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巨匠ミヤザキの欺瞞のパンツ――なぜ宮崎駿は手塚治虫を否定するのか(2)

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「巨匠ミヤザキの欺瞞のパンツ――なぜ宮崎駿は手塚治虫を否定するのか(2)」。海燕さんが書かれたこの記事では、宮崎駿への偏愛を語っていただきました! 連載第一回「天才対天才、血まみれの思想闘争――なぜ宮崎駿は手塚治虫を否定するのか(1)」はこちら 「冒険飛行家の時代は終わっちまったんだ 国家とか民族とかくだらないスポンサーをしょって飛ぶしかないんだよ」 『紅の豚』フェラーリン少佐 「空を飛びたいという人類の夢は呪われた夢でもある 飛行機は殺戮と破壊の道具になる宿命を背負っているのだ」 『風立ちぬ』カプローニ男爵 連載第二回をお送りする。 シリーズ第一回「天才対天才、血まみれの思想闘争」では、宮崎駿と手塚治虫というふたりの大物作家が、ヒューマニズムとニヒリズムのあいだにひき裂かれている一点において双子のように似通った個性を備えていることを見、宮崎の手塚治虫に対する「闘い」とは何を意味しているのか一考した。 今回はそれに続き、庵野秀明による宮崎駿批判を端緒に、宮崎が果たしてしんじつ内なるニヒリズムと正対してきたのか見てみることにしたい。 巨匠とされる師・宮崎駿と天才といわれる弟子・庵野秀明 出典:宮崎駿『紅の豚』 庵野秀明――その名は、多くのアニメ/特撮ファンにとってある種、特別な響きを持つ。 かれは過去40年ほどにわたり『トップをねらえ!』、『エヴァンゲリオン』シリーズ、『シン・ゴジラ』などの傑作を断続的に発表、常に時代をリードしてきた。 その庵野が宮崎を「師匠」と呼び、深く敬愛していることは周知の事実である。だが、庵野の「恩師」に対する批判は凄まじいものがある。それこそ、宮崎による手塚への批判に匹敵するだろう。 庵野も宮﨑も(もっというなら押井守も富野由悠季も)たがいの作品をいつもしんらつに批判しあっているにもかかわらず、それなりに良好な関係を築いているらしいことは興味深い。だがしかし、特に庵野の言葉はその内容が鋭く、的確と思われるだけにきわめて興味深い。 たとえば代表作『新世紀エヴァンゲリオン』にまつわるインタビューを集めた『スキゾ・エヴァンゲリオン』において、かれはこう語っている。 庵野「『紅の豚』はもうダメです。あれが宮崎さんのプライベート・フィルムみたいですけれど、ダメでした。僕の感覚だと、パンツを脱いでいないんですよ。なんか、膝までずらしている感じはあるんですが、あとは足からパンツを抜くかどうか。パンツを捨てて裸で踊れば、いよいよ宮崎さんは引退を決意したかなと思います。」 この主張をどう解釈するべきだろう。庵野が語る「パンツ」とは、すなわち自己欺瞞の心理武装を意味しているのであろう。それはわかる。 『紅の豚』には、庵野ほど慧眼でなくても欺瞞的と受け止めるしかない一面がある。 この映画の主人公である豚の顔をした飛行機乗りポルコ・ロッソは、宮崎駿のすべてのキャラクターのなかでも最も直接にかれ本人を連想させるところがあるが、その顔を豚に設定したことからは、宮崎駿の含羞が見て取れる。よく漫画家の自画像などで見る類のデフォルメだ。 それは良い。しかし、この作品から、いわば「血のにおい」が都合よく消し去られている点はどうだろう。物語の舞台は、ひとつの戦争と次の戦争の間隙(かんげき)であるように見える。「冒険飛行家」の黄金時代が終わったあとの、すべてがむなしく色褪せてしまった頃。 そこではまたも世相に戦争の翳(かげ)が差して来ているが、まだじっさいに戦火が世界を覆うまでには至っていない。宮崎はこのある意味でおおらかともいえそうな時代を背景に、豚になってしまったポルコのコミカルなストーリーを展開する。 あたかも宮崎の内面世界そのものであるかのような、飛行機と飛行機乘りたちの物語――悪くはない。否、単に一作の娯楽映画と見るなら、愉快で楽しい、暖かな想像力に富んだ非常に優れたエンターテインメントであるといっても良いだろう。 ただ、この世界からは戦争の地獄、その実相は伝わってこない。ファシズムの悪夢もまたその本質が描かれていない。あくまでもどこまでもロマンティックにごまかされた「戦争ごっこ」の映画でしかないのだ。 つまり、この映画では、宮崎のロマンティシズムが前景化した一方、ニヒリズムが徹底して隠蔽されている。手塚治虫がヒューマニストという仮面の裏におのれのニヒリズムを隠したとするなら、宮﨑もまた大衆的なエンターティナーという欺瞞の仮面をかぶって血まみれの素顔をさらすことを拒んだといっても良いだろう。 ここでは人間の「悪」はいかにも鈍磨した形で描写されるに留まっている。まさに「パンツを脱いでいない」という庵野の指摘はまさに核心を突いているというしかない。 最後の一枚を脱げないストリッパーに価値はない。 出典:宮崎駿『もののけ姫』 すべてクリエイターが魂のストリッパーであり、おのれにとっての裸の真実をオープンにさらすところにその本質があるとするなら、宮崎の態度は不徹底というしかない。 この後、宮崎のフィルモグラフィーは『もののけ姫』、『千と千尋の神隠し』と続いてゆき、日本映画興行の歴史に燦然と輝く大ヒットを記録。宮崎は史上最高といえる国民的アニメーション映画監督としての地位を確立する。 だが、かれの映画は「家族で安心して見ることができる」大衆向けの娯楽作品としての品質と評価を高める一方で、やはりその暗黒面は隠される傾向が強かった。 むろん、『もののけ姫』にせよ、『千と千尋の神隠し』にせよ、だれも見たことがない独創的な別世界を構築してのける格別の想像力は圧巻のものがあり、映画史上に残る大傑作というしかない。 しかし、それはひっきょう、かれの「裏の顔」を隠す役割を果たしたに留まる。 ただ、そのあくまで「パンツを脱がない」態度は必ずしも己の暗黒面と対峙することを忌避する意気地のなさから来ているものとはいえないであろう。むしろ、宮崎は明確な意図を持ってダークサイドの噴出を閉ざしていると見るべきだ。 庵野による「パンツを脱いでいない」という批判は正しい。しかし、宮崎にはパンツを脱ぐことを良しとしない理由があるはずなのである。 じっさい、かれは個人作業のメディアであるマンガではあきらかに欺瞞のパンツを脱いで「大人向け」の作品を生み出している。 何といっても、庵野も絶賛するマンガ版『風の谷のナウシカ』という空前の大名作があるのだ。この一作だけを取っても、宮崎が抱える光と闇に満ちた内的世界の奥深さは明瞭である。 『ナウシカ』はまさに規格外の傑作だが、一方で『宮崎駿の雑想ノート』と『泥まみれの虎 宮崎駿の妄想ノート』と題する二冊にはその他のマンガも収録されていて、しかもこれがめっぽう面白い。 じつは『紅の豚』の原作もそれらの短編マンガのひとつ。つまり、『紅の豚』は本来、宮崎がかなりのところまで個人的な嗜好を込めて描いた「大人向け」のマンガをアニメーションとして展開した作品だということになる。 のちに宮崎は『風の帰る場所』で、このことを悔やむような発言をしている。 宮崎 いや、「紅の豚」は作っちゃいけない作品だったんです。 司馬 どうして? 宮崎 僕はスタッフに子供のために作れ、子供のために作れといってきたんです。自分のために作るな、自分のためなら、本を読めといってきたんですが、恥ずかしいことに自分のために作ってしまいました。 つまり、個人作業であるマンガという表現なら「自分のため」に作ることは許されて良い。しかし、アニメーションはあくまで「子供のため」に作られるべき表現であり、『紅の豚』のような表現はあるべきではないのだ、ということになるだろう。 宮崎にとって「子供向け」と「大人向け」の区分がいかなる意味を持っているのかは次回の記事でくわしく検討するが、ともかくかれのなかでは「大人向け」と「子供向け」は明確に違う。 それは単に子供向けのほうが内容が易しいとか表現が手加減されているということではまったくない。「大人向け」と「子供向け」はそもそもめざすべきところが異なっているとするのが宮崎の方法論なのだ。 ここにおいてあらためて宮崎が手塚批判を延々と続けていることの意味がわかる。手塚は、アニメでもマンガでもいつも「自分のため」に作っていたように見える。 かれのマンガは一見して「子供向け」に見えるものでさえも、どこかに暗い負の情念のかげろうをただよわせている。そして宮崎も認める通り、そのニヒリズムの闇こそが手塚マンガの一種独特な魅力だった。 しかし、手塚はその「自分のため」の表現を貫徹させることができず、ヒューマニストの仮面をかぶった。あるいは、庵野ふうにいうなら「パンツを履いた」。それは初志を見失っている。宮崎はそのようにいいたいのではないだろうか。 すなわち、手塚のマンガもアニメも「自分のため」のものであることも、「子供のため」のものであることも貫けていない、と。 しかし、宮崎もまた『紅の豚』において「大人向け」のアニメを作ってしまった。これはある種、手塚的な自己矛盾であり言行不一致であり恥ずべきことである。かれはそう自己批判している。わたしは宮崎の発言をそのように受け取る。 宮崎駿がパンツを脱ぐとき。 出典:宮崎駿『風立ちぬ』 しかし、宮崎のキャリアには、あきらかに「大人向け」の映画として構想され製作された作品が、少なくとももう一本ある。第一回でも名前を挙げた宮崎の長編映画第10作『風立ちぬ』である。 この作品もまた『紅の豚』と同じく「浪漫」と「兵器」というふたつの側面にひき裂かれた飛行機という名の「夢」が、題材として選ばれている。 そして、さらにここでは『紅の豚』では執拗に封印されていた小暗いものが前面に出ている。宮崎は、ここにおいてついに「パンツを脱いだ」のだ。 『紅の豚』では、戦争の悪夢とその残虐な性質は薄っすらと示唆されるだけだった。だが、『風立ちぬ』で宮崎はその「道具としての飛行機の本質」と明確に向き合っている。 物語の主人公は飛行機設計の天才・堀越二郎。かれは幼くして飛行機の美に魅入られ、その生涯を優れた飛行機を生み出すことに使い切る。あたかもその死に物狂いの生き方は、アニメーションを生み出すことに一生をささげた宮崎本人の人生をなぞるかのようだ。 作中では、飛行機とは夢、ただ「美しい夢」であると同時に「呪われた夢」でもあるという複雑に屈折し矛盾した認識がくり返し語られる。 つまり、ここでは宮崎が愛してやまない飛行機という「夢」の分裂と相互矛盾がはっきりと直視されているのである。 ここまではっきりと「大人向け」となった結果、この映画では、自然、人間の愚かしさに対する冷めた視線と、底知れず暗いニヒリズムがにじみ出てくる。飛行機がどれほど美しく飛ぶとしても、それは結局、戦争と虐殺のために使われる運命でしかない。 この暗く絶望的な認識は、この映画を『紅の豚』的なロマンティシズムからはっきりと遠ざけている。重要なのは、「それでもなお」作中の堀越が飛行機の製造をやめようとしないことだろう。 自分が生み出したものが人を殺すための道具として使われることに対して、矛盾はある。葛藤もある。だが、それでも、かれはつくることをやめられない。常に何かをつくり出すことだけにしか意義を見いだせないクリエイターという人種の業というべきだろうか。 否、おそらくその本質はさらにもっと根深い。堀越の「飛行機という美しい夢」にかける情熱はそれよりずっと子供っぽいものなのだ。 かれは結局のところ、生涯にわたってひとりの模型好きの少年に過ぎないのであり、ただ「美しい」ことだけにしか価値を見いだせない。 人並みの正義感も道徳観もあるだろう。あるいはむしろ、人一倍、繊細で優しい心すら持っているかもしれない。しかし、それでも堀越は「美しい夢」を求めて生きることしかできない。 宿命といえばそれこそ欺瞞的に過ぎる表現だろうが、つまりは、かれは生涯にわたって、ふいに見つけた綺麗な蝶を追いかけてどんどん森の奥へ入り込んでいくひとりの子供に過ぎなかったわけである。 第一回でも書いたように、その果てに見出されるものは廃墟と化した世界。その「夢の王国の廃墟」にあらわれたカプローニ男爵は皮肉とも韜晦ともつかない言葉をもらす。「国を滅ぼしたんだからな」。 これが、宮崎の「大人向け」の映画である。凄まじいとしかいいようがない。しかし、それではこの深度を持つにもかかわらず、なぜ宮崎は「子供向け」にこだわるのだろう。 次回、最終回「すべては子供たちのために。」では宮崎にとって「子供」とは何を意味しているのか追いかけてみよう。そこに見つかるものは天国か、地獄か。希望か、絶望か。どうかご一読いただければ幸いである。 (連載第三回「すべては子供たちのために。――なぜ宮崎駿は手塚治虫を否定するのか(3)」につづく!) ※アイキャッチ画像出典:宮崎駿『紅の豚』

【2025年最新版】17年日本酒を愛する者が紹介するおすすめ日本酒12選

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「【2025年最新版】17年日本酒を愛する者が紹介するおすすめ日本酒12選」。日本酒歴17年のトイアンナさんが書かれたこの記事では、日本酒への偏愛を語っていただきました! こんにちは、トイアンナです。私が日本酒を愛するようになって17年。ときには現地の酒造を訪問し、ときには日本酒イベントに参加して、全国の味を楽しんできました。しかし、日本酒はとにかく銘柄が多い! 国内にある酒蔵の数は1,350箇所以上(※)にもおよび、銘柄はなんと1万種類を超えているといいます。 ※参考:国税庁 清酒製造業の概況/平成30年度調査分 この世にある1万種類の酒に対し、わずか17年の日本酒歴。「日本酒を知っている」というにはおこがましい話ではありますが、私が知る限りでおすすめできる日本酒をご紹介します。 注目の的!今、おすすめ日本酒を知りたい人が急増中 日本酒は、世界のお酒となりつつあります。国内では1970年代に出荷のピークを迎え、その後は半減しているものの、海外輸出では13年連続で過去最高を記録。中国やアメリカを中心に、日本酒ブームが到来しています。 また、インバウンドによる日本酒需要も上昇中。日本にしかないレストランこと「居酒屋」を楽しみたい海外客が、日本酒体験を楽しんでいます。 他方、冒頭に書いたとおり、1万種以上もある銘柄を把握している方は限られます。また、数量限定、期間限定品も多く「知っても手に入らない」日本酒も数知れず。そこで、ネットなどで簡単に手に入るおすすめの日本酒をご紹介したいと思います。 おすすめの日本酒を知る前に押さえるべき基礎知識3つ おすすめの日本酒銘柄をお出しする前に、少しだけ基礎知識をカバーさせてください。 日本酒は法律で定義されている まず、日本酒の定義から。日本酒とは、米、米麹、水を原料として発酵させてこした「清酒」のうち、原料の米に日本産米を用い、日本国内で製造されたお酒を指します。アルコール度数は酒税法で最大22度未満と定められ、強すぎるお酒が苦手な方にも愛されています。 おすすめできる日本酒は4種類ある味わいのどれを好きかで分かれる トイアンナがSSIの分類をもとに自作 日本酒サービス研究会・酒匠研究会連合会(SSI)が2万点以上の商品をテイスティングして定めた、日本酒の分類があります。 フルーティで薫り高い薫酒(くんしゅ) すっきり辛口の爽酒(そうしゅ) 長期熟成させた香ばしい熟酒(じゅくしゅ) コクある旨味が複雑にからむ醇酒(じゅんしゅ) そして、どの日本酒をおいしいと感じるかは、この4種のうちどれが好きかに依存します。たとえば、私は薫酒や醇酒ばかりを好みます。薫酒は香りがぶわっと押し寄せるタイプの日本酒で、醇酒は「お米を飲んでる感じ」がするどっしりと重い味わい。いずれも、スッキリとした爽酒が好きな人は、あまり飲まない味わいです。 逆に、私は爽酒が苦手でほとんど飲むことはありません。つまり、この記事のおすすめ日本酒は薫酒と醇酒に偏りがちです。その点はお許しください。 また、日本酒のラベルに「これは爽酒」といったラベルが貼ってあるわけでもなければ、ショップに書かれているわけでもないのがやっかいなところ。自分の好みがなんとなく4種類の中で想像できたら、まずは「たぶん〇酒が好きだと思うんですけれども……」と酒屋さんで相談してみるのがよいでしょう。 結論:12種のおすすめ日本酒をまとめた表から好みを選んでください! 忙しい方はここだけ見ていただければOK! この記事で紹介するおすすめの日本酒12種類、全銘柄の味を表にまとめました。 銘柄味わいこんな人におすすめ風の森・フレッシュな微発泡感と爽快な飲み口・米の旨みとジューシーさがしっかり感じられる・日本酒初心者・味に軽さを求める方・普段はキレのいい辛口なお酒が好きだけれど、少し別の味にチャレンジしたい方鳳凰美田・華やかな香りとフルーティーな甘み・酸味と甘味のバランスがよく、余韻まで香りが続く・甘めのお酒が好きな方・果実酒や梅酒など、バリエーションを楽しみたい方・フルーティーなワイン感覚で楽しみたい人楯野川・軽快でキレのある味わい、上品な吟醸香・透明感のある飲み口・古き良き日本酒の伝統を踏襲した味わい・辛口かつスッキリした味わいが好みの人・食事に合わせやすい日本酒を探している人・繊細な味が好きな方仙禽・瑞々しい酸味とフレッシュな香り・仕込み水の特徴を活かし、水のようにスッと染み入るような飲みやすさ・口当たりの軽やかさを重視する人・和食だけでなく洋食にも合わせたい人獺祭・華やかな吟醸香とやや甘めの上品な味わい・繊細でクリアな後味・世界的に有名な銘柄を試してみたい方・ギフトに最適な日本酒のブランドを探している方冩楽・落ち着いた香りと程よい旨み&コク・バランスの良い味わいで食事との相性も良い・香りとコクのバランスの良い食中酒を探している人・派手さよりも安定感のある味わいを求める人伯楽星・キレのある辛口で、「究極の食中酒」を目指した造り・口当たりは軽快だが、旨みもしっかり感じられる・食事に合わせて日本酒を楽しみたい人・辛口派だけど、旨みもきちんと欲しい人紀土・柔らかい口当たりと心地よい甘み・コストパフォーマンスが良く、日常酒としても人気・気軽に日々の食卓で日本酒を楽しみたい人・優しい飲み口や手頃な価格帯を重視する人神蔵・上品で繊細な香りとまろやかな口当たり・京都の風土や米の旨みを活かした優美な味わい・エレガントでしっとりとした雰囲気の日本酒を好む人・香りと旨みのバランスを丁寧に味わいたい人五橋・米の旨みが生きるどっしりした味・山口県の自然豊かな水源を活かした清涼感・重みのある味わいを試してみたい人・フルスイングで脳を殴られたような衝撃を受けてみたい人而今・フレッシュでジューシーな果実感と米の旨み・入手困難なプレミアム銘柄としても知られ、完成度が高い・希少な限定酒を探している方・フレッシュで華やかな味わいが好みの人ロ万・やや甘口寄りで優しい味わい・程よい酸味と旨みの調和が取れたバランスの良さ・まろやかでほんのり甘みのある日本酒を探している人・落ち着いた飲み口でリラックスしたい人ゆり・米の旨味がしっかりした味わい・日本酒の奥行きを感じる力強いテイスト・ボディがしっかりしたお酒を飲みたい方・日本酒通を「この銘柄は知らなかった」とうならせたい方 ただし、同じ銘柄でも日本酒には多種多様なバリエーションがありますので、「よし、この銘柄ならなんでもおいしいんだな!」と考えないでください。この記事では商品名までつき詰めたレビューを掲載しております。可能であればぜひレビューを細かくご覧いただいたうえで、買うものを選んでいただければと思います。 市販で手に入りやすい、おすすめ日本酒12選 ここからはいよいよ、市販で手に入りやすいおすすめの日本酒を実際に紹介していきます。今回紹介する日本酒は、ひとまずすべて冷蔵庫で保管するものと考えてください。特に「生」という文字が入っている日本酒は常温保存するとすぐ劣化しますのでご注意ください。 おすすめ日本酒(1) 風の森 ALPHA1 次章への扉 出典:酒泉洞堀一 日本酒って名前からして自由だな!? と思わされた1本。もともと日本酒ヲタクの中では愛されている銘柄「風の森」のなかでも、軽い口当たりで飲みやすく、日本酒の初心者にもおすすめできる1本です。 香りはバナナやメロンなど、しっかり甘い果実のようです。味わいは深く、甘み、旨味、酸味がバランスよく配合されています。つまり、おいしいです。余韻は短くするっと飲めて、食事にも合わせやすいです。風の森が好きな人は多いのですが、ALPHAシリーズまで手を伸ばしている方は珍しいため、プレゼントにもおすすめです。 おすすめ日本酒(2) 鳳凰美田 純米大吟醸 山田錦50 生 出典:SAKE-SHOW YAMADA どのシリーズを飲んでもおいしい鳳凰美田(ほうおうびでん)のなかでも、圧倒的なおいしさを誇る生酒。甘めのテイストで、たとえばホップのきいた苦めのビールを飲んだ後や、ゴーヤのように苦みのあるつまみを食べながらだと、最高の変化を味わえます。カクテルみたい。ジュースのノリでごくごく飲んでぶっ倒れる人が多い印象があります。 メロンを思わせるフルーティな香り、ほのかな甘み、そして上品な口当たり。さながらペルシャ猫や深窓の令嬢を思わせる日本酒です。どんな和食にも合うところが、人気の理由かもしれません。とはいえ、さすがにオムライスやカツカレーとは合わせないでください。繊細な風味がぶっ飛びます。 おすすめ日本酒(3) 楯野川 純米大吟醸 清流 出典:楯野川公式オンラインショップ ひとつ前に紹介した鳳凰美田とは真逆の楯野川(たてのがわ)は、辛くてキレキレのお酒です。山登りをしながら見つけた、清い川の水をすくって飲んだようなフレッシュさ。アルコール度数も14度と優しく、普段リースリングのキリっとした白ワインを召し上がる方にピッタリです。初めての日本酒としてちょうどよいバランス感で、後味の余韻も爽やかです。 あえて悪口をいうならば、あまりクセはありません。刺激を求める方には印象に残りづらい味わいかと思います。 おすすめ日本酒(4) 仙禽 モダン仙禽 無垢 無ろ過原酒・瓶囲い瓶火入れ 出典:Amazon.co.jp 外食で仙禽(せんきん)が置いてある店を見つけると、嬉しくなっちゃう。日本酒ヲタクが喜ぶ、美味しい日本酒です。江戸時代の醸造技術であった生酛(きもと)を復活させ、合理性に頼らない、味の魔法を生み出します。 中でも筆を流すように描かれた字体のラベルが特徴のモダン仙禽は、繊細なのに芯がしっかりしていておすすめ。煮付けやうな重など、濃い目の和食にも寄り添う強さを見せてくれます。青リンゴを思わせる甘酸っぱさが、口の中をみずみずしく満たします。 なお、もっと尖った超・自然派の伝統的手法で醸造されている「仙禽 ナチュール」シリーズも見かけたらぜひお試しください。酸味がはっきりとしていて、ナチュールワインと似た味わいを楽しめます。 おすすめ日本酒(4)  獺祭 純米大吟醸 磨き二割三分 出典:獺祭 公式オンラインショップ 獺祭(だっさい)は日本で初めて、海外向けにブランディングを確立した日本酒です。そのため、海外の高級レストランで、コースメニューのペアリングとしてしばしば登場します。ブランディングの成果もあってお値段は急上昇。「コスパが悪い」と顔をしかめる日本酒ヲタクもいますが、180mLという手に取りやすい容量で販売してくれているため、ギフトにぴったりです。一升瓶なんかを手土産で持ち込むと、びっくりされますからね……。 日本酒の原料となるお米でも、トップブランドである山田錦。そのお米を残り23%になるまで削り上げ、雑味を極限まで除いた高級酒です。洋ナシやハチミツのような甘み、そして軽い香り。味は強めで、さっぱりとした余韻。日本酒としては強めの味わいで、フレンチやイタリアンにも合わせておいしいため、洋食派におすすめの日本酒です。 だいたい2,000〜3,000円で4合瓶(ワインボトルのサイズ)が買える日本酒において、獺祭はAmazonで5,725円と高級ラインに入ります。だからこそ、1,500円程度で買える180mLサイズは、プレゼントする目的におすすめの一品です。 おすすめ日本酒(5)  冩楽(写楽) 純米酒 出典:Sakenomy 冩楽(しゃらく)は、日本酒がおいしい銘柄を多数輩出する福岡・会津のお酒です。バランスがよくとれている味で、まろやかな口当たりにフルーティさ、甘さ、辛さ、旨味が整っています。最初に飲む日本酒としてもおすすめできるお酒となるです。人でたとえるなら、「全教科まんべんなく高い点数を取れる受験生」といった具合です。ちゃんとおいしい、を地でいくお酒でしょう。 そのバランス感から、尖ったお酒が好きな方から酷評されるかわいそうな存在でもあります。おいしいのにねえ……。たくさん飲める方なら、まずは尖った日本酒を選んでいただき、2杯目に冩楽を選ぶと口内がまろやかに整って「ほう……」と感動するはずです。 おすすめ日本酒(6) 伯楽星 特別純米 出典:buzaemon 楽天市場店 甘い香りに柑橘類の酸味。さっぱり感と、しっかり感が天秤の上でちょうどつり合い、何杯でも飲みたくなるお酒です。伯楽星(はくらくせい)は「究極の食中酒」をコンセプトに作られているため、香りを抑えて醸造されています。穏やかで飲みやすく、しかし旨味を忘れていないからこそ、どんな料理にも合う傑作です。個人的にはお蕎麦など、繊細な香りを重視する料理と合わせて呑みたいですね。 率直に申し上げると、私は伯楽星を「どんなお料理を好きか分からない方」へプレゼントする選択肢として愛しています。淡麗・辛口な味わいで、昔ながらの日本酒が好きな方にも喜ばれるおすすめの品です。 おすすめ日本酒(7) 紀土 -KID- 純米吟醸 出典:銘酒本舗 IMANAKA SAKE SHOP 楽天市場店 紀土(きっど) 純米吟醸は、デイリー価格で買える最高レベルの日本酒です。リンゴを想起させる軽やかで上品な香り、そして透明感のある甘み。もし天国に水があったら、こんな味がするに違いないと思わせてくれます。いわゆるワンカップ大関や菊正宗を飲んで「ツンツンするから苦手」と感じた方に、ぜひ紀土をおすすめしたいと思います。 紀土を作っている平和酒造さんは、かなりイノベーティブな生産者です。ビールのホップと従来の紀土を掛け合わせた「紀土 KID フュージョンサケ」など酒税法の制約を超えた新しい製品を次々と生み出していますので、ちょっと面白いお酒を探してみたいな、というときはAmazonや楽天などで「平和酒造」の商品を検索することをおすすめします。 おすすめ日本酒(8) 神蔵 KAGURA 無濾過生原酒 黒 出典:福島酒店 楽天市場店 神蔵(かぐら)は京都駅前すぐのイオンに入っていた立ち飲みの日本酒専門店、浅野日本酒店KYOTOで出会った銘酒です。普通の日本酒は活性炭などで濾過し、火入れを行うことで、すっきりとした味わいと安定した品質を維持します。しかし、この神蔵は品質を保ちながらも、できたての味とほぼ同じ味を家でも楽しめるように作られた技術の結晶です。 これが実現できるのは、生産者の松井酒造が1726年創業と京都最古クラスの酒造でありながら、最新鋭の設備と衛生管理でこだわりぬいた施設を導入することでクオリティを上げたからです。 澄んだ味わいに、軽やかに去る余韻。鼻の奥にだけ上等な香りがふんわりと残り、もう一口飲みなよ、と優しく語り掛けてくれます。4合瓶で6,000円ほどする高級酒のため、プレゼントや特別な日の贅沢におすすめの一本です。 ※現在、浅野日本酒店KYOTOは京都河原町へ移転しています。 おすすめ日本酒(9) 五橋 純米大吟醸  出典:銘酒館倉松 もし、今回掲載した日本酒から1本だけ買っていいよと言われたら、五橋(ごきょう)を選んじゃうなあ、という一本。口内で爆発的に膨らむ旨味と甘みのコクは、他の追随を許しません。ささやかな酸味がアクセントに加わり、シルクのように滑らかでありながら麻のようにたくましい。シンプルに、おいしいお酒です。ただし、「スッキリ! キレ!」とは真逆なので、ツンとくるくらいのお酒が好きな方にはおすすめしません。 脂の入った刺身や、すき焼きなどどっしりした料理と合わせても美味しそう。あまり売れすぎると私の買う分がなくなるので、おすすめしたいけれどもしたくない、そんなお酒です。 おすすめ日本酒(10) 而今 純米吟醸 山田錦 無濾過生 出典:酒乃店もりした 而今(じこん)は私が「2,000円台で買える日本酒なら、日本一はこれだな」と思っているおすすめのお酒です。一人飲みでカウンターに座っていても、思わず「ああ、うまい」と声が出るほどおいしい。 蜜、とれたてのリンゴを思わせる香りに、ふすまが次々と開いていくような奥行きを感じる旨味。そこへ差し込む鋭角の酸味が、これまた気持ちいい。とろとろの舌触りは、なんともいえない幸福感で脳を満たします。 多幸感でぎゅんぎゅんになるお酒なのに、この価格。たまにワインでも「この値段で高級酒と張り合っちゃうの!?」と言いたくなる銘柄がありますが、日本酒なら而今がそうでしょうね。というわけで人気のお酒なため、居酒屋に置いてあると一瞬で売り切れます。 おすすめ日本酒(11) ロ万 純米吟醸 一回火入れ 出典:尾崎商店 ロ万(ろまん)は、お米の香りが豊かな日本酒で、優しい味の日本酒です。ロ万のおすすめポイントはその柔軟さ。火入れしたお酒だからこそ、という部分はありますが、冷やしても熱燗でも美味しいのです。しかも、旨味の芯がしっかりした味わいで、刺身や天ぷら、コロッケ、果てはパスタまで合わせられる万能さが特徴。ロ万はデイリー日本酒として購入すると、どんな気分のときも、どんなご飯にも合わせられて助かることこの上ありません。 おすすめ日本酒(12) 大吟醸 ゆり 出典:酒商山田オンラインショップ 最後に紹介するおすすめの日本酒、ゆり。ゆりには会津若松で酒造を巡っていたときに出会いました。 しとやかな名前とは裏腹に味は強く深く、ぐいぐい来るお酒です。力強い辛口でありながらまろやかで、しっとりと舌へしみこむ味。「強くて弱い」という、矛盾した感想を抱きたくなる味わいは、何度も手にとりたくなる依存性があります。 世間でプレミアとされる日本酒よりも、何倍もおいしい。そう考えると6,000円台というちょっと気を張るお値段も安く感じるものです。抜群においしいからこそ、おすすめです。 おすすめリストに掲載できなかったレア酒たち さて、ここまでのリストで書けなかった日本酒があります。それは、レア度が上がってしまい、ネット通販であまり買えなくなってしまったり、価格が上がりすぎたりした銘柄です。具体的には、田酒(でんしゅ)、鍋島(なべしま)、新政 No.6(あらまさナンバーシックス) の3種類。この3つを和食屋さんで見かけたら、ぜひ一杯召し上がってください。 私の人生を変えてくれた日本酒 特に私の人生を変えてくれたのは、新政 No.6 でした。バイトを何個も掛け持ちし、有り金はたいてフレンチレストランをめぐっていたころ、あるレストランで新政 No.6がペアリングとして登場したのです。「フレンチに日本酒?」という疑念はすぐに晴れました。フォアグラとあまりにも調和した新政は、私の心を洗い流してくれたのです。日本酒とは、単なる和食の添え物ではない。日本酒は世界中で通用する、日本産の高級酒なのだと教えてもらった瞬間でした。 特に新政は海外で人気となった結果希少性が高まり、空瓶だけで売られたり、偽物まで出回ったりする始末。くれぐれもオークションやフリマアプリで偽物の日本酒をつかまされないよう、ご注意ください。 おすすめした日本酒をおいしく飲むポイント 日本酒を飲むだけなら、極端な話、家のグラスでぐびぐび飲んでも構いません。ただ、もっとこだわりたい、もっとおいしく飲みたいと思った方へ、少しだけポイントを解説します。 日本酒を飲む温度を変えてみよう 日本酒には主に3つの飲み方があります。冷や(ひや)、常温、燗(かん)です。冷や、または冷酒は、冷蔵庫で冷やした状態の日本酒を指します。すっきりとした軽やかさが際立ち、酸味が強調されて爽快感が増します。 常温は室温のこと。冷やよりも香りが広がりやすくなり、甘み、旨み、酸味が均等に感じられます。 燗とは、温めた状態で飲むこと。燗酒はぬる燗、熱燗などさまざまな温度に分けられますが、全般的に酸味やアルコール感がやわらぎ、まろやかで落ち着いた印象になります。熱燗だと味わいが壊れてしまうお酒もあるため、濃厚な味わいのお酒に適しています。 同じ日本酒でも温度によってがらりと味が変わるため、瓶で買うなら温度差を楽しんでみてください。 日本酒を飲む器を変えてみよう 日本酒は、飲む器を選ぶのも楽しいものです。私はそれでいっとき、古美術の沼にも落ちてしばらく帰ってこられませんでした。無難かつ安価に買えるのは日本酒用のグラスで、頑丈なつくりが多く日常づかいにちょうど良いです。江戸切子などにのめりこむと、これまた深い沼が待っています。 個人的なおすすめはワイングラスで飲むこと。特に開口部が狭まっているグラスを使えば、日本酒の香りをぞんぶんに楽しめます。 そして、定番かつ最も深い沼である、徳利(とっくり)とおちょこを用意する飲み方。徳利は小さな片手鍋に入れてお湯で温めれば燗酒も作れます。おちょこは一口ごとに濃縮された味わいを楽しめるほか、素材により口当たりが全く異なり、集めたくなります。集めたくなるから、危険な趣味です。 出典:かたくち屋 ほとり 田澤祐介 釣鐘型片口 拭漆 薄白 初心者におすすめの酒器は片口(かたくち)といわれる、上が開いた器です。上が開いているため洗いやすく、手入れが簡単。注ぎ口をパキッと割らないよう注意しておきさえすれば、とても楽に扱えます。この片口とおちょこをセットで買えば、あなたも日本酒ヲタクの仲間です。ようこそ、深い沼へ……。 シーズンに合わせておすすめの日本酒を飲んでみよう 日本酒を飲むべきシーズンは、10月と2月です。10月ごろになるとその年のお米を使った新酒が製造され、「しぼりたて」と書かれた限定品が出回ります。作りたての味である「無濾過・生酒」がおいしいのもこの時期。10月になったらぜひ、日本酒ショップをご覧ください。 次に、2月3日から始まる「立春朝搾り」。その日の朝に搾ったばかりのお酒を、その日のうちに届けてくれる大イベントです。立春朝搾りの日本酒は例年予約限定で販売していますので、事前にお酒を押さえましょう。この立春朝搾りに参加している酒造は当たりの比率が高く、初心者にもおすすめです。 それでは、よい日本酒の旅を!※本稿の中に登場するレーダーチャートの画像は、すべて日本酒レビューアプリ「さけのわ」のレビューをもとに作られたフレーバーチャートを引用しています。

野菜? それとも果物? 「赤い絶品」トマトを巡る意外な真実、そして美味しさの秘密

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「野菜? それとも果物? 「赤い絶品」トマトを巡る意外な真実、そして美味しさの秘密」。手紙さんが書かれたこの記事では、トマトへの偏愛を語っていただきました! 考えてみると、人はなにかと「赤いもの」にひかれる傾向があるようだ。子どものころは夏にスイカが食卓に並ぶと踊らんばかりに(本当に踊ったわけではないけれど)歓喜。冬になればサンタクロースの姿が頭にチラついて、クリスマスが来るまでずっとソワソワしていたものだ。 僕にとって赤いものといえば、どういうわけか「トマト」が真っ先に思い浮かぶ。トマトって美味しいですよね。なんでトマトって美味しいんだろう? と、ときどき真剣に考えてみるんだけれど、いまだに答えが見つからない。 だが、こんなに美味しいトマトなのに「美味しくないよね」と、トマト嫌い派を堂々と宣言してはばからない人が一定数いるのも事実だ。子どもの嫌いな野菜といえば必ず上位にランクインするし、大人になっても好きになれないという人もいる。僕は子どもの頃からトマトにはわりと好感をもっていて、大人になった今では一番好きな野菜といっても過言ではない。 でも調べてみると、トマトって実は植物学的に野菜ではないって知っていましたか?トマトはナス科の果菜で、野菜として扱われることが多いから「野菜的果実」と呼ばれている。(でも、農林水産省と総務省の区分によって、日本ではトマトは野菜に分類されているというややこしさ。) 僕はトマト大好き派を自認しておきながら知らなかった。それなのに嫌いな野菜に無理矢理ランクインされるトマトには同情を禁じ得ない。同じ赤いもの仲間であるスイカほど人気があるわけでもなく、人によって野菜と言ったり果物と言ったりする。トマトってけっこう気の毒な立場にある食材なのだ。 気の毒だといえば、また子どものときの話になるんだけれど、夏休みに祖母の家で食卓に出されたトマトも気の毒だった。祖母はあまり料理が好きなタイプではなかったのだが、トマトのスープを作ってくれたことがある。それまで何度も祖母の手料理を食べたことはあったが、トマト料理が並ぶことはほとんどなかったからいささか虚をつかれてしまった。 恐る恐るスープを一口飲んでみると、どうにも美味しいと言えるようなものではなかった。味はまったく覚えていないが、「あまり美味しくない」という記憶だけは鮮明に残っている。「せっかく作ってくれたんだから」と何度かスプーンですくって飲んでみた。でも結局、完食することなくギブアップしてしまった。 スープを残したときの祖母の残念そうな顔は、なんとも気の毒だったけれど(お婆ちゃんゴメンなさい)、あの残されたトマトスープもまったく気の毒としかいいようがない。あのスープは結局どうしたんだろう? 祖母が全部飲んだのか、それとも誰にも知られることなく廃棄物として処理されたのか。祖母が亡くなったいまとなってはもう確かめようもない。 幸か不幸か、僕はトマト料理が好きで最近よく作っているけれど、亡くなった祖母とは違って、母はわりと料理が得意なほう。なので僕の料理好きは母の影響を少なからず受けているのかもしれない。 トマトが赤くなると医者が青くなる トマトといえば栄養豊富な野菜(ここでは野菜としておく)としても有名で、特に「リコピン」はトマトの代名詞といってもいいかもしれない。リコピンの他にもビタミンが豊富でカリウムも含まれる。 これだけ健康に良い野菜なので、世界のどこかでは「トマトが赤くなると医者が青くなる」と言われている。トマトの栄養価が高いことを婉曲的に表現してるわけだが、実は生で食べるより加工したほうがリコピンの吸収が格段に上がるらしい。しかも旨み成分の「グルタミン酸」もたくさん含んでいるから、調理することでトマトの旨みがぎゅっと引き出される。これだけ世界中にトマト料理があるのも当然といえば当然なのだ。 でも世界的な視点で眺めると、日本人はあまりトマトを食べない民族で、トマト大好き派の僕としては残念で仕方がない。世界平均では一人あたり年間20kgも消費しているのに、日本人はその半分の10kgしか食べていないそうだ。僕たちはもっとトマトについて、いやトマト料理について知るべきなのではないだろうか。 というわけで、まったくの独断と偏見で僕の好きなトマト料理を紹介します。一人でも多くの人がトマト料理を好きになってくれたら、これほど嬉しいことはない。 僕の選ぶトマト料理 ①トマトソーススパゲティ お腹がすいたときの白米は格別に美味しいけれど、スパゲティも負けずに美味しい。特にトマトを使ったスパゲティは僕たち日本人にも馴染みが深い。 ニンニクをオリーブオイルで熱し、刻んだ玉ねぎとトマト缶をフライパンでしばらく炒め、茹で上がったスパゲティを絡める。タバスコで辛味を加えてもいいし、粉チーズをパラパラ振りかけてマイルドに仕上げてもいい。そのときの気分で味の方向性を決められるのもトマトソーススパゲティの良さのひとつだ。 口に含んだときのトマトの酸味と旨みは、空腹であればあるほどマシマシになる。できればトマトソースが口の周りにつくのも気にぜずに貪りたい。無心に貪った分だけ満足感が爆増するからだ。 ②トマトカレー S&Bのカレー粉を使ってカレーを作ることがある。多くの人が知っていると思うが、カレーは文句なく美味しい料理のひとつだ。ニンジンや玉ねぎ、じゃがいもを入れた野菜たっぷりカレーもいいけれど、シンプルにトマト缶だけを入れたトマトカレーも美味しい。 ケチャップ、ウスターソース、砂糖、しょう油で味付けしてトマトを煮込むと、旨みがジワジワ引き出される。トマトだけでもこんなに美味しくなるのかと驚くはずだ。とろけるチーズをトッピングしてもいい。スパイシーさがおさえられてよりマイルドになる。あまり食欲がないときでもペロッといけてしまう、それもトマトカレーの良さだ。 ③鶏肉のトマト煮込み 肉にもいろんな種類があるけれど、僕は圧倒的に鶏肉が好きである。豚肉も牛肉も悪くないけれど、普段料理するときは鶏肉をチョイスすることが多い。別に何か理由があるわけではない。鶏肉料理といえば親子丼とか照り焼きとかカシューナッツ炒めとか料理名をあげればキリがない。中でもトマト煮込みは僕の好きな鶏肉料理の一つとして真っ先にあがる。 鶏のモモ肉をトマトで煮込むと両者の旨みがグッと増す。それもそのはずで、トマトが持つグルタミン酸と鶏肉の持つイノシン酸が掛け合わされると、単体で食べるより旨みが何倍にも強化されるのだ。トマトの旨みと酸味をまとった鶏肉は、舌の上でジュワッと溶けてくる。冷蔵庫の中にトマトと鶏肉があるとき、一緒に煮込まない理由があるだろうか?? ④トマトゼリー 僕はゼリーが好きだ。夏の暑いときに食べるゼリーは格別だけれど、冬の寒いときに食べても美味しいものは美味しい。みかんやキウイや柿のゼリーを作ったことがあるけれど、僕はやっぱりトマトのゼリーが好きなんです。 トマトを細かく刻んでミキサーにかけ、水と砂糖を加えて混ぜ合わせる。最後にゼラチンをいれて冷蔵庫に冷やすと簡単にトマトゼリーが作れてしまう。トマトが苦手な人でもトマト感をあまり主張してこない料理なので、ツルッといけてしまうはず。油っこい料理を食べたあとの、爽やかなトマトゼリーの喉越しはなんの罪悪感もない。 僕はつくづく思うのだけれど、トマトほど有能な食材はないんじゃないだろうか。肉にも合うし魚にも合うし(サバ缶のトマト煮美味しいんだよなあ)、スープにも合う。主役として目立たせることもできれば、脇役に徹することもできる。 こんな有能多彩なトマトを料理に使わない手はない。明日から、いや今日からトマト料理に親しんで少しでもトマトの美味しさを再認識してもらえたら、トマト大好き派の僕としては本望だ。
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管理か自由か―『PSYCHO-PASS(サイコパス)』あらすじから見る未来社会のリアル

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「管理か自由か。『PSYCHO-PASS サイコパス』あらすじから見る未来社会のリアル」。もともと娘さんがハマったアニメにヌマってしまい、season1~3、劇場版サイコパスもすべて見尽くしたうえで「season1はぜったい見てほしい!」という森佳乃子さんが書かれたこの記事では、アニメ『PSYCHO-PASS サイコパス』season1への偏愛を語っていただきました! AIにもはや「できない」ことはない。AIはいまやすさまじい勢いで進化している。スマホ、顔認証による防犯カメラ、ビッグデータ……。AIは確かに生活を便利にしたし、これからさらに便利になっていくだろう。しかし一方で、自分の情報が自分の知らないところで管理されていることに不気味さを感じている人もいる。 管理か。自由か。アニメ『PSYCHO-PASS サイコパス』が描いた世界はもうすぐ、そこまで来ている。なお、本作品は全部で3シリーズ制作された。しかしseason1のインパクトがあまりにも強烈であったために、ここではseason1についてのみとりあげる。 『PSYCHO-PASS サイコパス』は、スリリングなアクションや緊張感あふれるサスペンスだけでなく、「人間とは何か」を描き出す哲学的な思考を促す作品だ。常守朱(つねもり あかね)や狡噛慎也(こうがみしんや)をはじめとするキャラクターたちは、それぞれの異なる価値観や背景を持ちながら、システムの中での人間らしさを守り続ける。 この作品が多くの視聴者に支持される理由は、深い人間ドラマにあると言えるだろう。 まあ、読んでくれ。読んだらぜひ見てみて欲しい。『PSYCHO-PASS サイコパス』は間違いなく最高作品のひとつだから。 『PSYCHO-PASS サイコパス』あらすじ https://www.youtube.com/watch?v=b0ml1lqhpWw 『PSYCHO-PASS サイコパス』の舞台は未来の日本だ。人間が「サイコパス」という概念で管理されるディストピア社会が描かれる。「サイコパス」は、人間の精神状態や心理的傾向をあらわすこの物語独特の概念である。世界を管理しているのは「シビュラシステム」と呼ばれるAIであり、特殊な人間の脳をつないだ集合知的なネットワークシステムである。 圧倒的な世界観!シビュラシステムが作るディストピアの全貌 「シビュラシステム」によって人々は、犯罪の未然防止、社会の安定、個人の適性評価など、多岐にわたる分野で恩恵を受けている。しかし同時に、人の「自由意志」や「選択肢」は制限される。「管理による安全」と「自由意志」は完全にバーターである。このシステムの存在を通じて物語は「理想的な社会とは何か」「管理と自由のバランスをどう取るべきか」という深い問いを投げかけてくる。 主人公たちは、システムの恩恵と矛盾の間で葛藤しながら、それぞれの正義や信念を模索する。視聴者もまた、シビュラシステムをどう捉えるかによって、物語を異なる視点から楽しめるのがこの作品の魅力だ。 シビュラシステムの主な機能 犯罪係数の測定 人間の精神状態をリアルタイムで測定し、「犯罪係数」という数値であらわす。犯罪係数が一定以上の数値になると、潜在犯と判断され、社会から隔離される。 社会秩序の維持 個人の精神的安定や行動を監視し、犯罪を未然に防ぐ。公安局刑事課や「ドミネーター」と連携し、現場での対応を判断する。 職業適性の判定 個人の能力や性格に基づいて、最適な職業や社会的役割を割り当てる。社会の効率性を高めるために、個人の行動を制御する役割も果たす。 裁判システムの代替 従来の司法制度に代わり、即座に犯罪者の処罰や更生プログラムを決定する。 「サイコパス」とは https://twitter.com/saraloveais21/status/1866802042846712329 物語において「サイコパス」という言葉が設定や会話の中で使われる。ただし、現実世界での「サイコパス」という言葉の意味(精神障害の一つである反社会性パーソナリティ障害など)とは異なり、作品独自の意味合いで使用される。 物語の中における「サイコパス」とは、シビュラシステムが測定する心理状態や精神の健全性をあらわすスキャンデータのことである。ひとりひとりの色(クリアな色から濁った色まで)と数値(犯罪係数)で表現される。 具体的な使い方 「サイコパスが濁る」→ 精神的ストレスが増大し、犯罪係数が上昇している状態を指す。 「サイコパスをクリアに保つ」→ 健全な精神状態を維持し、犯罪係数が低く保たれていることを意味している。 サイコパスのスキャン結果は、犯罪係数や心理色相(Hue)として具体的なデータに落とし込まれる。特に「心理色相」は、その人の精神の健全度を色の濁りとして視覚的に表すシステムである。 人々はシビュラシステムによって24時間監視の対象とされ、管理されている。犯罪係数が高くなった者がいれば即時通報され、社会から排除される。そのため、事件が起きる前にすべてがコントロールされ治安は保たれる。 100以下: 健常とみなされ、一般社会で普通に生活可能。100以上: 潜在犯と判断され、公安局により監視や治療の対象となる。300以上: 危険人物と見なされ、即時排除(=致死処分)の対象。 アクションだけじゃない!『PSYCHO-PASS サイコパス』が描く人間ドラマの魅力 https://twitter.com/yasuda1229/status/1870964375198277659 物語の中心にあるのは、完全な管理社会を実現した「シビュラシステム」だ。 人々の精神状態や行動が数値化され、犯罪係数という指標によって安全な社会が維持されている。このような状況下で、登場人物はそれぞれの立場や信念に基づいて、「自分なりの正義」を考える。 『PSYCHO-PASS サイコパス』の人気は、緻密に構築された世界観、魅力的なキャラクター、深遠なテーマにある。この作品は単なるエンターテインメントにとどまらず、見るものに哲学的な問いを投げかけ、考える楽しさを提供していることが、支持を集める最大の理由である。ここで、本作品の魅力について大きく3つ挙げてみる。 1. 深いテーマと社会批判 『PSYCHO-PASS サイコパス』は、未来社会における全体主義や管理社会の恐怖、自由意志の尊重、正義の在り方といった哲学的・倫理的テーマを扱っている。見るものに現代社会との類似点に気づかせ、自分たちの未来にも起こりうるかもしれない問題を考えさせる。 そして本作品が描くドラマの真髄は、社会における「正義」と「自由」の間で揺れ動く人々の姿にある。登場人物たちの行動や選択は、視聴者に「理想の社会とは何か」 「人間らしさとは何か」という問いを突きつける。シビュラシステムの絶対秩序のもとで生きるキャラクターたちの物語は、私たちの社会で直面するかもしれないジレンマを予言しているようだ。 2. 魅力的なキャラクター 登場人物たちはそれぞれ強い個性を持ち、背景や信念について深く描かれている。後述するが、特に主人公の常守朱やアンチヒーローの狡噛慎也、また二人にとっての強力な敵である槙島聖護(まきしましょうご)といったキャラクターは、物語におけるジレンマとなり、視聴者の心に残るものとなっている。 主人公の常守朱は、新米監視官として物語に登場する。彼女はシビュラシステムの正義を信じ、その価値観の中で仕事に取り組むが、やがてシステムの矛盾や限界に気づき始める。犯罪係数に基づく「潜在的犯行」の扱いや、一切の温情を排除するシステムの躊躇ない決断が、彼女の信念を大きく揺さぶる。 常守朱の成長は、ただ「正義」を追い求めるだけではなく、どのようにシステムを活用して社会をより良くするかという現実的な視点を含むものであり、その姿勢は、理想と現実の間で苦悩する視聴者自身の姿を見ているようにも感じられる。 一方、執行官の狡噛慎也は、過去に経験した苦い経験からシステムに強い不信感を抱いている。その姿もまた、視聴者に強い共感と感動を与えるはずだ。 彼の行動にはときに冷酷さを伴うが、それは「復讐」や「正義感」という人間らしい感情の表現でもある。 特に、システムに逆らい自由意思を尊重する槙島聖護との対立は、狡噛の葛藤の重要な要素である。 彼は槙島の考えに共感しながらも、犯罪という手段を許すことができない。この二人の関係性は、人間の「弱さ」や「揺らぎ」を象徴するものとして、season1の物語の中心に位置する。 『PSYCHO-PASS サイコパス』は、サブキャラクターたちの物語も細やかに描いてゆく。宜野座伸元(ぎのざのぶちか)は、システムに従順であると同時に父親との関係に苦しみ、葛藤を抱えながら任務に就いている。彼もまた、「0か100か」といったシステマチックな正義だけではない人間らしさゆえに立場を失う側の人間だ。しかし、それを受け入れた時、穏やかにほほえむ宜野座を見た人は、彼の選択は間違っていなかった、と感じるだろう。 3. 緻密な世界観とシステムの設定 このドラマの見どころの一つは「シビュラシステム」という未来の管理社会の設定が極めて緻密なことだ。この世界がいかに機能しているかが丁寧に描かれており、視聴者は物語に没入することができる。また、システムの裏に隠された秘密が少しずつ明らかになっていくミステリー性も人気の理由の一つである。 シビュラシステムは完全に数値だけで人を分けていく。「以上」か「以下」か。このシステムがあれば冤罪は発生しえない。人間には限界がある。人の心や考えを読むことはできない。それが時に重大な犯罪を見逃すことにもなり、また逆に全く無実の人を何十年もの間拘置所に閉じ込めるという失態にもつながった。 「人の心が読めたなら」 シビュラシステムは犯罪を抑止する側の人たちの願いにも、冤罪を起こさせないために戦っている側の人たちの願いにも応えているようにみえる。 『PSYCHO-PASS サイコパス』の主な登場人物 常守 朱(つねもり あかね)CV:花澤香菜 物語の主人公で新任監視官。正義感が強く、シビュラシステムに対して複雑な感情を抱く。 『PSYCHO-PASS サイコパス』は朱の成長の物語でもあり、核となる人物である。season1開始時には20歳であり、まだ幼さがあった。しかしながら監視官として卓越した判断力を持ち、冷静沈着に物事を捉える能力に優れている。 人間性やシステムの倫理性に関する深い思索を持ち、「シビュラシステム」に対しても盲目的には従わず、自分なりの正義を追求していく。また部下や同僚の心情に寄り添いながらも、状況に応じて冷徹な判断を下すバランスの取れた人物として描かれる。 シビュラシステムの本質をとらえ、その限界や非人道的な側面を受け入れつつ、それでも社会に必要なシステムとしての役割を認識する。シビュラシステムを排除するのではなく、システムを利用してよりよい社会を作り上げようとする物語の「良心」。 狡噛 慎也(こうがみ しんや)CV:関智一 物語の中心的な登場人物の一人であり元刑事課一係の執行官。元監視官でもあったが、過去に親友であり同僚でもあった佐々山光留(ささやま みつる)を猟奇的な方法で槙島に殺害されるという事件がきっかけで監視対象となる。加害者である槙島に対する強い復讐心を抱くとともに、シビュラシステムに対する強い疑念を持っている。その複雑な人格や過去が物語の大きな魅力でありファンを強く引きつけている。 槙島 聖護(まきしま しょうご)CV:櫻井孝宏 シリーズ1の主要な敵役。シビュラシステムに反旗を翻す思想家でカリスマ性がある。その残虐性や異常性にシビュラシステムが反応しない「異常体質」の持ち主であり、システムに対抗できる唯一の人物ともいえる立場から、シビュラシステムの非人道的な本質を明らかにする役割を果たしている。犯罪者でありながら深い知識と論理的思考を持ち、強烈なカリスマ性で他者を引きつける。文学や哲学に通じ、よく引用や議論を通じて自らの思想を語る。 登場時はおそらく30代と思われ、学校の教師をしている。美しい外見とは裏腹に他者の命を軽視し、犯罪を道具として使用する冷酷さを持つ。一方で、彼の行動にはシビュラシステムへの強い批判と一貫性がある。 槙島は、「人間の価値は自由な意志によって決まる」と考え、シビュラシステムによって制御された管理社会を激しく否定する。システムが正しいとされる社会に波紋を投げかける存在として、視聴者に「理想の社会とは何か」を問いかける。 シビュラシステムによる管理社会に対する強烈なアンチテーゼにおいて狡噛慎也と同じ思想を持つが、彼の親友である佐々山を残酷な方法で殺害したことにより狡噛とは激しく対立する。 宜野座 伸元(ぎのざ のぶちか)CV: 野島健児 シーズン1登場時は厳格な監視官として登場する。父親が監視官でありながら潜在犯となり執行官に降格となったことから父親と距離を置いている。物語の初頭、同じく監視官であったにもかかわらず執行官に降格した狡噛慎也と対立する場面が多く描かれる。しかし物語が進むにつれ、シビュラシステムや人間関係に対する柔軟さを身につけていく過程で父親とも和解する。 父親に対する反発心から人にも自分にも厳格な宜野座はもっとも「人間らしい」一面を持った人物と言えるかもしれない。彼の厳しさや内面の葛藤は、物語全体のテーマである「正義と自由」「人間性と管理社会」の複雑さを象徴している。視聴者にとって、彼の成長は作品の大きな見どころの一つである。 六合塚 弥生(くにづか やよい) CV:伊藤静 寡黙で冷静、感情をあまり表に出さない性格。他のキャラクターに比べて、控えめで落ち着いた印象を与える。判断力と洞察力に優れており、チームの中では「クールな知性派」として描かれる。 Season1第12話「Devil’s Crossroad」では、彼女の過去が描かれる。このエピソードでは、彼女がもともとギタリストとして音楽活動をしていたことが明かされる。しかし、シビュラシステムによる管理社会の中で、自分の自由や夢を抑圧される形となり、やがて潜在犯と判定されてしまう。 音楽活動を諦めざるを得なかった彼女が、公安局の執行官になるという選択をした背景には、シビュラシステムへの複雑な感情が影響している。シビュラシステムが支配する社会の中で、彼女の自由な表現や個性は受け入れられず、次第に精神的な負荷を抱えるまでにいたる。その結果、彼女は犯罪係数が上昇し、潜在犯として社会から排除される立場に追い込まれてしまうのだった。 しかし弥生はシビュラシステムを完全に否定しない。システムの利便性を享受しながら、個性や自分らしさを追い求める生き方を見せる。バランスの取れた見方と音楽に対する未練、システムに従うことでしか生き残れないことに対するあきらめとが交錯する人間らしさを見せる。「自由と管理社会の狭間で生きる人間」を象徴する存在である。 槙島聖護の名言から見る『PSYCHO-PASS サイコパス』 https://twitter.com/yu04_movie/status/1861920949408600212 槙島聖護は単なる「敵役」ではない。『PSYCHO-PASS サイコパス』という物語の中に一貫している「人間らしさとは何か」「自由とは何か」というテーマを具現的にあらわしたものだ。私たちは思考停止してはならない。しかし、自由もまた無制限ではなく責任が伴う、ということを槙島との戦いによって見ることになる。 「魂を痛めた人間にとって、自由は恐怖でしかない」 この完璧に見える社会に反旗を翻すのが、season1の敵役である槙島聖護だ。彼は、シビュラシステムの管理を拒否し、人間が持つべき「自由意志」について自分の考えを譲らない。彼の「魂を痛めた人間にとって、自由は恐怖でしかない」という言葉は、このテーマを象徴している。 槙島は、システムに依存せず自分の意思で行動することの重要性を美学とするが、そのための手段として暴力や犯罪を選ぶことが多く、その行動は多くの人の命を奪う。自由意志の価値を示唆する瞬間、それが暴走したときの危険性も示しているのである。 管理された社会は人々から「思考」を奪い、人としての感情から生まれる行動を抑制する。それは果たして本当に幸福であると言えるのだろうか。 槙島聖護は朱や狡噛ら公安警察との戦いの中でそう問い続ける。 現代社会において、ビッグデータやAIに囲まれ生活が便利になった半面、「思考停止」していることはないだろうか。私たちに「人間らしさとは?」「自主的に判断しているか?」といった問いを投げかけてくる槙島のセリフは文学書からの引用であったり哲学的であったりする。それら「知性」を感じさせる言葉ゆえに犯罪者でありながら単なる悪役ではなく、見るものをひきつける魅力的なキャラクターになっている。 「真実とは人の数だけ存在する。だが、事実は一つしかない」 この言葉は、槙島がシビュラシステムの本質や管理社会の矛盾を語るシーンで語られている。 彼は、システムが提供する「事実」に依存しすぎる社会を批判し、個人が持つ「真実」の多様性を否定している現状に疑問を投げかける。 槙島が言う「事実」とは、数値化された犯罪や係数システムによる絶対的な評価である。この考えは、私たちが事実に基づいて合理的な選択をすることの重要性を認識しつつも、その裏にある多様な真実を軽視してはいけないという教訓を与えているのではないだろうか。 「本を読むということは、過去の偉人たちと対話することだ」 槙島は第5話「誰も知らないあなた」で高校の国語教師として初登場する。彼は会話の中で頻繁に文学や過去の哲学者について触れる。その文学的な素養と博識は彼の真の目的をカムフラージュする。彼は純粋で思考の柔らかな高校生たちに自分の思想を刷り込み、いじめを煽り、人が極限に立たされた時にどう行動するかを観察する。 「学校」という管理社会がどのように若者の心に影響を与えるかを見つめ、システムに管理されることを批判する。しかし、ドラマを見ている人たちは人の自由意志が制御されなくなったときの凶暴性や残虐性についても見ることになる。無制限の自由もまた人に幸福をもたらすものではない。 狡噛慎也というアンチヒーロー 自由と正義の狭間で https://twitter.com/shochikucollabo/status/1863508420105752770 『PSYCHO-PASS サイコパス』の物語世界において、狡噛慎也(こうがみしんや)は最も印象的で複雑なキャラクターの一人である。 彼は「理想の正義」を追い求め、シビュラシステムに管理された社会の中、信念と現実の狭間で葛藤し続ける。その姿は、「ヒーロー」像とは一線を画し、「アンチヒーロー」として物語の核となっている。 かつて狡噛慎也は、シビュラシステムの管理下における公安警察という組織の中において、犯罪者を追い詰める優秀な「監視官」であった。しかしあるできごとをきっかけに、彼の人生は一変する。復讐心と正義感の狭間で揺れ動く中で犯罪係数が急上昇し、自らも「潜在犯」として降格され、執行官となった。この経験が彼の信念を形作り、彼を単純な正義の追求者ではなく、深い葛藤と闇を抱えるアンチヒーローへと変えた。 狡噛はシビュラシステムに対して大きな疑念を抱きながらも、その一部として社会に貢献し自らの正義を実現しようとする。 しかし、シビュラシステムが生む不条理や矛盾に、彼の信念は揺さぶられる。 特に物語の中盤、槙島聖護と対峙するシーンでは、狡噛の葛藤が生じる。槙島の考えに一定の共感を示しながらも、その方法論には強く反対し対立する。 狡噛慎也の魅力は、彼が持っている「人間らしさ」にあると言える。 彼は完璧な正義を求めるヒーローではない。しかし、その行動の背景には、システムに管理される社会の中で自分なりの正義を追求しようとする強い信念がある。その葛藤こそがリアルで共感しやすいキャラクターにしているといえるだろう。 また、彼は常に自分の行動に責任を持ち、それがいかなる結果であろうとも受け入れる覚悟を持っている。この姿勢こそ、視聴者に槙島とは違う面での「正義とは何か」「自由とは何か」という深い問いを投げかける重要な要素となっている。 狡噛慎也の行動や選択は、物語の展開に大きな影響を与えるだけでなく、他のキャラクターにも深い影響を与えることになる。彼の影響を受けた朱は、シビュラシステムの中で自らの正義を追求する道を選択しはじめる。 視聴者に対しても、「正義とは何か」「自由を追求することの代償は何か」という問いを突きつけ続ける。狡噛を見ている私たちは理想と現実の間で苦悩する私たち自身の姿を眺めているのかもしれない。 狡噛慎也というキャラクターの本質は「不完全であること」にあると言っても過言ではないだろう。彼の行動や選択は、時には失敗を招き、周囲に禍根を残すこともあるが、その不完全さゆえ、いやまさにその不完全さこそが彼を「人間らしいヒーロー」としているのだ 。狡噛慎也は、理想的な正義の概念ではなく、現実社会で私たちが直面する葛藤に寄り添う存在であろう。 管理社会 vs 自由意思――『PSYCHO-PASS サイコパス』が予見する未来の可能性 『PSYCHO-PASS サイコパス』は、正義や人間の本質について問いかける、深遠なテーマを扱った作品として評価されているアニメだ。 本作品が提示する管理社会と自由意志の対立は、単なるフィクションではなく、私たちが直面する現実の問題として提示される。安全と自由のバランスをどう取るかは、技術が進歩するほど重要なテーマとなっていくことが予想される。 この作品を通じて、視聴者は「理想的な社会とは何か」「自由を守るために必要なことは何か」を考えるきっかけを得るだろう。『PSYCHO-PASS サイコパス』は、私たちに未来の可能性と選択を示し、その中で人間らしさをどう守るかという問いを投げかけている。

だれだよ、美少女ゲームは現実逃避だっていったやつ。ぼくの現実はこんなつらくないよ!

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「だれだよ、美少女ゲームは現実逃避だっていったやつ。ぼくの現実はこんなつらくないよ!」。海燕さんが書かれたこの記事では、美少女ゲーム『WHITE ALBUM2』への偏愛を語っていただきました!  当時、私には一日一日が晩年であった。  恋をしたのだ。そんなことは、全くはじめてであった。   太宰治「ダス・ゲマイネ」 ども。二次元美少女はお好きですか? ぼくは好きです。 ぼくのような腐れオタクはみな一様に架空の美少女たちの一挙一動に癒やされます。テレビやモニターのなかで少女たちがちょっとほほ笑むだけでもう天にも昇り、何ならこの残酷な世界を創った神をも赦してやろうかという気分になる。 それはどれほど非難されようと変えられない、オタクとして生まれた者の習性なのです。……え? バカ? 神さまもおまえにだけは赦されたくないと思っている? うるさいな、ほっといてくれよ。 いやまあ、たしかにその手のアニメを見ながら「て、てえてえ! ななな、なんていい子なんや(涙)!」と天を仰いだりしている姿はちょっとだれにも見せられないけれど、でもしかたないんだ、これは生まれながらにして背負った「宿命」なんだ。 デンマークの王子ハムレットが復讐に生きざるを得なかったように! しあわせに生きていた人魚姫が切ない恋に一命を散らしたように! オタクはどうしようもなく美少女に惹かれ、その下僕となって一匹の萌え豚へと堕ちるさだめなのだ。笑いたければ笑え、これがぼくたちの「幸せ」なんだから。ぶひぶひ。 しかし、一方で、世の中にはそのような心優しいオタクたちのばかみたいに繊細なココロを折って折って折りまくる恐ろしい作品も存在します。 それはたとえばあたりまえの美少女ゲームの山に紛れてオタクたちを誘惑し、阿鼻叫喚の地獄へひきずり込むわけです。今回はそのような「鬱ゲー」のなかでもとびきり破壊力を誇る一作をご紹介しましょう。 そのタイトルは『WHITE ALBUM2』(プレイステーション3版)。いやあ、これがねえ、ほんとにとんでもない話なんだ。もう、遊んでいて苦しいこと苦しいこと。 だれだよ、美少女ゲームは現実逃避だっていったやつ。ぼくの現実はこんなつらくないよ! いやあ、ほんとのほんとに大変なシロモノなんです、これが。 三角関係ものはありふれてはいるが―― https://www.youtube.com/watch?v=rlCW8yGe7l0 『WHITE ALBUM2』。この作品は、そのタイトルからもわかるとおり、往年の名作『WHITE ALBUM』の続編です。 もっとも、内容的には完全に独立しているので、前作を知らなくてもまったく問題なくプレイできます。たぶん『ドラクエ』と『ドラクエ2』のほうがまだ関係しているといえるでしょう。 どうやら同じ世界を舞台にしてはいるらしいのですが、共通項は男女の「三角関係」を描いているという一点です。 三角関係。 はい、もうこの時点で不穏なものが感じられますね。そう、このゲームはひとりの主人公とふたりの少女たちの恋のかたちを追いかけている物語なのです。 何、普通? それくらいどうってことないって? はん(見下した笑い)。たしかに、男女三人の恋のトライアングルを描く作品は昔からたくさんあります。いわゆるラブコメマンガの黎明期においてすでにそういう作品は描かれていました。 まあ、ごく常識的に考えて、ただ主人公とヒロインのふたりだけにフォーカスしつづけていたら物語が盛り上がらないので、もうひとりヒロインを出して揺れる心理を描こうとすることは当然の作劇といえることでしょう。 そういった物語では必然、いずれかのヒロインは恋に破れることになるわけですが、いまどき、そのくらいの展開でとくべつ悲嘆に暮れる人も少ないに違いありません。 いや、一部のオタクはキラキラした目をして「純愛」を信奉したりするケナゲな生き物なので、その少数派に属する人も少なくないかもしれません。しかし、そうはいってもいまさら三角関係くらいで悶えてはいられないこともたしか。 ましてぼくのような世界のすべてを斜めに見る白けきった皮肉屋にとって、「主人公はどっちと結ばれるのか?」といった問いはさほど魅力的には思えません 。そう、ふつうだったら。ところが、このゲームはそうじゃない。 物語は、まず、主人公である北原春希たちの高校生時代から始まります。かれは高校時代に思い出を残そうとちょっとしたロックバンドを組んでいたのですが、そのバンドはあっさり崩壊してしまうのです。 このままでは何もできず高校生活が終わってしまうという危機のなかで、春希は運命的にふたりの少女と出逢います。優れたヴォーカリストである小木曽雪菜と、問題児ながら天才ピアニストである冬馬かずさ。 かれはふたりをバンドに誘い込み、学園祭をめざしていっしょに練習を始めます。そして、かれらは激しく衝突しながらもなんとかステージを成功させ、物語はハッピーエンドに終わるのです。めでたしめでたし。良かったね。 ぶひ? いや、もちろん、そんな簡単に終わるはずはありません。なんと、このとき、雪奈は春希に告白し、ふたりは付き合うことになるのです。彼女は春希とかずさが惹かれ合っていることに気づいていたのに! そして、色々あったあげく、春希とかずさは結ばれるものの、雪奈のことをも思うかずさは身を引き、海外へ留学してしまうのでした。うわあ! もうこの時点でつらいよ! このやるせないしんどさを伝えられないぼくの文章力不足が恨めしい。三人が三人とも自分以外のふたりのことを思いやりながら、どんどん追い詰められていく過剰なまでにシリアスな展開はプレイヤーのガラスの精神をも粉々に砕きかねない迫力を備えているのです。 つらっ。本気でつらっ。しかし、ここまではまだほんの序の口に過ぎないのでした……。ひいっ。 ふたりの上に時は粉雪のように降り積もる https://www.youtube.com/watch?v=tJ3cRTsmi9k じつはここまでは全篇のプロローグにあたる『introductory chapter』です。そして、物語はここから数年後に飛び、大学に通う春希と、そのあいだにいっそうかれを強く想うようになりながらも、いまだにかずさへの遠慮も消せずにいる雪奈を追いかけていきます。 題して『closing chapter』。この章では、かずさがいなくなってしまい、残されたふたりの関係がきわだって繊細に描かれます。ところが、また、ここに他の女の子たちが絡んでくる。 いやもう、ふたりもの可愛い女の子に熱愛されているんだからそれで済ませておけば良いものを、さらに新しい女性たちと関係を結んでしまうんですね。 うん、それただの浮気男じゃね、と思われるかもしれませんが、違うんだよ、いや、そうだけれど違うんだよ。ただの浮気とかじゃないんだよ。雪奈のことを真剣に想っているからこそ、かえって彼女といることが苦しくなっていく微妙な男ゴコロなんだよ。 ここら辺、描き方によってはほんとにただのろくでもない男にしか見えなくなってしまうところだと思うのだけれど、この作品はじっくりと丹念に春希の心理を追いかけることでかれの揺らぐ恋に説得力を持たせています。 そもそも、もともと春希はかずさに惹かれていて、そのままであれば彼女と結ばれたはずなんですよ。そこに雪奈が割って入ったからこそきわめてややこしい状況になってしまったわけで、春希と雪奈のあいだにはほんの少し、しかし致命的な溝がこのときもなお、あるのです。 雪奈のことは好きだし、愛している。でも、かずさのことも忘れられない。春希の心が複雑に屈折していることは理解できます。 あるいは、ずっとかずさがいれば、かれはそのまま彼女を選んでいたかもしれない。だけれど、実際にはかずさはいない。だからこそ、その心は揺らぐ。納得できる展開です。 しかし、三人のサブヒロインたちとのエピソードを経て、春希と雪奈は結局その関係を強固にします。 そう、ようやく時がふたりの関係を健全なものにしてくれたわけです。あたかも空から舞い降り、舞い散る雪片のように、時はふたりの上に積み重なり、そしてその絆を深いものにした。かずさの幻影をも振り払うほどに。 こんどこそめでたしめでたし。良かった良かった。重苦しい展開に耐えた甲斐があった。やっぱりこの手の物語はハッピーエンドじゃないとね! いやあ、かずさには悪いけれど、ふたりには幸せになってほしいよ、ほんと。 ぼくはどちらかというとかずさのほうが好きなんだけれど、これ以上、シナリオの重さに耐えられない。ここで終わってくれて良かった(満足の吐息)。 ――ところが。物語は、ここからさらに急展開します。運命の悪戯かシナリオライターの悪意か。ある日、春希は、かずさと偶然の再会を遂げるのです。ぎゃあっ。 恋の地獄に落ちて https://twitter.com/gamers_no_gema/status/1727869773403639918 じつをいうと、『WHITE ALBUM2』はここからが本番です。ここまでの二章はあえていうならこの先の展開の前振りに過ぎません。いままでも十分に痛い物語が展開していたわけですが、この先の章「coda」はそれどころではない。 それはもう、激辛料理をのどに詰まらせたような、絶叫さえできないつらさが続いていきます。あいたたたたた。痛い! 痛すぎる! そう、春希はたしかに雪奈とのあいだに固い絆を作り上げたはずでした。かずさのことでさえ、過去にすることができた、そのはずでした。それなのに、実際にかずさと逢ったとき、そのすべてがあっさりと逆転されてしまうんですね。 そのくらい、春希とかずさ、似たものどうしのふたりはほんとうに運命的に惹かれ合っているのです。ここから先のドラマについてあえて詳細に語ることはしませんが、いやもう、ぼくはやっていて苦しかったのなんの。 これ、美少女ゲームでしょ。もっとプレイヤーに優しく都合のいい展開にならないのか、ハーレムでうきうきとかそういうしょうもない内容でなぜ満足できないのかと、シナリオライターを問い詰めたくなるくらい。 とはいえ、いったんプレイし始めてしまったら続きを見たくてたまらなくなることも事実。もっと読ませろ、と血に飢えた吸血鬼のようにさらなる苦痛を渇望しつづける羽目になります。いやはや。 最高の幸福と最悪の地獄をあたかもジェットコースターに乗っているように乱高下しつづけるどろどろのラブストーリーは、ちょっと他では味わった記憶がありません。傑作としかいいようがない。つらいんだけれど。つらいんだけれどね! ちなみに、この悪夢のような物語を生み出した悪魔のようなシナリオライターは丸戸史明という人物です。非常に優れた恋愛ものの描き手で、他にもいくつも代表作があります。 最近は美少女ゲームやラブコメライトノベルにこれといったヒット作を見かけなくなっている気がするので、あるいはかれの作風は流行とは少しズレているのかもしれないけれど、ぼくはとにかく大好きですね。 さらにいうと、丸戸さんには富士見ファンタジア文庫から出てアニメ化され劇場映画まで作られるほどの人気となった『冴えない彼女の育てかた』という作品もあります。 これは三角関係に留まらない多角形ラブコメなのですが、あくまでライトノベルということもあって『WHITE ALBUM2』と比べるとかなりマイルドな味つけになっています。 だからさほど苦しくはないんだけれど、さながら甘美なる劇毒のような『WHITE ALBUM2』を味わってしまった後だと少々物足りなくないこともない。 まあ、良いんですけれどね。本来、ライトノベルとか美少女ゲームって苦悩に身悶えしながら体験するものではないはずですから。どう考えても異常なのは『WHITE ALBUM2』のほう。 ものすごい名作だと思うけれど、こんなのばかり続けて読ませられたらぼくは死ぬ。脳か心臓かどちらかが耐えられない。 いや、このゲームはほんとにつらい。ぼくはもともと恋愛ものが大好きなヒトで、純愛小説やら不倫映画やら、いままでそれはそれはいろいろな作品を見てきましたが、そのなかでもいちばんつらいです。 しかし、どんなに苦しくてもどうしても続きを読むことをやめられないのですね。 物語は泥沼の深刻さを増しながら、さらなる地獄の底へ墜ちていきます。かずさの登場によって、春希が長い時間をかけて築き上げてきたあらゆる人間関係は破綻し、かれは何もかも失う瀬戸際までいくのです。 そして、それでもなお、かずさに惹かれる気持ちを抑えることはできない。もう三角関係というかこれ、魔のバミューダ・トライアングルか何かじゃね? という感じですが、うん、まあ、ほんとやめられない止まらない。 ぜひ、皆さんもPS3やPSVitaでプレイしてみてください。本気で切なくなるから。運命の恋なんてするものじゃないよね。やっぱり非モテがいちばん! ねえ、そう思いませんか? えっ、思わない? そうですか。そうですよね。 ゲームやろっと。

現役占い師が教える!『突然ですが占ってもいいですか』占い師の先生の経歴・占術・おすすめポイント

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「現役占い師が教える!『突然ですが占ってもいいですか』占い師の先生の経歴・占術・おすすめポイント 」。執筆者であるライターのトイアンナさんは、神社の家系で、母方の親族は全員霊が見えるスピリチュアルな家庭に育ち、幼少期から占いを習得してトートタロットで鑑定を行う占い師でもあります。トイアンナさんが書かれたこの記事では、テレビ番組『突然ですが占ってもいいですか』の占い師への偏愛を語っていただきました! TV番組『突然ですが占ってもいいですか?』は、フジテレビ系列で2020年4月15日から放送されている占いバラエティ番組です。 番組では、人気占い師が街中で一般の方々や芸能人に突然声をかけ、占いを通じてその人の過去・現在・未来を読み解きます。登場する占い師がズバリ相手の気持ちを的中させる爽快感や、占いを通じて明らかになる人間ドラマが視聴者の共感を呼んで大人気となり、長寿番組となりつつあります。 この記事では、『突然ですが占ってもいいですか』に登場する占い師の先生方を紹介しつつ、先生方の魅力について徹底的にご紹介します! 『突然ですが占ってもいいですか』の占い師一覧 ここでは、『突然ですが占ってもいいですか』に登場した9人のトップ占い師たちをご紹介していきます。 木下レオン先生 出典:木下レオン先生 Xアカウント 木下レオン先生は、占い師の家系に生まれたサラブレッドです。おじい様は姓名判断や九星気学、手相、人相、神通力、四柱推命など多岐にわたる占術をマスターし、お母様は「薬院の母」として知られる有名な占い師として、四柱推命、九星気学などを用いて鑑定しています。木下レオン先生はこの経歴から編み出した独自の占術「帝王占術」をもって、ズバリ相手の未来を見通します。 その魅力は13年間の会社員生活、そして飲食店「居心地屋REON」の経験からなる親近感のある語り口。神通力を使いながらも誰にとっても身近な表現で、未来を言い当ててくれます。著書である『木下レオンの絶対開運 帝王占術 2024』もトップセラーとなっています。 星ひとみ先生 出典:CanCam Web 星ひとみ先生といえば、いまや日本一の知名度を誇ると言っても差し支えないくらい、連日メディアに引っ張りだこの先生です。 星ひとみ先生は巫女の家系に生まれ、幼少期から占星術や心理学を学び、独自の占術「天星術」を確立しました。以前は「山咲ひとみ」という芸名で女優やグラビアアイドルとして活動していた経歴もあり、華やかなご経歴をお持ちです。 先生は『突然ですが占ってもいいですか?』への出演で一躍有名となり、芸能人の隠された過去や思いまではっきりと言い当てる的中率で視聴者の心をつかみました。公式占いサイト「星ひとみの天星術姓名判断」では、星先生監修の占いを体験することができます。 先生独自の占術である「天星術」では、生年月日で人を「海」「上弦の月」といった12のタイプに分類し、それぞれの結果を出してくれます。これが的中すると大評判なので、ぜひ公式サイトで鑑定してみてください。 シウマ先生 出典:シウマ先生 Xアカウント シウマ先生は、沖縄県出身の占い師です。お母さまが風水師であった影響から、大学在学中に姓名判断や九星気学などの東洋占術を学び始めました。そこから沖縄独自の風水である「琉球風水」と姓名判断を組み合わせた独自の占術「数意学」を考案し、これまでに延べ5万人以上を鑑定しているトップクラスの先生です。 シウマ先生が注目されたきっかけも、『突然ですが占ってもいいですか?』の出演でした。スマホの下四桁の番号で占うなど、数字を使った占いのなかでもかなり珍しい手法を活用し、どんどん相手のことを言い当てていくスタイルで人気となったのです。携帯・スマホの番号での人物鑑定は、シウマ先生の公式サイトでも無料体験できます。 ゲッターズ飯田先生 出典:ゲッターズ飯田先生 Xアカウント 元々はお笑い芸人として活動されていたゲッターズ飯田先生。芸人時代から占いに興味を持ち、独学で学び始めた先生は、これまでに6万人以上を無償で占い、その膨大なデータを基に独自の占術「五星三心占い」を確立しました。 ゲッターズ飯田先生の占いは、その的中率の高さから「芸能界最強の占い師」として知られ、テレビやラジオ、雑誌など多方面で活躍されています。『突然ですが占ってもいいですか?』以前から知られているトップ占い師といえるでしょう。 ゲッターズ飯田先生のおすすめポイントは、その優しい語り口です。シビアな相談も多い占いのお仕事にあっても、優しい言葉で相談者を勇気づけてくれます。その優しさに心を打たれた視聴者も多いことでしょう。 なお、ゲッターズ飯田先生のお弟子さんにぷりあでぃす玲奈先生がおられますが、ぷりあでぃす玲奈先生も『突然ですが占ってもいいですか?』に出演しています。 村野弘味先生 出典:村野弘味先生 Xアカウント 村野弘味先生は栃木県出身の開運鑑定士で、東洋系占術とされる九星気学、方位学、四柱推命、風水、家相学などを駆使し、多くの人々の悩み解決に尽力しています。 占い師は「代々親も占いの系譜にあった」というサラブレッド派と、「苦労と修練の果てに能力に目覚めた」努力派がいるのですが、村野弘味先生はまさに努力派。幼少期から両親の離婚や母親の病気、6億円の借金、離婚、うつ病、がん闘病など、数々の試練を経験しました。  困難を乗り越える際に編み出した占術「村野流開運術」で、現在は栃木県と東京都恵比寿に事務所を構え、個人鑑定や企業からの相談に応じています。『突然ですが占ってもいいですか?』に出演された占い師の先生で珍しく、現在も個人鑑定をしてくださる先生のひとりです。 彌彌告(みみこ)先生 出典:NEWSCAST 彌彌告先生は、代官山・恵比寿エリアで完全予約制の占いサロン「kotodama処 彌彌告」を主宰するタロット占い師です。幼少期からタロットカードに親しみ、独自の読み解き術とインスピレーションを駆使して、多くの相談者の悩みに応えています。 プロフィール写真の洗練されたファッションでわかるとおり、彌彌告先生は新卒から18年間、グラフィックデザイナーとして広告デザインに従事していましたが、2011年の東日本大震災を契機に「人を助けるための仕事がしたい」との思いから占い師に転身。それから13年以上にわたり累計2万件以上の鑑定を行った実力派です。 占術はいわゆる西洋系の占術であり、ライバルが多い分野。にもかかわらず彌彌告先生が人気なのは、的中率もさることながらその包容力あるパワフルな鑑定の言葉にあるといえます。『突然ですが占ってもいいですか?』でも、誠実な占いと心に寄り添ったアドバイスが多くの支持を集めています。  富士川碧砂(ふじかわみさ)先生 出典:富士川碧砂(ふじかわみさ)先生のXアカウント 富士川碧砂先生は、声優としても活動されている「副業」ならぬ「複業」の占い師です。声優業では青二プロダクションに所属し、寺瀬今日子名義で活動されています。フジテレビ「とくダネ!」やテレビ朝日「世界が驚いたニッポン!スゴ〜イデスネ視察団」などのナレーションを担当するなど、声優として活動しています。 そんな富士川碧砂先生が占いに目覚めたのは、1997年の臨死体験だそうです。先生は突然の病を経験しました。その臨死体験を通じ、霊能者であった祖母の能力が覚醒したのだそうです。これを機に、霊視・透視の能力を得て占い師としての活動を始めました。 富士川碧砂先生は西洋占星術、タロット、易、風水と、東洋・西洋を飛び越えて占術を学び、独自の鑑定スタイルを生み出しています。先生は『突然ですが占ってもいいですか』の出演時も温かい人柄で苦境を優しくいたわり、多くのファンを得ています。 岡井浄幸(おかいじょうこう)先生 出典:嘉祥流観相学会 公式サイト 岡井浄幸(おかい じょうこう)先生は、真言宗の尼さん(尼僧)でもある占い師です。さらに観相学の専門家かつ、一般社団法人嘉祥流観相学会の代表理事・大導師でもあります。 岡井浄幸先生の観相学は、顔の特徴や表情からその人の性格や運勢を読み解くもので、メイクや表情の改善を通じて運気を向上させる「開運メイク」の提案も行います。 観相学を語られる先生は「顔は変えられない前提」でお話しされることが多く、「この顔をもって生まれたものとして諦めなさい」と説く方も多いので、メイクで形勢逆転する方法を指導してくださる岡井浄幸先生のアドバイスには、ポジティブなパワーをもらえる方も多そうです。 テレビでは「運を呼び込む顔を作る」といったキャッチフレーズで人気を博し、『突然ですが占ってもいいですか』の出演時も「運気のいいホクロ」といった視聴者が気になりそうなテーマでのトークでファンを多数抱えています。 大串ノリコ先生 出典:大串ノリコ先生のXアカウント 大串ノリコ先生は、占い歴11年以上、鑑定数も2万件以上のベテラン占い師です。きっかけは、2009年から約2年かけて64カ国を巡り、世界各地で様々な人々の手相を見ながらの旅路です。大串ノリコ先生はその旅の終盤で占い館からのスカウトを受け、2011年9月に占い師としてデビューしました。 現在は拠点を埼玉に置きつつ、東京・大阪・仙台・沖縄など全国各地で占いを続けています。占術はオリジナル鑑定法ですが、日本でも使いこなせる方が少ない紫微斗数もベースに織り込まれているのが珍しいポイントです。(占い師の筆者から申し上げますが、紫微斗数はとにかくよく当たります!) テレビ番組『突然ですが占ってもいいですか?』でも大串ノリコ先生の的中率の高さで人気を集めています。また、ご本人は「辛口」とおっしゃるものの、人を傷つけないよう配慮しつつもズバッと刺さるアドバイスにファンが増えているようです。 『突然ですが占ってもいいですか』で活躍する占い師の先生から個人鑑定を受けることはできる? 占い師の先生は、テレビに出ると知名度が一気に上がります。特に『突然ですが占ってもいいですか』は人気番組ですから、出演以降から人気がアップし、個人鑑定をお受けしていない先生もおられるようです。 しかし、村野弘味先生、彌彌告先生のように個人鑑定の予約が可能な先生はわずかながらいらっしゃいます。また、そのほかの先生も公式サイトで独自の占いコンテンツを発信し、なるべく多くの方が悩みから解放されるよう、サポートしてくださっています。 さて、今回は9名の『突然ですが占ってもいいですか』に出演された占い師の先生方をご紹介しました。特に出演されている先生はオリジナルの占術が多く、占いが好きで多数の占術を試してみた方にとっても、新鮮な驚きがある鑑定結果を拝見できるでしょう。 星ひとみ先生やゲッターズ飯田先生、木下レオン先生などは著書も多数出しておられますので、ぜひこの機会に独自占術の鑑定結果をご覧になってみてください。

男子こそ必読! 名作少女漫画を読みまくり【理解できない異文化】を「解読」してみよう。

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「男子こそ必読! 名作少女漫画を読みまくり【理解できない異文化】を「解読」してみよう。」。フミコフミオさんが書かれたこの記事では、少女漫画への偏愛を語っていただきました! 隠れて少女漫画を読んでいた。 まもなく51歳になる僕は、同年代の一般的な男性よりも少女漫画を読んでいる人間だと自負している。子供の頃、母親が少女漫画雑誌を毎月買っていて、実家で暮らしていた1980年代から2000年代にかけて、それらをリアルタイムで読んでいたからである。当初から柊あおい先生や池野恋先生の作品は好きであったし、岡田あーみん先生の天才ぶりには驚かされた(今は何をしているのだろうか…)。 しかし、友人たちは僕が少女漫画を読んでいたことを知らない。友人たちと週刊少年ジャンプの話題で盛り上がる一方、自室でひっそりと少女漫画雑誌を読んでうっとりしていたからだ。時代はバイオレンスな昭和である。少女漫画雑誌を愛読していることがバレて、バカにされたり、いじめられたりするのを恐れて、隠れキリシタンのように生きていたのである。 「『ジョジョの奇妙な冒険』最高ー!」と表の僕が熱くなっている陰で、裏の僕は「やっぱ『星の瞳のシルエット』いいよね…さすが200万乙女のバイブル……」と自室で天文部に思いをはせていたのである。母が購入していた少女漫画雑誌のうち、僕のなかで抜群の存在感を示していたのは「りぼん」と「別マ」こと「別冊マーガレット」である。母は、他にも数冊購読していたが(「少女フレンド」とか)、印象に残っているのは「りぼん」と「別マ」だった。バカだったので「別冊」という言葉に特別なものを感じていたのだ。 週刊少年ジャンプの作品群(当時、1980年代の黄金期を迎えていた)とはちがった魅力があった。冒険、友情、戦闘でババ-ンと盛り上がって、ときには主要人物が死ぬなどして劇的だった少年漫画の魅力と比べると、僕が読んでいた少女漫画の多くはもっと生活に密着したというか、「仲良くしているAちゃんに嫌われたらどうしよう……」「クラスの人気者B君はCちゃんみたいな綺麗な女の子が好きなんだ。私みたいな女の子は相手にされないよ(-_-)」みたいな思春期のガールの心情を丁寧に描いたものが多くて新鮮だったのだ。「お前はすでに死んでいる」「あべしっ」からの「200万乙女のバイブル」への落差が新鮮だったのである。 私が愛した少女漫画たち https://twitter.com/tokimeki_ex/status/1838413454782423377 多田かおる先生の『いたずらなKiss』は毎月楽しみにしていた作品だった。僕が高校生のときに連載がはじまった作品で、主要キャラも高校生だったので「時代に俺が追いついた感」がしたのだ。作品も面白く、またたく間に大ヒットしたけれども、多田かおる先生の急逝により未完で終わってしまったのがとても惜しい。ドラマだかアニメだか詳しいことは知らないけれども、構想メモで完結がなされたようだが、原作至上主義者の僕はまだ見ていない。作者急逝で未完で終わってしまった作品として僕が惜しいと思ったのは池波正太郎先生の「鬼平犯科帳」に続いて二作品目であった。鬼平もすごく中途半端なところで終わっていてね…。 『別マ』『りぼん』で僕が好きだった作者や作品を挙げていくと、すでに挙げた『ときめきトゥナイト』『いたずらなKiss』『星の瞳のシルエット』といった大ヒット作や、紡木たく先生、一条ゆかり先生、くらもちふさこ先生、槇村さとる先生、いくえみ綾先生、あとは矢沢あい先生!といった大先生の作品になってしまう。全然マニアックじゃない。名前をあげさせていただいた先生方の動向や作品は今でも気になる。 あと僕が高校三年生のとき(1991年)に、僕と同じ高校三年生で『まっすぐにいこう。』でデビューした「きら先生」も気になる存在であり続けている。雑種犬の飼い犬マメタロウ視点からヒロインや登場人物を観察する異色作でありながら、ヒットして長期連載作品になったのも印象に残っている。それ以外にも好きだった作品はたくさんあったはずだが、中高年になり記憶があやふやになってきているため、抜けてしまっている。ご容赦願いたい。 なぜ少女漫画にハマったのか。 https://twitter.com/manga_mee/status/1365134574448181253 読み始めたきっかけは、母が定期購入していた少女漫画雑誌であることは先に述べたとおりである。母が毎月大量に購入していなければ、僕が『まっすぐにいこう。』のきら先生の才能に嫉妬することもなかったのだ。ハマった理由はより切実であった。子供の頃、僕は漫画家になりたかった。しかし、当時大人気の『週刊少年ジャンプ』の連載陣、鳥山明先生、北条司先生、原哲夫先生、荒木飛呂彦先生の画力に圧倒されたのである。小学生の僕は「死ぬほど努力してもこの人たちのレベルに到達するのは不可能である」と悟ったのだ。 少年漫画で戦う前に逃亡した僕が目を付けたのが少女漫画だった。少女漫画は、少年漫画ほど画力は要らないと考えたのである。しかし、速攻で挫折した。少女漫画の作画は少年漫画より繊細で難しかったのである。浅はかであった。伏せたまつ毛の描写ひとつで少女の感情を表すなど、死ぬまで努力してもできないと思い知らされた。こうして少女漫画家でサクセスして大金をゲットするという野望は粉砕されたのである。 しかし、野望はついえたとはいえ、少女漫画を丁寧にチェックするなかで僕はまた別のハマりポイントを見つけた。少女漫画に登場する、主人公の憧憬や恋愛の対象であるヒーロー(王子様)である。中学生になり、思春期を迎え、異性の目を気にするようになった僕は、少女漫画のなかでモテモテの王子様の外見的特徴や所作を学び、いや、コピーすることによって、自分も王子様になれるのではないかと考えたのである。 実益がともなうと人は真剣になれる。僕は少女漫画の王子様を研究した。あわせてクラスメートの女子に教えを請い、当時人気だったコバルト文庫の研究にも手をつけた。今、この瞬間に思い出したのは氷室冴子先生の『なぎさボーイ』を参考書とし、学ぼうとしている中学時代の己のニキビ面である。 これらの試みはすべて失敗に終わった。コピーはしょせん劣化コピーにすぎなかった。女子たちの憧れは王子様であって、劣化量産型王子様もどきではなかったのだ。20年後、狩野英孝さんの芸風に触れたとき、僕は劣化王子様時代を目指していた自分の痛い姿を重ねて直視することができなかった……。 母親の少女漫画雑誌好きという環境、不純な動機からの研究という入口から少女漫画にハマっていったわけだが、試みのすべてにしくじったとき、僕は穢れが落ちた純度の高い少女漫画愛好家になっていたのである。 『ときめきトゥナイト』は今でも最高。 こんな僕が少女漫画史上最高傑作だと考えているのは、池野恋先生の『ときめきトゥナイト』である。主人公・江藤蘭世は中学生の女の子だが実は吸血鬼の父と狼女の母をもつ魔界人の娘。そんな蘭世がクラスの一匹狼、真壁俊に一目ぼれという学園ラブコメで、臨海学校や文化祭などの学校行事のなかで魔界人・蘭世と普通の人間・真壁俊の異種間の恋愛を描いていくかと思いきや、それは序盤だけで実は魔界の存亡をかけた壮大な大河ドラマであったというどんでん返し(?)が素晴らしい作品。第一部の後半は高校生に進学してボクシング部の話になるけれども……。 今回、この文章を書くにあたって原作(文庫版)を久しぶりに一気読みしてみたけれども、めちゃくちゃ面白かった。以前は初期の学園ものから魔界大河ドラマになっても続いていた蘭世と俊のいちゃいちゃにくねくねして読んでいたのですけれども、50をこえたオッサンになってからの再読で『ときめきトゥナイト』が実は一貫して家族愛の話であることに気づいた。人間界と魔界、過去と未来、夢と現実となんでもありの話をシンプルにまとめているのは池野恋先生の技巧なのだけれども、物語の幹になっているのは親子の縁であることに気づいたのである。 たとえば蘭世の父であり吸血鬼の江藤望里は鬼嫁にやられていて情けないオッサン吸血鬼だけれども、娘のピンチには必ずアクションを起こし、娘のためには魔界の大王の命令も従わない漢気を見せるのである。少女漫画のキャラクターで、人間界で暮らしている娘思いの吸血鬼かつ恐妻家のオッサンは他に類を見ない。 この作品の乙女ファンは蘭世と俊の人間界と魔界の存亡をかけた恋愛にキュンキュンしていたと想像するけれども、僕は壮大なスケールで親子三代にわたって描かれる大河ドラマぶりに魅力を感じた。50代男性なので恋愛描写に恥ずかしさを感じることがないといったらウソになるが。 会社人生を通じて人間の悲哀を見てきたので、蘭世のライバルの神谷曜子の雑な扱い(だいたい魔法でヨーコ犬にされる)と俊のライバル役で出てきたはずだがいつのまにかモブキャラになっていた筒井圭吾に、人間の悲哀を見てしまったのも中年ならではの『ときめきトゥナイト』の読み方だろう。あとあと、問題が解決すると次の問題がテンポよく出てくるドライブ感がとても心地よい作品だ。 男性だから少女漫画を楽しめる。 男性だからこそ少女漫画を楽しめる。おっさんになっても少女漫画は楽しむことができる。なぜか。視点がまったく違うからだ。新鮮なのだ。少女漫画の主人公はガールである。もうそれだけで異世界である。大正時代にタイムスリップして命がけで鬼と戦う、なんて大袈裟な舞台装置もなく異世界にトリップできるのだ。楽しすぎる。 主人公ガールが「親友に嫌われたらどうしよー」「憧れのフミコ君に声をかけられちゃったー超ハッピー!」「明日のデート何を着ていこう????」なんてつぶやくだけで僕たちは異世界に放り込まれて冒険に出られるのである。「思春期の女子はこのようなことを考えているのか…」という驚きの連続でもある。海賊を目指して大航海に出ることもなく、日常のなかで不思議とトキメキを見つけられるのだ。こんなコンテンツが他にあるだろうか。ない。 少女漫画を読んでいると、乙女たちが男の子に求めるものが見えてくる。心と精神が美しく、ピュアな目的に向かって進んでいる、幼馴染の男の子。「外見は関係ない」「大事なのは性格」といいながら、その対象は皆長身痩躯まつ毛ビョーンなイケメンであるあたり、現実の厳しさが垣間見える。そのなかで自分が王子様になれなかった理由が明確になるし、乙女たちが憧れる王子様がいかに現実離れしたウルトラスーパーな存在であるかも理解でき、そこらへんにいる男子が相手にされなかった哀しみが胸を打つのである。 少女漫画は厳しい現実そのものである。若かりし頃の僕はすっかり勘違いしていたのだけれども、少女漫画を読んだからといって乙女たちの心はわからないのである。 少女と僕らではアンテナが違う。漫画から発信されるものを違うものとして受け取ってしまう。作中で王子様が言葉もなく「ニコっ…」と寂しげな笑みをたたえていても、それを受ける乙女たちがくねくねする理由が一ミリもわからず、僕らは首をかしげるだけである。このように異文化との邂逅が、男性サイドからの少女漫画というコンテンツの楽しみ方だと思うわけである。昔からあるじゃないですか、意味がわからないけれど面白いというやつが……。ドラゴンボールやワンピースで意味がわからないというシーンはないが、少女漫画には意味がわからない…と首をかしげてしまうシーンが多い。「なぜここがいいシーンっぽい演出で描かれているのだろう?」と仮説を立て、検証して考える楽しみに少女漫画はあふれているのである。 まとめ 久しぶりに『ときめきトゥナイト』を一気に読んでみてわかったのだが、面白い漫画には少年漫画も少女漫画もないのである。少女漫画をテーマに描いてきた文章の結末が「少年も少女もないよー」という身もふたもないものになって申し訳ない。事実だから仕方がない。最近愛蔵版で読んだ池田理代子先生の『ベルサイユのばら』はストーリーものの漫画の最高峰だと再確信したし、萩尾望都先生や竹宮恵子先生の作品群は深く考えさせられ、時代をこえて楽しめる。 僕の周辺にいる同僚や友人たちの多くは少女漫画を読んだことがない人が多い。少女漫画に触れたことのある人も「姉妹が読んでいたからちょっと読んでみた」程度。僕のように少女漫画を通じて王子様研究をした勇者は皆無であった。もったいない。少女漫画というだけで読まないのは大いなる損失だ。そういう人が僕はある意味うらやましい。これから少女漫画という深く面白いものを知るチャンスがあるのだから。

天才対天才、血まみれの思想闘争――なぜ宮崎駿は手塚治虫を否定するのか(1)

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「天才対天才、血まみれの思想闘争――なぜ宮崎駿は手塚治虫を否定するのか(1)」。海燕さんが書かれたこの記事では、宮崎駿・手塚治虫への偏愛を語っていただきました! 「それでこそわが血まみれの花嫁だ 憎悪と敵意こそ真の尊敬を生む源となろう 二人してたそがれの王国を築こうではないか」 宮崎駿『風の谷のナウシカ』より、皇兄ナムリスの言葉 花は咲き、花は散る。 人は生き、人は死す。 変えられないさだめ。 それでは、人間が生きてあることの意味とは、価値とはどこにあるのだろう。恋に? 愛に? 善に? 美に? 否、そもそもそのようなものはどこにも存在するはずもない、すべては無意味にして無価値だと語る虚無の思想を、古来、人々は底知れぬ恐怖を込め、こう呼んできた――「ニヒリズム」と。 両雄並び立たず https://youtu.be/1zu9JHiYKvE 古語にいわく、不倶戴天(ふぐたいてん)。何か激しい敵意や緊張をはらみ「ともに天を戴かざる」間柄を示す言葉である。 もし、アニメーション業界の世界的巨匠である宮崎駿にそのような関係の人物があるとすれば、それは戦後日本を代表する天才作家手塚治虫をおいてほかにいないであろう。 そのくらい宮崎はことあるごとに舌鋒鋭く手塚の流儀を批判しており、その表現はときに「全否定」と形容したくなるほどのすさまじさである。 たとえば、かれは手塚の逝去に際しても「アニメーションに対して彼がやったことは何も評価できない」と故人をしのぶにはあまりにも否定的な言葉を残している。同職の古なじみにもかかわらず、その反発の強さはただごとではない。 岡田斗司夫は著書『オタク学入門』のなかでこの宮崎の手塚に対する隔意を取り上げ、かれほどの大人物がここまで述べるからには「よほど何かあったんだろう、と下衆の勘ぐりをしてしまう」と、宮崎の「大人げなさ」を指摘している。 しかし、むろん、ここで猛烈に噴出しているものは、高々、かれが個人的に手塚を嫌っているといった次元の話ではなく、創作の秘密に関わる高度に思想的な問題に違いない。 いったいなぜ、宮崎はここまで手塚の業績を否定しようとするのか。この連載では全三回にわたってこのきわめて興味深い謎を取り上げ、そこから宮崎作品全体を俯瞰し批評してみることとしたい。少し長くなるが、最後までおつきあいいただければ幸いである。 さて、まず確認しておきたいのは、宮崎が具体的にどのように手塚を批判しているか、その実際のところだ。 たとえば、インタビュー集『風の帰る場所』に収録された一節がある。それによると、宮崎は手塚のマンガ作品から大きな影響を受けている。また、その作品について批判する意志はない。宮崎が否定的に捉えるのは、かれのアニメーションに関する仕事だけである。 宮崎は「彼がアニメーションでやったことは間違いだと僕は思うんです」と語る。そして「ええ、はっきり思います! 彼のやってたテレビ・アニメーションというのはね、彼は本来ヒューマニズムでないのに、そのヒューマニズムのフリをするでしょう。それが破綻をきたしてるんですよ。『ジャングル大帝』なんかでね」と続けている。 また、このときのインタビュアーは渋谷陽一なのだが、その渋谷の、手塚がニヒリストであることはかれの作品に定着しており、宮崎もまたその同じ構造のなかにひき裂かれているものの、それにもかかわらず宮崎には手塚治虫のような形での「ニヒリズムへの転落」をしない意図が見えるという言を受けて、こう述べる。 「その人物が死ぬと、安心して褒めだす人たちがいるんです。美空ひばりの生前にはね、聴こうともしないでいた奴がね、死んだら、いやー、やっぱり大した奴だったな、なんて言うんだよね。頭にきますよ。生きてるときにそう発言しろって言ってやったんだけど、僕は今でも手塚さんと闘っているんだと思ってるから。死んだと思って、安心して褒めたくないんですよ。あの人のニヒリズムに僕らは畏怖の気持ちで憧れ、影響されたんです。あの人の中に、その後のこの国の大衆文化の光と闇が凝縮されてあると思うんです。だから、死んだってちっとも安心なんかできない。彼への自分の言葉は、一番自分への鋭い刃にならなければならないはずなんです」(『風の帰る場所』より) どうだろう、わたしはこの記事のいちばん初めに「不倶戴天」と書いた。しかし、ここで批判を超え、否定の域にまで達した反手塚の言葉にくるまれて投げ出されているのは、じつは虚無と人間性の激しい振幅のなかに生きた同道の天才作家への絶大きわまる敬意ではないだろうか。 宮崎駿の手塚治虫への言葉の裏には、個人的な敵意や隔意といった水準を遥かに超えた、創作者としての共感があると考えるべきなのではないか。わたしはそう考える。 それでは、その手塚への愛憎のさらに奥には何があるのか。その点について掘り下げてみよう。 ニヒリズムの風が吹き抜けるとき https://www.youtube.com/watch?v=eLjadSHxdPI 宮崎と手塚を比較しつつ語るとき、その鍵となる概念は、やはり、渋谷が語るところの「ニヒリズムへの転落」である。 手塚はヒューマニストの仮面の裏にほの暗い魂の震撼を抱えた筋金入りのニヒリストであった。そのことはさまざまな論者が指摘しているし、何よりかれの作品を一読すれば即座に判然とする。 そしてまた、宮崎もスタジオジブリの大ヒットメーカーという名高い顔の翳(かげ)に悪魔的な素顔を隠した硬骨のニヒリストである。このこともまた疑う余地はない。 このふたりの、一見すると大きく異なる個性は「戦後民主主義的なヒューマニズム」への懐疑とニヒリズムへの強い親和性という一点で共通しているわけである。 ここでいうニヒリズムとは、人が生きるにあたって杖とする価値や意味の一切を否定し、すべては虚無であると見る暗黒頽廃(たいはい)の思想である。 いわゆる「手塚ヒューマニズム」の真骨頂が「人間は美しい、生きることは素晴らしい!」と人生の価値を高らかに歌い上げるところにあるとすれば、かれのニヒリズムはそれらすべての意味と価値が一瞬にして崩れ去り、失われることもまたありえると論じて真実を明らかにする性質のものだ。 手塚治虫とは、この人間性と虚無感の間で壮絶な思想的冒険をくりひろげた唯一無二の作家であった。 その強烈な矛盾は、まさに宮崎がいうようにたとえば初期の代表作『ジャングル大帝』においてひとつの臨界を見せる。 この作品のなかで、手塚は、遥かなジャングルの奥地における百獣の王レオが君臨する動物たちのユートピアを構想する。それは、かれ自身の言葉によると「人の誰も知らない森の奥や山の向こうで、動物たちが俗塵も浴びず天使のように無邪気に跳ね回っている世界」である(手塚治虫『ジャングル大帝』あとがきより)。 輝かしい生き物たちの楽園! 美しき生命の理想郷! だが、あらゆるユートピアがそうであるように、この密林の王国もまた哀しい欺瞞(ぎまん)を抱え込んでいる。 しょせん、肉食動物や草食動物、さまざまに相争うさだめの宿敵同士、生存競争の原理からのどかに外れて仲良く遊びあえるはずなどないのだ。 おそらく、宮崎がいう手塚の「破綻」とはこのことであろう。冷厳にして非情なる大自然の摂理に人間的な道徳観念を持ち込み、その結果、「あるべき姿」と「現実にある形」にひき裂かれる。それが、手塚が『ジャングル大帝』で見せた問題である。 あるいは宮崎はこの欺瞞と矛盾と破綻の名作を見て、己はこの轍(てつ)は踏むまいと考えたのかもしれない。その成果を、わたしたちは『ナウシカ』や『もののけ姫』に見て取ることができる。 これらの作品で描かれているものは楽園からも理想郷からも遠い滅びに瀕した自然世界である。そこでは人間的なるものはかぎりなく弱く、無力なのだ。 しかし、宮崎はだからといって虚無の深い淵に夢中になって本心を奪われ「すべてはむなしい」、「何もかも無意味だ」と呟くことも良しとしない。かれは人間中心的なヒューマニズムを批判するが、他方、人間否定のニヒリズムにも安住しえない。 その意味で、宮崎は手塚の業績を踏まえながらさらにその先へ行こうとしている。それが「いまでも手塚と闘っている」という言葉の意味に違いない。 宮崎の『ナウシカ』、『ラピュタ』、『もののけ姫』といった映画史上に残る傑作群を見るとき、わたしたちは容易に「何もかも滅びてゆくしかないのだ」という絶望的な思想を発見できるだろう。 しかし、宮崎はそういったみだらな漆黒の絶望に惹かれながらもあくまでほのかな希望を探り出そうと試みつづける。それは内なる「手塚ニヒリズム」との激烈無比の思想戦争、否、さかしらな思想など遥かに超越した修羅の生存闘争である。 深刻なニヒリストでありながらヒューマニズムを提唱し、偽りの理想を掲げることこそが最も重篤なニヒリズムの症状であるとすれば、絶望を直視し、破滅を抱擁し、その上でなおささやかな希望を見つけだすことこそはその種の卑俗なヒューマニズムを乗り越えた理想主義であるだろう。 宮崎がめざす地平はそのようなところにある。 すべて人間は死の宿命にあり、すべて文明は虚無を胚胎する。 出典:宮崎駿『風立ちぬ』 とはいえ、その気高い理想はあまりにも到達困難な境地でもある。ニーチェが定義するいわゆる「神の死」以降のヨーロッパにおいて、ニヒリズムの誘惑にあらがった作家といえばまずドストエフスキーが挙げられることだろうが、そのニーチェやドストエフスキーですら完全にニヒリズムを否定しきれたわけではない。 否、むしろニヒリズムとは人が人として生きつづけるかぎり、どれほど文明が栄華を究めようと消え去ることはない思想、あるいは「実感」なのである。 科学が、文明が驕(おご)り昂(たかぶ)り栄えれば栄えるほどに、虚無の風は烈々と人の心を吹き抜ける。その意味で、ニヒリズムは人間社会に宿命的に付きまとう病理だ。 宮崎駿が生み出したすべてのキャラクターのなかで、最も歴然とこの思想を体現している人物として『風の谷のナウシカ』のナムリスが挙げられる。かれは亡びに瀕した未来世界で、倫理も道徳も国家も仲間もすべて無視し、きわめて享楽的に生きて死んでゆく。 その姿はまさに宮崎駿が幾人も生み出してきた颯爽たるヒーローたち、ルパンやコナン、パズー、アシタカなどの凄惨な陰画だ。 いい換えるなら、そのようないかにも元気で快活な「男の子」たちのなかにもナムリス的な虚無の思想は潜伏しているわけである。 この事実は、例によって宮崎駿最後の作品となるはずであった里程標的傑作『風立ちぬ』において明確に露出する。 この作品の結末で、作中、一貫して「少年」と呼ばれつづける主人公がたどり着いた場所は廃墟そのもののような「ガレキの王国」なのであった。 これを批評家の杉田俊介が『宮崎駿論』で述べているように自己嫌悪の表出に過ぎないと見ることもできるだろうが、もし宮崎が長年にわたって展開するニヒリズムとの闘争の一断面として捉えるなら、むしろ必然の描写であるともいえる。 ニヒリズムに対する闘争とは、虚無の存在を否定することではない。 そもそも、いつかすべての国は滅び、すべての城は崩れ、すべての旗は倒れ、すべての人は死す、それそのものはエントロピー増大の摂理が冷徹な暴君のように統率するこの世界において避けられない「事実」なのであり、ニヒリズムへの抵抗とは、この明々白々な宿命に対しどのように対峙するかという、いわば「態度」の問題でしかないのである。 したがって、ここでわたしたちは堀越二郎が人生の果てにたどり着いた場所にむなしさを感じるよりまず、かれがそこで選択した「態度」が「それでもなお生きつづけること」であったことに注目するべきだろう。 たしかにこの映画には、宮崎がいままでアニメーションでは決して見せないようにしていたはずの露骨なニヒリズムが表出している。 しかし、そこには、かつて少女ナウシカが呟いた「生きねば」という言葉が象徴しているような、かぼそい、だが純然たる生の意志だけがあらゆる思想や理念を超えてこの世の虚無に対抗できるかもしれないという宮崎のかすかな希望を確認できる。 これこそ、宮崎が幾多の矛盾と葛藤の末にたどり着いた、表裏一体の「手塚ヒューマニズム/ニヒリズム」の先の希望なのではないか。 絶望的かつ感動的な展開。だが、むろん問題はそれでは終わらない。次回は、その宮崎の作品を執拗に批判しつづけるいま一人の天才作家の発言を端緒に考えてみることにしたい。 すなわち、社会現象にまでなったヒット作『新世紀エヴァンゲリオン』や『シン・ゴジラ』の生みの親にして宮崎駿の「一番弟子」――庵野秀明である。 >>連載第二回「巨匠ミヤザキの欺瞞のパンツ――なぜ宮崎駿は手塚治虫を否定するのか(2)」はこちら ※アイキャッチ画像出典:宮崎駿『風立ちぬ』