様にご紹介します。 ※どんな駄作でも絶対に褒める映画評論家 日本映画の脳汁発生ポイント:外国映画の影響に気がつく 実は日本のテレビドラマや映画は外国の翻案が多くあります。テレビドラマだと『古畑任三郎』が『刑事コロンボ』、『あぶない刑事』が『特捜刑事マイアミ・バイス』を元にしているというのが有名な話です。もちろんパクリではありません。『古畑任三郎』や『あぶない刑事』が強烈なオリジナリティを持っているのは周知の通りです。海外で成功している作品を日本で再現したら?というのは非常に面白い挑戦なのです。 例えば『矢島美容室 THE MOVIE 〜夢をつかまネバダ〜』は下品なストリップを踊ることで逆説的に家族の絆を確認する…そう名作『リトル・ミス・サンシャイン』の翻案です。また『サブイボマスク』は地方都市で献身的に活動する兄と自閉症の弟…これはジョニー・デップとレオナルド・ディカプリオの名作『ギルバート・グレイプ』の翻案です。『矢島美容室 THE MOVIE 〜夢をつかまネバダ〜』も『サブイボマスク』も今となっては「そんな謎な企画映画あったなぁ」という扱いでしょうが、翻案に気がつくと「企画はアレだったけど、映画の本当の狙いはよく分かった!」と作品の面白さが理解できます。 日本映画に限らず世界中の映画は何らかの元ネタの影響を受けています。これに気がついて「あのシーンはあの映画の影響だね、ウン私には分かる」と偉そうにネット上に評論を書くのは映画ファンあるあるな脳汁発生ポイントです。低予算の日本映画はこういった評論に晒されていないので、意外と「自分だけが気づく」ことが多いのです。 ちなみに私が今までで一番驚いた翻案ネタは、ケータイ小説の実写化『魔法のiらんど 幼なじみ』です。16歳のヒロインが幼馴染の想い人に恋し続ける物語で、その幼馴染は高校サッカーで成功していくのですが、このサッカーシーンが『少林サッカー』の影響を受けていてビックリしました。映画の雰囲気はブチ壊しでしたが、超面白いシーンでしたね。 日本映画の脳汁発生ポイント:専門キャスティング 一人の俳優が何度も何度も同じ役を演じ続けるのは、どの国でも同じです。アーノルド・シュワルツェネッガーは「戦う公務員」役が多いし、レオナルド・ディカプリオは「妻を失う男」役が多いです。ただ日本は映画の製作本数がやたら多い上に、所属事務所が俳優のイメージにあった役柄を用意するので、同じ俳優が同じ役柄を演じ続ける現象が海外よりもずっと多いです。例えば… 織田裕二、福山雅治、中井貴一といった大物スターの単独主演映画では、妻役には吉田羊がキャスティングされる 冴えない男性主人公に一方的に惚れられるシングルマザー役だったら麻生久美子がキャスティングされる 殺人ミステリーでは真犯人の知人役には広瀬すずがキャスティングされる という、まるで悪役俳優みたいな専門職俳優がいます。このように俳優の役割が分かると、「あ、また同じ役だ!」と気づく喜びもあれば「お、違う役に挑戦している!」と気づく喜びもあります。映画を観る楽しさも増えてきます。 ちなみに日本映画は製作本数が多すぎるため、俳優と俳優が何らかの映画で共演済みな場合が多く、お互い知り合い同士なので外国映画みたいに俳優同士のケンカで撮影現場が停滞することが少ないらしいです。 日本映画の脳汁発生ポイント:特別出演 日本映画は「大物俳優が、話題作りのために一日だけ撮影現場に来て出演してくれる」ことが非常に多いです。テレビ局が作る映画は超大物俳優の特別出演だらけでかなり楽しいです。例えば前述の『矢島美容室 THE MOVIE』では水谷豊、本木雅弘、宮沢りえ、松田聖子などが特別出演しています。しかしその一方で低予算映画の「特別出演の使いどころ」も脳汁ポイントです。 和歌山県を舞台にした『ポエトリーエンジェル』という低予算映画があるのですが、軽薄な男役で何と山﨑賢人が出演しています。あらゆるマンガ主人公を演じてきた山﨑賢人が珍しく軽いコメディ演技を披露する名シーンです。 また人間の善意を描いた映画『町田くんの世界』では、人間の悪意を象徴する存在として佐藤浩市が特別出演!悪意に溢れた日本社会をセリフで説明するのですが、名優:佐藤浩市なので迫力と説得力がタップリ。見事な特別出演の使い方です。 恋愛映画の『娚の一生』では愛の告白が成就しクライマックスも終わった映画の終盤に、突如恋のライバルとして向井理が特別出演します。恋敵としては間違いなく日本最強の存在です!というか勝てる男はいるのでしょうか?『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』で全ての戦いが終わった後に上弦の鬼が登場した時以上の絶望感が味わえます。 このような特別出演ネタですが最近はハリウッドでも流行っています。アメコミ映画が話題作りのために「有名俳優をこっそり出演させて、そのことを宣伝しない」という手法を使っています。そうするとSNS上で「映画館で驚いた!」という感想が増えるので、人々が映画館に向かうわけです。 日本映画の脳汁発生ポイント:ロケ撮影 日本映画の根本的な問題として低予算があります。低予算のせいで日本映画は派手なセット撮影ができずロケ撮影だらけです。私は神奈川県民ですが、10本くらい映画を観れば1本は知っている場所が舞台になっています。特にみなとみらいの万国橋と大さん橋の二箇所は頻出ロケ地です。知ってる場所が舞台になる現象は東京都民だったらもっとよく分かると思います。 そして日本映画はあまりにもロケ撮影し過ぎているせいか…ロケ撮影が非常に上手い! 例えば2014年の『さよなら歌舞伎町』という映画では、AKB48を卒業して絶大な人気と知名度を誇っていた前田敦子が、新大久保駅を自転車二人乗りで駆け抜けるというゲリラロケを敢行しています。 池田エライザの弓道部映画『一礼して、キス』では池田エライザが弓を放つ瞬間に偶然にカメラの前にカモメが飛び込んできます。セット撮影ではありえない奇跡でしょう。 またつい最近では、ロケ地モノの頂点とも言える『帰ってきた あぶない刑事』が公開されました。もうお爺ちゃんとなった舘ひろしと柴田恭兵が若々しく横浜ロケで活躍する姿は観ているだけで幸せな気分になります。 また地方自治体は「聖地巡礼」の観光客を呼び込むためにロケ撮影に協力的です。そのため地方が舞台の映画は大胆なロケ撮影が行われており、これも日本映画の面白ポイントです。 他の発生ポイント これらの脳汁発生ポイントはほんの一部で、他に 登場人物たちが食べる食事 女優が走り出すときの情景 エンドクレジットで流れるロケ写真 ロケの場所には意味がある、例えば橋と階段とトンネルではそれぞれ意味が違う など、まだまだ紹介しきれない面白ポイントがあります。いずれまた皆さんにご紹介したいです。 最後に 今は配信の時代なので、映画は「ながら見」「早送り再生」とかで鑑賞するスタイルが流行りつつあります。私はこのような鑑賞スタイルにも肯定的で、映画を気軽に楽しんで頂けるなら何でも良いと思っています。その一方で私のように、鑑賞ポイントを押さえながらジックリと映画を観るスタイルもオススメですよ。

人気シリーズ最新作『学園アイドルマスター』があまりに面白すぎるので、興味のない人にもむりやり押しつけたくてたまらない!

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「人気シリーズ最新作『学園アイドルマスター』があまりに面白すぎるので、いやがる人にもむりやり押しつけたくてたまらない!」。海燕さんが書かれたこの記事では、学園アイドルマスターへの偏愛を語っていただきました! https://www.youtube.com/watch?v=B48Uw59-2ZQ 「わたしに才能なんてない でも、それは前提だから あきらめる理由には、ならない」 いま、『学マス』が面白い! それはもう、ちょっと事前に予想できなかったくらい面白いのである。 いうまでもなく『学マス』とは、つい先日サービスが開始したばかりのソーシャルゲーム『学園アイドルマスター』を指す。 この作品は初代から連綿とつづく『アイドルマスター』シリーズの第六弾にあたるのだが、まさにいままでにない清新な魅力を発信できている。 ぼくはこのシリーズに関してはごくあたらしい参入者であり、いわゆる「にわか」に過ぎないのだけれど、いまでは毎日ログインしては幾人ものアイドル(の卵)たちを「プロデュース」することがすっかり日課となってしまった。 この種の「ソシャゲ」は無料でプレイできるかわりに、やり込むためには一定以上の「課金」を必要とするものがほとんどであり、『学マス』もやはりそう。ハマればハマるほど過課金のトラップが待ち受けているとほうもなくデンジャラスな構図があるわけで、『Fate/Grand Order』以来、この手の「ソシャゲ」にはあまり手をつけないようにしてきたのだけれど、『学マス』にはすっかりハマってしまった。 いまのところ微課金で済んでいるものの、いつまで続くことやら。いや、まったく「ガチャは悪い文明」としかいいようがない。 しかし、それでも『学マス』はじっさい破格に面白く、ハマったことを後悔する気にならないのがさらに怖ろしいところ。この記事では、その『学マス』のフレッシュな魅力をなるべくぼくと同じ初心者にもわかりやすいように語っていくことにしたい。 トニカクカワイイ! 定番を超える『学マス』キャラたちの魅力。 https://www.youtube.com/watch?v=HwZbq2tGguE 『アイドルマスター』シリーズはいうまでもなく美少女アイドルたちの育成とライブシーンを主軸としたバンダイナムコを代表するコンテンツである。 否、ある一企業の代表作という次元を超えて、いまの日本を象徴する美少女コンテンツの代表的なシリーズといっても良いだろう。いまの日本でアイドルものが人気を博していることはかなりのところまでこのシリーズの功績といって良く、きょうのバンダイナムコがあることも『アイドルマスター』と切っても切り離せない。 その『アイマス』の数年ぶりの最新作が「学園もの」になるという話が公表されたとき、多くのユーザーは果たしてほんとうに面白いものにしあがるのかどうか、半信半疑だったのではないだろうか。 いままでの『アイマス』はあくまで765プロなどの企業に属する「プロデューサーさん」たちによるアイドルのプロデュースを描いており、「学園もの」である『ラブライブ!』などとはまったく違う風景を切り拓いてきた。 新しいチャレンジは歓迎すべきところだが、『アイマス』らしくないしろものが出てきても困る。ファンであればあるほど、新規開拓的な企画に対してはちょっと疑いのまなざしで見てしまうことは避けられなかったように思う。 さらに、実際に発表された『学マス』は『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』などのヒット作で知られるライトノベル作家・伏見つかさがシナリオを担当するなど、いままでにない要素を備えていた。 これがどちらへ転がるのか、ちょっとはっきりとは見通せない。そんなふうに感じていた人は少なくなかったように思える。 ところが、現実にサービス開始された『学マス』はまさに驚くべきスマッシュヒットだった。 まず、キャラクターのモデリングがすばらしい。ひとりあたり数万ポリゴンを使用して描き出されているというそれぞれの育成アイドル達は、いままでの『アイマス』とはまた一風違った可愛さ、かっこ良さを見せている。 学園ものであろうがそうでなかろうが、この種のゲームの最大の魅力はなんといっても一人ひとりのキャラクターの可愛さにあるわけだが、『学マス』はその点で最高としかいいようがない。 そのときどきで拗ねたり笑ったり怒ったりと忙しい各ヒロインたちの表情の豊かさ、しぐさの多彩さはちょっと革命的なほどだ。 必然に膨大な計算量が必要とされ、プレイが過熱するほどスマホも過熱することはご愛敬だが、このゲームに登場するアイドルたちがいずれも「トニカクカワイイ」ことは間違いない。 ベストセラーライトノベル作家・伏見つかさが天才的な手腕で描き出す類型からの逸脱。 https://www.youtube.com/watch?v=-fI9rNo28CY そういうわけでぼくの推しアイドルたちはみなとてもカワイイのだが、ただ、もっと広い視野で見ると現在、ひとつのゲームのみならず、「二次元美少女コンテンツ」全体がある種の飽和に達して袋小路に達している印象があることもまたたしかである。 ことに『アイドルマスター』シリーズは一つひとつの作品が膨大な数の美少女アイドルキャラクターを生み出してきたため、ちょっと「おなかいっぱい」な印象になるくらいの数のヒロインが生み出されている現状がある。 必然、個々のキャラクターの差別化もむずかしくなってくるわけで、まったく新しいキャラクターが出てきても「ああ、なるほどこの系統の新キャラね」とちょっと冷めた目で見てしまうところは、正直あった。 しかし、『学マス』はこの点でも、伝統的なキャラクター描写から確実に一歩を踏み出している。 たとえば、メインクラスのヒロインのひとり、月村手毬はかなり性格がひねくれている。というか歪んでいる。というかこいつは――何なんだろうね。 一見するといままでにもいくらでもあった「ツンデレ」とか「クーデレ」と呼ばれるタイプのありふれたキャラクター描写に見えるのだが、その実、彼女の性格のひねくれ具合はかなり斬新である。 思っていたことをそのまま口に出せない「素直になれない」キャラクターといえばそれまでなのだけれど、あまりにあくが強く、本気で嫌悪する人も存在するくらいの性格の偏り。 たまに「ひょっとしてこの子、ほんとに性格が悪いのでは?」と思わせながらも、どうしようもなく好きになってしまうその個性の描写は最高である。愛しているよ。 現代ラブコメライトノベルにおいておそらく日本一の作家である伏見つかさは、ゲームシナリオライターとしてもすさまじく良い仕事をしているとしかいいようがない。 過去の『アイマス』では、というより数十年の歴史をもつ「美少女ゲーム」全体でも見たことがないような「生きた」キャラが続々と出て来るあたり、ほんとうにすごすぎる。新種発見なのだ。 また、あきらかに全体的なテーマとして「才能」、そして「才能の不足」が設定されているとおぼしく、その意味でもとても現代的なキャラクターたちでありシナリオであるといって良いだろう。 いま現在、『学マス』はまだ始まったばかりで、これからのアップデートによってさらに何人もの新キャラクターたちが出て来ることが予想される。 いったいどのような見たこともないヒロインたちがあらわれてくるのか、ほんとうにほんとうに楽しみだ。いやまあ、マイヒロインはやっぱり手毬さんなのですが。甘いものはまだしもこってりしたものは程々にしておけよ、手毬。 その独特の「ローグライク」ゲームシステムと従来作からの野心的な展開。 https://www.youtube.com/watch?v=cQcdUgNMgB0 ほんとうはその他のアイドルたちにもふれたくてたまらないのだが(とくに広!)、ここでは十分に解説している余裕はない。 それに一人ひとり語っていくといくら話してもキリがないことになってしまう(オタクの萌え語りに終わりはないのである)。 ここでは、『学マス』はそのキャラクター描写においてフロンティアの最先端にあるといっておくに留めよう。 いや、じっさい、ここに来てこんなにフレッシュな魅力をもったキャラクターに出逢えるとは思わなかった。 いかにも類型的に見えながら、その実、まったくもって唯一無二の少女たち。おそらくささいなセリフやしぐさのひとつひとつからその魅力はかもし出されているに違いないのだけれど、いったいどんな魔法を使えばこれほどスペシャルな魅力を生み出せるのか想像もつかない。 これはやはり、メインシナリオライターである伏見つかさの作家性を感じるところで、やっぱりこの人は女の子を可愛く描くことにかけて天才なのかもしれないという気がしてくる。 また、ここではゲームシステムなどについてふれている余裕はなかったが、はじめ、音程は外れるわ声は掠れるわといった調子のアイドルたちが成長するにつれすばらしい歌声を披露してくれるようになる独自のシステムなど、一本のゲームとしてもチャレンジングな要素は山盛り。 基本的には何度も何度も挑戦することを前提とした、ゲーム用語で「ローグライク」と呼ばれるシステムを採用したカードゲームなので、延々と「周回」しているうちに飽きてくるリスクがあるはずなのだが、そのつど、あたらしい要素が解放され、アイドルたちがちょっとした言葉をしゃべってくれたりすることでなかなか飽きさせない。 いや、ほんと、アイドルたちを大好きになればなるほどつい重課金してしまう危険性が高まる一方なので、いいかげんに解放してほしいくらいなのだけれど、なかなかそうはいかないようだ。 なので、ぼくはあなたにもこの危険な魅力を分かってほしくてたまらず、どうにかして押しつけようといまこの記事を書いているわけだ。 はっきりいって仕事の域を逸脱するくらいの熱意であることをどうか理解してほしい。いや、ほんと、めちゃくちゃ面白いよ、このゲーム。いつまで経っても成長しない自分のゲームのウデマエは哀しい限りだけれど……。 そういうわけで『学マス』こと『学園アイドルマスター』、花丸付きのオススメである。 ゲームセンター用の作品として始まった初代『アイドルマスター』以来、さまざまに展開してきた『アイマス』シリーズだが、ここに来てまたあたらしい未踏のエリアへ進出しつつあるようだ。 いずれアニメ化されたりもするだろうから、そのことも楽しみである。 過去の『アイドルマスター シンデレラガールズ』、『アイドルマスター シャイニーカラーズ』、『アイドルマスター ミリオンライブ!』、『アイドルマスター SideM』といった作品群もそれぞれマンガ化されアニメ化され、ぼくたちを楽しませてくれたわけで、今後数年つづくことになるであろう『学マス』のコンテンツ展開には期待するしかない(とくに無印『アイマス』のアニメ版はとんでもなく出来がよく、画面のなかで躍動するアイドルたちの姿に夢中になって見入ったものだ)。 定番の言葉になるが、「お楽しみはまだこれから」。 この魅力的な世界にログインしてたくさんいる仲間たちとああでもない、こうでもないとやり取りするならいまが最適の時期だ。 何なら無課金でも十分に楽しめる。ぼくもまだいまのところはほとんどお金を使っていない。あなたもこの底知れない「沼」にハマって、いつもいっしょうけんめいな彼女たちに二度と戻れないくらい魅了されてしまおう! チャイルドスモックに溺れて、溺死するのはいかが? https://twitter.com/gkmas_official/status/1806167932650787126

11年の歳月も関係ない!『艦これ』の魅力

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。ヲトナ基地で今回紹介する記事は「11年の歳月も関係ない!『艦これ』の魅力」。熊代亨さんが書かれたこの記事では、艦これへの偏愛を語っていただきました! 精神科医をしながら本やブログを書き続けている、熊代亨と申します。今回日は「ゲームへの偏愛」というお題をいただき、編集部さんに相談したら「『艦隊これくしょん(以下、『艦これ』と表記)』について書いて構わないよ」とうかがったので、遠慮なく『艦これ』への偏愛とその魅力について書きます! 私は、私自身のアイデンティティの中心軸は精神科医ではなくゲーム愛好家にあると感じてきました。中年になった今、さすがに仕事に押されている部分もありますが、それでもゲーム愛好家として現役でありたいと願い、ニンテンドーSwitchのゲーム、ソーシャルゲーム、海外産のPCゲームなどで遊び続けてきました。 そうしたなか、今までの人生で一番遊び続けているゲームが、2013年にブラウザゲームとしてリリースされた『艦隊これくしょん』なのです。 『艦これ』がリリースされたのは2013年4月23日。その年の初夏にtwitter(現X)で話題となり、一気にブレイクしました。当時はゲームを始めたい人の数にサーバー増設が間に合わず、私はアカウント開設の抽選に漏れ続けたせいで、他のプレイヤーの楽しそうな様子を眺めているしかありませんでした。 結局私が『艦これ』をプレイできるようになったのは2014年2月頃で、それから10年以上、お付き合いしていることになります。 「まだ『艦これ』なんてプレイしてるの?」とおっしゃる人もいるでしょう。ゲームの世界は栄枯盛衰が激しく、アニメ化されるほどの人気作品でも容赦なくサービス終了になってしまいます。『艦これ』も、話題沸騰していた最初期やコラボレーションが相次いだ2010年代後半に比べれば、人気が落ち着いていると言えます。 ですが私と同じく『艦これ』を愛し続ける人はまだまだいますし、最近になってプレイし始める人、数年ぶりに舞い戻ってくる人も珍しくありません。 リリースしてから11年も経つ『艦これ』に、どんな魅力があるのでしょうか? 艦娘の魅力はリリースから11年経っても健在 2024年現在、事情を知らない人が初めて見る『艦これ』の印象は、「メカみたいな装備を身に着けた、ちょっと地味な女の子がたくさん出てくるソシャゲっぽいゲーム」ではないでしょうか。 いまどきのゲームにはキラキラした美少年や美少女がどっさり登場し、キラキラした魅力を振りまいているものですが、『艦これ』に登場する艦娘(女の子に擬人化した艦船キャラクター)は美少女ばかりではありません。なんだかあか抜けない艦娘、どう魅力的なのかが一目見てすぐにわかるわけではない艦娘もたくさん登場します。 https://twitter.com/KanColle_STAFF/status/1032800848164794368 なかでも当初から注目されたのは、上掲引用ツイートにも登場している「しばふ絵」でしょうか。キラキラした美少女のイラストが無尽蔵にある時代だからこそ、空母「赤城」や戦艦「日向」といった一線級の艦娘までもがほっこりした雰囲気なのはかえってインパクトがありました。 『艦これ』は、プレイヤーが艦娘たちの艦隊を指揮し、深海棲艦という未知の敵と戦っていくゲームですが、何百人もいる艦娘の全員がキラキラの美少女だったら顔が覚えにくく、眩しくて見ていられなかったでしょう。      「しばふ絵」のような温かみのあるイラストを採用できたのは、艦娘が数十年前の艦船をモチーフにしているためか、それとも低予算路線でスタートしたからかは私にはわかりません。が、結果としてキラキラした美少年や美少女がどっさり登場する作品には真似のできない独特な雰囲気が『艦これ』に宿ることになりました。 ただし、『艦これ』に美少女が存在しないわけではないですよ? たとえば航空巡洋艦「ゴトランド」はファンの間でも人気で、NHKの特集番組でも「あざといキャラクター」と言われていました。高速戦艦「榛名」のような正統派美少女もいます。でも私のように中年になってくると、「きれいどころ」ばかりの艦隊よりも、そうでないほうが目にやさしく、長く眺めていても飽きが来ません。 キラキラしていないからといってビジュアルが手抜きなわけでもありません。艦娘をよく観察すると、装備やセリフのあちこちに史実を反映しているところがあり、元ネタを知っていると感慨深いものがあります。『艦これ』は、第二次世界大戦で艦船たちが辿った運命を知っていると印象に残るグラフィックや台詞を用意するのが上手くて、それが、後で紹介するイベント海域ともうまく噛み合っています。 ゲームそのものもよくできていて、上手く運営されている こうした「艦娘ならではの魅力」「史実を反映した魅力」がクローズアップされがちですが、私は『艦これ』の魅力ってそれだけじゃないよね、と考えています。あまり話題にのぼるところではありませんが、『艦これ』はゲームそのものも元々よくできていて、しかも何年もプレイし続けられるゲームとして巧みに運営されているように思われるのです。 艦娘を少しずつ集め、深海棲艦という謎の敵集団から海域を解放していく通常マップは、攻略していて楽しいものでした。海戦はスムーズで敵艦に攻撃を命中させた時の効果音も気持ち良く、ときどき出る「カットイン攻撃」の描画も印象的でした。この通常マップを軸にした「戦果ポイント稼ぎ競走」に目覚めて、毎日毎日プレイしている人もいるとかいないとか。 当初、ここまでヒットすると想定されていなかったゲームとしては、『艦これ』のゲームシステムの骨組みやインターフェースはしっかりしていたと思います。もっとゲームバランスが悪かったり、もっとインターフェースがモタモタしていたりしたら、『艦これ』はとっくの昔にサービス終了していたに違いありません。 それ以上に注目したいのが、『艦これ』のゲーム運営です。オンラインゲームの運営はプレイヤーから批判されやすく、『艦これ』とて例外ではありませんでした。しかし11年間全体をとおして見れば、『艦これ』はとても上手く運営されていて、私たちファンの心を惹きつけ続けているのではないでしょうか。 https://twitter.com/KanColle_STAFF/status/1763320867487130058 その筆頭格は、数か月に一度開催されるゲーム内イベント「限定海域」です。これが毎回難しいのですが、『艦これ』の運営陣はこの「限定海域」がマンネリにならないよう毎回マップを変え、ゲームルールも微調整し、手に入れられる装備を変え続けています。      「限定海域」は現在の手持ちの艦娘の装備や熟練度、燃料・弾薬などの備蓄量、そしてプレイヤー自身の時間的・体力的余裕をよく考え、さらにインターネット上の攻略情報などを見比べ、プレイヤーそれぞれが目標を立案・計画し、育てた艦娘たちと一緒に挑む「作戦」になります。      今どきは、プレイヤーがキャラクターを育てて試練に挑むゲームがいくらでもありますが、『艦これ』の「限定海域」ほど「作戦」という言葉がよく似合い、ゲーム内イベントを無事に完了できるかドキドキするゲームは他にありません。ゲーム内イベントで「作戦」という手ごたえを感じたい人には、『艦これ』は今でも有力候補のひとつでしょう。 ゲームの外にもあふれる、艦これの魅力 最後に、『艦これ』を語るうえで忘れられない、リアルイベントについても触れます。『艦これ』も御多分に漏れず、さまざまな企業とコラボレーションしています。三越やローソンとのコラボは特にファンに知られていて、私はローソンで売られていた『艦これ』チューハイがすごく気に入ってしまって売られるたびに買いだめしていました。また、東京の神田には期間限定の艦これ飲食店「カレー機関」が存在し、ここもファンが集まる場所となっています。 https://twitter.com/C2_STAFF/status/1792870885063594109 でも、『艦これ』のリアルイベントといえば、なんといっても旧日本海軍や海上自衛隊にゆかりのある都市とのコラボでしょう。21世紀に入ってからはアニメやゲームの舞台となる街を訪ねることを"聖地巡礼"と呼びますが、『艦これ』のそれはやりがいがあります。 艦娘たちは第二次世界大戦当時の艦船が元ネタですから、軍港や海戦のあった場所は基本的に"聖地"と言って良いでしょう。旧海軍時代に鎮守府と呼ばれた都市だけ挙げても、呉市、横須賀市、佐世保市、舞鶴市と広い範囲に散らばっていて、全ての街を訪れるのは大変です。      そのかわり、戦没した艦艇の主砲が残っていたり、慰霊碑が立っていたり、『艦これ』ファンなら足を留めずにいられないロケーションが無数にあります。呉市の大和ミュージアムとその周辺施設も必見でしょう。これらの街では海上自衛隊の護衛艦も眺められますし、ときにはその海上自衛隊が『艦これ』の艦娘と同じ名前を継承した護衛艦を、艦娘のイラスト付きで公開していることもあります。 そうしたリアルイベントの運営に関しても『艦これ』はとても上手で、現在もイベントが開催され続けていますし、地方自治体や海上自衛隊とのコラボもうまくできているように見えます。『艦これ』の魅力を考える際、こうした史実の存在はとても重要なポイントで、艦娘をとおして知った艦艇の慰霊碑や記念碑の前に立つ時にこみあげてくる気持ちは、ほとんどのゲームにはない独特のものです。 まとめ 『艦これ』の魅力を言葉にすると、こんな感じになるでしょうか。 私たちファンが『艦これ』をこんなに長くプレイし続けるに至った背景はさまざまだと思います。艦娘のデザインや設定や台詞、ゲームの基本的なつくりや運営の巧みさ、史実やリアルイベントや"聖地巡礼"、そして『艦これ』の二次創作作品やオンライン上のファン活動などのおかげで、替えのきかない、息の長いゲームが成り立っていると私は考えています。 ゲーム愛好家人生のなかで、これだけ長く楽しませてもらえるゲームに出会えた幸運をうれしく思います。これからもどうか、この忘れられないゲームを素晴らしく運営していただけたらと切に希望しています。

CLAMPヲタクのライターが国立新美術館開催のCLAMP展を観覧してきたので圧巻の展示内容を早口で語りたおす!

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「CLAMPオタクのライターが国立新美術館開催のCLAMP展を観覧して来たので圧巻の展示内容を早口で語りたおす! 」。海燕さんが書かれたこの記事では、CLAMPへの偏愛を語っていただきました! 喩えるなら、ほむら。 そう、ものすさまじく燃えさかる猛々しさをそのままに、冷然と凍てついた火焔の渦だ。 いまやベテランとなり、大御所とすら呼べそうなポジションにある漫画家集団CLAMPが描き出す世界は、そのような盛大な矛盾をもってしか説明できない不思議な緊迫感を備えている。 まず同人誌の世界で大人気を博し、その後、少女漫画から登場した彼女たちが生み出す作品の数々は、壮麗にして優艶、耽美にして凄絶、ちょっと他に類例を見出だしようがない強烈なオリジナリティを有している。 CLAMPの前にCLAMPなく、CLAMPの後にもやはりCLAMPあるはずなし――あえていうなら、そういうまさに唯一無二の作家集団というべきだろう。 今回、国立新美術館においてそのCLAMPの膨大な作品を集成し展示した大展覧会が開かれるという情報を目にし、プロデビュー作からほぼ全作品を追いかけているCLAMPオタクのぼくは居ても立ってもいられずに上京、プレス向けの内覧会にわざわざ参加し観覧してきた。以下はその記録である。 いやもう、オタクが愛するものを語るとき特有の早口で興奮しながらまくし立てているものと思ってください。 ひと言でいうなら、すげえ、すげえ、すごすぎる! めちゃくちゃありがたくもありがたい展覧会なのだった。もしぼくがプロハンターだったら、いまごろ感謝の正拳突きを始めていると思う。その代わりにこうして原稿を書いているわけだ。 国立新美術館がCLAMPで埋まる さて、そういうわけでぼくは幸運にも開催前にCLAMP展を観覧する機会を得た。 ほんとうは開催初日とその翌日という土日を避け、7月上旬の平日に行く予定だったのだが、結果としてはその必要はなかったことになる。 「あの」国立新美術館を数か月にわたってジャックしての大規模なイベントということで、以前から大きな注目を集めていたことをご存知の方も多いことだろう。 その公式X(旧Twitter)は事前に数万人ものフォロワーを獲得していたくらいで、とにかくすさまじい注目度である。CLAMPの人気のすごさをあらためて思い知らされる。 まあ、次々と淡々と延々とヒット作を出しつづけ、単行本の累計発行部数は数千万部という超大物であるからあたりまえといえばあたりまえのことではあるのだが、CLAMPがいまとくらべ「相対的には」無名だったころから追いかけている身としては感慨深いことである(そもそもデビュー前から有名で、知っている人は知っている集団ではあるのですが)。 いまさらだけれどほんとうに大きな存在になったんだなあ。すごいや。 これもまたいまさらいうまでもないことだが、CLAMPには無数の傑作、名作、ヒット作がある。 インド神話に題材を得たデビュー作の『聖伝』、衝撃的な結末が印象的な『東京BABYLON』、大富豪の少年が探偵団を作る『CLAMP学園探偵団』、世紀末を舞台とした未完の野心作『X』、初のテレビアニメ化作品でもある『魔法騎士レイアース』、いまや伝説的に語られる『カードキャプターさくら』、週刊少年漫画業界へ進出しさらにさらに知名度を拡げた『ツバサ』、青年誌連載のラブコメディ『ちょびっツ』など、枚挙にいとまがない。 今回の展覧会はそのCLAMPの全貌を一望にできる構成となっていて、ぼくは展示物のその一つひとつを眺めながら「尊み」のあまりくらくらしてくるくらいだった。 ただ、今回の展覧会は前期と後期に分かれており、それぞれ展示内容がまったく異なるので、ぼくが見たのはあくまで前期の内容のみである。これから行こうと考えておられる方はその点について注意していただきたい。 CLAMPの絵は「うまい」 そういうわけなので、いまのぼくにはCLAMP展の前期後期を通した全貌を語ることはできないため、とりあえず自分が見てきた前期の内容について書き記す。 いやあ、これが素晴らしかった! あたりまえのことではあるが、CLAMPの絵は「うまい」。しろうと目で見ても技術的に卓越している。 しかも単に技術だけに還元できないような強烈な魅力がある。「線に艶がある」といったら良いのだろうか、何というか「絵が生きている」印象を受けるのである。 ふつう、漫画家でもイラストレーターでも描線の艶を維持することは容易ではなく、どこかでピークを迎えてその後は下降線を描く描き手のほうが圧倒的に多いのだが、CLAMPは何をどうやっているものなのか、その絵画的引力はデビュー作から何十年が経ってもまったく衰えるようすを見せない。 ただ天才なのかもしれないし、あるいは何か魔法を使っているのかもしれない。その両方かも。 今回、プレスとして参加できるという役得を良いことに何十枚もの作品をカメラに収めてきたのだが、しろうと以下のカメラマンの腕前はおいておくとして、原画の魅力は圧倒的なものがある。 とくに入室してすぐのへやにカラーのイラストレーションが大量に並べられている光景はファンというかオタクとしては歓喜するしかないものだった。 ああ、あの絵もこの絵も見たことがある! 阿修羅が、さくらが、神威が、皇昴流がそこにいる!! あたかも生きているかのようなリアリティで、たしかにそこにいるのだ。これが喜ばずにはいられようか。 そこに展示されている作品はいずれも昔から好きで読んでいたものだ。そのシーンの一つひとつにあるいは涙し、あるいは興奮した記憶がある。 そのオリジナルの画面が目の前にある。これはね、オタクとしては夢のような一場面というしかないことですね。 CLAMPの絵柄はその時期により作品によって微妙に異なっており、はっきりこれが特徴だとはいいづらいものがあるのだが、しかしどの画面もみなかぎりなくCLMAPらしさとしかいいようがない強烈な個性が刻印されているように感じられた。 それはつまり冒頭に述べたようなある種の矛盾である。力づよさとかぎりない優しさ、すさまじいまでの力感と女性的なたおやかさ、そういったものがひとつの絵のなかで同居している印象。 いや、もっともすぐれた画家の作品とはいずれもそういうものなのかもしれないが、CLAMPにはとくにそういう印象がつよい。 何といっても彼女たちは同人誌から商業誌、少女漫画から青年漫画まで舞台を選ばず傑作を生みだすたぐいまれな作家たちなのだから。 マンガという名の珠玉の芸術 まあとにかくあまりに素晴らしいので讃嘆の言葉が追いつかないありさまである。 とくにマンガ作品の原画が延々とつづくスペースにはほとんど恍惚すら感じる。雑誌で、あるいは単行本で見てきたシーンのオリジナルばかりが並んでいるわけなのだ。 そのなかにはほとんど歴史的な意味で有名なシーンもあれば、「おお、よくこの場面を選んだな」と思うくらいなにげないシーンもあるわけなのだが、いずれも後光がさして見える。 個人的には、『魔法騎士レイアース』の最後のひとコマ、あの伝説の「こんなのってないよ!」のカットを見つけたときがほんとうに嬉しかった。 いやもう仕事であることを忘れてしまいましたね。まあ、もともとこの原稿を書くことは取材であっても、展覧会の閲覧は趣味でやっているといえなくもないのだが。 とにかくその展示内容は膨大にして多岐にわたり、見ごたえがあるといったレベルではないことはたしかである。これから見に行くひとは覚悟して行ってほしい。 いまさらながらにCLAMPが、「質」はもちろん「量」の面でも尋常ではない仕事を成し遂げて来たことがわかるはずだ。 それでもまだここにおさめられた原稿は全体のごく一部なのだから、本物のプロはおそろしい。 どんなに傑出した才能をもったクリエイターであっても、一文字一文字と打ち込んだり、一本一本と描いていくことでしか作品を生み出すことはできない。その、あまりにあたりまえであるがゆえにかえって忘れてしまいそうになる真理を思い出した。 じっさい、これだけの仕事を生み出すためには、どれほどの時間と労力がかかっているのだろうと考えると、ドがつくほどの凡人代表のぼくとしては空恐ろしくなってくるばかりだ。 天才とは、通常の意味を超えた努力の蓄積でしかありえない。そういった、口に出すにはあまりに陳腐な表現が「物量」というかたちで納得させられてしまう、そういう一面がある展覧会でもあった。 愛の作家としてのCLAMP また、この展覧会では、CLAMPの「L」を「LOVE」をあらわすものと見て、さまざまな「愛」のかたちが描き出されていたのだが、ぼくはいまさらながらに「CLAMPとは愛の作家なのだな」と確認できた。 じっさい、CLAMPは「リベラル」だとか「多様性(ダイバーシティ)」といった言葉すら陳腐に思えてくるくらいに、いろいろな愛のかたちを描く作家である。 彼女たちはたとえば「百合」というジャンルがまだほとんど存在しなかったころから女性どうしの恋や愛を描いているし、男性同士の愛、あるいは年の差のある愛に至ってはいうまでもないほどである。 『ANGELIC LAYER』や『カードキャプターさくら』で「女の子どうし」の関係性にめざめた人も多いだろう。 CLAMPがとくべつなのは、ある種ボーイズ・ラブ的な、あるいは百合的な、関係性「だけ」を特権化してそれのみを描くのではなく、あらゆる関係性を平等にすばらしいものとして描いている点なのだと心底思う。 異性どうしの愛情、あるいは同性どうしの愛情、あるいは年の差がある愛情、あるいはまた教師と生徒などさまざまな障害がある愛情だけを特権的に描く作家は大勢いる。 それはそれですばらしい仕事であることもありえるが、CLAMPのように老人から青年まで、若者から幼女までを巧みに描き出し、しかもそのすべてで「カップリング」を成立させる描き手はほかに思いつかないわけではないにしても、数少ない。 ありとあらゆるジャンルと固定観念を超えて、「愛こそすべて」、「愛があればどんな関係も許される」と高らかにうたい上げるCLAMPは、やはり現代日本が生み出したもっともリベラルな作家というべきなのだろう。 この展覧会では、その真髄を味わい尽くすことができる。 そういうわけなので、まだ行こうかどうか迷っているあなたには花丸付きでオススメだ。 この記事が掲載された日を過ぎてもまだしばらく開催しているはずなので、ぜひ開催期間中にその世界に飛び込んでほしい。 迷ったなら行く、これがしあわせなオタクライフを送るコツである。 日本の漫画界でもおそらく最も花やかで柔らかなはがねの戦士と宝石の姫君たちの世界がそこにある。 Go!