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凍てつく空気まで美しい、冬におすすめのSF小説4選

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「凍てつく空気まで美しい、冬におすすめのSF小説4選」。冬木糸一さんが書かれたこの記事では、極寒SF小説への偏愛を語っていただきました! 冬真っ盛りの今日この頃。こういう時期は安全で暖房のしっかりときいた部屋やコタツの中で読書を楽しむチャンスだ。今回は、そんな季節にぴったりのテーマとして、「冬」や「氷」や「北」が物語内で重要な意味を持つ、「極寒SF小説」を紹介してみよう。各作品を通して冬やそれに類するものの象徴的、演出的意図を探っていくことで、現実の冬が少しでも楽しくなることを祈っている。 ジャスパー・フォード『雪降る夏空にきみと眠る』(原書初版2018年) 最初に紹介したいのは、ジャスパー・フォードの『雪降る夏空にきみと眠る』(上・下巻)だ。物語の舞台は2000年代イギリスのウェールズだが、この世界の来歴はわれわれの知るものとは大きく異なっている。何しろ、ここは冬になると平均最低気温がマイナス40度以下になってしまう世界なのだ。 そんな環境では人はまともに生きていけないから、冬至の前後8週間の間、人口の99.9%は冬眠をする。ただこれはSFでよくあるポッドに入って一瞬で完璧に時間が過ぎ去るコールドスリープのようなものではない。脂肪をたくわえ、モルフェノックスという大きな副作用(一部の人は意識を失い人喰いの化け物になってしまう)のある薬剤も使う必要があり、命がけの越冬である。冬季の間に動き出す盗賊もいるので、危険から身を守るための冬季取締官という仕事につく人々もいて──と、物語はこの職業についた、チャーリーという人物を主人公として展開していくことになる。 本作にて、冬は過酷な試練を与えるが、真に危険なのは、冬の寒さや盗賊ではなく、孤独だと語られる。夏にはふさぎ込むだけですむが、冬はそれが命取りになると。 「敵は盗賊でも、冬牧民でも、腐食動物でも、不眠症患者でも、氷の隠者でも、大型動物類でも、ナイトウォーカーでも、冬季活動性の齧歯類や肉食性寒冷粘液虫でもない──冬そのものさ。生き延びるためには、まず冬に敬意を払わなくてはならない。さて、おまえさんは何をしなくてはならない?」(*1) (*1:ジャスパー・フォード. 雪降る夏空にきみと眠る 上 (竹書房文庫) (pp.48-49). 竹書房. Kindle 版. ) 同時に本作は冬だからこその「深い眠り」も重要な意味を持っていて──と、中部ウェールズのおとぎ話、神話とからめながら、夢と現実が入り混じったような世界を描き出していく。その結果として本作は、『不思議の国のアリス』的なナンセンス文学のおもしろさもあれば、幻想譚でもあり、夢現空間計画をめぐるSF的着想あり、ロマンスもあれば何者でもない青年が成長していく冒険譚でもあり──と、あらゆるジャンルの玉手箱のような傑作だ。 アンナ・カヴァン『氷』(原書初版1967年) 続いて紹介したいのは、SF小説で「氷」といえば真っ先に名前があがる、アンナ・カヴァンの長編『氷』だ。物語の舞台は、何らかの未知の兵器の使用によって地球の放射能汚染のレベルが上昇、またそれに伴って大々的な気候変動に繋がり、異常な寒さに陥ってしまった世界。旧知の少女の行方を探る男の『私は道に迷ってしまった。』(アンナ・カヴァン. 氷 (ちくま文庫)(p.17))という語りから本編ははじまるが、この言葉通りに、場所どころか時系列もバラバラに、この世界の情景を写し取るように進行していく。 最初、語り手は純粋に少女を案じているのだろう、と思いながら読んでいると、次第に(語り手の)怪しい側面も現れ、世界それ自体も不安定となっていく。具体的な国名や地名は出ず、登場人物の名前すらもないだけでなく、何の前触れもなしに現実ではない、悪夢のような情景が語りの中に挟まれる。 社会のインフラは崩壊しかかり、雪は降り止まず、湿気と寒気は消え去る気配もない。動物たちも混乱しているのか、普段の習性とはかけ離れた行動をとり、人間への警戒心をなくしたオオヤマネコ、見たこともない大きな鳥の移動など、本人の主観と客観的な世界の両方が不安定で終末的な状況がひたすらに描き出されている。本作における冬、そして氷は、悪夢に変わりうる不安と幻想の混合物として演出されている。繰り返し見る悪夢のような作品──ただし、その情景はどこまでも美しい──だ。 先に紹介した『雪降る夏空にきみと眠る』で、終わりなき冬でもっとも危険なのは孤独だ、という語りの部分を紹介したが、本作(『氷』)は極限の冬がもたらす孤独や不安感を、小説ならではの形で表現しているといえる。読みながらこちらも不安定な恐怖に苛まれ、ふっと本から目を離すことで、現実にいることを思い出してほっとする。そうした特別な読書体験が堪能できる、唯一無二の一冊だ。 アーシュラ・K・ル・グィン『闇の左手』(原書初版1969年) 続いては、ル・グインの代表作『闇の左手』を紹介しよう。本作は男女の性の区別を持たない人々が暮らす(性別自体は存在するが、発情期の周期がきた時、パートナーを見つけると、ホルモンの分泌量が変化しどちらかが男、どちらかが女に変化する)惑星社会を描き出したことからジェンダーSFの傑作として紹介されることが多いが、舞台は〈冬〉と呼ばれる惑星で、個人的に冬SFといえば本作は外せない。 物語は宇宙連合エクーメンに所属する大使のゲンリー・アイが、惑星〈冬〉を訪れ、現地国家とエクーメンで連合を結ばせるための交渉から幕を開ける。ただ、これはそう簡単にはうまくいかない。両者の文化は隔たっており、双方が不信感をかかえている。ゲンリー・アイと王との仲介役になってくれた政治家のエストラーベンも存在したが、その交渉過程で王の寵愛を失い、国から追放されてしまう。 本作における舞台は冬の惑星である必要があるのだろうか。いくつか理由は考えられるが、ひとつは、本作の大きなテーマのひとつに孤立と追放があるからだろう。ゲンリー・アイはたった一人でこの惑星に降り立った孤独な交渉者で、エストラーベンも所属する国家を追われた人間だ。両性人類と単性人類という異質な二人は、それ以外何者も存在しない氷原の上で長時間の旅を行い、性を超えた愛情を確立していく。その表現のためには、やはり舞台は〈冬〉でなければならなかったのだろう。 それから数時間というもの一人が道を拾い一人が橇を引き、卵のからの上を歩く猫のように用心深く、一歩ずつ雪面を杖でたしかめながら進んだ。白い曇天のもとでは縁にさしかかるまでクレバスは見えない──縁が張りだしていたり足もとがもろければそれでおしまいだ。一歩一歩が不意打ちであり、落下であり、震撼であった。どこにも影というものがない。白くむらのない無音の球体。つや消しガラスのボールの内側を歩いているのと同じだった。(*2) (*2:アーシュラ K ル グィン. 闇の左手 (ハヤカワ文庫SF) (p.305). 株式会社 早川書房. Kindle 版. ) 本作の終盤、二人が雪原で行う80日にも及ぶ旅の情景は、僕が本作でもっとも印象的なシークエンスでもある。冬SFとしてもおすすめしたい傑作だ。 マーセル・セロー『極北』(原書初版2009年) 最後に紹介したいのは、マーセル・セローの『極北』だ。著者は高名な旅行作家ポール・セローの息子で、村上春樹訳という座組だけでも話題性抜群の本作だが、個人的には数ある終末SF、そして「北」を描いた作品の中でも最上位に入るぐらい好きな作品だ。文章は美しく、それでいてずっしりと重く、予期せぬ出来事が次々と起こり最後までどのような結末に落ち着くのかとどきどきが持続する。 物語の舞台は気候変動によって世界中の環境が悪化し、それに伴って発生した戦争などによって大陸が汚染されてしまった、おそらく未来の極北。国家は崩壊し文明も産業革命以前レベルまで後退し、人々はわずかな資源を分け合い、各地でばらばらに暮らしている。主人公は女性のメイクピースだが、この世界では女性であると知られたら不利になるので男性を装っている。それだけでなく、『私は肝の据わった人間だ。そうでなければやっていけない。』(マーセル・セロー . 極北 (中央公庫)(p.21))という語りに象徴されるように、その振る舞いはまるでクリント・イーストウッド主演のようなハードボイルドさだ。 物語はこのメイクピースが、荒廃した世界を飛んでいた”飛行機”を発見し、その出発地点にマシな文明が残っていることを期待して旅をすることで進行していく。その過程でメイクピースは囚われの身となったり、〈ゾーン〉と呼ばれる特別なエリアに資源を漁りに行ったりと様々な出来事が起こるわけだが(本作はストルガツキーによる『ストーカー』に連なるゾーンものの魅力がある)その紹介は割愛しよう。 冬としての観点から本作で注目したいのは、「極北」に無数の意味をもたせている点だ。まず、現実的な意味としては、地球温暖化の進行に伴って、極北は人々が逃げてくる「逃避先」となっている。ただ、ここも他の場所と比べたらマシというだけで、ユートピアとは程遠い場所だ。環境は劣悪で医療も足りていない。その結果として、メイクピースは世界がダメになった比喩として、「北に行った」という表現を使う。 でも私たちの世界が駄目になったことは、まさに「北に行った」と表現するべきだろう。私たちがどれくらい遠く「北に行って」しまったか、私はそれを学び始めている。(*3) (*3:マーセル・セロー . 極北 (中央公庫)(p.104)) 本当の極北までいってしまったら、コンパスは意味をなさず、同じ場所をぐるぐる回るだけになってしまう。はたして、人類は極北まで行ってしまうのか。はたまた、その前段で耐え忍ぶことができるのか──メイクピースの極北での旅を通して、メイクピースの視点から、その答えが明らかにされていく。北へ行くこと、その意味が、象徴から現実的な意味まで多様な観点から語られた、詩的で美しい作品だ。 おわりに と、冬SFといえるような作品を四作紹介してきた。不安定さや孤独など象徴・演出面で重なり合う部分も多いが、睡眠や終末の表現としての「北」のように異なる面もある。寒い日々が続く中、暖かい部屋の中でこうした極寒の小説を読むのは、極上の体験になるだろう。

旅立つ友人のために最後にパチンコ大会を開催したはなし

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「旅立つ友人のために最後にパチンコ大会を開催したはなし」。patoさんが書かれたこの記事では、最後にみんなでパチンコを楽しみたい、旅立つ友人への偏愛を語っていただきました! 匂いと記憶は密接に結びついているという話をご存知だろうか。 視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚、人間の五感において、嗅覚だけが記憶を司る海馬に直接的に働きかけると言われている。だから、懐かしい匂いと共に古の記憶が蘇ったり、あの人がつけていた香水を感じて胸が締め付けられたりする。匂いと記憶が密接に結びつく脳の仕組みによってそれらが起こりやすいわけだ。 「いつまでも俺のことを覚えておいてくれや」 ちょっと古い豚骨ラーメンみたいな匂いをさせながら源さんはそう言った。僕はそれを、とある匂いと共に強烈に思い出すことがある。 僕の知人の源さんは「連日のように余命が尽きる」というよく分からない設定を持っている人だった。 「俺は明日で寿命が尽きるんだけど」 「明日、死ぬとしたら何をしたい?」 冗談めかして口癖のようにそう言ってのける源さんに仲間たちは「なに言ってんだ」と笑っていた。なにせ毎日のにことだからだ。はやい話、誰も真剣に取り合っていなかったのだ。 「源さんはなにをするんですか?」 源さんの戯言を真剣に聞くのはいつも僕だけだった。あるとき、聞くだけでなくて逆質問をしてみた。そして源さんは少し照れくさそうに笑いながら答えた。 「俺はさ、パソコンの設定をしたい」 その答えは予想外のものだった。 源さんらしく、高級な温泉旅館に泊まりたいだとか、死ぬほどギャンブルに溺れたいだとか、孫と遊びたいだとか、体調の悪化により制限されるようになったお酒を浴びるように飲みたいだとか、そういった“らしい”返答が返ってくるものと思っていたのだ。 明日にも余命が尽きるその時に、パソコンの設定をしたいというのもよく分からないし、まったくもってアナログ的で電脳とは縁のなさそうな源さんからそういう言葉が出てくること自体が大きな違和感だった。 源さんは孫の画像をやり取りするためにテレビ通販でパソコンを購入した。とはいってもバリバリに使いこなしているわけではなく、SNSに繋いで画像を受信するくらいしか使っていなかったので、そのパソコンはほぼ新品みたいな輝きを放っていた。 「これ、なんか使っているとこういう表示が出るんだよな」 源さんが持参してきたそのパソコンを開くと、あまり使ってはいないのだろう、新品の匂いがした。 そこには「この処理を終わらせましょう」というダイアログが表示されていた。そこには「今すぐ再起動」「時刻を選択」だとかボタンが並んでいるのだけど、そのいちばん右に「明日通知する」というボタンがある。源さんはそれを押したいというのだ。 これを押すと、文字通り、次の日に同じ通知が表示される。 「明日、余命が尽きるというのにパソコンの再起動を明日に持ち越す、それが粋ってやつよ」 それが粋なのかは分からないけれど、たぶんセキュリティ的には問題ありだ。ただ、粋だと言い放ちながら大笑いしていた源さんの顔を今でも思い出す。 「粋ということは印象に残る。あいつはあす死ぬのに更新を持ち越しやがった。そうして俺のことを覚えておいてほしい」 そのトーンはいつもの冗談めかしたものと違うように感じた。源さんの笑顔と「あす再通知する」というボタン、そしてパソコンから放たれる新品の匂い。僕の脳内ではこれらが強烈に結びついていた。 「俺のこと覚えておいてくれよ」 源さんはそう言ってまた笑った。 それは平日の夕方だったと思う。突如として僕のスマホに連絡が届いた。 「patoさん、こんどパチンコ大会をやるんで取材に来ませんか?」 古いくからの知り合いからのメッセージ。かなりご無沙汰といったタイミングできたこのメッセージの真意も分からなかったし、パチンコ大会!? 取材!? と困惑してしまった。 「いやあ、ちょっとスケジュール的に厳しいかな……」 聞くと、そのパチンコ大会は、メッセージ主の居住地である静岡市で開催されるらしい。静岡はちょっと遠い。東京から考えても遠いけど、その前日には別件の取材で熊本にいる予定だった。さらに遠い。交通費と宿泊費を考えるとかなりのものになってしまう。 「それにパチンコ大会ってどういうこと? むかしテレビチャンピオンとかでやってたようなやつ?」 だいたい、パチンコ大会ってのがよくわからない。もうすでにこの段階でどう断ろうか考えているところだった。 「実は、わたしの友人が癌で余命宣告を受けてしまって、もう残された時間を色々と楽しもうってなってるんですね」 予想以上にけっこうシリアスな展開が待っていた。重い。 メッセージ主の友人が癌で余命宣告を受けた。ずっと仕事ばかりをやってきた人だったので、残された時間を好きなことに使おうと決めた。その中の一つに、「仲間でワイワイと楽しみながらパチンコを打ちたい」というものがあり、じゃあ皆で叶えよう、と開催する運びになったそうだ。 「なるほど、じゃあ仲間たち数人でワイワイ打つ感じですか? 3人くらいでノリうち的な」 「けっこういますね、20人くらい。それくらいでワイワイ打ちたいです」 なかなかビッグな大会じゃねえか。 「あー、それはちょっとあれかもしれないですね。普通にパチンコ屋でやるんですよね。仲間20人で台を占拠すると、ちょっと迷惑になってこのご時世、怒られちゃったりするんじゃないですか。軍団が占拠しやがってとか、そういうのにセンシティブなご時世ですよ」 まあ、普通に心配になるだろう、と言いいう点を指摘しておいた。 「その点は大丈夫ですね。お客のいない機種を選びますし、もう店の許可も取りました。取材許可も取りました。当日は遅れて入店し、一般のお客さんに邪魔になりそうにない機種を選びます」 開催許可だけでなく取材許可までとってんのか。そこまでやっているとは恐れ入りました。 「どうしてもその友人の願いを叶えてあげたいんです。そしてその記録を残したいです。だから日本一のライターであるpatoさんにお願いしました」 「おいおい、日本一のライターは言いすぎだろー(悪い気はしない)。取材させてもらいます。ぜひとも取材させてください」 ということで、熊本から新幹線に飛び乗って九州新幹線、山陽新幹線、東海道新幹線を経由して、静岡の地に降り立ちました。 ちなみに前日にJR静岡駅に降り立ち、とりあえず静岡と言えば「サウナしきじ」だろとタクシーに飛び乗ったのですが、そこでひと悶着ありました。 「お客さん、静岡は初めてかい?」 「いやー、初めてではないんですけど、静岡駅周辺は久々ですね。なんか静岡駅周辺、寂しくなっちゃいましたね」 ちょっと軽い感じで、なんか駅周辺が寂しくなったと切り出したんですよ。そういう会話ってだいたいどこの地方でも展開されるじゃないですか。取り立てて静岡駅周辺がそうではないんですけど、日本全国どこでも地方は寂しくなりつつありますから、会話のとっかかりとしてかなり有効なんですよ。けれどもね、ここで事件が起こったんです。 「は? それはこっち側が寂しい方の出口だからだが?」 「人が少ないっていう意味なら間違ってる。昨日、大きな祭りがあったからその反動で人が少ないだけ。普段は賑やか」 「店だってたくさん営業しとる。ほら、そこの居酒屋だって賑わってる」 「そもそも、寂しくなったっていつと比べてのことなのよ。え? お?」 運転手さんにゴン責めされてしまい、サウナしきじに到着する頃にはすっかり泣かされていて「すいません、よく考えたら駅周辺、寂しくなってないです」と言わされるまでになってました。ホント、いまだにななんであれだけ責められのかがわからない。 さて、サウナのあとはまた別のタクシーを呼んで、決して寂しくない静岡駅周辺に舞い戻り、ビジネスホテルに入って眠りにつきました。 次の日の早朝。メッセージ主さんが迎えに来てくれて、そのまま大会が開催されるパチンコ店へと向かいました(編集部注:マルハン以外の店舗です)。 到着すると、まだ開店前らしく抽選を待つ人々がけっこういました。スマスロの新台が入ったばかりのようで、けっこうそれを狙うお客さんが多かったように思います。 お店には今回のパチンコ大会のメンバーが既に集結していて20人のメンバーが待ち構えていました。普段からパチンコやスロットが大好きな仲間たちのようです。 まあ、非常に正直に率直な意見を言わせてもらうと、まあまあガラの悪い人々で、僕なんかブルっちゃいましてね、本当は「今回の大会にへの意気込みを」とか開店までにインタビューしたかったのですが、まあ、もういちど書いておくとブルっちゃいましてね、インタビューできませんでした。殴られそうな雰囲気があったね、あれは。 なんとかビビりながら、主催者に近い人(まあまあガラが悪い)から入手した情報によりますと、今回の大会はサプライズ形式で行われるようです。すでにメンバーは集まっていますが、本日の主役となる方はまだ来ていないし、パチンコ大会があることも、こうやって仲間が集まっていることも知らないようです。 友人の一人が、パチンコ行こうぜーと連れ出して、店に来てみたらいつもの仲間が待ち構えている、そのままパチンコ大会へ、金額制限と時間制限を設けて、チーム分けを行ってどのチームがいちばん当たりを引けるのか、とやるようです。 今回、大会機種として選定されたのが「Pスーパー海物語IN沖縄55」、こちらが11BOX導入されていて30台ほどあるのですが、そのうちの20台を打つということでお店からの許可を得ています。 「連絡がつかん、寝てるのかもしれん」 いよいよ、朝の入場抽選が始まろうかというタイミングで、おびき出し役のメンバーから連絡が入りました。いきなりアクシデントです。主役が不在。大会が開催されなくなります。そうなると、そこそこガラの悪い連中がただ海物語を打った昼下がりという事実しか残りません。 それならまだいいんですけど、僕個人として見ると、静岡まで来てタクシーの運転手さんに怒られただけ、という事実が残ります。それはあまりにも悲しいからやめてほしい。 「なんとか連絡取れたらしい。これからくる! ただ本人はスマスロの北斗うちてーって言ってるらしい」 まあまあガラの悪い人が興奮気味に報告してくれます。よかった。それにしても、スマスロ北斗を打つつもりできて海物語を打つことになったらビックリするな、と考えながら待ちました。 そんなこんなで朝の入場抽選の時間となりました。ただ大会参加メンバー(まあまあガラが悪い)は、一般のお客さんに迷惑をかけないため、入場抽選待機列ではなく、一般入場列に並びます。抽選に並んだ人数とガラの悪い一般列の人数がだいたい同じくらいという奇妙なことになっていました。 そこに、本日の主役となるお方が登場しました。なぜか一般待機列に並ぶ知った顔たちをみて驚き、なにかを察します。そして嬉しそうに一言。 「おいおい、ガラが悪い一般待機列だな」 まったくもって同感だ。 「みんなで楽しくパチンコ大会だぜ」 みたいな感じで盛り上がります。 さて、入場抽選も終わり、一般待機列の面々はそのまま大会機種である海物語沖縄のコーナーへ。けっこう時間差で入場しましたが、このコースには誰もいなかったので、そのまま座ることになりました。 こういった感じになりいよいよ大会スタートとなりました。ちなみに、いちばん手前、右側の方が本日の主役です。 だいたいブロック5人ごとに4つのチームに分けてどのチームが多く当たりを引けるのか、という感じなのですが、もちろんこの大会は本日の主役の「みんなでワイワイパチンコを打ちたいなあ」という願いを叶えるべく行われていますので、みんな心のどこかで「主役の台がバンバン当たってほしい、楽しんでほしい」と願っています。僕もそう願っていました。 本日の主役が打ち始めると同時に他のメンバーも打ち始めます。しっかり当たってくれ! 「あ、当たりました」 開始25回転。いきなり当たりました。主役とは関係ないところで当たりました。 やはり20人もいればいきなり当たる人もいますわ。20人が25回転させたら500回転してますからね、そりゃ当たる。 やはりパチンコの花形は当たりですよ。当たりが出たことによりメンバー全員が俺も当てるぞと急に色めき立ちました。もともとパチンコが好きな人たちですから、いつもスロットなんだけどなー、海物語なんて久しぶりすぎる、と言いつつも打ち始めると夢中ですよ みなさん、熱くなるのはいいんですけど、今日はほらね、主役の方がいるわけですから、そちらも当たるように祈ってくださいね。 「魚群だ!」 めちゃめちゃ熱いやつじゃねえか。またもや主役と関係ないところで当たるぞ、これ。 当たった。 当たるのはいいんだけど、ほら、関係ないところでボコボコ当たるとさ、もっと本日の主役にさ、当たるようにさ。なあ。 「熱いの来た!」 本日の主役の台についにマリンちゃんが! キタコレ! これ熱いやつだろ! いけるだろ! これは当たるだろ! マリンだろ! ぎゅーいん!ぎゅーいん! モロタ! ビタッ! だめだあああああああああああああああああ!!!! なんで外れるんだよ! 「当たりました。しかも確変」 もう本日の主役とは関係ないところでボコボコ当たる。 なんか確変がガンガン続いてめちゃくちゃ派手な役物が躍動していた。 「みなさん、当たるのはいいんですけど、ほらね、本日の主役がね……」 「こっちも当たりそうです!」 当たりそうです、じゃねえよ。いい加減にしろ。 「当たりました」 「イエーイ!」 「こっちも当たったぞー!(しかも確変)」 とまあ、当初の目論見通り、当たった外れたと仲間内でワイワイ。決して大騒ぎすることなく、静かに盛り上がります。 「今日は何かの撮影?」 普段はあまり客がいないであろう海物語のシマで、大勢が打っていてワイワイしているので、何らかの撮影だと思った方々が話しかけてくる場面が多々ありました。今日は海物語が熱いのか?みたいな人もいました。 「いえ、お店に許可取って仲間内でやってるんですよ」 「楽しそうね」 僕もこういうのは初めてなんですが、みんな楽しそうでした。ただ、主役にだけ当たってほしい。 ただまあ、本日の主役の台、当たんないんですわ。取材している立場からしても、主役にバシッと当ててもらうと、記事もビシッと締まるってものなんですが、主役が当てた、大団円!俺たちのメモリー!みたいに行きたいんですけど、なかなか上手くいかないんですわ。 主役とは関係ないところでは当たる。バンバン当たる。 バンバン当たる。 当たる。 当たる。 スタートして結構時間が経過し、確率分の回転数まで到達したので、だいたいの参加者がひと通り当たった状態となりました。 確変が終わらず爆連している参加者までいる始末。 ただ、 本日の主役だけはしっかりとハマっている。大会じゃなく、普通に打ちに来ていたら、今日はあかんしもう帰るかーってなってもおかしくないくらいハマっている。 といったところで制限時間がきたので大会は終了。確変中と時短中の人だけそれが終わるまで打ち続けて終了となりました。結果として、本日の主役は当たりませんでした。 みなさん、けっこうガラが悪い感じなのに、決して大騒ぎするわけでもなく、ただ静かにワイワイ盛り上がってくれて、本日の主役の願いである「みんなでワイワイパチンコを打ちたい」が達成されたのではないでしょうか。 といったところで、店を出たところで記念撮影。 ガラが悪い。 とても楽しい大会でした。これだけの人が主役の願いを叶えるために駆けつけてくれる、とてもいいものを見させてもらいました。 ----------------------------------------- 昨今のパチンコ屋には独特の匂いがあるように感じます。設置された機械から漂う金属っぽい匂い。新台から漂う新品の匂い。誰かが飲んでいるコーヒーの香り。加熱式タバコの匂い。それらが混ざり合って独特の匂いを作り出しているように思います。 匂いは記憶と密接に関係しています。 きっと、どこかでこのパチンコ屋の匂いを感じた時、僕は今日の日のことを思い出します。誰かのためにこれだけ仲間が集まってワイワイとやった記憶をお思い出すでしょう。きっと参加者の皆さんも同じだと思います。 僕の知人の源さんも忘れられたくないから、更新の通知を明日に持ち越すと言っていた。それが有効かどうかは分からないけど、それによって僕は新品の匂いを嗅ぐと源さんを思い出す。導入されたばかりのスマスロの匂いで、取材しながらフッと源さんのことを思い出していた。 人は忘れられたくない生き物です。それと同じで、僕らも同様に誰かのことを忘れたくはありません。けれども、どうしても僕らの記憶は薄れていきます。だからこそ、その場の匂いを感じることは大切なのかもしれません。 取材を終えて静岡駅へと舞い戻る。静岡駅は人がたくさんいて、ぜんぜん寂しくなんかなかった。

王を称えよ! 現代アニメがしんらつに描き出す格差と平等のパラドックス

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「王を称えよ! 現代アニメがしんらつに描き出す格差と平等のパラドックス」。海燕さんが書かれたこの記事では、『響け!ユーフォニアム』への偏愛を語っていただきました! 能力主義にまつわる問題は、その実践が理想に届いていないことだけではない。それが問題だとすれば、解決策は「機会の平等」を完全なものにすることだろう。人生の出発点にかかわらず、人びとの努力と才能が許すかぎり確実に出世できる社会を目指せばいいはずだ。しかし、道徳的にであれ政治的にであれ、完全な能力主義でさえ満足のいくものかどうかは疑わしい。 マイケル・サンデル『実力も運のうち』 ネオリベラリズムとメリトクラシーの問題軸 https://www.youtube.com/watch?v=hhWQLeE8L4E もちろんご存知のことと思う、先日のアメリカ合衆国大統領選挙では、共和党のドナルド・トランプが新大統領に選任された。 その是非についてはさまざまな議論があるだろうが、いずれにしろ、ひとついえるのはトランプ政権を生んだ背景にあるものは国家全体の「経済格差」だということだ。 同じ国に生まれて生きていながら、富裕階級と貧困階級では資産の差が何万倍にもなるという理不尽な状況が、怒りを生み、憎しみを呼び、あたかも魔法の呪文が地獄の亡霊を召喚するかのようにトランプを呼び出した。 格差は人と人との絆を崩し、社会の根本を成す友愛を粉砕する。その意味で忌むべきものというしかない。 もっとも、その一方で社会に格差があることは、すべてとはいわないまでも大方は「自己責任」であり、しかたないことだという議論もある。人より努力した者、能力がある者が栄達し、そうでないものはそれにふさわしい場所に留まる。それはごくあたりまえのことに過ぎないのだ、という主張はありえるだろう。 社会学者はそのような見解を「能力主義(メリトクラシー)」と呼ぶ。幾千年の長きにわたり階級社会に苦しんだ我々が見いだしたひとつの正義と公正のかたちである。 ただ、メリトクラシーに対しては批判も多い。一見するとそれはきわめて公平に思えるが、じっさいには生まれた時からすでに環境や資本に差がついている事実を無視しているというのだ。 なんぴとたりとも文句のつけようがないかと見える「フェアな競争」には、その実、いくつもの不可視のハンディキャップがひそんでいるというわけである。それでは、わたしたちは、この議論についてどのように考えるべきだろうか。 そのことを考察するとき、きわめて参考になるひとつの作品がある。京都アニメーションによって製作され、いくつものテレビシリーズと映画作品を通して発表されつづけてきた名作『響け!ユーフォニアム』(以下『ユーフォ』)だ。 このアニメは、ふつうに見ればごくあたりまえの青春物語であるかと思える。主人公の少女を中心とした何十人もの少年少女たちが、それぞれに努力し、葛藤し、さらにはその悩み苦しみをも乗り越えながら成長してゆくシンプルなストーリー。何も考えず見てもきわめて感動的なシリーズだ。 だが、『ユーフォ』には複数の作品に一貫して通底するひとつのテーマがある。それがメリトクラシーの正当性なのである。 そのことがはっきり前面に出て来るのは、とくに主人公・黄前久美子が最上級生となり、吹奏楽部の部長となった最後のシーズンだ。彼女は部長として部を率いる際、その伝統である「実力主義」を打ち出し、仲間たちを結束させようとするのだが、そのまえにさまざまな困難が立ちふさがる。 実力主義といい、努力しだいというが、そこに明確な基準はあるのか? そもそも人間的な情緒の一切を捨て去り、能力だけで判断する選択は人を納得させることができるのだろうか? ときにそういった問いを孕みながら、見ごたえ抜群のドラマが繰り広げられる。 黄前久美子の細い肩にのしかかるプレッシャー https://www.youtube.com/watch?v=2AXc74JHSyY 久美子はその数、何十名にも及ぶ部員たちを率いるリーダーとしてはむしろどこか気弱で優柔不断なところがある心優しい少女である。彼女は全国大会金賞という、過去には達成できなかった高い目標をめざし、色々と苦心しながら部を牽引する。 そのきゃしゃな肩にのしかかる責任は重い。しかも、無数の部員たちがありとあらゆる種類の難題を彼女のもとに持ち込む。そして、ひとりの演者としても彼女はユーフォニアムを吹かなければならない。久美子は少しずつ少しずつストレスを溜め込み、疲弊してゆく。 その久美子を支えるのが親友の高坂麗奈である。天才的なフルート奏者である麗奈は、つねに高いモチベーションを保ち、自分にも他人にもきびしい。いわば久美子がどこかまだ甘さと優しさを残したままであるのに対し、麗奈は生きたメリトクラシーの権化なのだ。 だが、あくまで部のリーダーは麗奈ではなく久美子である。それは人を率いる資質において久美子が麗奈を凌駕していることを意味している。 一年生の頃、麗奈と比べればむしろ凡庸な女の子に過ぎなかった久美子が、ひとりの優秀なリーダーとして成長してゆくさまは圧巻としかいいようがなく、際立って感動的でもある。 久美子の物語はリーダーとは何か、優れたリーダーであるとはどういうことなのかを考えさせる。 本来、久美子にはそこまでの実力はない。しかし、地位は人を鍛え、立場は人を作る。全国大会の頂点をねらう部活動における部長の重責をになう久美子は、すさまじい勢いで人間として大きく成長してゆく。 とはいえ、その陰にどれほどの苦悩がひそんでいたことか。何より久美子はリーダーとして集団を導く一方で、ひとりのプレイヤーとしても部のトップでなければならないのだ。 彼女はつねに「実力主義」を標榜し、それこそが自分の部の理想だと公言しつづける。だが、その気高いはずの理想は彼女自身を追い詰めてゆく。なぜなら、自分自身もまたその実力による選別にさらされずにはいられないからだ。 他校からやってきたひとりの転校生が、あたかも久美子自身のシャドウであるかのように彼女のまえにあらわれ、その立場をおびやかす。 あくまで「マネージャー」として部を善導しながら、「プレイヤー」としても活躍しなければならない「プレイング・マネージャー」の負荷は、いまにも久美子のかぼそい背中を手折ってしまうかと見える。 それでも、彼女は折れない。数知れぬ理不尽、底知れない矛盾をただただ一身に背負っていながら、久美子は折れず、枉げず、どこまでもどこまでも「実力主義の北宇治」を貫き通す。 その背景にあるものは、実力主義こそが集団としての正しいあり方なのだという信念である。久美子は部長として、リベラルな「正義と公正」の観念を体現する。 その結果、どれほどくやしい、辛い思いをしようと、あくまで公平に人を見て判断するという「実力主義」こそが最もあるべき組織の形なのだというフェアネスの信条がそこにはある。 むろん、いくつも矛盾があり、問題が発生し、部全体が軋みを上げて崩壊寸前まで行くのだが、それでもなお、久美子は一切、信じることをま枉げない。その徹底の凄まじさ。 小柄な王が築く完全実力主義のキングダム https://www.youtube.com/watch?v=B72ILbmB7Ac しかし、ほんとうに「実力主義」は正しいのだろうか。 繰り返すが、メリトクラシーに対してはさまざまな批判がある。どれほど公平に見えても、じっさいには能力だけで人を判断することこそが格差を生み、さらにはそれを固定化し、社会を緩慢に崩落させてゆくことはすでに多数の論者が指摘している通りである。 その視点から『ユーフォ』全体を批判することは可能だろう。この物語はあまりにもリベラリズムとメリトクラシーを盲信してはいないか。その矛盾を、問題を、無視してしまっているのではないか。そのように指弾している人は、おそらくたくさんいるだろうと考える。 だが、久美子の三年間を描き抜く『ユーフォ』の長い長い物語を見終えたとき、やはり彼女の信念と選択はあまりにも正しいものだと思わずにはいられない。 久美子はたしかにメリトクラシーを重視し、能力のある者と能力のない者をはっきり区別する競争のしくみを是とする。 それは彼女自身が三年間で燃焼し切るためにどうしても必要なことでもある。つねに実力を問われ、能力で判断される苦しい環境に身を置くことだけが、彼女を「真っ白な灰になる」ような完全燃焼に導いてくれるのだから。 しかし、じっさいにある能力の「格差」を前提にしながら、すべての部員を「平等」に扱おうとすることのパラドックスは深刻である。それは必然、持てる者が持たない者をしいたげる「パワーハラスメント」の光景にかぎりなく近づいてゆく。 だが、それでもなお、北宇治高校吹奏楽部からは、ひとりの脱落者も出ない。壮絶なまでに苛烈な練習を強いられながら、じつに初心者の一年生を含めた全員が落ちこぼれることなくレベルアップしつづけるのである。 なぜか。部の顧問である滝の指導力のたまものか。否。麗奈の傑出したカリスマが部員たちを統べたためか。否、否。答えはひとつ――そう、久美子である。 もともと高いモチベーションを持っていなかった人間であり、ひとりのプレイヤーとして麗奈ほど別格の才能を持たない久美子が部長であったからこそ、多くの部員たちが脱落することなくつ付いてくることができたのだ。 プレイヤーとしての才能で、自分を律し高みをめざしつづけるモチベーションの高さで、久美子は麗奈に遠く及ばない。だが、ただ正論で人を殴りつけて良しとするのではなく、どこまでも巧みに上の指示を言語化し、下の不満を糾合して「和」を保つマネージャーとしての能力において、久美子の力は唯一、そして無二なのだということ。 久美子が一年間の苦悩の末に築き上げたのは、いわば王その人ですら特別扱いされることがない完全実力主義の聖なる王国である。 それは、サンデルなどが口を窮めて批判しているように、無数の問題点を孕んでいることだろう。だが、そうはいってもそこにはやはり強烈な「正しさ」の魅力があることも事実だ。 たしかに、久美子のような態度はいかにも新自由主義的であり、最終的に「自己責任」のトラップにたどり着いてしまいがちな問題もある。 久美子にしろ、麗奈にしろ、間違いがない無謬とはとてもいえない。彼女たちは多くの人々を苦しめたり、傷つけたりしたはずである。その責の大きさ、咎(とが)の重さ。 とはいえ、だから『ユーフォ』はネオリベラリズムの作法に毒された凡作であるに過ぎない、と見ることはイデオロギーに染まって作品そのものを正面から見ることをしない卑俗な態度に違いない。 久美子自身、ときにメリトクラシーの正当性に疑問を感じながら、それでも正しくあること、フェアであることを徹底し切ろうとしていることを思うとき、そのたぐいの批判は浅薄なものに聞こえてくる。 一見したところ、どこにでもいるような、あたりまえのかよわい女の子にしか見えない久美子は最終的に、麗奈はもちろん、彼女の尊敬する天才的な「あすか先輩」ですらとどかなかった高みにまで到達する。 そこに彼女自身の利益はない。久美子はかぎりなくフェアネスにこだわった結果、部において自分の座るべき席を奪われすらする。だが、そのあまりにも誇り高い生きざまは、物語の外ですべてを傍観するわたしたちの胸を震わせることだろう。 クライマックス、マネージャーとしての重責と激務に追われるあまり、ついに「麗奈のとなり」という居場所を失ってしまった久美子はくやし涙を流す。 彼女はまちがえたのだろうか。いかにもばかげた、愚かなしい真似をしてしまったのだろうか。 そうではない。久美子はたしかに自分の利益を度外視し、リーダーとしての「正しさ」をつらぬいた結果、「びんぼうくじ」を引いたかもしれない。 だが、その代わり、彼女は、全国大会のその舞台で、素晴らしい演奏に聞き惚れる聴衆たちに対し、高らかに誇る黄金の資格を得た。これこそが北宇治高校合奏部、わたしが築き上げたわたしの王国なのだ、と。 そう――だから、いまこそ、王を称えよ。その自律を。その統率を。その、人としてかぎりなく美しいありようを。 久美子はその小さな王国の女王として、だれにも負けない統治を成し遂げた。なんというセルフコントロールだろう。すべてを観終えたあと、ぼくもまた涙を流さずにはいられない。 お見事でした、王よ、あなたは御身そのものを犠牲に、素晴らしい偉業を成し遂げられた。ぜんぶ見ていました。何もかも。 小柄な王は満場の喝采のなか、そのちいさな頭を下げる。彼女にスポットライトがあたり、やがてすべてが真っ白く染められてゆく。ここに完全燃焼は達せられた。 称えよ。そうすれば、可憐な少女王は、その白い頬にささやかな微笑を刻み込むことだろう。

2024年に流行った曲、映画、アニメ、ドラマ、スイーツのトレンド一覧を振り返る

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「2024年に流行ったコンテンツの振り返り」。曲・映画・アニメ・ドラマ・スイーツなど、あらゆるコンテンツを愛するトイアンナさんに、2024年のトレンドコンテンツを語っていただきました! 2024年も、もう終わりが近づいてきましたね。 こんにちは、コンテンツを愛するライター、トイアンナです。Netflix, Disney+, Spotifyなどコンテンツ系の課金はフルコンプリート。1日に10時間以上ぶっ通しでドラマを見たり、漫画を読んだりすることもざらにあります。さらに、食べることが好きで食費が家賃の3倍という狂った人間です。 その経験を踏まえ、この記事では2024年のトレンドや流行ったものをヲタク目線で振り返りたいと思います。 2024年に最も流行ったものは何? 振り返る今年の全般トレンド 2024年は、エンタメが多様化・細分化した一年でした。アニメやドラマ、映画、ゲーム、そして音楽でビッグタイトルが乱立し、それぞれのファン層がSNS上で活発に交流しました。今年の流行語に「界隈」が生まれたのもその反映でしょう。 興味深いのは、視聴率やダウンロード数では測定できない熱量が生まれたことです。たとえば、ドラマで地上波の視聴率1位は『ザ・トラベルナース2』ですが、毎週Xでトレンド入りしたものを振り返ると、間違いなく『光る君へ』でした。2024年に「流行ったもの」という言葉を考えてみると、今年はヒット作と数字で見える成果が分離された印象を受けます。 ここからは、ジャンル別に流行ったものを見ていきましょう。 2024年のトレンドになった・流行ったものは? 音楽ではMrs. Green Appleが首位連発 世界と乖離する日本のヒットチャート 一言で日本の音楽シーンを振り返るなら「洋楽が存在感を失った1年」といえます。いや、ヲタクとしては違うと言いたいですよ。しかし、現実は残酷です。 まず、こちらが2024年に世界で最も再生された音楽10選を、Spotifyが示したものです。 出典:https://www.wwdjapan.com/articles/1981756 1位 サブリナ・カーペンター / Espresso 2位 Benson Boone / Beautiful Things 3位 ビリー・アイリッシュ / BIRDS OF A FEATHER 4位 FloyyMenor / Gata Only 5位 Teddy Swims / Lose Control 6位 Djo / End of Beginning 7位 Hozier / Too Sweet 8位 ザ・ウィークエンド / One Of The Girls (with JENNIE, Lily Rose Depp) 9位 テイラー・スウィフト / Cruel Summer 10位 レディー・ガガ / Die With A Smile 対してこちらが、日本で最も再生された音楽です。 出典:https://www.wwdjapan.com/articles/1981756 1位 Creepy Nuts / Bling-Bang-Bang-Born 2位 Mrs. GREEN APPLE / ライラック 3位 Omoinotake / 幾億光年 4位 Mrs. GREEN APPLE / ケセラセラ 5位 tuki. / 晩餐歌 6位 Mrs. GREEN APPLE / 青と夏 7位 Mrs. GREEN APPLE / ダンスホール 8位 Vaundy / 怪獣の花唄 9位 YOASOBI / アイドル 10位 Number_i / GOAT 国内の再生数ランキングでは、日本のグループがトップ10を席巻しました。私は1987年生まれですが、中学時代はアヴリル・ラヴィーンを誰もが口ずさみ、10年前にはテイラー・スウィフトの『We Are Never Ever Getting Back Together』をカラオケで歌っていました。そのとき、世界で流行っている洋楽を誰もが吸収し、共有するのが当然だったのです。 しかし、今年は圧倒的なJ-POP人気に打ち震えました。それもそのはず、この数年は特に世界レベルで戦えるアーティストが日本から生まれ、圧倒的な人気を誇ったからです。 2024年にさらなる飛躍を遂げトレンド入りを連発したMrs. GREEN APPLE Spotifyの2024年、年間再生数トップ10に4曲もランクインしたのがMrs. GREEN APPLEです。これまでも数々のヒット曲を世に送り出してきましたが、今年は2019年リリースの 『青と夏』もランクインするなど、時空を超えて流行ったアーティストでした。 https://youtu.be/m34DPnRUfMU?si=P4qVrOZ_lWMD49Op Mrs. GREEN APPLEの特徴は、ポップなメロディに乗せて、日常のリアリティや若者の葛藤を巧みに描く歌詞が挙げられます。 ランキング圏外ですが筆者が好きな『Soranji』の歌詞「有り得ない程に キリがない本当に 無駄がない程に 我らは尊い」は、聞き手を勇気づける歌詞の技巧もさるものながら、韻を踏みながら心を打つ昨今のトレンドを押さえています。 もはや年代を超えて誰もが知る、流行った曲1位の『Bling-Bang-Bang-Born』も、歌詞で「To the Next, To the 1番上」と歌詞が Next の”エ”の音と、1番上の”エ”の音で韻を踏むスタイルが気持ちのいい曲です。 https://youtu.be/mLW35YMzELE?si=iGroyR_esaAktMxE 技巧だけではない、心を動かす歌詞だけではない、まさに To the Next(その次へ) を意識させる最高レベルの曲が流行ったのが、2024年でした。 アニメ発のヒット曲が最も流行った2024年 出典:https://amzn.asia/d/b56WPEY また、今年のヒット曲はアニメのテーマ曲が多くありました。 たとえば、先ほど挙げた『Bling-Bang-Bang-Born』はテレビアニメ『マッシュル-MASHLE-』の第2期OPテーマソングでした。また、Mrs. GREEN APPLEの『ライラック』はアニメ作品『忘却バッテリー』のOPテーマです。 また、アニメコラボといえば『推しの子』第1期アニメのOPテーマだったYOASOBIの『アイドル』が年間ランキングでも9位に入り、世界で5.5億回再生されるトレンドを巻き起こしたことは、誰もが覚えていると思います。 https://youtu.be/ZRtdQ81jPUQ?si=J3TkkTNEvprkBjvA 日本発の曲が世界でも爆発的に流行った理由としては、Netflixなどの配信で日本のアニメがほぼ同時に字幕で視聴できる状況になったこと、そしてYouTubeでテーマ曲がリアルタイムで視聴できるようになったことが挙げられるでしょう。 特にYOASOBIは同じ曲の英語版もアップしている上に、歌詞が日本語ともリンクしていることからファンが熱狂しました。 https://www.youtube.com/watch?v=RkjSfZ30GM4 アイドルの世界に革命を起こすNumber_i 2024年の「アニメコラボが売れる」トレンドに逆行したヒットを放ったのが、曲名ではないアイドルのNumber_i 『GOAT』です。 Number_i はTOBE所属のアイドルグループで、メンバーの平野紫耀さん、神宮寺勇太さん、岸優太さんは全員元ジャニーズ事務所の King & Prince出身アイドルです。 特に平野紫耀さんは以前から「King & Princeを海外で活躍できるグループにしたい」と発信していました。”辞めジャ二”(ジャニーズ事務所を辞めた方)が活躍するケースが限られる中での、衝撃の Number_i デビュー。そして『GOAT』の爆発的ヒットは、まさに革命でした。 『GOAT』はビルボードチャートで週間154位、アメリカを除けば49位を記録。GOATは英語でヤギを意味し、キリスト教では異端を象徴する動物です。自らを異端者と位置づける覚悟の決まったタイトル付け、ハッシュタグで拡散をたやすくしたアンダーバーつきのグループ名、すべてが計算されつくしたデビューであったと言えるでしょう。 今年の音楽シーンを振り返る総決算ともいえる2024年の紅白歌合戦には、Mrs. GREEN APPLE、Creepy Nuts、Number_i が登場します。出場シーンが待ち遠しいですね。 2024年のトレンドを飾るドラマは? Xでは『光る君へ』『地面師たち』が流行ったものに 地上波ドラマで流行ったものは『ザ・トラベルナース2』 出典:https://natalie.mu/eiga/news/589390 2024年の地上波ドラマで注目を集めたのは、『ザ・トラベルナース2』です。医療モノとして名高いシリーズの続編ということで、放送前から期待値が高かったのですが、視聴率王となった代わりに批判も多い作品でした。 作品を振り返る中で問題となったのは、安達祐実演じる金谷吉子の指導に不満を爆発させた中村柚子(演:森田望智)が、患者へ勝手に余命宣告するシーンです。それにキレた吉子が柚子をビンタ。そして、そこから患者さんが余命に納得しての予定調和。 なんといいますか……展開が昭和ドラマじゃないですか? 視聴者の看護師さんを中心に、「背筋凍った」「懲戒案件だわ」と怒りの声が多くあがりました。 SNSではドラマ『光る君へ』で感涙し『地面師たち』でサスペンスを楽しむ 出典:https://www.nhk.jp/p/hikarukimie/ts/1YM111N6KW/ 2024年にXで絶賛されていたドラマは、NHK大河ドラマ『光る君へ』と、Netflixドラマ『地面師たち』でした。 『光る君へ』は、紫式部が主人公の作品で、まさかの藤原道長とあれやこれやな絆を築いていく物語。当初は設定のぶっ飛び具合に驚かされましたが、視聴を続けるうちに、実際に二人にはパートナーを超えた関係があったのだと信じてしまえるほどの緻密な時代考証とシナリオに唸りました。 個人的にぐっときてしまったのは、ワンカットだけ登場した『長恨歌』の語句。 『長恨歌』は唐の白居易によって書かれた詩で、『源氏物語』のベースになったとする説があります。その詩に出てくる言葉が、まさに主人公の紫式部=まひろと、道長の関係を示唆しているのです。 もうこの言葉だけで、永久に『光る君へ』の話ができる……! 対する『地面師たち』を振り返ると、実在の事件をもとにした不動産詐欺をめぐるドラマ作品です。かつて、積水ハウスが詐欺グループから五反田の土地を55億円を買ったつもりが、所有者は別人だったという事件がうまくオマージュされています。 プロの不動産屋も騙されてしまったことに思わず納得してしまう、詐欺師の手腕を描く脚本が素晴らしいです。また、麻薬取締法違反で逮捕されたピエール瀧に「また変な薬に手ぇ出さんかったらええけどな」というセリフをしゃべらせるのは、キャスティングの妙もあって爆笑しました。絶対に狙ってしゃべらせてます。 2024年に流行った映画はアニメのスピンオフやリバイバルで「トレンド復活」が相次ぐ まさか2024年にガンダムSEEDが!? 出典:https://eiga.com/movie/95132/ 映画界では、アニメ作品が相変わらず強い存在感を放ちました。ここ数年を振り返ると『THE FIRST SLAM DUNK』『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』があり、リバイバル作品のリリースはアニメ映画界隈で続くトレンドになっています。 まずは、東洋経済調べによる2024年の映画興行収入ランキングトップ10を見てみましょう。 1位 名探偵コナン 100万ドルの五稜星 2位 劇場版ハイキュー!! ゴミ捨て場の決戦 3位 キングダム 大将軍の帰還 4位 劇場版 SPY x FAMILY CODE: White 5位 ラストマイル 6位 機動戦士ガンダムSEED FREEDOM 7位 インサイド・ヘッド2 8位 変な家 9位 あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。 10位 怪盗グルーのミニオン超変身 この中でも異質なのが、『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』です。 もともと、『機動戦士ガンダムSEED』は2002年のアニメ。まさか22年前のアニメの続編が、しれっと劇場版で登場するなんてファンすら想定していませんでした。発表されたときはヲタクがざわついていましたよ……。 あまりの衝撃にファンがつぶやきすぎて、ドワンゴとピクシブが選ぶ「ネットの流行語100」で2024年の1位になるくらい流行りました。 筆者が実際に視聴した感想ですが「そっちに振り切ることにしたんだね」というのが私の気持ちです。ネタバレせずに書ける限界はこれだけです。申し訳ございません。 2024年に子供の心をつかみ、流行ったものといえば映画『変な家』 出典:https://hennaie.toho.co.jp/ 流行った映画の中でも、お子さんを中心にヒットしたのが映画『変な家』です。作品の原作はライターの雨穴さんで、本作をきっかけに時の人となりました。 「この家、何かが、変、ですよね?」で始まる、間取りをもとにしたミステリーは、誰もが驚く展開へと視聴者をいざないます。 いわゆるオバケが死角からわっと出てくる和風ホラーが苦手な筆者も安心して見られるうえに、子供に見せても安心な「スプラッタなし」の怖い話。「こんな怖がらせ方が世の中にはあったのか」と驚かされる名作です。 https://www.youtube.com/watch?v=1voyDLXZRcI 2024年トレンドのアニメ映画から振り返るリアリティの進化 出典:https://animestore.docomo.ne.jp/animestore/ci_pc?workId=27468 また、今年流行ったものはいずれも映像美が突出していました。 バレー漫画『ハイキュー!!』は2.5次元舞台もリアルさを追求し、まるで現実の試合を観ているようなハラハラ感を抱かせてくれたものです。それが『劇場版ハイキュー!! ゴミ捨て場の決戦』でも継承されたように思います。 https://www.youtube.com/watch?v=MqVA0dl36bc 上記の予告編だけでも、サーブ、レシーブ、トス、ブロック、からの着地。すべての動きが誠実に本物になっています。現実の試合をカメラが密着して撮影したかのような手触りがあるのが、もはやすごいを超えて、怖いとすら感じさせます。だからこそ、本編のメインキャラクターである孤爪研磨が描くドラマに泣かされます。 2024年トレンドとして流行ったもので、アニメは名作が大量発生 2024年のアニメは大豊作! まずはdアニメストアの年間視聴者数ランキングを見て、今年のトレンドを振り返りましょう。 1位 葬送のフリーレン 2位 薬屋のひとりごと 3位 転生したらスライムだった件 第3期 4位 マッシュル-MASHLE- 5位 ダンジョン飯 6位 無職転生II ~異世界行ったら本気出す~ 7位 この素晴らしい世界に祝福を! 第3期 8位 呪術廻戦 懐玉・玉折/渋谷事変 第2期 9位 鬼滅の刃 柱稽古編 10位 転生したら第七王子だったので、気ままに魔術を極めます さらに、まだ配信には追い付いていない『ダンダダン』『負けヒロインが多すぎる!』など、トレンドとなった名作が連発する、大豊作の2024年のアニメを解説します。 『葬送のフリーレン』でネットミームが爆誕 出典:https://www.b-ch.com/titles/8259/ 1,000年以上生きるエルフのフリーレンを主人公に据え、彼女の目を通して「寿命の短い」仲間たちの人生と死を描くアニメ『葬送のフリーレン』こそ、2024年に最も流行ったものと言ってもいいでしょう。 フリーレンが悠然とした時間軸で人の心を学び、成長していく過程と同時に、弟子のフェルンとシュタルクは若者らしく仲たがいや失敗を経て、人との付き合いを学びます。 また、「より強い者が相手を支配できる」道具を用いて戦う魔族・アウラを圧倒したときにフリーレンが命じた「アウラ、〇〇しろ」という構文がネットミームとなり、そこかしこでみられる現象も起きました。 アニメ『薬屋のひとりごと』はアニメヲタクを超えたブームに 出典:https://animestore.docomo.ne.jp/animestore/ci_pc?workId=26610 今年を振り返る中でもっとも目立ったのはアニメ『薬屋のひとりごと』のヒットでしょうか。本作は、アニメを普段見ない方にも流行ったものとなりました。 『薬屋のひとりごと』では、中華風のファンタジー世界で起こる毒殺事件をめぐるサスペンスが魅力です。視聴者は女性が多い印象ですが、筆者は特に普段アニメを視聴しない60代以上のファンが多かったように感じました。 事件を次々と解決する薬屋の娘、猫猫(マオマオ)と、強い権力を持つ美形の宦官・壬氏の王道ラブコメなやりとりが、かつて『チャングムの誓い』など宮廷ドラマを愛した層に刺さったと思われます。 変わらぬ強さを見せるジャンプ作品『呪術廻戦』と『鬼滅の刃』 出典:https://www.famitsu.com/news/202209/26277165.html 人気作品の続編ラッシュは今年も止まりません。『呪術廻戦』や『鬼滅の刃』続編、など、ビッグタイトルが次々と映像化されるたびに我々は大興奮。 個人的に一番アツかったのは『呪術廻戦』でした。原作でも屈指の人気エピソードが展開されるとあって、作画の気合いの入り方も半端なかったのです。 『呪術廻戦』では敵キャラクターである夏油傑が敵になったゆえんが描かれつつも、激戦に仲間が倒れていきます。あまりの慈悲なき味方の傷つき具合に毎週絶句するファン……を見守る原作ファンという、心苦しい展開が続きました。 出典:https://kimetsu.com/anime/hashirageikohen/ 大人気アニメ『鬼滅の刃』からは、激しい戦闘シーンが続く中で少しホッとする時期である、柱稽古編が放送されました。日本最大のヒット作ともいえる『鬼滅の刃』ですから、安定した視聴率が見込めた面はあります。 とはいえ、制作期間が長引くことでどこまで視聴者が残ってくれるのか、つまり最終話までしっかりアニメ化してもらえるのか? を不安に抱いた方が多かったため、最後に劇場版3部作の制作決定が知らされたときは安堵したものでした。 異世界転生アニメも安定して流行ったものにランクイン 出典:https://animestore.docomo.ne.jp/animestore/ci_pc?workId=27012 2024年を振り返るうえで欠かせない、異世界転生作品たち。その王道ともいえる『転生したらスライムだった件』は3期もトレンドを飾りました。 スライムとして転生し、ついには魔王となったリムルが「人魔共栄圏」という理想を追求する姿は、往年のファンタジー作品のハラハラ・ドキドキ・ワクワクをすべて味わえる力強さがあります。 出典:https://animestore.docomo.ne.jp/animestore/ci_pc?workId=26979 dアニメストアでは圏外でしたが、個人的には『転生貴族、鑑定スキルで成り上がる』が素晴らしいクオリティでした。本作は異世界に転生しても非力なままの主人公が、他の人の能力を鑑定するスキルだけで才能を見抜き、リーダーとして領土を率いる物語です。 Netflixでは2024年の放送期間中、全カテゴリの国内ランキング常連となるヒット作でした。 筆者は原作も全部読むほどのめりこんでいます。リーダーシップとは何かを教えてくれる名作です。 2024年に流行ったもの トレンドスイーツは生ドーナツとカヌレ! 実は一年を通して流行ったスイーツをランキング化するデータはあまりなく、限られた情報やメディア露出をもとに推計するしかありません。 しかし、以下の4つのスイーツは間違いなく今年圧倒的にヒットしていました。 I’m donut? で爆発的人気となった生ドーナツの秘密は「あの味」 出典:https://iemone.jp/article/gourmet/autumn_321150/ 2024年に流行ったもので、トレンドのスイーツを振り返るなら、間違いなく1位は生ドーナツでしょう。 震源地はアマムダコタン(AMAM DACOTAN)が手がけたドーナツ専門店 「I’m donut?」 (アイムドーナツ)です。都内では中目黒、原宿、渋谷、表参道に店舗を構え、どの店舗も常に大行列。現在、毎日1万個売れている大ヒット商品です。 もともと、スイーツショップのアマムダコタンの店舗で限定販売していたドーナツが、あまりに人気で専門ショップとなったもの。都内一等地で、205円から食べられるのはうれしい価格です。根性で並んで実食してきましたが、これは確かに「ドーナツ?」と疑問符が浮かぶ味。 というのも、原料にブリオッシュ生地を使っているので、テイストがブリオッシュらしいのです。ブリオッシュとはバターと卵をこれでもかと使ったフランスの菓子パンで、フワフワでありながらバターリッチな味わいが特徴です。 雲を食べているようなフワフワ感に包まれたドーナツ、それが生ドーナツの元祖ことI’m donut? のスイーツでした。 カヌレは第二次ブームを迎え、2024年に流行ったスイーツに 出典:https://www.daimaru-matsuzakaya.jp/Item?prod=80021229 カヌレは、フランスのボルドーで伝統的に食べられているスイーツです。小麦粉、ラム酒、バター、卵などで、外はカリッと、中はしっとりと焼き上げています。 実はこのカヌレ、1990年代に第1次ブームを迎え、2022年ごろから迎えているのは第2次ブームです。 きっかけを振り返ると、ローソンでおいしいスイーツを出し続ける「Uchi Cafeシリーズ」ではないでしょうか。Uchi Cafe で2022年秋にカヌレを出したところ発売後4日間で売上100万個を突破し、そこからブームが続いているように思います。 特に2024年を振り返るなら「生カヌレ」がトレンドになりました。 個人的なおすすめはLA SOEUR(ラ・スール)の生カヌレです。ラ・スールは福岡発のスイーツショップで、バニラカヌレの中に、カスタードクリームがたっぷり入っています。普通のカヌレは温めて食べるのですが、生カヌレは冷やして食べるのが新感覚となり、2024年に流行ったものとなりました。 10代には猫プリンが大流行!トレンドスイーツとしてバズりまくる 出典:https://shop.bancdor-saitama.com/products/%E7%8C%AB%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%B3 そして、10代に圧倒的な支持を得たのが猫プリンです。猫プリンは映像を見てもらわないと魅力がわからないので、YouTubeリンクを貼ります。まずはご覧ください。 https://www.youtube.com/watch?v=DGNM8s7cxJU 手でお皿を持つだけでプルンプルンに猫が揺れて、かわいい……! ということで、2024年にTikTokを中心に流行ったものが、この猫プリンでした。猫の正体はパンナコッタで、食べやすくてかわいらしい、けれども揺れすぎて不憫にも見える何とも言えない魅力に惹かれます。 現在は全国で多数のスイーツショップ・レストランが猫プリンを提供しているので、お近くの地域でぜひ探してみてください。 リボンケーキは推し活を中心にトレンド化、推し色リボンでお祝い 出典:https://kawasaki-nikko-hotel-onlineshop.com/item-detail/1494974 最後にピックアップする2024年のトレンドスイーツが、リボンケーキです。 どかんと大きなリボンが鎮座するケーキは、かわいさの暴力という感じがして素晴らしいですね。2024年はこの「どかんと乗せる大きなリボン」に推し色を使って、推しの誕生日を祝う方が続出。特に素晴らしいケーキがあったので、引用させていただきます。 https://twitter.com/lovebirds0608/status/1865379290470326495 この方のリボンケーキは、手作りの域を超えています……! 推しの色をケーキ全面に使ってアイシングしてしまうと、色によっては海外の派手なケーキになってしまうはずです。それをリボンというモチーフにすることで、推し色はそのままに、とはいえケーキとして美味しそうに見せたいという気持ちを両立させたところが素晴らしいですよね。 そして、2024年のリボンケーキのトレンドを受け、東京マリオットホテルのクリスマスケーキはリボンケーキになりました。 出典:https://www.fashion-press.net/news/123772 芸術的なリボンのタワーが美しいです。ぜひ実食レポしたいところです。 まとめ さて、ここまで、2024年のトレンドを偏愛を込めて振り返りました。来年もみなさまがよいコンテンツに巡り合えますように。そして、おいしいスイーツを召し上がれますように祈っています!

アニメ放送目前! 戦慄と陶酔の神マンガ『メダリスト』は「天才」を因数分解する。

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「アニメ放送目前! 戦慄と陶酔の神マンガ『メダリスト』は「天才」を因数分解する。」。海燕さんが書かれたこの記事では、神マンガ『メダリスト』への偏愛を語っていただきました! 「司くんが夢中になった理由が少しわかったよ 美しさや芸術性だけじゃない できたかできなかったかだけじゃない フィギュアスケートは奇跡を見守るスポーツなんだ」 司といのり、メダリストをめざすふたりの無謀に見えるチャレンジ。 https://www.youtube.com/watch?v=j3hyRR3_q1E つるまいかだのフィギュアスケートマンガ『メダリスト』がアニメ化すると聞いたとき、とくに驚きはなかった。人気から考えても内容の面白さから考えても当然のことであり、遅かれ早かれ実現するに違いないと考えていたからだ。 この原稿を書いている段階で放送はまだ先のことで、成功作になるかどうかは何ともいえないが、もし原作の魅力を十全に再現することが叶ったなら、素晴らしい作品ができあがることだろう。 何しろ、原作は現代のスポーツマンガを代表する傑作である。いま、すべての雑誌を見回してもこれほど「熱い」スポーツものは他にない。 このマンガの魅力はいくつも挙げられるが、何より他を圧倒するのはその「熱量」に違いない。とにかく読んでいてすさまじいまでの「熱さ」に圧倒される、そういう格別な作品なのだ。 物語は、オリンピックをめざすも挫折した元アイスダンス選手の司が、フィギュアスケーターとして成長することをめざす少女いのりと出逢うところから始まる。 さまざまな事情でフィギュア選手として生きる夢をあきらめざるを得なかった司と、スケートの他は何もできないいのり。それぞれがそれぞれに欠落を抱えたふたりは遥かなオリンピックの金メダルをめざして、あらたな戦いの日々を開始する。 そのまえに立ちふさがるのは幾人もの選ばれた天才少女たち、そして彼女たちを指導するコーチたち。はたして遅れてスケートを始めたいのりに勝機はあるのか、一見、無謀とも見える挑戦の行方は――? https://twitter.com/medalist_PR/status/1831167819352080499 とくに序盤のあたりのいのりは、ほんとうにスケート以外の能力はすべて平均以下という平凡な少女でしかない。その彼女が、自分が実力を発揮できるかもしれないジャンルに、いわば「一点賭け」して、人生のすべてをそこにつぎ込む様子は、胸を打つ。 アニメでも描かれるはずだが、いのりの過剰なまでに熱い情熱は、ときとして暴走しさえする。それをスケーターとしての「正しい道」に修正するのは司の役割である。 この、いままでにない二人三脚の子弟が、ほとんどマイナスからのスタートでオリンピックへの階段を駆け上がっていくところは、圧倒的な迫力で読ませる。 幼少期から特異な才能を見いだして育成するフィギュアスケートの世界で、致命的なまでのスロースタートを切ったいのりを巡る物語は、彼女と司にフォーカスした序盤を経て、しだいに多数のキャラクターの波乱万丈の人生を描き出す群像劇へと変わってゆく。 どこまでも子細に描写されるその一人ひとりの人生模様とフィギュアに賭ける情熱が読みどころ。 濃密をきわめる情報がオーバーフローし脳を焼く。 https://www.youtube.com/watch?v=-Wn4DhzPS-I とはいえ、ただ「熱い」マンガなら他にもある。いったい、きわめて特異な印象を受けるこの作品独特のオリジナリティはどこにあるのだろう? わたしは、一つにはそれはきわめてていねいに整理された膨大な情報量にあると考える。このマンガは、一般的なスポーツマンガと比べても、非常に文字情報が多い。 フィギュアスケートのルールの説明から始まって、この競技がいま、いかなる技術によって成立しているのか、あるいはそれを軸にどのような人間関係が存在するのか、そのことが際だって詳細に説明されるためだ。 あるいはこの種のマンガを読みなれていない人は、そういった文字情報をひと通り読み取るだけでも苦労するかもしれない。 また、各登場人物の表情や仕草も多彩であり、だれもがコミカルな場面からシリアスきわまりない箇所に至るまで、さまざまな様子を見せてくれる。物語に出てきていのりたちと関係する登場人物の数も一人ひとり名前と顔を覚え切れないほど多数。 そして、何より、主人公たちが氷の上を滑る際のダイナミックなアクションの数々を活写する線の一本一本に「いのち」が宿っていると感じられる。読者はその言葉に、表情に、描線に、マンガならではのあふれるほどの情報を感じ取り、思わず圧倒されるのだ。 この「いちどさらっと読んだだけでとても終わらせられない」濃密な情報量は現代のマンガ独特の読みごたえである。『メダリスト』のアニメ化に不安が残るとすれば、はたしてこのマンガならではの「情報のオーバーフロー」を映像のかたちで再現することができるかどうか懸念されるからだろう。 マンガの絵の描線に宿る「いのち」や「たましい」は、なかなかアニメーションで表わすことはむずかしいものだ。そのくらい『メダリスト』の一話一話に込められた情報は濃密である。 https://twitter.com/medalist_PR/status/1845751401311559834 とはいえ、それだけでもない。もうひとつには、この作品がまさに令和のスポーツマンガとして、いまの時代にトップアスリートをめざすことの困難を直視していることの魅力が挙げられる。 かつてのスポーツマンガの傑作では、主人公たちが並外れた「努力」や「才能」によって成長し、夢を叶えていくその様子が熱く描かれることが常だった。しかし、令和のいま、『メダリスト』が見つめる現実はそれよりもっと複雑である。 そこでは、スポーツはシンプルに才能があれば、努力していれば、それで勝てるというものではないということがはっきりと描かれている。 物語の序盤を過ぎたあたりから、いのりはいくつもの大会で優れた実力を見せつけることによっていつしかまわりに天才あつかいされるようになっていくのだが、この物語は決して「天才だから勝てたのだ」というふうにその勝利のプロセスを単純化しない。 ここでも膨大な情報量で「どうして勝てたのか」のディティールが描き込まれ、圧巻の説得力で読者を納得させるのである。 努力神話も、天才神話も超えて、さらにその先へ。 https://www.youtube.com/watch?v=cKIR-qlbAUg いい換えるなら、この作品はいわばあまりにも簡単に「天才」という言葉で表されてしまう一部の傑出したアスリートのその秘められた内実を因数分解しているのだといっても良い。 わたしたちは大谷翔平や、それこそ羽生結弦といった「別格」の成績を収めたアスリートを目撃すると、つい、かれらはその才能が秀でていたからそうなったのだ、と考えてしまう。 かれらが人並外れて努力していることは分かっていても、ただそれだけではその非常識なほどの成績を説明できないと考えるのだ。いわば「天才神話」である。 なるほど、ただ懸命に努力したから成長できたのだという説明は、少なくとも現代においてはもはや説得力を持たないだろう。だが、そうかといって才能のひと言で済ませてしまうのもあきらかに問題がある。 たしかに「天才」とは、他を圧倒する成績を成し遂げた人物に対し、その他の凡俗が絶大なる敬意をもってささげる無二の桂冠だ。しかし、じっさいには、ある人物が生み出した結果や業績を「才能」のひと言で片づけられるはずもないのである。 「努力」か、さもなければ「才能」かという問いは、とても単純で分かりやすい。だが、その分、無意味かつ無価値でもある。現実には、ひとつの栄光にはそれよりはるかに複雑な多数の要素がかかわっている。 もちろん、じっさいにすさまじく強靭な肉体や、常識を超えた身体能力を持って生まれる人物は存在するだろう。そういった人はその分野における「天才」であるのかもしれない。だが、それならそういう意味で「天才」であれば必ずスポーツで成功できるのかといえば、そんなはずはない。 天才神話は、努力神話がそうであったように、まさに砂漠に浮かぶ蜃気楼のような儚い幻想に過ぎないわけである。 もっとも、そうはいっても、マンガにおいても現実においても、アスリートとして活躍しようとする人間一人ひとりは、いろいろな「前提条件の違い」を抱えていることはまちがいない。 もし、だれもが同じように努力すれば同じように成長するのなら、話はシンプルだが、現実はそうではない。 ひとりの人間が一つの勝利にたどり着くまでには、動機や才能や努力はもちろん、競技そのものとは一見して関係ないかと思われるような家庭環境や経済的な事情といったこともかかわってくる。 スポーツの世界はまさに強烈な格差社会であり、不条理というしかないような「才能」や「環境」の差が物をいうことがありえる。だからこそ、「どうやってその理不尽なまでの格差を乗り越えるか」が物語のテーマとなるわけである。 これは他の現代スポーツマンガでも同じことがいえるが、『メダリスト』がこのテーマを描き出すそのクオリティは他を圧倒する。 べつのいい方をするのなら、ひとつフィギュアスケートに、あるいはスポーツに限らず、「ひとがだれかと競うこと」はすべて「競う前の前提からして大きく違う」という非常な不条理との戦いである。 それゆえにこそその内実を描くことはフィギュアスケートやスポーツのフレームを超え、万人にとって普遍的な意味を持っているのだーーひとが生きることとは即ち不条理な現実に立ち向かうことに他ならないのだから。 https://twitter.com/medalist_PR/status/1846387885018402991 くりかえす。いのりは、本来、フィギュアスケート以外はほとんど何もできない子である。だからこそ、彼女は自分に残されたたったひとつの可能性にすべてを賭け、膨大なコストを使い果たすことで奇跡を成し遂げようとする。 しかし、フィギュアスケートはただ単にしゃにむに努力すれば成功するものではない。そこで彼女を導くのが「合理的な指導者」としての司なのだ。 かれはいのりに自分を抑えること、その熱意をコントロールすることを教え、傑出した能力が最大に発揮できる一点へ彼女を導いてゆく。 一方で、いのりの最大のライバルとなる光は、社交的な性格に秀でた美貌、優秀な頭脳と、まさに天才型の「何でもできる」キャラクターであるかのように見える。だが、彼女にもまた彼女なりのストーリーがあり、「闇」があることがやがてあきらかになっていく。 いのりと光、物語を牽引するふたりの抜きん出た「天才」は、その性格もまた微妙に異なる。いのりの「お化けみたいな」パーソナリティは、あえていうならたとえば曽田正人の作品に登場する数々の「天才」たちを思わせる。 それに対して、光はすべてを計算し最適の答えを見つけようとする少女だ。ふたりの対決は、即ちふたつの才能の型の勝負であり、はたしていずれが優位にあるものなのか、物語の現時点では答えが出ていない。 また、このふたり以外にも、じつに膨大かつ多彩なキャラクターが、それぞれの人生をかけてフィギュアスケートでの勝負に挑み――そして、そのほとんどはふたりの「天才」をまえに敗れ去っていく。 その非情。その平等。その不条理。その理不尽。あたかも、これこそが世界の縮図としてのフィギュアスケートなのだ、といっているかのよう。 なんという物語であるのだろう。『メダリスト』はまちがいなく現代におけるスポーツマンガ、あるいは「勝負マンガ」の一つの気高い到達点である。アニメの放送が楽しみだ。これで無惨な失敗作になっていたりしたら(まあ、ないと思うけれど)、泣いちゃう。 みんなで最大の期待と不安を抱えて放送の日を待つことにしよう! おまけ ――と、ここで終わる予定だったのだけれど、ささやかな偶然の目配せのおかげで放送開始前に『メダリスト』第一話の先行上映を鑑賞することができたので、おまけとして感想を書いておきましょう。 うん、良かったよ! 最新話まで読んだうえであらためてこの序盤をふり返ると、まだ未熟で未完成ないのりと司、遅すぎたはずのふたりが何とも愛おしい。 また、映像のかたちでたしかめたことによって「あ、司ってほんとうに声が大きいんだな」とか「いのりさん、じっさい、フィギュア以外は何もできないんだな、北島マヤみたい」とか、いまさらにあらたな発見がいくつもありました。面白かった。 まさにここから、かれらの挑戦と挫折、栄光と敗北の物語は幕をあける。いや、素晴らしい。みんな、楽しみに待っていたまえ。ぼくはひと足早く見たけれどね(ドヤァ)。 遅れてきたふたりが奇跡を起こす、ドラマティックなアイスショーの、始まり、始まり。

映画を完全に楽しむ、エンドロールから削除シーンまで

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「映画を完全に楽しむ、エンドロールから削除シーンまで」。ギッチョさんが書かれたこの記事では、映画鑑賞テクニックへの偏愛を語っていただきました! 皆さん、こんにちは。私は2000年から続いている映画サイトの管理人です。前回のこの世にクソ映画なんてない。どんな映画も絶対に楽しめる映画鑑賞のテクニックに引き続き、どんな映画でも(例え駄作でも!)楽しめるようになる、映画鑑賞テクニックをご紹介します。今回は映画を完全に楽しむためにエンドロールから削除シーンまでの楽しみ方をお伝えします。 映画のエンドロールを最後まで観るか? 映画のエンドロールを最後まで観るか論争、というのがあります。ネット上ではもう何回も繰り返されている議論です。私としてはどちらでも良いです。つまりエンドロールを見ずに映画館から出ても全く問題ないという考え方。エンドロールをじっくり楽しみたい観客にとっては、途中帰宅する観客は邪魔になってしまうのでマナー違反と言えます。とはいえ、ただの文字列を何分も見続けろ!というのは強制できないでしょう。 でも実は私はエンドロールマニアなのです。今回はいろんな映画の特殊なエンドロールを紹介します。 後日談があるエンドロール エンドロール中に後日談が流れるというパターンがあります。一番有名なのは『となりのトトロ』でしょうか。エンドロールで母親が退院して家族一緒になることが分かる、最高に幸せな気分になれるエンドロールです。 センスが良いのは、滅びゆく人類を描いた『トゥモロー・ワールド(2006)』。劇中では人類が滅亡するのか復活するのかハッキリと描かれないのですが、エンドロールで「ある音」が流れるので、それで滅亡か復活かどちらかが分かります。ハッキリと画面に描くと陳腐になってしまうので、音で表現したのです。 爆笑できるのは『オースティン・パワーズ:デラックス』です。劇中で倒された悪役の息子がバラエティ番組に出演して親について語るという後日談が流れます。『となりのトトロ』ほどではありませんが、意外と感動できます。 エンドロール後にも本編がある! アメコミ映画やフランチャイズ映画(シリーズ映画のことです)が大流行した結果、エンドロール後にも続きがあるのは、すっかり当たり前になっています。が、以前は「エンドロール後にも本編がある」は日本映画のほうが多かったんですね。エンドロールを最後まで観る、というのは日本独自の風習なので日本映画のほうが「仕掛けやすい」のです。 有名なのは『魔女の宅急便(1989)』でしょうか。エンドロール後にキキが両親に手紙を送って「落ち込むこともあるけれど、私、この街が好きです」と伝えるのは屈指の名シーンです。 壮大な三部作だった『20世紀少年 最終章 ぼくらの旗(2009)』ではエンドロール後も10分ほど本編が続くのが衝撃的でした。ネット上ではこの10分間を考察するサイトが沢山ありますね。 このパターンで最も凄まじいのは水野晴郎のミステリー映画『シベリア超特急(1996)』です。エンドロール後の本編が何と15分も続く上に、その内容がどんでん返しの連続。「このどんでん返しは、一体いつになったら終わるのか?」という不安な感覚に陥ります。他の映画には存在しない唯一無二の感覚なので、是非とも皆さんに『シベリア超特急』を味わって欲しいです。 凝っているエンドロール エンドロールでもきちんとアートワークを作り込んでいる映画は嬉しいですね。特にアメコミ映画のエンドロールは非常に凝っています。印象深いエンドロールはホラー映画の『エスター(2009)』です。劇中の悪魔のような少女エスターが書いた蛍光色の不気味な絵がエンドロールに映し出されて、かなり怖いです。 ピクサーの映画では、エンドロールでは2次元アニメが流れるのが定番です。『Mr.インクレディブル(2004)』や『レミーのおいしいレストラン(2007)』のエンドロールは非常に出来が良いです。数々の3次元アニメの傑作を作り続けてきたピクサーが最後に2次元アニメにこだわりを見せてくれるのが嬉しいですね。 特に傑作なのは『ウォーリー(2008)』です。エンドロールで「その後の世界」の様子が描かれるのですが、その画風がエジプトの壁画風、木炭画風、ゴッホ風など絵の歴史を辿って行き、最終的にはファミコン風のイラストになるのです。 現実が侵食するエンドロール もっとも特殊なエンドロールは現実とフィクションが混じり合うパターンです。どういうことかと言いますと『ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟(2006)』ではエンドロールで歴代のウルトラマンたちとお年を召されたかつてのウルトラ警備隊のメンバーたちが、ホテルで立食パーティーをやっている!実際に開催された「ウルトラマン40周年パーティー」の映像をエンドロールに使ったのです。ウルトラマンたちはタキシードを着ており、最後にはズラリと並んだウルトラマンたちが花束贈呈を受ける。シュールすぎるエンドロールです。 歌手の高橋ジョージが監督・原案・脚本・編集・音楽・主演を務めた『LUCKY LODESTONE(1999)』も凄いです。この映画は2007年に『ラッキー・ ロードストーン ディレクターズカット版』が作られるのですが、そのエンドロールが何と高橋ジョージと三船美佳の実際の結婚パーティーの映像!映画の内容自体は高橋ジョージと三船美佳のロードムービーなので、ラストが結婚パーティーなのは一応辻褄が合っているところが逆に恐ろしい。 最後に、映画史上もっとも有名なエンドロールとも言える香港映画の『群狼大戦(1990)』を紹介します。この映画のクライマックスは、ビルが爆破されて窓からヒロインたちが飛び降りるというド派手なスタントです。ところが火薬が多すぎ&女優が飛び降りに戸惑ってしまい撮影失敗。ヒロインの女優二人が爆炎に巻き込まれて全身大火傷を追ってしまいます(整形手術を受けて後に復帰)。映画本編は女優が爆炎に巻き込まれた時点でいきなり終了。エンドロールでは事故や女優の容態を報じた当時の新聞記事が映し出されるというもの。「俺はエンドロールなんて最後まで観ないよ!」という人でも絶対に最後まで観続けてしまう究極のエンドロールです。 DVDの特典を楽しむ! まだまだ紹介したいエンドロールが沢山あるのですが、それは別の機会にしてちょっと話題を切り替えます。皆さんの身近な映画鑑賞の方法は何でしょうか?若い世代でしたらDVD鑑賞に慣れていると思います。子供の頃の思い出のDVD映画などを持っているのではないでしょうか? DVDは売上を伸ばすために、特典映像をこれでもか!と付けてくれます。その中には貴重な情報や本編以上の面白さが詰まっています。今回はそんな特典映像の面白さを紹介します。 オーディオコメンタリーで観よう! DVDでの鑑賞方法で楽しいのがオーディオコメンタリーです。映画のキャストやスタッフの解説を聞きながら、映画を再生できるのです。YOUTUBEやTikTokの映画解説も楽しいと思いますが、オーディオコメンタリーはそれよりも贅沢な楽しみ方です。 世間で評判が高いオーディオコメンタリーは、やはり大物俳優や大物監督の解説が聴けるタイプのオーディオコメンタリーです。が、ヲトナ基地ではちょっと別の視点からオススメのオーディオコメンタリーをご紹介しようと思います。私は傑作映画のオーディオコメンタリーよりも、評判悪い映画のオーディオコメンタリーのほうが好きなんですね。どんな駄作でも作り手たちは一生懸命作っていて、その想いが伝わって駄作でも好きになれるからです。 若い女優たちの本音が分かる 『恋するミニスカウェポン(2004)』という映画があります。ちょっと刺激的な感じがする映画ですが、内容は超カワイイ系。女子大生たちのスパイ組織が悪の組織と戦う!と宣伝されてますが全然違います。何せ悪の組織の活動内容は、女ボスがレズビアンなので女性とのマッチングをサポートすること!悪の組織どころか単なる恋の応援団です。そんな女ボスが敵であるはずの女子大生スパイに恋してしまい…という日本のWebマンガにありそうな百合設定をハリウッドは既に20年前に実写で実現していたのです。 この映画は公開時には『チャーリーズ・エンジェル』のようなセクシーアクションを期待した男性からは叩かれましたが、女性には根強いファンが多い映画です。 そんな賛否両論映画のオーディオコメンタリーで何が語られているかというと…。女優たちは自分の髪型と画面写りを気にしているだけ!あとは脇役のイケメン俳優から誘われてデートに行ったとか、そういう話ばっかりです。日本でも数年前まではアイドルのドキュメンタリー映画が大量に作られてましたが、彼女たちは「アイドルとしての言葉」を選んで語っているだけで、本音とは言い難い。それに対して『恋するミニスカウェポン』のオーディオコメンタリーにはガチの本音しかありません。でも日本のアイドル映画で共演者とのデート話なんてしたらファンたちは大炎上すると思う。 失敗シーンを監督が謝罪する オーディオコメンタリーで面白いのは酷いシーンがあると、関係者がアッサリ謝罪するところですね。『ワイルド・ワイルド・ウエスト(1999)』は、主演がウィル・スミス、監督はバリー・ソネンフェルド。つまり『M.I.B』コンビの二人です。『ワイルド・ワイルド・ウエスト』はアメリカではとにかく嫌われていて最悪映画賞であるゴールデンラズベリー賞を5部門も受賞した映画ですが、駄作というわけではありません。面白いシーンがたくさんある意欲作です。 ただ観客に嫌われる悪趣味なシーンもたくさんあったのですね。特に醜悪なのはクライマックスで女装したウィル・スミスがおっぱいから出てくる火炎放射器で戦うシーン。自分で文章を書いて表現しても恥ずかしいレベルですが、監督はそれ以上に恥ずかしい思いを抱えています。どうやらプロデューサーの指示で不本意ながら撮影したシーンらしく、オーディオコメンタリーでは監督が延々と自己批判します。 「とにかく撮り終えましたが、その後も悩み続けました。」 「後の祭りです。」 「この映画を選んだことを後悔している人もいるでしょう」 「このシーンはあと少しで終わります」 「エキストラの緊張感も無い最悪のシーンです」 などと愚痴りまくり。確かにシーン自体はつまらないですが、監督のオーディオコメンタリーを聞きながらだと爆笑できます。 ワイルド・スピードにケンカを売ったと思ったら… 『トルク(2004)』というバイク映画があります。公開当時は「史上最悪の映画」とまで呼ばれてアメリカで大炎上したのですが、現在ではカルト的な人気を誇る映画です。私も「隠れた傑作映画を教えて欲しい」と言われたら、迷わずこの作品を紹介しています。そんな傑作が公開当時に大炎上してしまった理由の一つが、この映画が『ワイルド・スピード』シリーズを笑いものにしているから。この映画のコンセプトが「ワイルド・スピードを茶化す」なんです。劇中では『ワイルド・スピード』シリーズの決めセリフを笑いものにしたり、カーアクションよりもバイクアクションのほうが優れているということをやたら強調してきます。 オーディオコメンタリーでも、俳優たちが『ワイルド・スピード』ネタを解説してくれます。最高に爆笑できるのは、映画『トルク』劇中の情けないやられ役に『ワイルド・スピード』シリーズの主人公のヴィン・ディーゼルのソックリさんが出てくるシーン。オーディオコメンタリーの俳優たちがヴィン・ディーゼルのソックリさんにゲラゲラ笑っているときに、俳優の一人が「俺、ヴィン・ディーゼルさんと共演したことあるんだけど…」と気まずい告白をしてくれます。 未公開シーンを観よう! 映画への理解が深まる方法としてオススメなのが、未公開シーンです。ハリウッド映画は全体のテンポというものを非常に重視しています。そのために超重要シーンでもテンポが悪くなると判断したらアッサリとカットするのです。またハリウッド映画は複数のラストシーンを撮影して、テスト試写で一番評判良いものを採用したりします。そのため未公開シーンを観ると「この映画が本当に描きたかったもの」が良く分かるのです。ここでは私が今までで驚いた未公開シーンをご紹介します。 タイトルの意味はそうだったのか!『ダイ・ハード3』 誰もが知る人気シリーズ『ダイ・ハード』でも衝撃の未公開シーンがあります。それは『ダイ・ハード3(1995)』です。原題は『Die Hard: With a Vengeance』で「With a Vengeance」は「猛烈に」という意味と「復讐編」という2つの意味があります。『ダイ・ハード』の第一作で出てきた悪玉(演じるのはスネイプ先生で有名なアラン・リックマン)の兄が、主人公ジョン・マクレーンに高度なナゾナゾゲームで挑戦してくる!という内容です。でも映画を観た人にはお分かりだと思いますが「復讐」がまったく関係ないんですよね。兄の動機は復讐でも何でもない。劇場公開時でも「復讐の意味がない」という批判が多くありました。しかし、この謎はDVDについていた未公開シーンによって解けます。実は本当のラストシーンだと悪玉の兄は逃亡に成功し、主人公は刑事をクビになってしまう。そして主人公は悪玉の兄に復讐するためにナゾナゾゲームを仕掛ける!というダイ・ハードらしからぬ終わり方。「復讐」というのは実は主人公の行動を表現したタイトルだったのです。 クライマックスが全然違う!『バレット・モンク』 『ダイ・ハード3』のラストに未公開シーンがある。というのは有名なエピソードで知っている人も多いかもしれません。せっかくなのでヲトナ基地では誰も知らない削除シーンについても紹介しましょう。 『バレット・モンク』は2003年のハリウッドのアクション映画で、キャッチコピーは「そこの坊主、まるで弾丸!」。主人公はチョウ・ユンファ演じるチベットの超強い修行僧。彼は不老不死の巻物を守っており、第二次世界大戦中から現在に至るまでナチスの襲撃から巻物を守っています。クライマックスはもちろん修行僧とナチスの戦いです。が、DVDのオマケについている未公開シーンを観ると…ニューヨークのギャングの若者たちが修行僧たちと一緒に戦うという展開なんです。実はこの映画は現代のアメリカ人の若者たちとナチスの戦いを描くという、実にアメリカ人好みの内容だったんですね。ただテンポが悪いと判断されて全部カットされたのでしょう。若者を演じた俳優たちが可哀想です。 削除の決断が見える『Shall We Dance?』 ハリウッド版『Shall We Dance?(2004)』のDVD特典を観ると作り手の苦悩がよく分かります。劇中の俳優たちに社交ダンスを長期間トレーニングしてもらって、セットを組んで、見事なダンスシーンを実際に撮影する。そんな素晴らしいシーンを本編には採用せずにカットしているのです。少しでも映画を面白くするための苦渋の判断でしょう。実際、ハリウッド版は日本版よりも短くコンパクトにまとまっていて観やすいです。 意外だったのは削除された「本当のオープニング」で、その内容はリチャード・ギアが通勤しながらジョークを飛ばし続けるというもの。さらにジョークを盛り上げるド派手なダンスシーンも撮影済みで、ミュージカル映画っぽい陽気な始まり方のはずでした。しかし最終的には日本版と同じようにオープニングは社会人の暗い日常を描いたしんみりとした導入になっています。 DVDの特典映像でリチャード・ギアや監督は日本版『Shall we ダンス?』との差別化の苦労を語ります。日本版『Shall we ダンス?』が完璧すぎて、手を入れにくかったとのこと。このようにDVD特典は作り手の苦悩も共有できるのです。 最後に 「映画のエンドロールを最後まで観るか論争」と書きましたが、私は映画の見方は自由だと思っていて、途中でやめても、自宅でながら見でも、早送り機能を使っても、解説動画だけで満足しても、構わないと思っています。それが現代的な映画鑑賞スタイルです。でも一本の映画をとことん味わうのも、オススメの鑑賞方法ですよ。

「大長編ドラえもん」は全ての大人が読むべき聖典である。

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「「大長編ドラえもん」は全ての大人が読むべき聖典である。」。フミコフミオさんが書かれたこの記事では、『大長編ドラえもん』への偏愛を語っていただきました! 僕の世代にとって大山のぶ代=ドラえもんだった。 ドラえもんをテーマにこの文章を書きはじめた、ちょうどその日、長年ドラえもんの声優を演じていた大山のぶ代氏の訃報が飛び込んできた。2005年にドラえもん役を降板して以来、ドラえもんの声優は水田わさびさんが演じておられるが(そちらも素晴らしい)、1974年生まれで1979年からスタートしたアニメに慣れ親しんでいる僕にとって、ドラえもんの声といえば大山氏になる。これまでの人生で「僕、ドラえもんです」の物まねを何度やってきただろうか。 僕個人としても昨年末から、藤子・F・不二雄(以降F先生)が描かれた作品『未来の思い出』『TPぼん』『エスパー摩美』それから短編集を見直していて、その流れで大長編ドラえもんを約40年ぶりに再読して、その素晴らしさにハマってしまったのでタイムリーな訃報になってしまった。 なぜ今、「ドラえもん」なのか。 なぜ、今、ドラえもんなのか。それは世の中がギスギスしていて安心を求めているからだと思う。闇バイト犯罪のように突然狙われて強盗にあったり、日本市場の株価が乱高下したり、欧州で大きな戦争が起こって東アジアの国が派兵する動きがあったり、最近世間は物騒だ。僕個人としても、50歳の管理職になってから社内の勢力争いと過大なノルマでストレスのかかる日々を送っている。 しかし、ドラえもんの世界は優しい。ときどきキャラクターが酷い目に遭うが(スネ夫に意地悪をされたくらいの微笑ましいものだ)最後は安心感で終わる。秘密道具でハチャメチャ投げっぱなしのラストであっても、「チャンチャン!」で終わって、次のエピソードに移れば変わらない優しい世界が回復。これってすごいことだ。ストーリーものでは進行にともなってキャラクターや世界が変わっていくが、ドラえもんは変わらない。必ず、のび太の部屋と土管のある公園に戻ってくる。 そういえば50年生きて来たけれど、いまだに土管が真ん中に「どーん」と置いてある公園に出会ったことがない。あれもSFの世界のものなのかもしれない。「必ず心が安らぐ場所に戻ってくる」、これがドラえもんの求められる理由だろう。綺麗ごとに聞こえるかもしれない。そのとおり。綺麗ごとだ。でも、綺麗ごとが笑われるような世の中はおかしいのだ。 僕とドラえもんの出会い。「ドラえもんは僕の先生だった」 現代を生きている人には信じられないだろうが、僕が子供の頃、ドラえもんのアニメは毎日放送されていた。僕が暮らしていた地域では、平日夕方に10分番組、日曜日に30分番組を放送していた。なお10分版のOP曲は「ホンワカパッパ」という謎フレーズで有名(?)な名曲「ぼくドラえもん」である。嫌なことがあってもホンワカパッパと口ずさめば乗り越えられる気がする。 これだけヘビーローテーションで放送していたのだ。僕は毎回欠かさず観ていた。体感で当時のキッズの90パーセントくらいはドラえもんのアニメを週に数回は観ていたと思われる。ドラえもんが僕のF先生作品のファーストコンタクトだった。ここからいろいろな作品に触れて大きな影響を受けることになる。『エスパー魔美』が僕のエロスに与えた影響は絶大であったし、SF短編の完成度は「漫画家になりたい」という夢をくじけさせるに十分な作品だった……というのはまた別の話である(長くなる)。 ドラえもんのアニメをきっかけに漫画にも手を伸ばした。親におねだりしてはじめて買ってもらったドラえもんの単行本は、てんとう虫コミックスの13巻である。小さい複葉機の上にドラえもんが乗っている素敵な表紙の単行本だ。実は、僕にとってドラえもん13巻が人生ではじめて読んだ漫画単行本だ。F先生の完成度の高く読みやすい漫画で漫画の読み方を僕は覚えた。アニメよりも若干ハードな描写も刺激的で面白かった。 人生最初の漫画がレジェンド級の作品だったので、他の作家さんへの評価が厳しめになってしまい、「つまらない」「読みにくい」としょっちゅう言っていた記憶がある。当時から嫌な奴だったのだ。反省。アニメしか観ていない友達が多いなかで、漫画のドラえもんを読んでいるのは「アニメもいいけど漫画は一味ちがうよね」という優越感に浸れたのもドラえもんが人生初であった。 漫画雑誌もドラえもんがきっかけで読むようになった。単行本にドラえもんが掲載されていたコロコロコミックの宣伝が入っていたのがきっかけでコロコロを読むようになったのだ。今のコロコロがどんな状態の雑誌なのか僕は知らない。1980年ごろのコロコロコミックは滅茶苦茶分厚くてレンガのような形状をしていた。ドラえもん以外の作品が掲載されているとは知らなかった。そのとき漫画雑誌という概念をはじめて学んだのだ。 当時のコロコロコミックで印象に残っている作品はよしかわ進先生の「おじゃまユーレイくん」だ。事故で亡くなって幽霊になった主人公が幼馴染の女の子に取りついて更衣室やお風呂に入るというお色気漫画である。僕は一時期ドラえもんと同じくらいユーレイくんが大好きでねえ……突然連載が終わってしまったときはおおいに悲しんだものである。2000年代に「おじゃまユーレイくん」が復活したときは嬉しかったな。 子供の頃のドラえもんは漫画もアニメも結構ハードな描写があった。ジャイアンのパンチがのび太の顔にめり込む、「皮をはいでやる」みたいな台詞もあったような…。ただ、ハードな描写があったからこそ、悪いことをした人、ひみつ道具を悪用した人は最後にひどい目に遭うというドラえもんお約束のオチが効いていた。 ドラえもんは最後が酷い状態のカオスで終わる回は、その後をいっさい描かれないのが本当に素晴らしい。たとえば調子に乗ったのび太が道具を悪用してひどい目に遭っているのをドラえもんがやれやれと村上春樹のような台詞を言いそうな顔で見つめているコマで終わり、その後はいっさい描かれないのがとてもよかった。その後どう収束するかは僕ら読者である子供たちに任せる、投げっぱなしスタイル。説明過多にせず、受け手の想像力に任せているのが、子供でもわかった。ドラえもんで「最後のコマのあとはどうなるのだろう?」と誰でも想像したことがあるのでは? また、バミューダトライアングルとかスモーカーズフォレストといった子供心をくすぐるウンチクもドラえもんの魅力だった。ネッシーや雪男を知ったのもドラえもんがきっかけだったかもしれない。教科書には絶対にのらないギリギリな教養によってボンクラ人生を歩んでしまったのは、ドラえもんのせいである。投げっぱなしやSFやオカルトをぶち込んでも壊れないのは、ドラえもんの世界観、つまりあの土管のある公園に戻ってくればオッケーという世界観の強さがあるからである。いいかえれば安心感。壊れない強い優しさがあるから無茶ができるのである。子供のときはドラえもんの世界観の強さに安心して乗ることが出来たのである。 大長編ドラえもんは「長編」じゃなくて「大長編」だから子供たちにとって事件だった。 1980年の映画「ドラえもん のび太の恐竜」は僕がはじめて劇場鑑賞したアニメ映画である。つまり、人生初漫画単行本、人生初漫画雑誌と並んでドラえもんで人生初三冠達成である。 コロコロや単行本に掲載されていたドラえもんの話は短かった。それが突然「大長編」の連載がはじまり、映画化。テンション爆上がりだった。なんといっても「大長編」というワードが天才だった。「長編」じゃなくて「大長編」だ。ロマンしか感じない。ちなみに「大長編」の「大」が何かは50歳になった今でもよくわからない。長編小説はあるが、大長編小説は聞いたことがない。キン肉マンの「言葉の意味はよくわからないがとにかくすごい自信だ」という言葉に近いものがある。理屈をこえた凄み。 短編だったドラえもんが突然長いストーリーのある漫画になった。一話で完結せず、数か月間にわたって連載となり次月のコロコロが待ち遠しかった。僕にとってはストーリーものの漫画は大長編ドラえもんが最初だった。ゲストキャラが登場して、いつもの仲間たちと異世界に向かい、ピンチを乗り越えて悪者を倒し、最後には別れが待っている、これが「大長編ドラえもん」の大まかな流れだ。異世界でのび太たちはヒーローになるけれども、必ず、あの土管のある公園のあるいつもの世界に帰ってくる。大長編が成立するのは、壊れない優しい世界観があるからだ。 そして大長編ドラえもんは映画化された。扉絵に「映画化決定」の文字があったときの魂の高揚が想像できますか。平日の夕方に10分間放送されていたミニ番組が長編映画になるのは僕ら子供にとっても大事件だったのだ(大長編だけに)。僕がリアルタイムで大長編ドラえもんの原作漫画を読み、映画を鑑賞したのは「のび太の恐竜」から「のび太と竜の騎士」まで。 印象に残っているのは、やはり第一作目の「のび太の恐竜」になる。原作漫画よりアクションが多めで見どころが多くなっていた……という内容よりも、劇場にいたいちいち解説するバカなガキが記憶に残っている。そいつは僕よりひとつふたつ年上と思われるアホガキで、僕のひとつ前の席に母親と一緒に座っていた。おそらく、事前に映画の内容を紹介するようなフィルム本のようなものを読んで予習してきたのだろう(アホだから)、劇中に登場する恐竜の名前をアホみたいな大きな声で叫び、僕を「のび太の恐竜」の世界から現実世界に引き戻したのである。子供心に映画館には変な奴がいるという学びを得た。今頃はハラスメント上司か嫌味な中間管理職になっているにちがいない。あと、大長編ドラえもんは武田鉄矢のテーマソングが名曲ぞろいなのでぜひ聞いてもらいたい。特に「宇宙小戦争」の「少年期」は屈指の名曲だ。 成長にともなってドラえもんから遠ざかっていた。 80年代中盤、中学生になった頃から「ドラえもん」の熱心なファンとはいえない状態になった。嫌いになったわけではない。ドラえもんのアニメが放送されていれば観たけれど、わざわざ放送時間にテレビの前に座ることはなくなっていた。単行本やコロコロコミックは買わなくなってしまったし、大長編ドラえもんの連載開始も気にならなくなったし、劇場版映画も「竜の騎士」を最後に観なくなっていた。 成長するにつれて、コロコロコミックから週刊少年ジャンプをはじめ、マガジン、サンデーといった「ちょっと大人の香りがする雑誌」へ興味が移っていったのだ。「コロコロは面白いけれど、ちょっと子供っぽいよな。大人になるってこういうことだよな」みたいな感じだったと思う。ジャンプはドラゴンボール、北斗の拳、キン肉マン、ジョジョといったバトル系の漫画が全盛期で、登場人物が戦いで死ぬようなハードな展開にカッコよさを感じていたのだ。漫画以外にもファミコンや部活動がはじまって、ドラえもんに割く時間がなくなってしまったこともある。 大学から社会人になってもドラえもんを遠ざけていた。社会の理不尽さや不公平さを垣間見てしまったあとでは、それに対してドラえもんの優しさが有効な武器になるとは到底思えなかったし、ドラえもんに対して「何、きれいごとを言っているのだろう」といら立ちすら覚えてしまう気がしたからだ。かつて大好きだった、漫画とアニメのファーストコンタクトだったドラえもんを嫌いになりたくなかったのだ。追い打ちをかけるように1996年、F先生が亡くなってしまった。これが僕の中にあった「さようならドラえもん」感を決定的なものにしたといっていい。 だが、ドラえもんと距離を置いていても、心のどこかでは気にはなっていた。僕が子供の頃にスタートした「のび太の恐竜」から毎年新作が公開されていたことも、テレビアニメが過去作をリメイクしながらずっと続いていることも知っていた。また時々発売されていた単行本未収録作品集「ドラえもんプラス」は読んでいたし、ドラえもん0巻だって手に取った(「STAND BY ME ドラえもん」には違和感を覚えていた)。定年して落ち着いた生活を送れるようになったらまたドラえもんを読もうとうっすらと思っていた。 大人になって僕がドラえもんにはまっている理由。 今、僕は第二次ドラえもんマイブームの中にいる。勝手に「さようならドラえもん」をしておいて勝手なものである。わかる人だけにわかる言い訳をすると、「帰ってきたドラえもん」の「ウソ808」を飲んで「さようなら」をなかったことにしたのである。きっかけはテレビ放送されていた「のび太の宇宙小戦争」のリメイク版「2021」である。なんとなく観たところ、これが面白かったのだ。三十年間眠っていたドラ魂に火が付いた。 大全集が発売されていたので、かつて読んだことのある大長編が収録されている巻を買って読んだ。「のび太の恐竜」から「竜の騎士」まで一気に読んだ。記憶以上にハードな内容に読めた。優しさでコーティングされているだけだった。大長編で登場する異世界の住人たちは、悪者から侵略を受けていたり、権利を奪われようとしていたりしていた。大長編には、戦争や環境問題など、現実にある危機がモチーフにされていることがわかった。 たとえば「海底鬼岩城」はもろに当時の米ソ冷戦がモチーフになっている。滅びたアトランティスによる自動報復装置(鬼角弾という大量破壊兵器が全世界に発射される)などは、ロシア大統領が死んだら核兵器が発射されると噂されている「死の手」システムそのものだった。子供の頃は、そういう要素には気づかなかった。また、青年期の僕が「子供っぽい」「きれいごと」とドラえもんを評していたのは、僕の浅い見識による誤解だったことを思い知らされたのだ。 大人になった僕がドラえもん、特に大長編にはまったのは「スタンド・バイ・ミー」的な見方が出来るようになったのが大きい。なお、この「スタンド・バイ・ミー」はスティーブン・キング作品であって、「STAND BY ME ドラえもん」ではない。大長編ドラえもんはどの作品もひと夏の少年少女たちの冒険なのだ。そしてそれらの冒険は大人になってからでは二度とできない貴重なものだと、大人になってからわかるのだ。大長編ドラえもんは、子供の頃、友達との記憶と重なって「コロコロや単行本を貸し借りしたなあ」「友達と山や川へ冒険したなあ」という郷愁を喚起するのだ。 で、やっぱり大長編ドラえもんは大ピンチに陥っても必ず帰ってくる場所があるのがとてもいいのだ。<どんなに苦しいときがあっても、命の危険にさらされても、日常は続いている>が今になって刺さった。社会に出てからは仕事できっついノルマを課せられたり、ライター業の締め切りに追われたり、理不尽なこと、厳しいことばかりだ。それが続いている。でも大長編ドラえもんは必ず異世界から帰ってくる描写があり、「大丈夫なんだ」と安心させてくれる。「死の手」システムと戦ってもドラえもんたちは生還して普通の暮らしを取り戻しているじゃないか、俺はまだやれると思わせてくれるのである。 物語としては、悪を倒してガッツポーズで幕を引いてもよいF先生はドラえもんたちの帰還まで、冒険を終わらせて日常のスタートまで描いている。先に述べたように、短編のストーリーでは読者の想像にまかせて投げっぱなしにしているのとは対照的だ。大長編ドラえもん、特に80年代に描かれた作品は大人になってからも楽しめるし、勇気をもらえる作品なのでぜひとも読んでもらいたい。 最後に漫画版大長編ドラえもんで刺さったシーンを三つあげておく。一つ目は「のび太の大魔境」のクライマックス前。ピンチに陥ったドラえもんとゲストキャラクターのペコ。皆を救うためにペコが単独行動を取ろうとする。だが責任を感じたジャイアンがペコの後を追いそのあとから皆も。という胸が熱くなるシーンをF先生は台詞なしで描いている。 二つめは「海底鬼岩城」の海底バギーの特攻。大長編ドラえもんでは珍しい自己犠牲シーンに涙を禁じ得ない。漫画版だと欠片のねじをもったしずかちゃんが「わたし忘れない」というけれどもその後バギーを思い出しているシーンが観たことがないあたりもリアルでよい。 三つめは冒険後のシーン。どの大長編でもいいのだが日常に帰ってくるところはいずれもドラえもんやのび太たちが充実感にあふれていてよい。長々と語ってしまったが、殺伐として先の未来今だからこそ大長編ドラえもんの原作を読んでほしいし、読むべき作品だと思うのだ。初期大長編ドラえもんは全人類が読むべき聖典である。

なぜピクサーはいつだって懐かしいのか。〜『トイ・ストーリー』から探る創作術〜

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「なぜピクサーはいつだって懐かしいのか。〜『トイ・ストーリー』から探る創作術〜」。千葉集さんが書かれたこの記事では、ピクサーへの偏愛を語っていただきました! 3DCGアニメーションのトップランナー「ピクサー」  (Author:Coolcaesar、CC-BY-SA.3.0) ピクサーについてお話させていただきます。 1995年の『トイ・ストーリー』以来、ピクサーは3DCGアニメーションのトップランナーとして2024年現在までに30作近い映画を世に放ってきました。 その歴史は輝かしい傑作にいろどられています。『モンスターズ・インク』、『ファインディング・ニモ』、『Mr.インクレディブル』、『レミーのおいしいレストラン』、『ウォーリー』、『インサイド・ヘッド』、『マイ・エレメント』⋯⋯。だれもが子どものころに一度は見て、魅了されたおぼえがあるのではないでしょうか。 かくいうわたしも一作ごとに初めての鑑賞したときの思い出を鮮明に思い出せます。『インサイド・ヘッド』や『トイ・ストーリー4』での「別れ」のシーンでは非常に心打たれたのをおぼえていますし、『ファインディング・ドリー』に至ってはドリーに自分を重ね合わせて上映中ずっとマジ泣きしておりました。 あるいは、大人になってから観た作品でも楽しめたり、感激した経験を持っているひともいるでしょう。 ピクサー作品は、たとえそれが2024年に作られた初見の作品であっても、どこか懐かしさをまとっています。 そもそも、一作目である『トイ・ストーリー』からしてノスタルジックな味わいが顕著です。『トイ・ストーリー』の特徴とは、古いものしかないことだといってしまってもいい。 そういうと疑問に感じるもいるでしょう。 「『トイ・ストーリー』とは世界初の長編フル3DCGアニメーション作品であり、長らくディズニーが支配してきたアメリカのアニメ映画界にピクサーという新星が現れた画期であり、これまでのアニメにはなかったフレッシュなストーリーテリングを実践した物語であり、とにかく『新しさ』しかなかったのじゃないか」と。 その見方はただしい。『トイ・ストーリー』は技術的側面に関しては圧倒的に新しかった。 古くて懐かしいのは、『トイ・ストーリー』で描かれた世界のことです。 『トイ・ストーリー』は「みんなが観たいと思うもの」とは違っていた みなさんとうにご承知かともおもいますが、『トイ・ストーリー』のあらすじはこう。 とある郊外の一軒家、アンディという少年が子供部屋で想像力を羽ばたかせていろんなおもちゃでごっこ遊びをしています。 なかでもアンディのお気に入りは西部劇の保安官の人形、ウッディ。ウッディはアンディ少年の親友を自負し、アンディのおもちゃたちのリーダー的存在でもありました。 そこにある日、アンディへのプレゼントとして最新鋭のアクションフィギュアである宇宙飛行士バズ・ライトイヤーがやってきます。アンディはすっかり新しい人形に夢中。 持ち主の寵愛を横取りされたウッディは、嫉妬心からバズにいたずらをしかけますが、それがとんでもない方向へ転がっていき⋯⋯というお話。   制作当時、映画の出資者でもあったディズニーのCEOマイケル・アイズナーは「男の子がお人形遊びする話なんて、だれが観たいとおもうんだ?」(*1)と首を傾げたそうです。 (*1:Charles Solomon『The Toy Story Films:An Animated Journey』White Plains) 今から振り返るとあまりに見る目のなさすぎる発言ですが、しかし当時の情勢をふり返れば、無理からぬ受け取り方でもあります。ディズニーの考える「みんなが観たいとおもうもの」は『トイ・ストーリー』とは違っていました。  どういうことか。 『トイ・ストーリー』の監督をつとめたジョン・ラセターのディズニー時代の師匠的な存在(1981年に『きつねと猟犬』の冒頭シーンを共同して担当)であった伝説的アーティスト、グレン・キーンは「ピクサーとディズニーの違い」を問われてこう答えました。 >> ピクサーとディズニーそれぞれの特徴を一言で表すとするなら、ピクサーは「もし"こう"だったらクールじゃない?」、ディズニーは「むかしむかしあるところに……」だ。すぺてのピクサー映画は子どもの目線になって、「もしもおもちゃがしゃべれたら?」といったようなことを考えることから出発する。 出典:https://www.cloneweb.net/rencontre-avec-glen-keane << 今でこそ、完全オリジナル作品が多いディズニーの長編アニメーション作品ですが、2000年代以前はおとぎ話や子ども向け文学作品をベースにした映画ばかりでした。 それこそ「古いもの」の再解釈とノスタルジーがディズニーの十八番だったわけです。 『美女と野獣』を振り返る 1991年公開の『美女と野獣』を見てみましょう。本作ではルーカスフィルムの傘下にあった当時のピクサーチームの開発による3DCG技術が話題となり、ピクサーとも縁深い作品です。あとまあ、個人的に最近海外を訪れたさいに現地で観たミュージカル版の『美女と野獣』がめちゃよかったので。 古くからあるおとぎ話をブロードウェイ・スタイルのミュージカルとして再話したこの映画のラストシーンでは、いろいろあって何もかもうまくおさまり、ヒロインであるベルと王子さまである(元)野獣が親密そうにダンスする姿を見たある子どもが、「これでふたりは『いつまでも幸せに暮らしました(Happily Everafter=おとぎ話の最後につく「めでたしめでたし」的な常套句)』になるの?」と母親に訊ね、母親は「もちろんよ」と答えます。そして、メインテーマソングでもある『Beauty and The Beast』のサビがリプライズされます。 >> Tale as old as time. Song as old as rhyme. Beaty and the Beast. 時のはじまりからある古い物語。 詩(韻)のはじまりからある古い歌。 それが美女と野獣。 << そうして、しあわせな二人の姿がステンドグラスとして伝説に刻まれ、幕が降ろされます。 何重にも「これはおとぎ話ですよ」と強調されるわけです。 (『ヨーロッパのおとぎ話』という1916年の本に付されたジョン・B・バッテンによる『美女と野獣』の挿絵) 個人的にも『美女と野獣』は大好きな映画で子どものころから何回も観ていますが、そのファンの眼からしてもプロットや話運びにやや強引なところがあるのは否めません。 しかし、ひとびとの共同的な記憶であるおとぎ話や民話を下敷きにすることで、そうした無理やりさを中和しつつ、ある種の懐かしさを帯びさせる。ここにおいてノスタルジーは、たんなる雰囲気やなんとなくの感触ではなく、はっきり戦略として用いられています。 ディズニーは、ウォルト・ディズニーのころからノスタルジーを武器にしてきた会社です。みんなが知っている物語を、現代に即した形でチューンナップしつつ、同時に安心できる懐かしさを提供すること。それが旧来的なディズニーにとっての「みんなが望む物語」です。 最新作の『ウィッシュ』は、そうしたまなざしを自社作品そのものに向けたという点でよくも悪くも興味深いのですが、話をピクサーに戻しましょう。 『トイ・ストーリー』はわたしたちがかつて見ていた世界でもある グレン・キーンの物言いに従えば、ピクサーはディズニー式のおとぎ話を採用しません。それは大衆性を放棄しているという意味なのでしょうか?   もちろん、違います。『トイ・ストーリー』は、ディズニーとは別の仕方でひとびとの共通の記憶にアクセスしているのです。 おもちゃに想像を託して遊ぶこと。それは多くの人間が子ども時代に通ってきた道です。あのころは生命なき人形たちがほんとうに生きているかのように感じ、純粋に友だちのようにおもえた。「もし、おもちゃたちが生きてて喋ることができたら⋯⋯」という『トイ・ストーリー』の What if  は、ただ設定として意外性があるというだけでなく、こうした子どものリアルな心情の反映でもあります。『トイ・ストーリー』の世界は、われわれがかつて見ていた世界でもあるのです。 このようなセッティングが普遍的でないわけがない。ピクサーがディズニーと別の経路でひとびとの共通の記憶にアクセスしているとは、そういうことです。ノスタルジーを呼び起こすという点では、実はおなじ戦略を取っていました。 そして、『トイ・ストーリー』がおもしろいのは、そうした普遍的な子どもたちの記憶と同時に、ジョン・ラセターの個人的な思い出も埋め込まれていることです。 ピクサーの黎明を描いた『ピクサー 早すぎた天才たちの逆転劇』(ハヤカワ文庫NF)などでも触れられている有名な話ですが、ウッディの「取り付けられている紐を引くと録音されたセリフを喋る」という仕掛けは、ラセターが子ども時代に大好きだったおばけのキャスパー人形から得たものです(*2、*3)。また、もうひとりの主人公であるバズも、やはりラセターの好きだったアクションフィギュアであるG.I.ジョーをモデルにしています。映画公開に合わせてバズのおもちゃを出したときも、バズのフィギュアはG.I.ジョーのサイズに合わせて作らせたという逸話もあります。 (*2:映画公開当時のインタビューでは実際にその人形をカメラの前に見せていますから、よほど愛着があったのでしょう) (*3:David A. Price『The Pixar Touch』Vintage) 1957年生まれのラセターは、60年代から70年代にかけての少年期をカリフォルニア州のホイッティアという街で過ごしました。ホイッティアはもとはガチガチに保守的な田舎町でした(ニクソン元大統領の出身地でもあります)が、戦後の開発によって人口が倍増し、リベラルな郊外の空気も混じるようになりました。ラセターが育ったのは、そんな時期です。 (カリフォルニア州ホイッティアのダウンタウン) 批評家のジョシュ・シュピーゲルが指摘するように、『トイ・ストーリー』には、そんなラセターの少年時代の記憶が色濃く反映されています。みなさんもわたしも同様、マクドナルドで『トイ・ストーリー』シリーズのハッピーセットが出るたびに死に物狂いでコンプリートしたことかと思いますが、実はあれらのおもちゃの一部は『トイ・ストーリー』のオリジナルではありません。 『トイ・ストーリー』に出てくるウッディのおもちゃ仲間のうち、じゃがいもを模したミスター・ポテトヘッド、バネのおもちゃであるスリンキーをダックスフントと合体させたスリンキー・ドッグ、緑色の兵士のおもちゃであるアーミーメン、日本では「つなぐでござる」の愛称で親しまれている繋げるサルのおもちゃバレル・オブ・モンキーズ、これらはすべて50〜60年代にかけてアメリカで人気を誇った実在のおもちゃです。当時最もあたらしいおもちゃに見えたバズ・ライトイヤーでさえ、そのコンセプトは「1950〜1960年代のSF映画やテレビ番組の宇宙飛行士を彷彿とさせ」(*4)ます。 (*4:Josh Spiegel『Yesterday is Forever: Nostalgia and Pixar Animation Studios』The Critical Press) 一方で、90年代当時に流行していた最新のおもちゃは実名で登場しません。99年公開の『2』でようやくスーパーファミコンらしきゲーム機が出てくるくらいでしょうか(*5)。 (*5:ビデオゲーム自体はピザ屋附設のゲームセンターという形で『1』にも出てきます。)  『トイ・ストーリー』の世界は一見90年代的な風景に見えますが、こうして巧妙に現代的なものを隠蔽し、ラセターの過ごした60年代にこっそり塗り替えているのです。  そしてそのことがまた普遍性に貢献してもいる。新しいものは常に古びる可能性がありますが、すでに古く懐かしいものは(その時代を体験していないものにとってさえ!)永遠に古く懐かしいままです。 個人の記憶を普遍性に還元する物語づくりに挑みつづける (Mr.ポテトヘッド。Author: c'est la Viva/ CC-BY-SA 3.0) アニメ界の革新者であるラセターは、同時に伝統主義者でもありました。2006年にピクサーはディズニーによって買収され、ラセターはディズニーのアニメーション部門の最高責任者を兼ねるようになりましたが、そのときに彼がまず行ったのは80年代から「ウォルト・ディズニー・フィーチャー・アニメーション」となっていた社名を、「ウォルトが映画を作っていたときの名前に近い」(*6)という「ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ」に変え、手描きアニメーション時代のディズニーのベテランたちを呼び戻すことでした。 もともと、ディズニーは2004年の『ホーム・オン・ザ・レンジ』を最後に2Dアニメーションを放棄することを宣言していたわけですが、3Dの寵児たるラセターはそれを覆して新作2Dアニメーション作品を製作しはじめたのです。 (*6:https://www.gamesradar.com/interview-john-lasseter) 3D進出と並行して行われたディズニーの2D回帰路線は商業的には失敗に終わるのですが、時代に逆行してでも古き良きものを残そうとしたのです。実際、2009年の『プリンセスと魔法のキス』は歴史に残る一作になったといえるでしょう。つづけてほしかったなあ⋯⋯。TVシリーズや短編だと今でも2Dをやってはいるんですが⋯⋯。そうそう、去年の『ウィッシュ』の同時上映の短編『ワンス・アポン・ア・スタジオ -100年の思い出-』は100年分のディズニーキャラをインクと紙という文字通りの手描きで再現していて、泣きそうになりましたね⋯⋯。 さておきつ、3D時代のアニメの先駆者として知られ、実際キャリア初期には3Dの可能性を追い求めたことで憧れだったディズニーを追い出されたラセターですが、そうした彼のイメージと、上のような懐古的な態度はすこしズレがあるように見えるかもしれません。 2011年にラセターはアメリカン・フィルム・インスティテュート(AFI)のインタビューでこう語っています。 >> どんなに面白くてアクションに満ちた目に楽しい映画だとしても、最後に大事になるのはハートです。それはひとびとの心に残り、キャラクターへの愛となります。 私が特別誇りにしているエピソードがあります。『トイ・ストーリー』の公開から5日ほどたったころ、私はダラスフォートワース空港に家族といました。そこに通りすがった小さな男の子が、ウッディの人形を抱えているのを見たんです。 そのとき、私は悟りました。あのキャラクターたちは、もう私のものではなく、あの子たちのものになったのだと。 出典:htps://www.youtube.com/watch?v=eS192sE4wLY << 自らの思い出への愛着を作品に託して世に出し、それらを後の世代に明け渡して、「みんな」の記憶にすること。 その草創からアニメーションは技術の発展とともにあり、最新の技術を追求して表現の幅を広げていくことはアニメーションを志すものにとっては当然の営為でした。そうした技術に、物語やキャラクターにハートが乗ることで万人へ届く感動が生じるのです。 それは実はラセターの憧れであるウォルト・ディズニーも同様だったのですが、さておき、ラセターだけでなく、ピクサーは会社としても個人の記憶を普遍性に還元する物語づくりに挑みつづけています。 『ファインディング・ニモ』や『インサイド・ヘッド』は監督であるアンドリュー・スタントンとピート・ドクターそれぞれの子育ての経験から発したものですし、『私ときどきレッサーパンダ』では監督のドミ・シーが中国系カナダ人として不安定な思春期時代を過ごしたことが、『ソウルフル・ワールド』では主人公とおなじく元ミュージシャンだった脚本のケンプ・パワーズのアフリカ系コミュニティでの感覚が(*7)、それぞれ映画に深く根ざしています。 (*7:Disney+『ピクサーの舞台裏』(2020年) 個人的に興味深いのは、最近ではピクサーの初期作品それ自体がミレニアル以下の世代のノスタルジーとなりつつあることです。わたしは昨年、東京ディズニーリゾートのトイ・ストーリー・ホテルに泊まったのですが、子どもたちはもちろん『トイ・ストーリー』世代のお父さんお母さんも、ホテル内に施された意匠に反応したり、ホテル内レストランで食器をお片付けするともえらるロッツォのシールを嬉々として集めたりしているのを見ました。ラセターの思い出はいまやわたしたちの思い出なのです。 ピクサー作品はつねに新しくて懐かしい。だからこそ、誕生から三十年を迎えようとしている現在でも、わたしたちを魅了しつづけているのです。   【他参考映像・文献】 レスリー・アイワークス監督『ピクサー・ストーリー〜スタジオの軌跡』(2007年) ブラッド・ラックマン監督『トイ・ストーリー20周年スペシャル:無限の彼方へ さあ行くぞ!』(2015年) エド・キャットムル、エイミー・ワラス、石原薫訳『ピクサー流 創造するちから』ダイヤモンド社(2014年)