WOTONAKICHI
WOTONAKICHI

その頃、ぼくらは長門萌えとかいっていた。過ぎ去った「萌えの時代」をふり返り、さらなる未来を展望する。

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「その頃、ぼくらは長門萌えとかいっていた。過ぎ去った「萌えの時代」をふり返り、さらなる未来を展望する。」。海燕さんが書かれたこの記事では、「萌え」への偏愛を語っていただきました! 時代とは、変わるものだ。あまりにもあたりまえのことであるかもしれない。しかし、いまの社会におけるアニメやマンガの需要状況を眺めていると、つくづくそう詠嘆せずにはいられない。 いまではアニメやマンガを趣味にしていることはとくべつかくさなければならないことではなくなったし、街の至るところに「アニメ絵」ふうのキャラクターを見かけるようにもなった。旅に出かければ、その土地を象徴する美少女キャラクターがいることは自然、デートでアニメ映画を観に行くことすら何もおかしくはない。 だが、かつてはそうではなかった。まったくそうではなかったのだ。 興行収入100億円を軽々と超える大ヒットアニメ映画が次々と登場し、いまふうの美青年や美少女を主役にしたマンガが子供たちのあいだにまで浸透、オタク的な文化と価値が「若者文化」を代表し象徴する地位につく、このようなあかるい未来を、あの頃はだれも想像できなかった。 この快挙をもたらしたのは一つひとつ質の高い作品を生み出してきたクリエイターたちであり、「暗黒時代」にあってなお自分の愛する文化への信頼を墨守しつづけたファンたちだろう。 いま、ぼくはあらためて一人ひとりのクリエイター、そしてファンたちに語りかけたい。あの頃は大変だったね、おたがい、良くここまで頑張ったよね、と。地球は回り、世界は変わる、なんとすばらしいことだろうか。 ところで、その長いダークエイジのあいだ、オタクとオタクの文化を表わすいわば符丁として多用されてきた言葉が「萌え」である。 架空の美少女キャラクターに恋愛じみた熱烈な思い入れを行うことを意味する、ポジティヴなようでもありネガティヴなようでもあるふしぎなフレーズ。 いまとなっては正面切って使う人はほとんどいなくなったが、当時のネットではさかんに使用されていた。 この記事では、失われた「萌えの時代」をあらためてふり返り、結局、「萌え」とはなんだったのか考えてみることにしたい。 「萌え」という名のシニシズム https://www.youtube.com/watch?v=zJda1YDpxVQ 「萌え」――奇妙な響き。 その語源については諸説あるが、いずれにしろ、だれかが「燃え」の音を借用するかたちで使いはじめ、定着したことが始まりなのだろう。そもそもパロディ的というか、ちょっとふざけたニュアンスの言葉なのである。 当時の「萌えオタク」たちの感覚をふり返るにあたって、この「ちょっとふざけたニュアンス」を感じ取ることは非常に重要だ。なぜなら、そこにただよう「皮肉な自意識」の響きを感じ取らないことには、その頃のオタクのあり方を理解することは不可能だからである。 たとえば当時を舞台にしたオタク活動マンガ『げんしけん』あたりを読めばわかるように、その困難な時代にあって、オタクたちはアニメやマンガなど「自分の好きなもの」に対し、どうしてもねじれたかたちでしか愛情を表現できない傾向がつよかった。 ある美少女オタクたちが「××が萌える」というとき、一見するといたって無邪気に自分の好意を表明しているように見えるかもしれない。 しかし、実際には決してそうではない。そこには「好き」とか「愛している」ではなく「萌える」を選択しなければならないほの暗い必然性があるのだ。「好き」といってしまったら抜け落ちる、ある種の恥じらいの感触。 「萌え」概念を理解するためには、そのきわめて繊細で多義的な感覚を受け止めることが、まずは必要となる。 オタクがひとこと「萌え」というとき、そこには世にも複雑な感情の力学が働いているということ。 もっとも、いまでいう「推し」のキャラクターに対する、そういったひねくれた愛情表現のかたちはいまでは理解されがたいものではあるだろう。 今日の萌えならぬ「推し」文化に、屈折や皮肉がまったくなくなったわけではないにせよ、それは遥かに薄らいだ。「萌えの時代」は遠くなりにけり、というべきか。「萌え」という言葉は、いまとなっては完全に古い概念になってしまったのである。 オタクであることはとくべつ恥ずべきことではなくなり、あるキャラクターにつよく思い入れすることもまた、ひとつの趣味としか意味しなくなった。 ぼくは、それを基本的には「良いこと」だと捉える。あの時代のオタクたちのねじ曲がった自意識は、決して健康なものとはいえなくなった。好きなものを素直に好きだといえることは、それに比べて文句なしに素晴らしいことだ。時代は良い方向に変わっている。 しかし、それはそれとして、ぼくなどは失われた「萌えの時代」をふと、なつかしく思ったりもするのである。あの頃はあの頃で楽しかった。 複雑に自己言及する自意識の概念としての「萌え」 https://www.youtube.com/watch?v=WWB01IuMvzA と、こう書いても、「萌えの時代」を直接経験していない人には、「萌え」概念の複雑さはピンとこないに違いない。 じっさい、当時でも「わかる人はわかる」に留まり、多くの誤解と誤謬(ごびゅう)をひき起こした言葉であった。 そこで、ここで「萌え」についての資料として、一冊の本を取り出すことにしたい。大泉実成がなかば当事者の視点から「萌え」を分析した『萌えの研究』である。 この『萌えの研究』は、「萌え」は「恋」の一種であるとみなされ、「人はなぜ、二次元キャラクターに恋をするのだろうか」と問いが立てられている。そう、この当時、「萌え」が恋愛的な感情であることは当然の事実と見られていたのであった。 いま、「推し」や「尊い」という言葉を経て、そのさらに向こうまでたどり着こうとしているぼくたちは、仮にいわゆる「二次元キャラクター」に何か特別な思い入れを抱いたとしても、即座にそれを恋愛感情の一種に違いないとは考えないだろう。 それが何かもっと非現実的な「尊い」感情であって、べつにそのキャラクターとつきあいたいわけではないという可能性は、当然のものとして想定されるはずだ。 しかし、この頃は違った。大泉は当然に「萌え」を恋愛の延長線上にある感情とみなし、追求してゆく。おもしろいのは、まさにそれゆえに「恋愛」の延長線上に置けない感情は捉え損ねてしまうことだ。 たとえば、かれはいまからちょうど20年前、2004年のコミックマーケットに参加して、このような感想を述べている。 今回僕が行ったのは二〇〇四年の冬コミだった。『マリア様がみてる』を理解するために予算の許す限りの同人誌を買ったが、エロが少ないのには驚いた。たしかに、性行為に入ってしまえば話はそれで終わりである。しかしコミケの場ですら、直接的な性行為より、女の子どうしの会話が優位だったとは……。 『マリみて』に関しては、僕の理解の照準が常にずれるようである。まったく萌えの路は遠い。 きょうの視点から見れば、『マリみて』のエロマンガが相対的に少ないのは当然のことであるようにも思える。それは『マリみて』が「百合」作品だからである。 『マリみて』のキャラに萌える、つまり恋愛的な感情を向ける人はいないわけではないだろうが、基本的に『マリみて』はそのようにして愉しむタイプの作品ではない。 それは2024年のぼくたちには自明にすら思われるわけだが、2004年当時の大泉は困惑をあらわにする。かれはこのとき、「萌え」のなかに「萌え」を超えるものの萌芽を見て取っていたのだ、といえるかもしれない。 「どうだ、ヘンだろう、おまえたちには理解できないだろう!」 ここで、ひとまず「萌え」とは、つまり人が架空のキャラクター、多くの場合は美少女に対して抱く(疑似)恋愛感情である、と狭く定義しても良いだろう。 しかし、じっさいにはそれは純然たる恋愛感情にとどまるものではなく、もっと浮世離れした、いわば「尊い」感情をもはらみ、したがってこの定義から逸脱してゆく。 それらの感情はやがて「推し」という言葉に集約していくことになるのだが、この時点ではまだそこまで「研究」はたどり着いていなかったのだった。 だから人々は、ただ、よりにもよって二次元の「グロテスクなまでにかわいい」美少女キャラクターにのめりこみ、「萌える!」などと口走るオタクたちを奇異の目で見るばかりだった。 じっさい、この頃の萌え文化はある種、「とがって」いたように思う。キャラクターデザインとして見ても、企画として見ても、おそらくは意図的に「とがらせた」奇異さを強調したものが多かった。 そこには、どこか「どうだ、ヘンだろう、理解できないだろう、おまえたち一般人には理解できない文化がここにあるのだ!」という、屈託とも開き直りともつかない想いがただよっていたようにも感じられる。 その頃、「萌え」と呼ばれていたような文化がごくあたりまえのものとなった2024年の今日ではちょっと理解が困難であろう意識である。 しかし、やはりこの頃、オタクであること、「萌え」を主張することはどうしても奇人変人と見られ、かなりリスキーだったのだ。 だからこそ、「萌えオタク」たちは世間へ向けて、「どうせおまえたちには理解できない」とばかりに奇行を演出してみせる側面があった。その意味では、ある種の共犯関係が成立していたわけだ。 「萌え」はとにかくそのような「萌えている自分」に対する自覚的な視線なしでは成立しない。 たとえば堀田純司の浩瀚(こうかん)な研究書『萌え萌えジャパン』では、「萌え」文化に属する作品や商品がずらりと並べられている。 メイドカフェ、抱き枕、等身大フィギュア、アイドル、美少女ゲーム、声優などのジャンルが挙げられているが、そこで重視されるのは、むしろそういう文化に夢中になる自分を「ひきオタ」とか「ダメ人間」などとメタ認知する自意識、堀田がいうところの「複雑な目線」なのである。 熱中し、夢中になっている自分をどこか冷めた目線で観察し、言及する。「萌え」とは良くも悪くもそのようなシニカルな文化であった。 ノスタルジーのタイムマシンは動かない。 https://www.youtube.com/watch?v=Nipxy7HA9oc しかし、ご存知の通り、その「萌えの時代」はいつまでも続かなかった。最初に述べたように、あれほど熱かった「萌えの時代」はいつのまにか終わってしまい、「萌え」は死語と化してしまった。 今日でも、まだ、メイド喫茶や美少女ゲームや、日常系アニメがなくなってしまったわけではない。それらは大いに栄えている。 だが、それにもかかわらず「萌え」という言葉が使用されることはいまでは有為に減ったのだ。ほとんどゼロに近くなったといってすら良いだろう。いったいどうしてこういうことになったのか。 ぼくはいま、ひとり、心のタイムマシンに乗って、90年代から2000年代にかけての「萌え」が面白かった時代をふり返っている。 あの頃はほんとうに楽しかった。次々と「頭がおかしい」としかいいようがない奇矯なコンテンツやキャラクターが生まれ、表現の可能性が開拓されていった。 オタクたちはシニカルに「萌える」一方で、アニメを観て真剣に号泣したりもしていた。真剣さと滑稽さがあいなかばし、だれもがそのことを明確に自覚していた時代。ああ、楽しかったなあ。 だが、このノスタルジー駆動のタイムマシンはあくまでその時代の陽の面だけを見せてくれるに過ぎない。じっさいには、とんでもなく大変なこともたくさんあり、だからこそぼくたちは非現実的なアニメやゲームに夢中になっていたのだ。 いま、思い出すあの日のヒロインたち、『To Heart』のマルチや『あずまんが大王』の大阪、『涼宮ハルヒの憂鬱』の長門やハルヒといった美少女キャラクターたちは、その強烈な魅力でぼくたちを「萌え」させ、心のキズを癒やしてくれた。 あの熱狂はいまでも残っているが、質は変わった。「萌えの時代」とは、「萌え」的な表現がしだいに拡散し、あたりまえのものとなり、一つひとつが「薄く」なっていくそのプロセスだったともいえるだろう。 いまでは、だれも「萌え萌え」などとはいわない。その頃には「萌え」といわれた文化に、作品に、もっとナチュラルに関わる人がほとんどだ。それは「良い変化」といって良いと思う。 しかし、まさにそうだからこそ、ぼくはあの頃をひどくなつかしく思い出す。何もかもクレイジーだった時代。自意識過剰で、やりすぎで、ぐったり疲れるほどはしゃぎまくっていたあの頃。 それは、オタク文化全体にとって、ひとつのほの暗い青春時代だったのではないか、ぼくはなぜかいまではもう満足には動かなくなってしまったタイムマシンをまえに、そう思ったりするのである。

18年ウイスキーを愛飲した人間が、2000円以下でおすすめできる8本【2024年最新版】

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「18年ウイスキーを愛飲した人間が、2000円以下でおすすめできる8本【2024年最新版】」。トイアンナさんが書かれたこの記事では、ウイスキーへの偏愛を語っていただきました! こんにちは、ウイスキーを愛してやまないトイアンナです。 以前、ボトル5,000円以下で美味しいウイスキーを紹介したところ「高すぎる!」との声がでまして……。 https://www.maruhan.co.jp/east/media/new/1327/ 確かにヲタクは予算感を無視して高いものばかりすすめがち……と反省いたしました。 そこで今回は、1本2,000円以下で楽しめるウイスキーボトルを紹介いたします! 無論「飲めたら何でもうまい」みたいなすすめ方はしません!ちゃんと全部飲んで、美味しいと言えるものを紹介しています! ボトル2000円以下のおすすめウイスキーを提案する前提として 著者はイギリスのウイスキーが好きでして、どうしてもイギリスのウイスキーばかり紹介しがちです。その偏りは今回、お許しください。 ウイスキーは台湾やインドでも生産されており、しかも美味しいと評価が高まっています。日本の山崎も世界中からの人気が殺到し、値段はうなぎのぼり。ますます激戦となるウイスキー市場ですが、何年も樽で寝かせる製品である以上、生産コストがその分高くなるのは仕方ないといえます。 それでもアンダー2,000円で売るのだから、そこにはとてつもない生産者と流通業界の努力がある前提で、楽しんでいただければ幸いです! 2000円以下のおすすめウイスキー(1) クレイモア CLAYMORE 700mL 出典:Amazon クレイモア まずは、ゲール語で剣を意味する「クレイモア」の名を冠したウイスキーから。ウイスキーには1つの原酒だけを入れるものと、さまざまな原酒をブレンドするものがあります。そして、ブレンドするウイスキーにおいては、そのレシピを作る人間の腕がものを言います。クレイモアのブレンダーは、リチャード・パターソン氏。大手ホワイト&マッカイ社で26歳にてチーフブレンダーに選ばれ、そこから50年もエースを続ける神ブレンダーです。 さて、そんな神の創りしクレイモアですが、甘くて渋くてスモーキーと、なんとも多様性あるテイストです。よく言えば個性がはっきりしており、悪く言えば好みが分かれます。安いお酒では「とにかく甘い」といったわかりやすいテイストが増える中、この価格で複雑味のある味わいを作れたことが驚きです。個人的には渋みを減らすため、ソーダ割りで飲むのがおすすめ。 2000円以下のおすすめウイスキー(2) ネヴィス・デュー Nevis Dew 700mL 出典:Amazon ベン・ネヴィス 蒸留所蔵出し イギリスのベン・ネヴィス蒸留所で生産されているウイスキーです。日本メーカーは多数の蒸留所を買収しており、日本社製・外国生産のウイスキーが多数あります。そんなところも、日本で多種多様なウイスキーが手に入る遠因かもしれませんね。 とにかくバランス型で、あっさりとした味わいが特徴。少しバニラっぽさがありますが、全くきつくありません。日本の梨や、採れたてでシャキシャキな状態のリンゴを思わせる、フルーティな香りも混ざります。舌の当たりもまろやかで、度数の高いお酒を飲むのが初めて、という方にとって安心して試せる一杯となるでしょう。割るときはかなり濃い目に割らないと、もとの味が消えますので注意。 2000円以下のおすすめウイスキー(3) デュワーズ ホワイトラベル Dewar's White Label 700mL 出典:Amazon Dewar's デュワーズ ホワイトラベル この価格帯でデュワーズ入れなかったらモグリでしょ! というくらい有名なお酒です。イギリスのウイスキーのなかでも、トップクラスの売上を誇ります。日本でもカクヤスやコンビニで手に入る手軽さ! そして味も美味しい! 本記事では8本おすすめを並べていますが、まず飲むならこれでしょ! という1本です。ちょっとこの項目だけ長文になりますよ! ごめんなさいね! このウイスキーはイギリス・スコットランドのデュワーさんが作ったから、「デュワーズ」と名付けられました。「吉野屋」みたいな感じですね。ウイスキーをブレンドするときは味の鍵となる「キーモルト」が全体の軸を決めるのですが、デュワーズには「アバフェルディ」というキーモルトが使われています。このアバフェルディが、悶絶するほどうまいんだ……っ!!! それなら大元のアバフェルディを買えばいいじゃん、という話になるのですが、アバフェルディはまさかの2024年に終売決定。今後は、デュワーズに大元の香りをたどっていくしかないようです。 その味は滑らか。ナッツ、チョコレートと「ウイスキーならではの味わい」がひととおり楽しめます。後味もよく、ベタつかずに程よい香りがふわっと残ります。 また、ソーダ割りにしても全く味が崩れません。デュワーズの香りと味わいそのままに、ドライな感覚を楽しめます。ストレート、水割り、ロック、ソーダ割り、全てに耐える珍しいウイスキーです。 2000円以下のおすすめウイスキー(4) カティサーク プロヒビション CUTTY SARK 700mL 出典:Amazon CUTTY SARK(カティサーク) プロヒビション カティサークはもともと、禁酒法時代のアメリカへ密輸するために生まれたお酒です。1920年、アメリカは禁酒法を導入します。その結果、密造酒や密輸されたお酒が大量に出回り、かえって治安の悪化を招いたのです。密輸時代から名前を売り、1933年の禁酒法撤廃と同時に爆発的に売れたのが、このカティサークでした。タイトルにProhibition(禁酒法)を冠したこのボトルは、禁酒法撤廃80年を記念したものです。 アルコール度数は高めの50%。初めてのウイスキーには向かないかもしれません。味わいはボトル裏面に記載のとおり、トフィー(キャラメルっぽいお菓子)の甘さと、徐々にコショウのスパイス感が広がります。甘さがありながら、ベッタリとせず余韻は駆け足で去っていきます。だからリッチなのに飲みやすい、おもしろいテイストです。おすすめの飲み方はロック。爽やかな甘さが際立ちます。 2000円以下のおすすめウイスキー(5) エンシェント・クラン Ancient Clan 700mL 出典:Amazon TOMATIN エンシェント・クラン  ウイスキーにはピート香と呼ばれる、泥炭の香りがあります。うまみに貢献するのですが、クセも強いのでありすぎると飲みづらい。そのバランスをうまくとっているお酒が、エンシェント・クランです。王道のブレンドされたウイスキーの味がします。なお、キーモルトとしてトマーティンが書かれていますが、トマーティンの味は一切しないので玄人はがっかりしないように。メインの原酒を24種もブレンドしている、非常に複雑な構成のウイスキーです。 特徴的なのは味わいの重さ。カラメル、ラムレーズン、スモーク、ピート香といった、重めの味わいが続きます。余韻はそれでいてアッサリしており、ウイスキーのどしっとした感じを味わいたいならまずおすすめと言えるでしょう。おすすめの飲み方はグラスを冷やしたうえでのロックかソーダ割り。「初めてのブレンデッド・ウイスキー」としておすすめしやすい1本です。 2000円以下のおすすめウイスキー(6) ジェムソン スタンダード JAMESON Standard 700mL 出典:Amazon JAMESON (ジェムソン) スタンダード ジェムソンは世界5位の売上を誇る、トップセラーです。材料にフランス南部の大麦とトウモロコシ、そしてアイルランドのダンガーニー川の仕込み水を使い、各地の名産品が合体して生まれました。 割って飲むときにおすすめのウイスキーで、おすすめはジンジャーエール割り。ジェムソン30mLへ冷やしたジンジャーエールを注ぐだけという、シンプルすぎるほどのレシピがとにかく美味しいです。ソーダ割りにすると揚げ物との相性も抜群で、天ぷら、串カツ、唐揚げといった油多めのメニューに、さっぱりした清涼剤として働いてくれます。また、まさかのお湯割りも美味しい。世界中で売れているだけあって、柔軟に扱えるウイスキーです。 2000円以下のおすすめウイスキー(7) ティーチャーズ ハイランド クリーム TEACHER'S HIGHLAND CREAM 700mL 出典:Amazon TEACHER'S(ティーチャーズ) スコッチウイスキー ハイランド クリーム 私が家でばかすか飲んでいるウイスキー。たまにラーメン屋で「独学でレシピを作ったら大ヒット」という店舗がありますが、このティーチャーズも同じで、創業者が貧しい出自から独学でウイスキーのブレンドを学び、発売に至りました。とにかく美味しい。美味しい! 味の秘密はキーモルトの含有量。味の主軸となるキーモルトは、含有量を増やせば原価が上がります。他社が30%程度しか入れないキーモルトを、ティーチャーズは45%以上配合。とんでもないことです。香りは少しだけスモーキー(燻製っぽさ)がありつつも、洋梨のフルーティさが覆います。やさしい喉ごしに、豊かなコク。余韻も穏やかで、全体的に優しいウイスキーです。アルコール感が少ないので、飲み過ぎ注意。おすすめはロックかソーダ割り。ソーダ割りを作るときは濃いめでどうぞ。 2000円以下のおすすめウイスキー(8) ハディントンハウス Haddington House 700mL 出典:Amazon Haddhington House ハディントン・ハウス スコッチウィスキー ハディントンハウスは美味しいのですが、ちょっと曲者です。というのも、抜栓直後は正直あんまり……おいしく……ないから……。(あくまで経験談です)ところが、です。こいつは抜栓してから放置すると、謎の美味しさを発揮します。特に半年以上放置すると、濃厚で甘みを感じるウイスキーに化けるのです。 ウイスキーは常温保存が可能ですが、抜栓してからそのままでいると、少しずつ酸素に反応していきます。そして、放置期間によって味わいが変わっていくのです。水割りにすると、あっさりめが好きな人にもちょうどいいまろやかさを感じられることでしょう。 なお、常温保存とは15℃~30℃を指す言葉なので、普段エアコンを使う部屋に置いてあげてください。真夏の納戸に放置して、どうなるかは保証できません。 では、ウイスキーに予算を投下すると何が起きるのか? 最後に、「これだけ美味しいウイスキーが、2,000円以下で買えるのに、わざわざそれ以上のお金を払う価値って何?」という話をいたします。 2010年ごろ。私は人生に絶望していました。親との不和。犯罪被害。失恋。当時はとにかく、死ぬことを考えていました。 そんな私を見かねた姉が、食事に誘ってくれました。それが、あまりにも美味しかった。食事だけでなく、そこで出されたウイスキーが、甘くて、ビターで、軽やかで、余韻は長く、時が止まるような味でした。いや、実際に止まった。飲む前と飲んだ後で、確実に私の人生は塗り替えられてしまった。あれから私は、2度目の人生を生き始めたのです。 だから、そこに書かれたラベルを丸ごと脳裏に焼き付けました。PORT ELLEN 1981 23 YEAR OLD SHERRY CASK(ポートエレン 1981 23年 シェリーカスク) 今では定価27万円のボトルですが、しかし、確かにあれに、私の人生は変えられてしまったのです。 もし、人生に行き詰まったら。とびきり高いウイスキーは、あなたの人生を根本的にひっくり返してくれるかもしれません。

我が青春のアルカディア~僕の人生にはいつもファミコンがあった~

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「我が青春のアルカディア~僕の人生にはいつもファミコンがあった~」。フミコフミオさんが書かれたこの記事では、ファミコンへの偏愛を語っていただきました! 僕のゲーム史のはじまりは「アルカディア」だった。 ファミコン最高。テレビゲーム最高。ファミコンは事件だった。僕が小学生のときに発売されたファミコンことファミリーコンピュータはそれまでの子供たちの遊びを一変させた。そこから日本のテレビゲームは一気に発展していったけれど、その流れをリアルタイムに体験できたのはラッキーだった。 我が家にはアルカディアという謎のテレビゲームがあった。父親が仕事関係でもらってきた代物。スティックが突き出ている形状の、クソ操作しにくいコントローラーだったけど、テレビに映る「ガンダム」や「マクロス」のキャラクターを動かせるのが新鮮で、面白かった。 しかし、友人の家でファミコンを見たとき、我が家のアルカディアはポンコツになり下がった。ファミコンのグラフィックはアニメのように鮮やかで、操作がしやすく、軽快な音楽が鳴っていて、とにかくかっこよかったのだ。 友達の家で遊んだ「ベースボール」と「マリオブラザーズ」からはじまるファミコンの衝撃が忘れられない。謎のアルカディアは、想像力を500%加味して、なんとか画面上の物体をキャラクターと認識できたが、ファミコンは見たまんまキャラクターだった。マリオはマリオで、コングはコング。しかもフルカラー。アニメのような細やかな動き。その瞬間、アルカディアのことは忘れた。僕はファミコンに夢中になった。 友達の家で遊んだファミコンが営業マンに必要なことを教えてくれた。 我が家にファミコンがやってくるのは遅れた。忌々しいアルカディアのせいだ。「アルカディアがあるからファミコンはいらないでしょ」という母の鉄の意思を崩すことに時間がかかってしまったのだ。だから、もっぱら友達の家にある友達のファミコンで遊んだ。何人かで集まって対戦ゲームで盛り上がった。「ベースボール」「アイスクライマー」「マリオブラザーズ」「ハイパーオリンピック」。アイスクライマーやマリオブラザーズの殺し合いでお互いの性格の悪さを知ることができた。 ハイパーオリンピックでは、専用コントローラーのボタンを交互に高速連打する。早く連打すると好タイムが出るシステムだ。ビー玉や棒を持ってこする頭脳派、人差し指から薬指までの右手の3本の指の爪を並べてこする肉体派に別れて肉体の限界まで挑戦した。対戦ゲームのカートリッジを持ち寄っていろいろなゲームで遊んだ。 面白かったのは、ゲームプレイのうまさだけではなく、奇声をあげたり、身体をぶつけたり、駄菓子をなげつける、などの駆け引きが勝敗にかかわっていたことだ。今、僕は営業職として働いているが、駆け引きや交渉はこのときに学んだといっていい。ファミコンはひとりでこもって遊ぶものではなく、コミュニケーションツールだった。 我が家にファミコンがやってきたのは、スーパーマリオが登場したときだ。スーパーマリオと本体を買ってもらうはずだったが、売り切れで代わりに買ってもらったのがカプコンの「1942」。第二次世界大戦を舞台にした空戦もの。パッケージに描かれたロッキードP38ライトニング戦闘機がかっこよかったのだ。中身は……小学生には渋すぎたとしておこう。なおファミコン版の1942の苦い記憶を払拭するために、数年後にゲームセンターで再会した続編「1943」で僕は学業を蔑ろにして死闘を演じることになるのだが、それはまた別の話である。 ファミコンがついに自宅に!という喜びは半減する。原因は兄弟の存在。スーパーマリオは弟と二人でプレイしなければならなかった。兄弟仲良く遊ぶという約束があったからだ。それぞれがやられるまで相手のプレイを観ている状態。弟を優先させなければならないので僕が弟のルイージを使い、弟が兄のマリオを使うという逆転状態なのも納得いかなかった。僕は弟のマリオが穴に落ち、ハンマーブロスの投げるハンマーに当たり、クッパの業火に焼かれるのを祈り続けた。残念ながら運動神経と反射神経に優れる弟マリオはなかなかやられず、僕の操るルイージは力が入りすぎてすぐ穴に落ちていった。弟とは二人でお年玉を出し合ってセガの家庭用ゲーム機、セガマーク3、メガドライブ、を買っていった。いい思い出だ。 ドラクエが教えてくれた大人のきたなさ 中学に入学した直後にドラクエの第一作が発売された。僕の中学三年間で二作目、三作目が発売されて大ブームになった。三作目のときは、事前から大盛り上がりの社会現象になった。発売当日は大混乱だった。日本各地で大行列ができた。ネットショップを使ったり、ダウンロードで買ったりするようになった現代では考えられない。 僕もある情報筋から(ネットがなかったから口コミがすべて)、隣町にある某量販店で発売されるという情報を入手し、友達と学校をサボらずに行列に並んだ。僕らはラッキーなことに全員ドラクエ3の入手に成功した。僕らの後ろでお兄さんが買えなくて暴れていた。彼がドラクエ入手失敗を糧に人生の成功者になっていると信じたい。 ここまでは良い話のような気がするが、大人のきたない一面を思い知らされていた。ドラクエ3は買えた。だが抱き合わせのソフトと一緒でなければ買えなかったのだ。汚い大人がドラクエ3人気に便乗して店にあるソフトと二本セットにして売る(ドラクエ3単体では売ってくれなかった)という悪行を働いていたのだ。今からでも独禁法で捕まってほしい。 というわけで僕はドラクエだけでなく、抱きあわせで「飛龍の拳」を手に入れた。これもアルカディアの呪いだろうか。ところで飛龍の拳はドラクエをクリアするまで放置しておいた。「せっかく買ったのだから」と思い直して遊び始めたら、クセの強いゲーム性にはまり、最後まで遊んでしまった。そして飛龍の拳をシリーズ3作目まで遊んでしまうことになるのであった。 ドラクエ3は最高だった。ストーリー終盤の仕掛けに僕らは感動した。そうくるかと。ドラクエは1作目から終盤の仕掛けがすごかった。革命的だった。1は戦闘画面からはみ出るような「りゅうおう」の大きさ、2はやっと倒したボスの後に現れる真のボス、そして紙のような防御力のサマルトリアの王子、3は主人公パーティーを待ち受ける運命とロト伝説につながる見事なオチ(そういえば11のラストも…)。 ファミコン草創期の友達と集まって遊ぶスタイルと、一人で遊ぶロールプレイングゲームの遊びのスタイルは、見た目は違っていたけれども、ドラクエという大きな冒険にみんなで挑戦しているような感覚だった。ネットがなかったので攻略法のほとんどは、学校で入手していたからだ。現代のネットを介したゲーム体験の原型だったように思われる。という美しいドラクエ初期の想い出とともに思い出すのは、飛龍の拳を抱き合わせで売りつけた大人たちのきたないやり方である。 ゼルダの伝説で、受験をしくじる。 中学から高校にかけて家庭用ゲーム機において、次世代機16ビット機戦争が起こった。スーパーファミコン、PCエンジン、メガドライブが覇権をかけて争った。まあ、スーパーファミコンの圧勝で終わるのだけれども、我が家にはスーパーファミコンとメガドライブが導入された。もちろん弟との共同所有である。 メガドライブはいとうせいこうさん出演のCMの未来感がやばかった。「ビジュアルショック!スピードショック!サウンドショック!」といとうさんが叫ぶCMで「次の時代はメガドライブが覇権を取る」と信じた。ソフトもクセの強いものが揃っていて、獣王記、スーパー忍、ヘルツォークツヴァイ、ゲイングランドは滅茶苦茶はまった。メガドライブはいい線いっていた気がする。 しかし、後発のスーパーファミコンがガンダムのように颯爽と現れるとあっという間にスーパーファミコンの時代になった。メガドライブは中毒性のあるゲームソフトはあったが、残念ながら一般受けしなかったように思われる。個人的にはコントローラーの差が大きかったと思う。メガドライブのコントローラーとスーパーファミコンのコントローラーを比べると後者の方が圧倒的に操作しやすく疲れなかったのだ。しかし僕はメガドライブを見捨てなかった。面白そうなソフトが出たときはチェックをし続け、大学時代を通じて現役の機体だった。少年時代のアルカディアの呪いがゲーム機を大事にしようという精神に繋がっていたのだ。 スーパーファミコンにはメガドライブ以上にハマった。1990年に発売されたスーパーファミコンが僕の人生設計を狂わせた。新スーパーマリオ、スーパーメトロイド、ファイナルファンタジー4と5、ゼルダの伝説神々のトライフォース、スーパーメトロイド。特に大学受験において大切といわれる、高校3年の夏から秋にかけて発売された、ファイナルファンタジー4と神々のトライフォースにはハマりすぎて、受験勉強にまったく集中できなかった。 なかでも、秋に発売された神々のトライフォースにはドはまりし、センター試験前日の夜まで遊ぶくらいで、それが原因で国公立大学受験にしくじってしまった。神々のトライフォースは何度クリアしたかわからないくらいだ。受験勉強にとりかかろうとするとスチャダラパーが歌う神々のトライフォースのCⅯソング「出る出る ゼルダの伝説 出る出る出るでるついに出る出る出る!」が、脳内に大音量で奏でられ、気が付くとコントローラーを握ってテレビの前に座っていた。呪われていたとしか思えない。 この時期は、ソフトの大容量化が一気に進んだこともあって、一人でしこしこ進めるゲームにはまっていた。テレビゲームは、皆で遊ぶものというよりは少しマニアックな趣味になっていたように思われる。ヲタクという言葉が流行ったりしたように。ゲーム好きとの会話はマニア化したぶんディープで面白かった。だから全然後悔していない。もういちど人生をやり直せたとしても、僕は試験前日に神々のトライフォースで遊ぶことを選ぶだろう。 オンラインで、ファミコンで遊び始めた頃を思い出した青年期 大学から社会人にかけてはお金を稼げるようになって、主要なゲーム機を買い続けた。据え置き機は、プレステ1、プレステ2、プレステ4、64、ゲームキューブ、Wii、Switch、Xbox360。携帯機はゲームボーイ、ゲームボーイカラー、ゲームボーイアドバンス、DS、3DS、PSP。あれだけ愛したメガドライブとサターンを出していたセガはドリキャスの自虐CMを最後にゲーム機市場から撤退していた。アルカディアは人知れず滅びていた。 時期によって遊ぶゲーム機は変わっていったが、ゲームと共にあった。オンラインゲームで朝まで遊んだりした。オンラインで最も遊んだのは360の「ギアーズオブウォー3」。Hordeという対CPU共闘モードがあって、すでに30代になっていたが、仲のいい友達と夜遅くまでチームを組んでモンスターと戦った。仕事でヘロヘロになっても週末のゲームがあったからやってこられたといったら大袈裟だろうか。「ポータル2」を協力プレイでクリアしたのも懐かしい。オンラインが流行って、会話しながらゲームを楽しむようになり、最初期のファミコンの楽しみ方を思い出すように遊びまくった。体力もまだあった。 あとはスカイリムとかフォールアウトシリーズのようなオープンワールドゲームに時間を費やした。いや、マジで数百時間は溶かした。その時間をスキルアップに使っていたら僕はそれなりの大人物になっていたのでないか…そんな現実を振り返って「僕は何をやっているんだ」と後悔するポーズを取っていたけれど、それは対外的なポーズで1ミリも後悔はしていない。 50歳になってあのゲーム機に対して感謝する。 僕は今年50歳になった。反射神経と視力の衰えは顕著で、ゲームにもその影響は思い切り出ている。プレステでときどきフォールアウトやディアブロで遊ぶほかは、ニンテンドーSwitchをメインで遊んでいる。体力もなくなった。30代までは出来た夜を徹してのオンラインゲームはもうできない。寝落ちしてしまうだろうし、翌日以降を考えると恐ろしい。それでもほぼ毎日ゲームで遊んでいる。新作もときどき遊んでいる。ペースを落としながら楽しんでいる。 ニンテンドーSwitchは過去作を遊べるのがいい。ニンテンドースイッチオンラインやリメイクやリマスターで過去の名作・迷作が遊べるようになった。僕はここ1年で受験失敗の元凶であるゼルダの伝説神々のトライフォース、スーパーメトロイド、ファンタシースター、ロマンシングサガ3、ドラゴンクエスト2、ドラゴンクエスト3、ドラクエモンスターズテリーのワンダーランドといった過去の名作をクリアした。このうちファンタシースターやロマンシングサガ3はオリジナルが発売された当時(1987年/1995年)にクリアすることが出来なかったのを50歳になってリベンジした形だ。子供の頃、クリアできなかったゲームや遊べなかったゲームが遊べるような未来が来るとは思っていなかった。だから僕はその時代時代の全力を投じてゲームに取り組んできたのに…なんてことだ。 だが後悔はしていない。なぜなら、ふりかえってみると僕の人生のかたわらにはいつもゲームがあったからだ。嬉しいときも悲しいときも苦しいときも楽なときも何もないときもゲームは僕を落ち着かせ励まし癒し隙間を埋めてくれた。ゲームとは40年来の付き合いだ。全然飽きない。最新のゲームにはついていけなくなってはいるけれど、まだまだ楽しんでいきたい。今はニンテンドーswitch後継機がどんな遊び方を見せてくれるのか楽しみでならない。僕にゲームの素晴らしさを教えてくれたガンダムやマクロスがガンダムやマクロスに見えない、あの忌まわしいアルカディアにも感謝しかない。わが青春のアルカディア、と。

煩悩からハマったヤクルトファンという修羅の道から抜けられない。

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「煩悩からハマったヤクルトファンという修羅の道から抜けられない。 」。フミコフミオさんが書かれたこの記事では、プロ野球・東京ヤクルトスワローズへの偏愛を語っていただきました! はじめに 如何にして僕はヤクルトスワローズファンになったのか。 僕はフミコフミオ、本職はブロガー、副業で食品会社の営業部長をやっている50歳のおっさんだ。このたびは、この場をお借りして、人生のほぼすべての期間をかけてハマっている東京ヤクルトスワローズとプロ野球について語りたい。 僕はヤクルトスワローズ沼にズブズブにはまっている。数年に一度の頻度で、ふと我にかえり「ヤクルトに費やしている時間を仕事に向ければ、もっとビッグな存在になっていたかもしれない」と思い、ヤクルト断ちをすることがある。 だが、数分のうちに「落ち着かない」「不安を覚える」といった禁断症状が起き、また自ら沼へ頭から飛び込んでしまう。ツバメになって自由に大空を飛び回りたいが、沼にはまりすぎて半魚人に接近しつつあるのが実態だ。 東京ヤクルトスワローズとの不幸で幸せな出会い ヤクルトスワローズとの出会いは、小学校低学年にまで遡る。1980年代前半。当時、プロ野球は国民的スポーツで、毎晩のようにナイター中継がテレビ放送されていた。中継はほぼ巨人戦だった。そのため読売巨人のファンになる友達が圧倒的に多かった。 当初、僕も巨人ファンだった。だが、巨人戦のナイターを観ているうちに、対戦相手のヤクルトスワローズに興味がわいてきた。弱く、大概負けているが悲壮感がなくて明るかったのだ。 80年代のヤクルトはとことん弱かった。成績は散々。80年代の順位は1980年の2位以降6、6、5、6、6、4、5、4位(暗記している)。10年間でBクラス9回うち最下位4回。調べたら勝率5割を越えたのは1980年のみで勝率3割台を3回記録。暗黒時代真っ只中だった。それでもヤクルトは明るかった。観客席のおじさんたちは東京音頭で楽しそうだった。 当時、ヤクルトスワローズを追うには、ラジオのナイター中継か新聞のスポーツ欄しか手段がなかった。一般紙のスポーツ欄のヤクルト戦の記事は、悲しいほど小さかった。写真もなかった。記載されている選手の出場成績とスコアから、どういう試合だったのか想像するしかない。今でもデータをみればどんな試合経過かだいたい想像できるのは、このころの経験が活かされている。  ファンになった決定打は、神宮球場での野球観戦。無料チケットで、神宮球場の内野席の僕の隣の席に、赤いミニスカートをお召しになったセクシーなお姉さんが座ったときだ。お姉さんはヤクルトの攻撃のたびに足を組み替えた。それを見ているうちに、僕は、完全にヤクルトスワローズのファンになった。以来、僕の血管には煩悩とヤクルトミルミルが流れている。  余談だが同時期、僕はロッテオリオンズ子供会にも入っていた。ヤクルトとロッテという負けてばかりの二チームを応援するうちに、勝ち負けに対する感情やこだわりは完全に焼失した。ロッテは高校三年のときの千葉移転を機に別のチームになった気がしてファンをやめた(今でもパ・リーグではいちばん好きな球団だが)。ロッテがいなくなってからはヤクルトへの偏愛を持ち続けてきた。そして、球団名が東京ヤクルトスワローズに変わった現在にいたる。 偏愛ポイント1:「BBAの法則」で病みつき! 東京ヤクルトスワローズ(以下ヤクルト)は、80年代の暗黒期、90年代の黄金期を経た現在でも成績が安定しないチームだ。Bクラス(4〜6位)が続いたかと思うと突然Aクラス(1〜3位)に快進撃をする戦いぶりは一部ファンから「BBAの法則」「躁鬱球団」と呼ばれている。「BBAの法則」とは2シーズン停滞(BB)後突然躍進(A)するヤクルトの傾向をあらわしたものだ。 最近も2年連続最下位に沈んだ翌シーズンに突然リーグ優勝を飾り、勢いそのままに日本シリーズまで勝ち取ってしまった(2021年)。ジェットコースターのようにファンの心を揺さぶるツンデレぶりに病みつきになってしまうのだ。ダメンズが突然覚醒してヒーローになるのだ。たまらない。 ヤクルトに強豪球団というイメージを持っている人は少ないだろう。安心してください。その認識は正しい。ヤクルトファン自身が強豪球団とは思っていないのだから。はっきりいって弱いときはひたすら弱い。 ただ「BBAの法則」で勝ち始めて調子に乗ると強い。球団黄金期と評価されている野村監督時代も常勝ではなく、1位と4位を繰り返していた印象。直近10年間の成績もファンの心を激しく揺さぶっている。直近10年間は、2014年の6位からはじまって、1、5、6、2、6、6、1、1、5である。勝つか(1位)負けるか(下位低迷)の二極、1位かビリかである。 普段は弱くてだらしないけれど勝ち始めるとたのもしい。それがヤクルトである。まるでテレビシリーズでは情けないけれど、劇場版だと頼もしくなる「のび太」のようだ。 なお、この原稿を執筆している時点で最下位。昨シーズンは5位に低迷。だが、ここ10年間でビリに4回なっているが1位3回日本一1回を達成しているので満足度はすこぶる高い。日本シリーズは通算でも強い。なんと出場9回で優勝6回だ。強豪球団みたいだ。 普段はダメだけれども突然大勝する中毒性の高いコンテンツ、それがヤクルト。弱いとき、ファンはあたたかく、弱いチームを見守る。「明日は勝てるさ」「ドンマイ」と。前触れもなく快進撃を見せて強敵を打ち倒していくときは、弱い時期を共に耐えている分喜びもひとしおだ。「よし頑張ろう」という気力をもらえる。常にAクラスにいて優勝に絡んでいるチームでは味わえない。こんな極端なチームは日本のプロ野球には他に存在しない。沼である。 偏愛ポイント2:家族のように仲がいい。 ヤクルトはファミリー球団といわれている。家族経営ではなく、家族のように仲がよいチームという意味だ。選手同士が仲良くて「わちゃわちゃ」していて、見ているだけで微笑ましい。そのチームカラーは近年ますます強くなっている。 ヤクルトは主力を他のチームに引き抜かれてきた歴史がある。90年代から約20年間、苦労して獲得して、日本野球に慣れるまで使ってきた外国人選手を、引き抜かれる。悲しかった。 ハウエル、ペダジーニ、ラミレス、グライシンガー、ヒロサワ、カズシゲ、バレンティン。とりわけエースで最多勝を取ったグライシンガーと不動の四番ラミレスを引き抜かれた2007年は……いや、誹謗中傷になるからやめておこう。悲しかった。好きだった女の子が、嫌いなクラスメイトの彼女になっていたときのような悲しみだった。 このような歴史があるため、今のファミリー球団ぶりは楽しい。近年の外国人選手、リーグ制覇に貢献したバーネットやマクガフは、メジャーリーグに移籍してもヤクルト愛を見せてくれている(バーネットは球団スタッフになった)。 嬉しい知らせが入った。なんと、現在主力のオスナ・サンタナのコンビが、選手サイドからのヤクルト残留を希望して、来シーズンから新たに3年契約を結んだのだ。40年以上、他球団も含めてプロ野球を見てきたけれど、こんな外国人選手は知らない。 仕事をしているとストレスを感じるけれども、ヤクルトの仲良しぶりはストレス軽減効果があるらしく、心身ともに良いのでやめられない。仲が良すぎるあまり皆さんが仲良く不調に陥って大型連敗を喫することもある。 だが、火ヤク庫と呼ばれるように打線が大爆発するときもあって、それはファミリー球団の団結力が生み出している。また、石川、青木といった40代おじさんレジェンドたちが、いい味を出してチームに影響力をもっているのも、同じおじさんとして嬉しい。 偏愛ポイント3:大谷さんをチェックしている暇がなくなる。 世間は国民的スター大谷翔平さんの活躍に夢中だ。だが僕は彼がホームランを打っても特に何も思わない。大谷翔平さんがヤクルトの選手ではないからだ。 ヤクルト以外のチームに興味がない。ヤクルトが勝つと最高だが、負けても楽しい。ヤクルトを通してプロ野球を、勝ち負けを越えた部分で楽しんでいる。 長年ファンクラブに加入しているが、応燕グッズはもっていない。東京音頭で有名な傘も、自宅に一本飾ってあるだけで持参はしない。僕は応燕より観戦を重視しているのだ。ちなみに応燕と書いているがヤクルトファンは応援のことをこう呼ぶ。念のため。 神宮球場その他の球場で観戦するときは試合に全集中。応援歌も歌わない(山田哲人の応援歌は例外)。試合前のキャッチボールやブルペンの様子。試合中頻繁に変わる守備シフト。中継ではわかりにくいポイントを見ていると応燕をしている暇がないのだ。写真を撮る時間もない。 日常のタスクは多い。シーズンオフも忙しい。ファン感謝祭、新人ドラフト、秋季春季キャンプ、現役ドラフト、新入団外国人選手、戦力外通告のイベントやデータサイトなど、追わなければならない項目が多く、忙しい。僕のように、仕事中、「支配下選手枠があと三つだから…」とぶつぶつ言うようになってようやく本格的なファンだといえる。 シーズン中はさらに忙しい。平日の試合は年休を取るか、早退をしなければ現地観戦はできない。管理職に就いてからは幹部ミーティングが増え、早退できなくなった。休日には家族サービスがある。そのため、球場での試合観戦は、年間十数試合。自然とネットやテレビの試合中継が中心となる。 各スポーツメディアのヤクルト関連ニュースをチェックすることから朝がはじまる。昨日の試合の詳報や裏話等。余裕があれば選手のSNSもチェックする。 日中も3時間毎に信濃町の方向を向き、つば九郎神社に向けて必勝祈願。2軍のデイゲームが13時からはじまるのでネットで出場選手と成績をチェック。空いた時間があればヤクルト関係のニュースをチェック。こうした本業の合間に、副業の営業部長の仕事をこなす。多忙だ。 出場選手登録が16時に発表されるのでチェックして、18時の試合開始に備える。ヤクルトの試合中継を見るために有料チャンネルに加入し、スマホでいつどこでも観戦できるようにしてある。18時に仕事を終えると、一回表裏の攻防が終わるまで部長席に座って仕事をしているふりをしながらスマホで観戦。 帰宅後は、表向きは奥様対応を第一に、心と精神は野球中継に集中して試合終了まで観戦。深夜までスポーツニュースや野球系サイトをチェックしたいが、そこまで没頭すると奥様から叱られるので、就寝するようにしている(朝に戻る)。 休日も仕事が家事と家族サービスに変わるだけで、基本的には同じ。これが火曜日から日曜日、試合日のすごし方になる。試合がない日は、プロ野球のデータを扱っているサイトをチェックする日に当てている。このように、ヤクルト漬けの忙しい生活を送っているため、大谷翔平さんを追うことはできない。完璧な大谷翔平さんの唯一の欠点、それは彼がヤクルトの選手ではないこと。ヤクルトでなければ僕の心を動かすことはできないのだ。 まとめ/2024年夏のヤクルトファン 現在(2024年8月20日)、ヤクルトはセ・リーグ最下位である。セ・リーグは近年にない接戦が続いているのでまだ優勝の可能性は残っている。ヤクルトは、既存戦力と新戦力で粘り強く戦っている。西川や松本といった、他球団を戦力外になった選手や、長く二軍で苦労していた選手が活躍していて今シーズンも面白い。 ヤクルトは、つば九郎人気もあって、昔と比較すると人気のある球団になった。ヤクルトの神宮球場主催試合のチケット購入も難しくなっている。かつてタダ券で観戦していたのが嘘のようだ。素直に嬉しい。 リーグ連覇、トリプルスリーの山田哲人キャプテンや、三冠王の村上などのWBC出場からファンになった人たちは、ヤクルトスワローズという浮き沈みの激しく、仲の良いプロ野球チームを長い目であたたかく見守ってほしい。そこに人生を重ねると病みつきになること間違いなしである。 僕の夢は、ヤクルト対ロッテの日本シリーズをこの目で観ることだ。それが叶ったらこの世に未練はございません。

ボーカルの叫び(フェイク)が好きすぎる…

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「ボーカルの叫び(フェイク)が好きすぎる…」。かんそうさんが書かれたこの記事では、ボーカルの叫び(フェイク)への偏愛を語っていただきました! 私はボーカルの叫び(フェイク)が好きすぎる男です。フェイクとは簡単に言うと「歌詞には表示されていない叫び声」です。 まったく予期せぬタイミングでブチ込まれる「イェーイ」や「ウォーウ」などの叫びを聴いた瞬間、私の耳と脳は沸騰し全身が溶けるような興奮に襲われます。 私が一番最初に「フェイク」というものを意識した叫びの原体験は、2000年にリリースされたロックバンド・ポルノグラフィティの代表曲「サウダージ」でした。曲終盤、ボーカル岡野昭仁が放つ、圧巻の叫びをぜひお聴きいただきたい。(3分30秒あたりから) https://www.youtube.com/watch?v=lzsB4eKPdJI 岡野昭仁「夜ォオオ空をォオオオ〜〜!焦ォオオがしてェェエエエ〜〜〜〜〜〜!私はァアア…!生きたわァアアアア…!恋心とオオオオオ〜〜〜〜〜〜ォオオオ……〜〜〜〜ォオオオオ…オオオ…」 新藤晴一「トゥトォワントォワン〜〜〜トゥルルル〜〜〜ティレレ〜〜〜レレ〜〜〜ェェトォワァ〜〜〜〜ァァレ〜〜〜ェン!キェレレレ〜〜〜〜トォワァントォワ〜〜ントゥルルルトォワァントォワ〜〜〜ン!トゥルントゥルントゥルントゥルントゥルルルトォワ!」 岡野昭仁「ベイベェェエエエエエエ〜〜〜ッ!!!!!!!」 新藤晴一「トゥトォワントォワン〜ワントォワンワントォワンワントォワンレ〜ワントォワン」 岡野昭仁「…ンナァッ…!ナナッツ…!ナナッツナァアォッ……!!」 新藤晴一「ギュイイイ〜〜〜〜〜ン!!」 岡野昭仁「オォン…」 新藤晴一「トゥトォワントォワン〜ワントォワン〜トォワン…トゥルゥルトゥルトゥルトゥル!」 岡野昭仁「ヒィイッヒィ〜〜ッ!!!!」 まさに常軌を逸した、驚天動地の叫び。特にラストの「ヒィイッヒィ〜〜ッ!!!!」を聴いた時の衝撃たるや、未知の世界に生まれ落ちた感覚でした。本当に意味が分からなかった。前述した「イェーイ」や「ウォーウ」ではない、掟破りの「ヒィイッヒィ〜〜ッ!!!!」がそこにはありました。 しかし、曲の主人公のどうしようもないほどの寂しさと切なさ、それでも日々を生きていかなくてはならない現実、そんな感情を表す言葉は「ヒィイッヒィ〜〜ッ!!!!」以外にはあり得ない。岡野昭仁の天を突くような高音から放たれるレーザービームのようなフェイクは、私の耳と心を掴んで離さなかったのです。 この瞬間から私の新しい人生が、フェイクに取り憑かれた人生が始まりました。それからというもの、叫びが素晴らしいと感じたボーカリストの叫びを分析、調査し、リリースした楽曲全ての叫びの部分だけを文字に起こしたブログを運営しているほどです。 もう曲などいらない、叫ぶだけのライブに行きたい。いやむしろ叶うのならば、私自身がボーカルの叫びそのものになりたい、そう考えています。 今回はそんな叫び、フェイクの魅力を余すことなく伝えたいと思います。そしてこの記事によって全てのアーティスト、ボーカリストがもっともっと叫ぶ世界を作りたい。そう考えています。 そもそもフェイクの起源とはどこにあるのか。諸説ありますが、9世紀から10世紀にかけて西欧から中欧のフランク人たちのあいだで発展した神の祈りや礼拝で歌われる宗教音楽「グレゴリオ聖歌」が発祥なのではないか、と言われています。 グレゴリオ聖歌で使用されるフェイクは「メリスマ」と言われており、1音節のなかで音符が複数歌われることを意味しています。そう、我々が生まれるずっと前から人々は叫んできたのです。 「フェイクなくして名ボーカリストなし」とは、私がたったいま興奮して作った名言ですが、人々の心を虜にするボーカリストたちは必ずと言っていいほどフェイクを得意としています。最後に、私が調査した最強のボーカリストたちのフェイクの魅力を紹介します。 Mr.Children桜井和寿 https://www.youtube.com/watch?v=ShhoC3nHX8E&pp=ygUT6Laz6Z-zIOODn-OCueODgeODqw%3D%3D 卓越した言語能力で日本中を共感の渦に巻き込む歌詞と、誰もが耳に残るメロディセンスはまさに日本を代表する鬼才。そんな桜井和寿を桜井和寿たらしめているのは唯一無二のボーカルです。 2015年に放送されたNHK「SONGSスペシャル」で桜井和寿は自身のボーカルについて「曲によって求められている感情っていうのがきっとあると思って、その感情にできるだけ近い声の柔らかさや硬さだったりとか、音の切り方とか、何度も主観と客観を繰り返しながら歌入れをしていく感じですね。だから、イントロがあって、最初の歌の声の出し方とかニュアンスはすっごいこだわる」 と語っています。曲によって自分の声をまるでカメレオンのように変化させているのですが、そこには燦然たる「桜井和寿」が輝いているのです。地声と裏声が入り交じる少しかすれた声は、どれだけ他のボーカリストが真似をしても小手先のテクニックでは到達し得えません。 その個性はフェイクでこそ輝くものがあり「桜井和寿が一回フェイクを歌うごとにどこかで争いが一つ消える」と言われるほど。まさに声のバタフライエフェクト。特に2014年にリリースされた『足音 〜Be Strong』で見せたフェイク「イェッヘッへ!」は、サウダージの「ヒィイッヒィ〜〜ッ!!!!」と双璧を成す二大フェイクとして語り継がれています。 B’z稲葉浩志 https://www.youtube.com/watch?v=td8WGpkJt50&pp=ygULYid6IGNhbGxpbmc%3D 一度聴いたら二度と忘れることが出来ないクセと圧倒的なパワーが融合した声は、日本ロック界のキングの名を欲しいままにしています。 楽曲中に含まれるフェイクの数は、私が調査した中ではブッチギリの日本一で(B’zのリリースした楽曲全412曲中、フェイクが含まれているのは驚愕の312曲)、フェイクと言えば稲葉浩志、と言っても過言ではありません。 特に楽曲の随所で音符と音符の間に自由自在に挟まれる「アウイエ!」「ヘェイ!」などの「アマングフェイク」の多さは、もはや稲葉浩志の叫びなのか楽器なのか分からなくなりました。 三浦大知 https://www.youtube.com/watch?v=iC5VaWOPRzI&pp=ygUG6IO95YuV 「和製マイケル・ジャクソン」と評されることもあるほどの日本人離れしたダンスとボーカル能力は日本国内でもトップクラスの実力を持ち、「人間に歌えるのか…?」と思うような歌と「人間に踊れるのか…?」と思うような踊りを同時に行う正真正銘の怪物。 その実力はフェイクにおいてもいかんなく発揮されており、低音から高音まで曲を縦横無尽に駆け巡るフェイクで楽曲のスピード感を何倍にも加速させています。特に、2023年にリリースされた楽曲『能動』のラストでは 「全てを懸゛げェエてェエエエエエエエェェエエエ〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!!ェエエエエエエエエエエエエエエエエェ……エエエエヘェェエエエエエイエヘエエエェェェェエエエエェェェエエェェェェエエエエエエェェェェェィ………………アア゛ァァァァアアアアアアアオオオオッッッ!!!!!!!」 と、腰を抜かすほどの恐るべきロングトーンとフェイクを披露しています。 Official髭男dism藤原聡 https://www.youtube.com/watch?v=CbH2F0kXgTY&pp=ygUV44Of44OD44Kv44K544OK44OD44OE 女性ボーカリストにも出せない刃のような鋭いハイトーンボイスが武器の藤原聡。ヘビーメタルをルーツに持つ彼のフェイクは優しそうな外見からは想像できないほど激しく攻撃的で色気に満ち溢れています。そんな彼の魅力とは「ギャップ」。大人気アニメ『SPY FAMILY』の主題歌にもなった代表曲「ミックスナッツ」ではイントロが始まるやいなや 「ヌ゛ァァァアアアアアアアア!!!!!」 と、まるで檻から解き放たれた猛獣のような雄々しい叫びを聴かせてくれています。 藤井風 https://www.youtube.com/watch?v=Nt6ZwuVzOS4 地元である岡山弁の訛りと、幼少期より父から教わったネイティブな英語の発音をミックスさせた独特の歌い回しは、高層ビルに囲まれたきらびやかな都会と大自然に囲まれた雄大な田舎の風景が共存しているような錯覚を起こさせます。フェイクにおいてもその自由さは存分に発揮されており、従来の日本人歌手では考えられないようなフェイクを聴かせてくれる。特にデビュー曲『何なんw』で見せた 「裏切りのブルースゥバラベレンベベレベレン ベベレンババランバ!!!!」 は、まさに「革命」。叫びボーカル界の新星がここに誕生しました。 …なぜボーカリストたちは叫ばずにはいられないのか…その理由は「言葉を超えた魂からの叫び」にあると私は考えています。そしてそれこそがフェイクの最大の魅力であり、人間を狂わせる魔力。 ボーカリストが歌詞の主人公そのものになり、曲が紡ぐ物語をまるで自分のことのように捉え、言葉にできない感情が爆発し、音として現れた姿がフェイクなのです。 そしてそのフェイクを耳にした瞬間に我々リスナーも曲と同化し、理屈ではなく「本能」で曲に共感することができるのです。 ぜひボーカリストたちの叫び、フェイクに耳を傾けてみてはいかがでしょうか。

なぜ”デカい犬”は”いい”のか。――巨大な犬の出てくるフィクションについて

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「なぜ”デカい犬”は”いい”のか。――巨大な犬の出てくるフィクションについて」。千葉集さんが書かれたこの記事では、デカい犬への偏愛を語っていただきました! 犬はいい。 かわいいとか、かしこいとか、無垢とか、役に立つとか、ネットミーム化すれば仮想通貨のアイコンになってなぜか日本に像が建つとか、そういう次元での「いい」ではありません。ただ、ひたすら、犬はいい。 (仮想通貨になった犬の像。千葉県にある) 【ソース:Wikimediacommons/Fred Cherrygarden】 ところで、デカい犬というジャンルがあります。 これもまた、いい。 あなたがゴールデンレトリバーなりセントバーナードなりを飼っているならば、すかさず、「いいよね〜、大型犬」と同意することでしょう。それに飽き足らず、手元のハイテクスマホを駆使して、SNSで大型犬のよさを訴えるツイートを飼い犬の写真とともに拡散して全世界に共感の嵐を巻き起こし、その犬をネットミーム化して仮想通貨のアイコンとし、イーロン・マスクの投資を得てその犬の像を建てることにもなる。 まあ、わかる。それは、そう。 それはそうなんですが、ちょっと慌てないでほしい。私はここで大型犬の話をしているのではありません。デカい犬の話をしています。 デカい犬、というのはもちろん大きな犬なのですが、大型犬のことではありません。超大型犬のことでもない。 デカい犬とは、人間などを遥かに超える体高を持つ犬のことです。 そんな犬、実在するのか。します。 (京丹後市にある犬ヶ岬。犬に似ているからこの名がついたそう。昔の人の感性はよくわからない) 【ソース:WikimediaCommons/VinayaMoto】 こんな話があります。むかしむかし、今の長野県の東のあたりに犬ヶ峰と呼ばれる山がありました。そこによそから新しい殿様がやってきて、あの山クソ邪魔だなー、とおもいました。その山を遠回りするのがめんどうなので、領外からの交易商たちから避けられまくり、経済に大ダメージをあたえていたからです。 殿様は「あの山さえどければ、うちの藩は大繁盛!」と一心に信じ、山にトンネルを開けることを決意します。自らツルハシをかついで工事現場の先頭に立ちました。 そうして、殿様は犬ヶ峰の麓の固そうな岩に、カツン、と最初の一撃をくわえます。すると、たちまち、山が震えだしました。殿様は地震とおもいましたが、これが違う。 山が突然隆起し、四肢が生えました。そして、キャインキャイン喚きながら暴れ出したのです。 そう、犬ヶ峰は実は山岳サイズの巨大な犬だったのです! たちまち殿様は巨大犬に踏み潰されて圧死。山だった犬はそのままどこぞへと駆け出して、ついぞ戻ってきませんでした。 こうして、邪魔な山と邪魔くさい殿様を除いた藩は交易で栄えるようになったのでした。めでたしめでたし。 この昔話の示す教訓はふたつ。ひとつは経営者は下手に現場にでしゃばらないこと。 もうひとつは、デカい犬は実在するから注意しろ、ということ。 (北欧神話のフェンリル。そういえば、阿部桃子『フェンリル姉さんと僕』(秋田書店)という主人公の憧れの先輩が実はフェンリルで姉な北欧神話伝奇まんががありましたね。かわいらしい高校生の先輩がデカい狼に変身して戦います) 【ソース:パブリックドメイン(A.Fleming)】 こんな話もあります。私も、そのむかし、デカい犬に会いました。 幼い時分、祖父の家では巨大でふさふさした犬を飼っていました。たいていは居間のすみっこの座布団ですやすやとねむっているだけでしたが、たまに起きて立ち上がり、もそもそと餌などをむさぼっておりました。その体高は私が見上げるほどもありました。 私はその犬に抱きつくのが好きでした。汗臭くて角ばっていましたけれど、ふしぎと心地よく、安心できたのです。 私はその犬とよく一緒に昼寝もしていました。が、ある年の夏休みに祖父の家に行くと、犬はいなくなっていました。 犬はどこに行ったのかと祖父母に訊ねても、ろくな返事は返ってきません。あいまいにはぐらかされたまま、犬の行き先はけっきょくわからないままに終わりました。 この話の教訓もふたつあります。ひとつは大人というのは子供に対してつねに明瞭な答えを返してくれはしないのだということ。 もうひとつは、デカい犬は存在し、すぐにどこかへ消えてしまうから注意しろ、ということ。 とにもかくにも、私はデカい犬が好きです。 私だけではありません。デカい犬ファンは全世界に存在します。神話や民話をひもとけば一目瞭然です。たとえば、北欧神話には災厄の狼フェンリルがおり、ギリシア神話には地獄の番犬ケルベロスがいる。他にも英国には「皿ほどに大きな眼をもつ」デカいバーゲストがいる。 (伝説系のデカい犬で愛らしさナンバーワンのジェウォーダンの獣。もちろん、遭遇すると死ぬ。映画にもなりました) 【ソース:パブリックドメイン】 これらの神話的なデカい犬の共通点は大雑把に要約すると「会うと死ぬ(か死んでる)」です。 デカい犬を見ると、人は(あと神も)死ぬ。 たぶん、よすぎて死ぬのでしょう。 三国志の武将の八割が孔明におちょくられて憤死するように、デカい犬に出会った人間はよすぎるあまりに死ぬ。この現象をデカい犬の専門家である私は「デ犬よ死」と呼びます。呼びにくすぎる。今後は使わないから憶えなくてもいいです。 しかしフェンリルにしろケルベロスにしろ、いずれも神話のデカい犬です。紀元前に最高潮を迎えたデカい犬ブームはもう二度とリバイバルすることがないのでしょうか? (ケルベロス表象。ギリシア神話を題材にしたビデオゲーム『Hades』のケルベロスはとてもかわいかったですね。ディズニーの『ヘラクレス』に出てくるケルベロスもいいよね) 【ソース:パブリック・ドメイン(Felton Banquest)】 いやいや、現代においてもデカい犬はそこそこいます。 筆頭といえば、クリフォード。 「クリ……だれ?」とお思いの読者も多いでしょう。たしかに「パディントン=クマ」、「プーさん=クマ」、「宇多田ヒカル=クマ」といったように名と対応する動物が即座にイメージされるような代名詞的な認知度はないかもしれません。 (映画とは全く関係ない赤い犬の切り絵) 【ソース:WikimediaCommons/Fanghong】 しかし、デカい犬界では随一のビッグネームです。元は児童書で、一昨年には日本で映画も公開されました。邦題は『でっかくなっちゃった赤い子犬 僕はクリフォード』。 もう、なんか、タイトルだけで「ああ、赤い子犬がでっかくなっちゃうんだな」ということが一発でわかります。ニコニコしちゃいますね。 ところで、『でっかくなっちゃった赤い子犬 僕はクリフォード』はある定式を映画界にもたらしました。「デカい犬は狭い室内にいれると窮屈そうでいい」と「室内で窮屈にしていたデカい犬が外に出て駆け回ると開放感がハンパなくていい」のふたつ。抑圧と解放。映画の快楽の基本がここに完成されています。 これらのパターンを組み合わせると、そのままデカい犬物語のプロットができあがる。流用すれば、あなたも今日からデカい犬物語作家です。すばらしい。 この事実に気づいた界隈では「クリシェ好きなハリウッドの脚本家連中にこんないい道具を与えたら、映画界にデカい犬ブームが起きちゃうんじゃないか?」とにわかに期待が高まりました。映画は気の長いビジネスなので波が来るのは早くても三年後です。われわれは待ちました。三年、待ちました。 そうして今日、『クリフォード』につづくデカい犬映画は現れていません。 このエピソードの教訓はみっつ。 ひとつ、デカい犬は商業的に成り立たないと思われている。ふたつ、期待はつねに裏切られる。みっつ、ハリウッドはクソ。 日本のフィクションにもデカい犬は登場します。 私はまんがを読むのでまんがの話になるが、本邦におけるMFDD(モスト・フェイマス・デカい・ドッグ)といえば『HUNTER×HUNTER』のミケです。 ミケは暗殺一家ゾルディック家の番犬で、まあデカい。デカいだけではありません。高度に訓練された狩猟犬で、不正な侵入者を秒で食い殺すんですね。 そんなミケに対して主人公であるゴンは野生児として育った自分なら動物と仲良くなれるぜ的に突っ込んでいこうとするのだけれども、そのあまりに「異物」すぎる瞳に見据えられ、自らの思い違いを悟る。 自分のものさしでは絶対に超えられない壁がある。それを思い知らされる。しびれますね。 動物というのはいついかなるレベルにおいても人類にとって他者であるわけですが、デカい犬というのはとりわけそのことを痛感させてくれます。非常に啓発的な存在といえるでしょう。どうりで会ったら死ぬわけだ。 しかし、基本的にフィクションにおけるデカい犬というのはミケのようにワンポイント(犬だけに、犬だけにね)で出演するか、よくてマスコット的なサブキャラに限られます。なかなか主役級で扱われる例は見かけない。 そんなデカい犬不毛の時代に彗星のごとく現れたまんが作品がありました。 スケラッコの「大きい犬」。 https://to-ti.in/product/bigdog (トーチの公式ウェブサイトで無料公開中。いまならデカい犬が無料!) あらすじはこう。インドに出かけるという友人から離日期間中の留守番を頼まれた青年・高田。彼が留守番先の友人宅へ向かうと、住宅街の一角にデカい犬が鎮座していた。 犬好きであるがゆえに犬語を解する高田はそのデカい犬こと大きな犬さんと知り合い、交流していくこととなる――。 20ページ程度の短篇ではあるのだが、大きな犬さんのほわほわした質感といい、犬をリスペクトするがゆえに「さん」づけで呼ぶ高田といい、実によさしかありません。いきなり出てきていきなりデカい犬まんがの最高峰に到達してしまいました。 デカい犬で短篇もいけるなら長編もいけるのでは? そう考えたかどうかは知りませんが、デカい犬まんがの最新版が昨年登場した『凍犬しらこ』(安原萌)です。 内容としては氷河期の訪れた北海道を舞台に、ある青年が雪でできた犬である「凍犬」のしらこと旅するポストアポカリプス股旅もの。 なにはともあれ、ビジュアルがいい。犬でできた犬。しかも喋る。「大きい犬」といい、デカい犬はなぜか人間とコミュニケーションを取れるという風潮ができつつあります。よい。 ハーラン・エリスン曰くポストアポカリプス世界において「少年は犬を愛するもの」だが、犬は別に少年の占有物ではありません。あまねく世界に開かれたみんなのアイドルです。デカい犬であればなおさらね。 そういうわけで、この記事の教訓はひとつだけ。 デカい犬は、いい。 よきドッグ・ライフを。

終末SF小説の魅力とおすすめ作品:ベストセラーから定番の名作まで偏愛者が完全ガイド

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「終末SF小説の魅力とおすすめ作品:ベストセラーから定番の名作まで偏愛者が完全ガイド」。冬木糸一さんが書かれたこの記事では、終末SF小説への偏愛を語っていただきました! こんにちは。 SF/ノンフィクションの書評を活動の中心におくライターの冬木糸一と申します。 「冬木糸一」という名前は「終末」をバラバラにして再構成したペンネームなのですが、名前のもとにしているぐらいなので僕は「終末」、あるいは「ポストアポカリプス」と呼ばれるフィクションのジャンルが大好きです。 そもそも終末、ポストアポカリプスものの定義はなにかといえば、人類の文明が一度崩壊した後の世界を描き出すSF(サイエンス・フィクション)のサブジャンルになります。人類文明が崩壊する理由それ自体はなんでもよく、核戦争、気候変動、感染症の蔓延、隕石の衝突あたりが時代によって移り変わり(冷戦期は核戦争が多かったですが、今は気候変動や感染症が多い)、終末を迎えたあとの情景もさまざまです。 たとえば砂漠に覆われた世界(宮崎駿『風の谷のナウシカ』や鳥山明の『SAND LAND』)、氷や雪に覆われた寒い世界(藤本タツキ『ファイアパンチ』、ボン・ジュノ『スノーピアサー』、コーマック・マッカーシー『ザ・ロード』)。逆に人間がいなくなったことで緑豊かになった世界(稲垣理一郎・Boichi『Dr.STONE』)までなんでもござれ。 ゾンビ・パニック系の作品もこのジャンルに含めるとその作品数は膨大で、最近もオリジナルアニメーションの『終末トレインどこへいく?』やNetflixのオリジナルアニメ『キャロルの終末』など、毎月レベルで新しい作品が供給されています。SFの中で宇宙を舞台にした作品などと比べてものすごく目立つわけではないものの、かなりの人気を誇るサブジャンル。しかし、なぜそんなにも人は終末に惹かれるのか。 終末ものの魅力はどこにあるのか 旧約聖書の『創世記』(6章-9章)のノアの方舟のくだりでは、神は堕落した人類に絶望し地上から一部を除いた生物を一掃するために、地上に雨を降らせ洪水を引き起こしますが、このように古くから人類は何度も文明が崩壊する様を描き出してきました。 この世の形あるものはすべて壊れますが、文明や文化、国家や共同体、人々の生活、そうした「当たり前に存在するもの」が崩壊した時、人類はいったい何ができるのか。立ち直ることができるのか、できるとして、どうすればそれが可能なのか。人間性や善性といったものはどれぐらい残すことができるのか──そうした、「もしも」の状況を空想の中で体験させてくれるのが終末作品の魅力だと思います。 と、終末作品の魅力について語ったところで、今回はそんな終末ものを偏愛するライターが「定番の名作」、「ベストセラー」、「個人的なおすすめ」の三点を軸にして、終末SF小説を紹介していこうかと思います。作品数の多いジャンルなので網羅的に語るのは難しいですが、今回紹介するのはどれも忘れられない傑作ばかりです。 名作──コーマック・マッカーシー『ザ・ロード』 最初に紹介したい、終末SF小説ならこれは外せないでしょう! という名作枠は、『ブラッド・メリディアン』や『すべての美しい馬』など、苛烈な暴力を硬質な文体で描く傑作群で知られるコーマック・マッカーシーによる『ザ・ロード』。 物語の舞台は何らかの理由によって地上の文明が崩壊し、灰に覆われた終末後のアメリカ。文明の崩壊度は相当なもので、政府もなければコミュニティに相当するものも見当たらない。仮に道で人と出会ったらまず身の危険を確保せねばなりません。道や家の中には死体が転がっていて、食料の自給自足もろくにできないので、生き延びるためにはスーパーマーケットや家の中に押し入って缶詰などを探すしかない苦しい状況です。 主人公は父親とその幼い息子の二人。北緯では冬を越せないと悟った父親は、ナップザックとわずかな食料と息子とともに、暖かいはずだ、というわずかな希望をいだいて南に向かって歩き出します。二人は食料もぎりぎりで、5日間何も食べることができない状況もザラなので、息子は道中何度も、「ぼくたち死ぬの?」「ぼくが死んだらどうする?」と死や終焉について父親に問いかけ、父親もそれに対して「いまは違う」と力なく否定を返します。はたして二人は生き延びることができるのか──。 幼い息子はこのような状況下にあっても、飢えている人に食料を分け与え、自分たちを襲った危険人物であっても助けて欲しいと懇願する善性を発揮しますが、世界は過酷で、「善き人」であろうとすることにも限界がある。父親は、善き人であろうとする息子と過酷な現実の板挟みになり、葛藤していく──というのが本作のポイント。 実際、このような状況下になった時、自分はどこまで善性を発揮できるだろうか、と本作を読んでいるとつい考えてしまうでしょう。自分はこの息子のように、自分自身が飢えている状況で、誰かに食事を差し出せるだろうかと。 本作の一節に、『おそらく世界は破壊されたときに初めてそれがどう作られているかが遂に見えるのだろう。』(p.243. Kindle 版. )とありますが、これは終末ものの魅力、その本質をとらえた言葉だと思います。世界や文明が崩壊していく過程をみることで、逆にそれが作られたプロセスがみえ、その価値があらためて照射される。終末SFの魅力はだいたいここに詰まっていると断言できる、名作中の名作です。 ベストセラー──貴志祐介『新世界より』 続いて紹介したいのは、『黒い家』や『悪の教典』といったホラー・サスペンスなどで高い評価を受ける作家貴志祐介のSF系の代表作『新世界より』。現在は上中下巻の文庫が刊行されていて、合計100万部を超える大ベストセラーです。 物語の時代は今から約1000年後の未来で、神栖66町と呼ばれる人口三千人ほどの町が舞台になります。この世界ではとある理由からはるか昔に科学文明が崩壊していて、この時代の人々は科学技術ではなく、物を動かしたりすることができる呪力を文明の基盤にして過ごしています。主人公はそんな神栖66町で暮らす渡辺早季。物語は34歳の彼女が書いた手記という体裁をとり、その子供時代から幕を開けます。 文明崩壊後とはいえ世界はあらたな安定状態へと移行していて、神栖66町での日々も最初は牧歌的なものです。子どもたちの多くは10歳ぐらいで呪力を発現するのですが、その正しい使い方を学ぶために最初は《ハリー・ポッター》のホグワーツ魔法学校みたいな”全人学級”に入ります。そこで同い年ぐらいの子どもたちと呪力で切磋琢磨する平和な日々が描かれていくわけですが、次第にこの世界で何が起こったのか、その秘密が解き明かされていく──という構成になっています。 たとえば当たり前のように「呪力」といっていますが、これはなんなのか。なぜ、子どもたちには呪力が発現するのか? そもそも、なぜ栄えていたはずの人類文明は一度崩壊してしまったのか。彼らの暮らす町とその周辺には呪力を持つ者に従う巨大なバケネズミ、袋牛など奇妙な動物たちが存在するほか、たしかにいたはずの同級生の子どもが、いつのまにか姿を消し、みんなの記憶からも消えているなど、読み進めていくたびに違和感がひとつひとつ積み重なっていきます。 幼少期の渡辺早季は同級生の友人等と利根川の上流に夏季キャンプに行った際に先史文明が遺した「国立国会図書館つくば館」の端末機械と遭遇。文明崩壊の真実、また、呪力を用いた暗示によって事実上管理社会化された神栖66町の実態を知ってしまい──と、そこから先はアンストッパブル。散りばめられた違和感の謎にすべて答えが与えられ、最終的には呪力を使った壮大な戦闘/戦争にまで発展していきます。 終末ものの魅力──一度滅び、そこから再度やりなおすことができるのかというテーマ──があるのはもちろん、呪力を用いた能力バトル的な魅力あり、少年少女の学園モノのおもしろさあり、ホラー小説の名手らしく恐怖の演出も素晴らしく──と、あらゆる要素がハイレベルにまとまっている傑作です。今回紹介した三作の中でも、とっつきやすさとおもしろさのバランスでは一番かと。 個人的なおすすめ──N・K・ジェミシン《破壊された地球》三部作 近年の終末系SFの中でも僕が個人的にオススメなのは、アメリカの大きなSF賞のひとつであるヒューゴー賞を史上初めて三年連続で受賞した、『第五の季節』『オベリスクの門』『輝石の空』からなるN・K・ジェミシン《破壊された地球》三部作です。 物語の舞台はスティルネスと呼ばれるたった一つの巨大な大陸が存在する世界。ここでは数百年ごとに大規模な地震活動や天変地異が発生し、地上には冬が訪れます。この世界ではそれを〈季節〉と呼び、これが発生するたびに多くの人間が亡くなり、文明が滅んできました。とはいえ、この世界には造山能力者(オロジェン)と呼ばれるエネルギーを操作することのできる能力者らが存在し、彼らのおかげもあって人類はまだぎりぎり命を保っている──というのが世界の状況です。 しかし、巨大な天変地異に対抗しうるほどの能力なので、一般的な人間からすればオロジェンはたとえ自分の身を守るために役に立つとしても危険な存在です。エネルギー操作能力を的確に操作できるオロジェンばかりではなく、力が暴走すればたやすく周囲の人間に危害が及ぶ。そのためオロジェンはこの世界では激しく差別されるマイノリティでもあり、繰り返される破滅/終末というテーマと並行して、「繰り返され、終わりのない差別」もまた本作のテーマのひとつとなっていきます。 三部作を通して、オロジェンである母娘(エッスンとナッスン)を中心に物語は展開していきますが、この二人の活躍とこの世界での旅を通して、はたしてなぜ世界は破滅を繰り返すようになってしまったのか。それをもとに戻すことはできるのか。それとも、終わりもなく人々が争い続け、抑圧や差別が繰り返されるこんな世界は、救済するのではなく一度完全な破滅をむかえてしまったほうがいいのではないか──物語が進むごとにこうした問いが繰り返され、世界の真実の姿が明らかとなっていきます。 幾度となく繰り返される破滅。そして、終末SFがよく直面する「人類社会の秩序の崩壊」をはるかに超えたスケールの「惑星の終焉」を描き出そうとした本作は究極の終末SFといえるかもしれません。 おわりに 今回紹介した三作品はどれも「終末もの」でくくれますが、作品の世界観も描き出そうとしているテーマも大きく異なっていることが、本記事を読んでもらえればわかってもらえると思います。多様で豊穣なこの世界を偏愛するきっかけになってもらえれば幸いです。

この世にクソ映画なんてない。どんな映画も絶対に楽しめる映画鑑賞のテクニック

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「どんな駄作も楽しめる映画鑑賞のテクニック 」。ギッチョさんが書かれたこの記事では、駄作映画への偏愛を語っていただきました! みなさま、はじめまして!私は2000年から運営を続けている映画サイト/ブログ「破壊屋」の管理人、ギッチョです。 映画が多すぎる 日本はアメリカ・インドに次ぐ映画大国で、毎年1000本以上の映画が公開されます。去年(2023年)は1200本以上の新作映画が公開されました。毎日3本の新作映画を観ても追いつきません。 そのうち日本映画は毎年600本ほど製作されるのですが、ここ数年は日本映画の躍進が凄いですよ。2022年には『ドライブ・マイ・カー』が日本映画で初めてアカデミー賞作品賞にノミネートされました。今年は『ゴジラ-1.0』がアジア映画で初めてアカデミー賞視覚効果賞を受賞して大きな話題になりました。 変な映画も多い でも私がサイトの運営を初めた2000年以降、変な日本映画も多かったです。例えばですが… ビッグダディの元妻を映画化した『ハダカの美奈子』 ボクサーの亀田大毅を主役にした『ヒットマン 明日への銃声』 ゼロ年代の王子ブームに便乗した『銀幕版 スシ王子! ~ニューヨークへ行く~』 などといった謎企画の映画が大量生産されました。私はこのような映画を好んで観ていたのですが、友人知人に留まらずネット上からもよく「何であんなに駄作を観続けられるのか?」と何度も何度も言われました。でもその答えは簡単です。面白くて楽しいから観ていたのです。 駄作も楽しく鑑賞する方法 これは私の自慢なのですが、私はどんな駄作でも絶対に面白く鑑賞できます。といっても日曜洋画劇場の淀川長治氏(※)のように慈愛の精神で映画を観ていたわけではありません。日本映画には観ていて脳汁が発生するような面白ポイントがあって、私はそこを押さえているのです。今回はそんな日本映画の脳汁発生ポイントを皆様にご紹介します。 ※どんな駄作でも絶対に褒める映画評論家 日本映画の脳汁発生ポイント:外国映画の影響に気がつく 実は日本のテレビドラマや映画は外国の翻案が多くあります。テレビドラマだと『古畑任三郎』が『刑事コロンボ』、『あぶない刑事』が『特捜刑事マイアミ・バイス』を元にしているというのが有名な話です。もちろんパクリではありません。『古畑任三郎』や『あぶない刑事』が強烈なオリジナリティを持っているのは周知の通りです。海外で成功している作品を日本で再現したら?というのは非常に面白い挑戦なのです。 例えば『矢島美容室 THE MOVIE 〜夢をつかまネバダ〜』は下品なストリップを踊ることで逆説的に家族の絆を確認する…そう名作『リトル・ミス・サンシャイン』の翻案です。また『サブイボマスク』は地方都市で献身的に活動する兄と自閉症の弟…これはジョニー・デップとレオナルド・ディカプリオの名作『ギルバート・グレイプ』の翻案です。『矢島美容室 THE MOVIE 〜夢をつかまネバダ〜』も『サブイボマスク』も今となっては「そんな謎な企画映画あったなぁ」という扱いでしょうが、翻案に気がつくと「企画はアレだったけど、映画の本当の狙いはよく分かった!」と作品の面白さが理解できます。 日本映画に限らず世界中の映画は何らかの元ネタの影響を受けています。これに気がついて「あのシーンはあの映画の影響だね、ウン私には分かる」と偉そうにネット上に評論を書くのは映画ファンあるあるな脳汁発生ポイントです。低予算の日本映画はこういった評論に晒されていないので、意外と「自分だけが気づく」ことが多いのです。 ちなみに私が今までで一番驚いた翻案ネタは、ケータイ小説の実写化『魔法のiらんど 幼なじみ』です。16歳のヒロインが幼馴染の想い人に恋し続ける物語で、その幼馴染は高校サッカーで成功していくのですが、このサッカーシーンが『少林サッカー』の影響を受けていてビックリしました。映画の雰囲気はブチ壊しでしたが、超面白いシーンでしたね。 日本映画の脳汁発生ポイント:専門キャスティング 一人の俳優が何度も何度も同じ役を演じ続けるのは、どの国でも同じです。アーノルド・シュワルツェネッガーは「戦う公務員」役が多いし、レオナルド・ディカプリオは「妻を失う男」役が多いです。ただ日本は映画の製作本数がやたら多い上に、所属事務所が俳優のイメージにあった役柄を用意するので、同じ俳優が同じ役柄を演じ続ける現象が海外よりもずっと多いです。例えば… 織田裕二、福山雅治、中井貴一といった大物スターの単独主演映画では、妻役には吉田羊がキャスティングされる 冴えない男性主人公に一方的に惚れられるシングルマザー役だったら麻生久美子がキャスティングされる 殺人ミステリーでは真犯人の知人役には広瀬すずがキャスティングされる という、まるで悪役俳優みたいな専門職俳優がいます。このように俳優の役割が分かると、「あ、また同じ役だ!」と気づく喜びもあれば「お、違う役に挑戦している!」と気づく喜びもあります。映画を観る楽しさも増えてきます。 ちなみに日本映画は製作本数が多すぎるため、俳優と俳優が何らかの映画で共演済みな場合が多く、お互い知り合い同士なので外国映画みたいに俳優同士のケンカで撮影現場が停滞することが少ないらしいです。 日本映画の脳汁発生ポイント:特別出演 日本映画は「大物俳優が、話題作りのために一日だけ撮影現場に来て出演してくれる」ことが非常に多いです。テレビ局が作る映画は超大物俳優の特別出演だらけでかなり楽しいです。例えば前述の『矢島美容室 THE MOVIE』では水谷豊、本木雅弘、宮沢りえ、松田聖子などが特別出演しています。しかしその一方で低予算映画の「特別出演の使いどころ」も脳汁ポイントです。 和歌山県を舞台にした『ポエトリーエンジェル』という低予算映画があるのですが、軽薄な男役で何と山﨑賢人が出演しています。あらゆるマンガ主人公を演じてきた山﨑賢人が珍しく軽いコメディ演技を披露する名シーンです。 また人間の善意を描いた映画『町田くんの世界』では、人間の悪意を象徴する存在として佐藤浩市が特別出演!悪意に溢れた日本社会をセリフで説明するのですが、名優:佐藤浩市なので迫力と説得力がタップリ。見事な特別出演の使い方です。 恋愛映画の『娚の一生』では愛の告白が成就しクライマックスも終わった映画の終盤に、突如恋のライバルとして向井理が特別出演します。恋敵としては間違いなく日本最強の存在です!というか勝てる男はいるのでしょうか?『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』で全ての戦いが終わった後に上弦の鬼が登場した時以上の絶望感が味わえます。 このような特別出演ネタですが最近はハリウッドでも流行っています。アメコミ映画が話題作りのために「有名俳優をこっそり出演させて、そのことを宣伝しない」という手法を使っています。そうするとSNS上で「映画館で驚いた!」という感想が増えるので、人々が映画館に向かうわけです。 日本映画の脳汁発生ポイント:ロケ撮影 日本映画の根本的な問題として低予算があります。低予算のせいで日本映画は派手なセット撮影ができずロケ撮影だらけです。私は神奈川県民ですが、10本くらい映画を観れば1本は知っている場所が舞台になっています。特にみなとみらいの万国橋と大さん橋の二箇所は頻出ロケ地です。知ってる場所が舞台になる現象は東京都民だったらもっとよく分かると思います。 そして日本映画はあまりにもロケ撮影し過ぎているせいか…ロケ撮影が非常に上手い! 例えば2014年の『さよなら歌舞伎町』という映画では、AKB48を卒業して絶大な人気と知名度を誇っていた前田敦子が、新大久保駅を自転車二人乗りで駆け抜けるというゲリラロケを敢行しています。 池田エライザの弓道部映画『一礼して、キス』では池田エライザが弓を放つ瞬間に偶然にカメラの前にカモメが飛び込んできます。セット撮影ではありえない奇跡でしょう。 またつい最近では、ロケ地モノの頂点とも言える『帰ってきた あぶない刑事』が公開されました。もうお爺ちゃんとなった舘ひろしと柴田恭兵が若々しく横浜ロケで活躍する姿は観ているだけで幸せな気分になります。 また地方自治体は「聖地巡礼」の観光客を呼び込むためにロケ撮影に協力的です。そのため地方が舞台の映画は大胆なロケ撮影が行われており、これも日本映画の面白ポイントです。 他の発生ポイント これらの脳汁発生ポイントはほんの一部で、他に 登場人物たちが食べる食事 女優が走り出すときの情景 エンドクレジットで流れるロケ写真 ロケの場所には意味がある、例えば橋と階段とトンネルではそれぞれ意味が違う など、まだまだ紹介しきれない面白ポイントがあります。いずれまた皆さんにご紹介したいです。 最後に 今は配信の時代なので、映画は「ながら見」「早送り再生」とかで鑑賞するスタイルが流行りつつあります。私はこのような鑑賞スタイルにも肯定的で、映画を気軽に楽しんで頂けるなら何でも良いと思っています。その一方で私のように、鑑賞ポイントを押さえながらジックリと映画を観るスタイルもオススメですよ。