ドラクエ3リメイク狂騒曲。80年代にボンクラを大人にしてくれたドラクエの「ぱふぱふ」に僕らは会いに行く。
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ドラクエ3のリメイク版が発売されたぞ!
リメイク版HD-2D版『ドラゴンクエストIII そして伝説へ…』が発売されて大きな話題になっている。(おそらく売り上げ1位を記録するのではないか/現時点で未発表)。また、「ロマンシング・サガ2」のリメイクが発売されて話題になったのも記憶に新しいところだ。どちらも80年代末から90年代前半のロールプレイングゲーム(RPG)の原点かつ名作だ。
『ドラゴンクエスト』『ファイナルファンタジー』『ゼルダの伝説』といった国産RPGは今もシリーズが発表され続けている。また、『バルダーズ・ゲート』や『フォールアウト』『ディアブロ』といった海外の超大作、数年置きに新作が発表されている王者・任天堂の『ポケットモンスター』シリーズ等、新しい作品が生まれているのに、なぜ古い日本製RPGに惹きつけられる人がいて、30年以上経ってからもリメイクが発表され続け、大きな話題になるのか。リメイクで見映えするものになっているとはいえ、最新作と比べればシンプルで古臭さも否めない。オンラインで友達と共闘プレイもできない。
「オジサンの思い出補正(笑)」で片付けるのは乱暴だ。はっきりいってしまえば、30年前の国産RPGは良い思い出ばかりではない。「こんなの攻略できないよ」「ぐへえ。キャラが消えた……」といった数多の絶望と怨念の記憶の方が多い。だが、そういう暗黒の歴史があるからこそかえって「ドラクエ3って素晴らしいな」「ファイナルファンタジーは最高」「ロマサガは忘れられない」という美しい記憶が際立っている。ツンデレの人から優しくされると心に響くように。
80年代から90年代中ごろまでのRPGには、本当に酷い目に遭わされた。怨念まみれの記憶だ。感情的になりすぎるあまり、正確さに欠けるかもしれないが、当時を知っている人ならわかると信じ、列挙してみよう。「ドラクエ3の『ぼうけんのしょ』が消える」「ドラクエ2の長すぎる『ふっかつのじゅもん』」「アクションロールプレイングなのに持ち物の重量によって動きが鈍くなるハイドライド3」「ゲーム開始直後に串刺しになるザナドゥ」「まともにフィールド移動ができず、戦闘から逃げることもできない、星をみるひと」「ヒントがないうえに途中セーブができず死んだらスタートに戻されるロマンシア」「町で人に殴られていきなり葬式になるたけしの挑戦状」……ちょっと振り返ってみただけでもポンポンと怨念と絶望の記憶がよみがえってくる。ゲーム自体が成り立っていない詐欺まがいのものもあった気がするけれど、そういう本当に頭に来る系は精神衛生上よろしくないので忘却している。
怨念と絶望の記憶の方が鮮明である。長い時間をかけて浄化され「あの頃はきつかったけど楽しかったよね」といい思い出になっている。いや、細かいところを思い出すと「このゲームをつくった奴をぶん殴ってやりたい」と当時の記憶が蘇ってきて今でもムカつくけどさ。苦労したぶん可愛いというのもあるが、RPGという新しいカルチャーを不備も含めて皆で楽しんでいるという感覚があったのが大きい。その代表がファミコン・スーパーファミコン期の「ドラクエ」「ファイナルファンタジー」「サガ(ロマンシング・サガ)」だ。
『ドラクエ』が大人への道を切り開いてくれた。
『ドラゴンクエスト』はシリーズ1作目からリアルタイムで遊んでいる。前回のゲーム文章で触れたように『ドラクエ3』購入時のフィーバーに中学生の僕も巻き込まれて、『飛龍の拳』と抱き合わせで買わされるというひどい目にあっている。マジでムカつく。今からでも後期高齢者になっていると思われる当時の量販店店員を公正取引委員会に訴えたいくらいだ。天使だった僕はそのようにして汚い大人の存在を知ったのである。ドラゴンクエストは大人への階段を切り開いてくれたのだ。
たとえば街にいる女性キャラクターの「ぱふぱふ」。「ぱふぱふ」以上に若者の想像力を刺激したひらがな四文字を僕は他に知らない。遭遇から三十数年経った今でも「ぱふぱふ」以上にどきどきさせられたゲーム体験は存在しない。当時の友達と「ぱふぱふ」がどういう行為なのか真剣に語ったことはない。「ぱふぱふ」を知っている人の数だけ「ぱふぱふ」はあるのだ。それぞれの「ぱふぱふ」を抱いて僕らは生きていくのだろう。大人のゲームだ…。
大人といえば、転職を知ったのもドラクエがきっかけだ。ドラクエ3のダーマ神殿で出来るようになる転職システムで転職という概念を知った。昭和63年に中学3年生だった僕は、バブルでイケイケな大人たちを観察していたので「大企業に入れば終身雇用で楽な人生を送れる」とうっすらと自分の未来を予想していた。そこにダーマ神殿と転職システムである。戦い方と楽しみ方によって、自分でキャラクターの職業を変えていく。
RPGは主人公役を演じるゲームである。僕は分身であるキャラクターたちを転職させることで人生が変わっていくように感じた。「なんか転職って自由でいいよね」と思った。職を変えることへの抵抗感はゼロになった。大げさではなくドラクエ3のダーマ神殿と転職システムは僕の職業観を変えたのだ。現実の僕が会社員でありながら中身が「あそびにん」になってしまったのも全部、ドラクエのせい。いまだに「けんじゃ」にはなれていない。なれそうにない。
『ロマサガ3』のクセの強さに病みつきになる。
ロマンシング・サガのクセつよさも病みつきになる。ロマサガシリーズは成長システムが独特で、知らない人向けにざっくり説明するとドラクエのようなレベルアップで強くなるのではなく、戦闘で技をつかって習得度をあげていくシステムになっている。そのなかでも「ひらめき」システムが独特だ。戦っているうちにピコーンと頭に電球が点灯して新しい技を覚えるのである。この「ひらめき」がいつ訪れるのかはわからないのだ(確率等で予想はできるが確実ではない)。クセつよ!。
僕はシリーズの中でも最終作「ロマサガ3」が大好きで、どれくらい好きかというと、本作は8人の主人公が登場して、それぞれ1名を選んで冒険を始めるのだが、僕は今年になってからリマスター版で8人すべての主人公でクリアまで到達しているくらい好きなのである。「3」のストーリーはフリーシナリオシステムといって自由に進められるようになっている。最初に主人公をセレクトするので主人公ごとにゼロからのスタートになる。我ながら暇である(ただし進め方は共通の部分が多いので完全なゼロではない)。先ほどの技を使って「ひらめき」を待つのもやり直しである。それを8人分。どうかしている。
「ロマサガ3」の主人公8人分を満喫してわかった。僕はこのいつ訪れるかわからない「ひらめき」が好きなのだ。特に「見切り」をぴこーん!と「ひらめき」、「極意」を習得するのが好きなのだ。説明しよう。「ひらめき」はぴこーん!と技術をひらめくことである。「見切り」は敵の攻撃技に対して発動してかわせるようになる守備技術である。「極意」を習得するとパーティー全員が使えるようになる。で、見切りは守備技術であるため、ぴこーん!と習得するためには、ひたすら敵の攻撃を受け続けるしかないのだ。特定の技を受け続けて、ぴこーん!と頭に電球が灯るのを待ち続ける。「敵の攻撃が嬉しい!」「攻撃を受けるのが嬉しい!」というおかしな精神状態になる。ダメージを受ける。下手すると死ぬ。でも見切りを習得するまでひたすら受け続ける。倒錯した気分になって、やみつきになるのだ。
特定の見切りは特定の敵の繰り出す特定の技を受けなければならないので、それを習得するだけで一苦労であるのに、「極意」に至るまではさらにひたすら攻撃を受け続けることになる。もちろん攻撃を受けつづけるのでピンチに陥ることもあるし、ときどき死ぬ。ぴこーん!のために死ぬーん。しかも、ラスボスや終盤の敵キャラは強力な技を操るので、その技に対応した特定の「見切り」の「習得」と「極意化」は必須だ。うーん、クソゲー。敵を倒すのがRPGの楽しさであるのにもかかわらず、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び、敵の攻撃技を受け続ける。これが「ロマサガ」のクセの強さであり、大きな魅力だ。ぴこーん!
古いドラクエやロマサガに今でも惹きつけられるのはなぜか。
なぜ、これら古いRPGがリメイクされ続けているのか、その理由を僕なりに考えてみた。「楽しかった」「新鮮」というのは当たり前。僕は現代のゲームにはない「不親切さ」「理不尽さ」「ハードコアさ」が忘れられないからだと思う。親切な導入部があり、ゲームとして破綻せず、次に何をすればいいのかヒントが提示されて迷うことがなく、不具合やゲームバランスに問題があればネット経由のアップデートで修正がなされる現代のRPG。
確かに面白い。遊びやすい。けれども何か物足りなさを感じてしまうときがあるのだ。「頭から電球を出すためにひたすら敵の攻撃を受け続けなければならないの…」と愚痴りつつ、イライラした記憶が忘れられない。ネットがない時代だったので、詰まってしまうとお手上げになった挫折感…(僕はロマサガ2と3はオリジナルが出たときは攻略できなかった)、現代のゲームでは味わえない絶望や怨念や挫折をもういちど味わってみたいという気持ちがどこかにあるからドラクエやロマサガはリメイクされ続けるのだ。あるいは30年前に楽しんだドラクエやファイナルファンタジーやロマサガは、想い出補正抜きに今でも名作なのか確かめたいということもあるだろう。「あの頃の俺たちの感覚は間違っていなかった!」と再確認したいのだ。それが間違っていたら僕みたいな中高年の青春のすべてが間違っていたことになるのでそれはまた地獄なのだけれどね。
メーカーの立場だとシナリオはあるしある程度の固定客が存在するので売上の見込みが立つというメリットがあるだろう。完全オリジナル新作をつくるより「ハードルが低い」と考えていることだろう。それは大間違いである。オリジナルを知っている世代も、数十年の人生を経過している大人なので、くれぐれもナメたリメイクをつくらないようにしてもらいたい。ハードルは低くなっているのではない。高くなっているのだ。青春の一ページを汚したら許さないよ。
リメイクが発売された今こそドラクエ3で遊んでもらいたい。
この文章はドラクエ3リメイク版発売日(2024年10月14日)に執筆されたものである。近所の量販店を見たらドラクエ3リメイクは売り切れで入荷待ちになっていた。大変な人気だ。中高年が支えているものと思われる。僕個人としてはドラクエ3リメイクを買う目途は立っていない。理由はお小遣い不足。奥様に頼み込んでいるが現時点では特別補正予算が認められる兆候はゼロである。このドラクエ3リメイクのブームに乗れないのは痛恨の極みで、今の気分は「へんじがない。ただのしかばねのようだ」である。
僕はドラクエ3やロマサガ2のリメイクは若い人にこそ遊んでもらいたい。ロマサガならあのクセの強いシステムは今なら受け入れられるものなのか、ドラクエならオリジナルを遊んだときに感じた僕らのわくわく感が本物だったのか、ドラクエ3の終盤の衝撃の展開は現代でも通じるものだと僕は信じているけれど、若い感性で判断してもらいたい。さあ中高年も若者も皆で一緒に「ぱふぱふ」を探す旅に出かけようではないか。こんな祭りはないよ。
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