
私の棺には単行本を入れてください。『幽☆遊☆白書』蔵馬の魅力に囚われた人生が幸せすぎる

私は幽☆遊☆白書の自由研究というテーマで同人誌を発行している普通のオタクである。今回は蔵馬についての偏愛を書くわけだが、正直言うと私が蔵馬に対して思っている気持ちがどういう感情なのかよく分からない。
「蔵馬のこと好きですよね??」と質問されると「えっ?あ、はい、そうなのかな」みたいな変な返答をしてしまうと思うのだ。蔵馬のことを否定されるときっと怒ると思うので、私は蔵馬を好きではある。(と、書きながらもちょっと腹立たしい気持ちにもなるのだ)
けれども、グッズが欲しい!ずっと彼の好きなところについて語っていたいというような初々しい気持ちではなく、まるでずっと家で大切に漬けてきた梅酒のような、苦味も甘味も色々なものを長年蓄積して発酵してきた大切な何かみたいな存在なのかもしれない。これはうまく伝わらないかもしれない。
そんなこんなで、この文章に付き合わせるのには申し訳ないが、私が蔵馬に思っているこの面倒な感情について、ただひたすらに書きおこしてみたいと思う。
蔵馬と出会った中学時代からの、生きた痕跡
数年前のある日。いつも寝ているベッドの下からひょこっと蔵馬が飛び出していた。どの蔵馬が飛び出していたかは覚えていないが、下記写真のうちのどれかだった。
これは私が中学生のころに切り抜いたジャンプの蔵馬だ。なんて怖いのだろう。人はこうして生きてきた証をどこかに残してしまう。隠しても隠しても、どこかに必ず生きた痕跡が残るのだ。あのころは本当に蔵馬に夢中で、ジャンプを捨てることができなくて、もったいないからありったけの蔵馬を切り抜いて保管していたのだ。見つけたのが私でよかった。
当時14歳だった私は幽☆遊☆白書の蔵馬に夢中だった。毎週月曜日発売のジャンプが待ち遠しく、今週は蔵馬が出るのか、出たらどのような活躍をするのだろうかと毎週こころ踊らされていた。とくに仙水編の蔵馬には毎度のようにボディーブローを食らわされてきた。舞台が暗黒武術会から人間界にうつる。蔵馬が再登場したときは、なんとずっと知りたかった蔵馬の高校名や高校生活が分かったのだ。


盟王高校の2年生。ああ、蔵馬もふつうに高校生しているんだ。生物部なんだ、先輩に責任感ないですし、なんて言っちゃったりするんだ、うふふ、とそのことだけで頭がいっぱいだった。当時中学生の私からしたら、少し上の高校生の先輩なのである。憧れの目線で見てしまう。暗黒武術会であれほど血を流しながら命をかけて戦っていた蔵馬も人間界に帰ってきたら普通の高校生。この二面性がたまらなく好きだった。
そこから、かの有名な海藤戦である。蔵馬の同級生、海藤優の存在は大きい。言葉が1分でひとつずつ使えなくなっていく部屋。ここで行われた心理戦は、蔵馬の頭脳明晰さを物語っていた。相手のテリトリー内であるにも関わらず、相手の条件を知ったばかりの蔵馬は自分からタブーの変更を申し出て、戦いを挑む。いったい、どのタイミングで勝利を計算したのだろう。
この人の思考回路は早すぎやしないか。そんな心配はよそに蔵馬は見事に相手を驚かし、最終的には笑わせるという手段で勝利を得たのだ。笑わせた顔芸に関しては企業秘密というオマケつきだ。美味しすぎる。自ら変顔もすることもあるという事実がこちらとしてはとても嬉しい。
大変だ。つらつらと語りすぎて収まる気がしない。先を急ごう。
どうして蔵馬を好きになったのだろう。ここからまずは紐解いていこうと思う。
蔵馬に惹かれた謎を紐解く
まずはビジュアルだ。長髪という時点で好きになる要素しかなかった。しかしながら、ここまで私が蔵馬に固執している要因は蔵馬が血を流しすぎたということがあると思う。見て欲しい。蔵馬が血を流した場面を。



暗黒武術会は血のオンパレード。蔵馬が血を流すのはたいてい頬だ。鋭いナイフのようなもので切られても顔色ひとつ変えない。痛みはあるだろうに平然としている。あれほどきれいな顔をしているのに、その自分の顔に傷をつけられているのに、その自身の容姿については無頓着。そこがまた堪らない。母さんを人質に取られた優しい妖怪、そのようなそぶりを見せておきながらも敵に対して放つ言葉は「死ね」。これで好きにならない訳がない。タイトルは血染めの花。蔵馬に興味を持った人はこの1話だけ見てもよいのかもしれない。蔵馬入門にはおすすめの1話だ。
そしてなんといっても代表的なものは「今何かしたか?」蔵馬だ。蔵馬は戸愚呂兄に腹を突き抜かれて血を吐きだし、それでも平然とした顔で「今なにかしたか?」と言うのだ。


初めてジャンプで見たときは蔵馬が死んでしまうかもしれないと思ったので、こちらの心臓も止まりそうなうえに、血を流す蔵馬が美しくて正直パニックだった。今となってはそれも蔵馬の策略だったということも分かっているので冷静に見ることができるのだが、初めてみたときのショックは計り知れなかった。この蔵馬、どこからどう見ても悔しいけれど美しい。流れている血すら美しい。冷たい目が最高。ああ悔しい。
のちに友人が、「これって兄者の脳内の蔵馬なんだよね」ととんでもないことを言いだした。30年以上も経ってから気付いたのだ。私が好きだと思っていた蔵馬は戸愚呂兄の脳内フィルターを通過した蔵馬だったことに。戸愚呂兄の脳内にある蔵馬はこれほどにも美しく色気のある蔵馬だったのかと。
戸愚呂兄の蔵馬に対する解像度の高さがなければこの蔵馬に出会うことはなかった。戸愚呂兄は今も入魔洞窟の奥でこの幻影の蔵馬と過ごしているのかもしれない。戸愚呂兄はいまどのような蔵馬を見ているのだろう。教えていただく術はないのだが、「今何かしたか?」蔵馬を生み出してくれた兄者には大変感謝している。
次に、蔵馬を好きになった最大の理由はここだ。
蔵馬は優しいと見せかけておいて、実はとても残忍な部分もあるということ。
これは、私が蔵馬の敬語率を計算する本を執筆していた際に、夜中に突然蔵馬のセリフだけを書きたくなって、勝手に書いて並べてみたものだ。
こうしてみると分かりやすい。蔵馬はいつも敬語できれいな言葉で話をしているイメージがあるかもしれないが、意外と攻撃的な言葉を使っている。実際には戦っている相手、自分が嫌いな相手に対してはかなり手厳しい。「死ね」、「今投げたゴミから話は全て聞いた」「バカかお前人質は無事だから意味があるんだ」、「お前は命令通りただそいつに入ってればいいんだよ」「猿芝居は誰に習った」
あれほど優しそうに見える人からのこの蔑んだ言葉の数々。長年(おそらく2000年超えている)培ってきた知性と経験がちょっと見え隠れしたりもするから。これは好きになるに決まっている。ああ、やっぱり悔しい。
蔵馬はそもそもが母親思いの妖怪ということで初登場した。残忍な心を持った妖怪が人間の受精体に憑依し人間として生まれ変わったのが南野秀一。蔵馬の人間としての部分だ。蔵馬は育ててくれた母さん、南野志保利を自分の命と引き換えに救おうとした。母さんに対する思いは絶対であり、15年間ダマして育てて貰った恩を感じているのも事実だろう。しかしながら蔵馬という妖怪は元は残忍な盗賊妖怪、妖狐蔵馬なのである。2000年以上も悪党をしてきたことは消えることはない。
それを証明するかのようにかつて盗賊時代に仲間であった黄泉様に対する態度は酷く冷たいものだ。人によって態度が違い過ぎる。好きな人に対しては限りなく優しく振る舞うが敵とみなした相手には容赦ない。このふり幅があるからこそ、蔵馬というキャラクターの魅力が増していると言っていいだろう。
なお、コミックス19巻のおまけにはこのような蔵馬のカットが入っている。
これは、幽☆遊☆白書連載終了後に冨樫先生がコミックスに加筆してくれた貴重な蔵馬だ。この蔵馬は南野秀一の背後に妖狐蔵馬がいる。そして南野秀一の中央部分は妖狐によってガッチリとホールドされている。まるで妖狐に支配されているような構図なのだが、逆を言えば、そのような妖狐を背負いながらも自信満々に生き抜いていく蔵馬と取れなくもない。
蔵馬の優しさと冷たさのアンバランスさを1枚で表しているようで、なんて恐ろしいイラストを最後に描いてくれたんだ冨樫先生。連載終了後に見た最後の蔵馬のイラストだったこともあり、このイラストへの私の執着もやはりちょっとしぶとい。
そして、最後のポイントは蔵馬の将来を私達がいくらでも想像できたことだ。
蔵馬は大学にいかなかった。義理の父親である畑中さんの会社に就職した。これは物語の最後でわかったことだ。物語が終わって寂しくなってしまったその後に私ができたことは、蔵馬が畑中さんの会社でどのような社会人生活をしているか想像することだった。
10人以下の小さな町工場かもしれない、長年働いているパートのおばちゃんにかわいがられていたらいいな、何か会社がピンチになったときは知略と交渉術でなんとかしてしまうのだろうな、会社帰りは幽助のラーメン屋に寄って人間らしくちょっとした愚痴でも吐いているかもしれない、時には幻海さんの残したお寺で妖怪の人生相談を受けているかもしれない、そのような妄想をいくらでも広げることができた。
恋愛に関しても蔵馬だけは最後まで決まった相手がいなかった。初恋の女の子、喜多嶋麻弥ちゃんの存在はあれども、その後、彼が誰を想ったのかは物語上で描かれることはなかった。
彼の未来をいくらでも想像できたことで連載終了してからもずっと長く、好きで居続けることができたのだと思う。ここは気持ちを継続していくには一番大きなポイントだったハズだ。
私の葬儀には幽☆遊☆白書19冊を並べて
私の中で蔵馬、そして幽☆遊☆白書という物語は人生の根幹だ。これから先の未来につらい時間があったとしても、きっとコミックス19巻があれば何があってもここに戻って来られる。私にとってはお守りのような作品だ。
私の葬儀にはどうか黄ばんだ幽☆遊☆白書19冊を並べて欲しい。もしできることならば、1992年9号のジャンプも一緒に添えて。(個人的に大好きなエピソードである番外編TWOSHOTSが掲載されている)お経の代わりに蔵馬の台詞をひたすら読み上げてもらって、香典返しにはコミックス1冊をランダムでつけてくれないだろうか。
私は幽☆遊☆白書に出会えたから、こうして文章を書いている。蔵馬について語り合える友人にも出会えた。友人とはときに笑い、ときに共感し、ビールを呑みかわす日もある。多くの縁を繋いでくれたのは幽☆遊☆白書という作品に出会えたおかげだ。
幽☆遊☆白書を生み出してくださった冨樫先生には本当に感謝している。
このような気持ちになれるほど、私はやはり蔵馬のことが好きなんだ。30年後の老人ホームでも90年代のジャンプ本誌を片手に蔵馬について語っている未来がなんとなく想像できる。その日まで、私は幾度となく蔵馬のことについて語り、ときには知らない人とも分かち合うだろう。そう思うと割といい人生だったのではないかと思う。(まだ終わっていないけれど)
幽☆遊☆白書に出会えて本当によかった。やっぱりちょっと悔しいけれど、蔵馬にも感謝しなければならない。A4の紙にでっかく「多謝」と書いて伝えたい。
あなたのおかげで私の人生は楽しいです。ありがとうございます。
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