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「大長編ドラえもん」は全ての大人が読むべき聖典である。

フミコフミオ
偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「「大長編ドラえもん」は全ての大人が読むべき聖典である。」。フミコフミオさんが書かれたこの記事では、『大長編ドラえもん』への偏愛を語っていただきました!

僕の世代にとって大山のぶ代=ドラえもんだった。

ドラえもんをテーマにこの文章を書きはじめた、ちょうどその日、長年ドラえもんの声優を演じていた大山のぶ代氏の訃報が飛び込んできた。2005年にドラえもん役を降板して以来、ドラえもんの声優は水田わさびさんが演じておられるが(そちらも素晴らしい)、1974年生まれで1979年からスタートしたアニメに慣れ親しんでいる僕にとって、ドラえもんの声といえば大山氏になる。これまでの人生で「僕、ドラえもんです」の物まねを何度やってきただろうか。

僕個人としても昨年末から、藤子・F・不二雄(以降F先生)が描かれた作品『未来の思い出』『TPぼん』『エスパー摩美』それから短編集を見直していて、その流れで大長編ドラえもんを約40年ぶりに再読して、その素晴らしさにハマってしまったのでタイムリーな訃報になってしまった。

なぜ今、「ドラえもん」なのか。

なぜ、今、ドラえもんなのか。それは世の中がギスギスしていて安心を求めているからだと思う。闇バイト犯罪のように突然狙われて強盗にあったり、日本市場の株価が乱高下したり、欧州で大きな戦争が起こって東アジアの国が派兵する動きがあったり、最近世間は物騒だ。僕個人としても、50歳の管理職になってから社内の勢力争いと過大なノルマでストレスのかかる日々を送っている。

しかし、ドラえもんの世界は優しい。ときどきキャラクターが酷い目に遭うが(スネ夫に意地悪をされたくらいの微笑ましいものだ)最後は安心感で終わる。秘密道具でハチャメチャ投げっぱなしのラストであっても、「チャンチャン!」で終わって、次のエピソードに移れば変わらない優しい世界が回復。これってすごいことだ。ストーリーものでは進行にともなってキャラクターや世界が変わっていくが、ドラえもんは変わらない。必ず、のび太の部屋と土管のある公園に戻ってくる。

そういえば50年生きて来たけれど、いまだに土管が真ん中に「どーん」と置いてある公園に出会ったことがない。あれもSFの世界のものなのかもしれない。「必ず心が安らぐ場所に戻ってくる」、これがドラえもんの求められる理由だろう。綺麗ごとに聞こえるかもしれない。そのとおり。綺麗ごとだ。でも、綺麗ごとが笑われるような世の中はおかしいのだ。

僕とドラえもんの出会い。「ドラえもんは僕の先生だった」

現代を生きている人には信じられないだろうが、僕が子供の頃、ドラえもんのアニメは毎日放送されていた。僕が暮らしていた地域では、平日夕方に10分番組、日曜日に30分番組を放送していた。なお10分版のOP曲は「ホンワカパッパ」という謎フレーズで有名(?)な名曲「ぼくドラえもん」である。嫌なことがあってもホンワカパッパと口ずさめば乗り越えられる気がする。

これだけヘビーローテーションで放送していたのだ。僕は毎回欠かさず観ていた。体感で当時のキッズの90パーセントくらいはドラえもんのアニメを週に数回は観ていたと思われる。ドラえもんが僕のF先生作品のファーストコンタクトだった。ここからいろいろな作品に触れて大きな影響を受けることになる。『エスパー魔美』が僕のエロスに与えた影響は絶大であったし、SF短編の完成度は「漫画家になりたい」という夢をくじけさせるに十分な作品だった……というのはまた別の話である(長くなる)。

ドラえもんのアニメをきっかけに漫画にも手を伸ばした。親におねだりしてはじめて買ってもらったドラえもんの単行本は、てんとう虫コミックスの13巻である。小さい複葉機の上にドラえもんが乗っている素敵な表紙の単行本だ。実は、僕にとってドラえもん13巻が人生ではじめて読んだ漫画単行本だ。F先生の完成度の高く読みやすい漫画で漫画の読み方を僕は覚えた。アニメよりも若干ハードな描写も刺激的で面白かった。


人生最初の漫画がレジェンド級の作品だったので、他の作家さんへの評価が厳しめになってしまい、「つまらない」「読みにくい」としょっちゅう言っていた記憶がある。当時から嫌な奴だったのだ。反省。アニメしか観ていない友達が多いなかで、漫画のドラえもんを読んでいるのは「アニメもいいけど漫画は一味ちがうよね」という優越感に浸れたのもドラえもんが人生初であった。

漫画雑誌もドラえもんがきっかけで読むようになった。単行本にドラえもんが掲載されていたコロコロコミックの宣伝が入っていたのがきっかけでコロコロを読むようになったのだ。今のコロコロがどんな状態の雑誌なのか僕は知らない。1980年ごろのコロコロコミックは滅茶苦茶分厚くてレンガのような形状をしていた。ドラえもん以外の作品が掲載されているとは知らなかった。そのとき漫画雑誌という概念をはじめて学んだのだ。

当時のコロコロコミックで印象に残っている作品はよしかわ進先生の「おじゃまユーレイくん」だ。事故で亡くなって幽霊になった主人公が幼馴染の女の子に取りついて更衣室やお風呂に入るというお色気漫画である。僕は一時期ドラえもんと同じくらいユーレイくんが大好きでねえ……突然連載が終わってしまったときはおおいに悲しんだものである。2000年代に「おじゃまユーレイくん」が復活したときは嬉しかったな。

子供の頃のドラえもんは漫画もアニメも結構ハードな描写があった。ジャイアンのパンチがのび太の顔にめり込む、「皮をはいでやる」みたいな台詞もあったような…。ただ、ハードな描写があったからこそ、悪いことをした人、ひみつ道具を悪用した人は最後にひどい目に遭うというドラえもんお約束のオチが効いていた。

ドラえもんは最後が酷い状態のカオスで終わる回は、その後をいっさい描かれないのが本当に素晴らしい。たとえば調子に乗ったのび太が道具を悪用してひどい目に遭っているのをドラえもんがやれやれと村上春樹のような台詞を言いそうな顔で見つめているコマで終わり、その後はいっさい描かれないのがとてもよかった。その後どう収束するかは僕ら読者である子供たちに任せる、投げっぱなしスタイル。説明過多にせず、受け手の想像力に任せているのが、子供でもわかった。ドラえもんで「最後のコマのあとはどうなるのだろう?」と誰でも想像したことがあるのでは?


また、バミューダトライアングルとかスモーカーズフォレストといった子供心をくすぐるウンチクもドラえもんの魅力だった。ネッシーや雪男を知ったのもドラえもんがきっかけだったかもしれない。教科書には絶対にのらないギリギリな教養によってボンクラ人生を歩んでしまったのは、ドラえもんのせいである。投げっぱなしやSFやオカルトをぶち込んでも壊れないのは、ドラえもんの世界観、つまりあの土管のある公園に戻ってくればオッケーという世界観の強さがあるからである。いいかえれば安心感。壊れない強い優しさがあるから無茶ができるのである。子供のときはドラえもんの世界観の強さに安心して乗ることが出来たのである。

大長編ドラえもんは「長編」じゃなくて「大長編」だから子供たちにとって事件だった。

1980年の映画「ドラえもん のび太の恐竜」は僕がはじめて劇場鑑賞したアニメ映画である。つまり、人生初漫画単行本、人生初漫画雑誌と並んでドラえもんで人生初三冠達成である。


コロコロや単行本に掲載されていたドラえもんの話は短かった。それが突然「大長編」の連載がはじまり、映画化。テンション爆上がりだった。なんといっても「大長編」というワードが天才だった。「長編」じゃなくて「大長編」だ。ロマンしか感じない。ちなみに「大長編」の「大」が何かは50歳になった今でもよくわからない。長編小説はあるが、大長編小説は聞いたことがない。キン肉マンの「言葉の意味はよくわからないがとにかくすごい自信だ」という言葉に近いものがある。理屈をこえた凄み。

短編だったドラえもんが突然長いストーリーのある漫画になった。一話で完結せず、数か月間にわたって連載となり次月のコロコロが待ち遠しかった。僕にとってはストーリーものの漫画は大長編ドラえもんが最初だった。ゲストキャラが登場して、いつもの仲間たちと異世界に向かい、ピンチを乗り越えて悪者を倒し、最後には別れが待っている、これが「大長編ドラえもん」の大まかな流れだ。異世界でのび太たちはヒーローになるけれども、必ず、あの土管のある公園のあるいつもの世界に帰ってくる。大長編が成立するのは、壊れない優しい世界観があるからだ。

そして大長編ドラえもんは映画化された。扉絵に「映画化決定」の文字があったときの魂の高揚が想像できますか。平日の夕方に10分間放送されていたミニ番組が長編映画になるのは僕ら子供にとっても大事件だったのだ(大長編だけに)。僕がリアルタイムで大長編ドラえもんの原作漫画を読み、映画を鑑賞したのは「のび太の恐竜」から「のび太と竜の騎士」まで。

印象に残っているのは、やはり第一作目の「のび太の恐竜」になる。原作漫画よりアクションが多めで見どころが多くなっていた……という内容よりも、劇場にいたいちいち解説するバカなガキが記憶に残っている。そいつは僕よりひとつふたつ年上と思われるアホガキで、僕のひとつ前の席に母親と一緒に座っていた。おそらく、事前に映画の内容を紹介するようなフィルム本のようなものを読んで予習してきたのだろう(アホだから)、劇中に登場する恐竜の名前をアホみたいな大きな声で叫び、僕を「のび太の恐竜」の世界から現実世界に引き戻したのである。子供心に映画館には変な奴がいるという学びを得た。今頃はハラスメント上司か嫌味な中間管理職になっているにちがいない。あと、大長編ドラえもんは武田鉄矢のテーマソングが名曲ぞろいなのでぜひ聞いてもらいたい。特に「宇宙小戦争」の「少年期」は屈指の名曲だ。

成長にともなってドラえもんから遠ざかっていた。

80年代中盤、中学生になった頃から「ドラえもん」の熱心なファンとはいえない状態になった。嫌いになったわけではない。ドラえもんのアニメが放送されていれば観たけれど、わざわざ放送時間にテレビの前に座ることはなくなっていた。単行本やコロコロコミックは買わなくなってしまったし、大長編ドラえもんの連載開始も気にならなくなったし、劇場版映画も「竜の騎士」を最後に観なくなっていた。

成長するにつれて、コロコロコミックから週刊少年ジャンプをはじめ、マガジン、サンデーといった「ちょっと大人の香りがする雑誌」へ興味が移っていったのだ。「コロコロは面白いけれど、ちょっと子供っぽいよな。大人になるってこういうことだよな」みたいな感じだったと思う。ジャンプはドラゴンボール、北斗の拳、キン肉マン、ジョジョといったバトル系の漫画が全盛期で、登場人物が戦いで死ぬようなハードな展開にカッコよさを感じていたのだ。漫画以外にもファミコンや部活動がはじまって、ドラえもんに割く時間がなくなってしまったこともある。

大学から社会人になってもドラえもんを遠ざけていた。社会の理不尽さや不公平さを垣間見てしまったあとでは、それに対してドラえもんの優しさが有効な武器になるとは到底思えなかったし、ドラえもんに対して「何、きれいごとを言っているのだろう」といら立ちすら覚えてしまう気がしたからだ。かつて大好きだった、漫画とアニメのファーストコンタクトだったドラえもんを嫌いになりたくなかったのだ。追い打ちをかけるように1996年、F先生が亡くなってしまった。これが僕の中にあった「さようならドラえもん」感を決定的なものにしたといっていい。

だが、ドラえもんと距離を置いていても、心のどこかでは気にはなっていた。僕が子供の頃にスタートした「のび太の恐竜」から毎年新作が公開されていたことも、テレビアニメが過去作をリメイクしながらずっと続いていることも知っていた。また時々発売されていた単行本未収録作品集「ドラえもんプラス」は読んでいたし、ドラえもん0巻だって手に取った(「STAND BY ME ドラえもん」には違和感を覚えていた)。定年して落ち着いた生活を送れるようになったらまたドラえもんを読もうとうっすらと思っていた。

大人になって僕がドラえもんにはまっている理由。

今、僕は第二次ドラえもんマイブームの中にいる。勝手に「さようならドラえもん」をしておいて勝手なものである。わかる人だけにわかる言い訳をすると、「帰ってきたドラえもん」の「ウソ808」を飲んで「さようなら」をなかったことにしたのである。きっかけはテレビ放送されていた「のび太の宇宙小戦争」のリメイク版「2021」である。なんとなく観たところ、これが面白かったのだ。三十年間眠っていたドラ魂に火が付いた。

大全集が発売されていたので、かつて読んだことのある大長編が収録されている巻を買って読んだ。「のび太の恐竜」から「竜の騎士」まで一気に読んだ。記憶以上にハードな内容に読めた。優しさでコーティングされているだけだった。大長編で登場する異世界の住人たちは、悪者から侵略を受けていたり、権利を奪われようとしていたりしていた。大長編には、戦争や環境問題など、現実にある危機がモチーフにされていることがわかった。

たとえば「海底鬼岩城」はもろに当時の米ソ冷戦がモチーフになっている。滅びたアトランティスによる自動報復装置(鬼角弾という大量破壊兵器が全世界に発射される)などは、ロシア大統領が死んだら核兵器が発射されると噂されている「死の手」システムそのものだった。子供の頃は、そういう要素には気づかなかった。また、青年期の僕が「子供っぽい」「きれいごと」とドラえもんを評していたのは、僕の浅い見識による誤解だったことを思い知らされたのだ。

大人になった僕がドラえもん、特に大長編にはまったのは「スタンド・バイ・ミー」的な見方が出来るようになったのが大きい。なお、この「スタンド・バイ・ミー」はスティーブン・キング作品であって、「STAND BY ME ドラえもん」ではない。大長編ドラえもんはどの作品もひと夏の少年少女たちの冒険なのだ。そしてそれらの冒険は大人になってからでは二度とできない貴重なものだと、大人になってからわかるのだ。大長編ドラえもんは、子供の頃、友達との記憶と重なって「コロコロや単行本を貸し借りしたなあ」「友達と山や川へ冒険したなあ」という郷愁を喚起するのだ。

で、やっぱり大長編ドラえもんは大ピンチに陥っても必ず帰ってくる場所があるのがとてもいいのだ。<どんなに苦しいときがあっても、命の危険にさらされても、日常は続いている>が今になって刺さった。社会に出てからは仕事できっついノルマを課せられたり、ライター業の締め切りに追われたり、理不尽なこと、厳しいことばかりだ。それが続いている。でも大長編ドラえもんは必ず異世界から帰ってくる描写があり、「大丈夫なんだ」と安心させてくれる。「死の手」システムと戦ってもドラえもんたちは生還して普通の暮らしを取り戻しているじゃないか、俺はまだやれると思わせてくれるのである。

物語としては、悪を倒してガッツポーズで幕を引いてもよいF先生はドラえもんたちの帰還まで、冒険を終わらせて日常のスタートまで描いている。先に述べたように、短編のストーリーでは読者の想像にまかせて投げっぱなしにしているのとは対照的だ。大長編ドラえもん、特に80年代に描かれた作品は大人になってからも楽しめるし、勇気をもらえる作品なのでぜひとも読んでもらいたい。

最後に漫画版大長編ドラえもんで刺さったシーンを三つあげておく。一つ目は「のび太の大魔境」のクライマックス前。ピンチに陥ったドラえもんとゲストキャラクターのペコ。皆を救うためにペコが単独行動を取ろうとする。だが責任を感じたジャイアンがペコの後を追いそのあとから皆も。という胸が熱くなるシーンをF先生は台詞なしで描いている。

二つめは「海底鬼岩城」の海底バギーの特攻。大長編ドラえもんでは珍しい自己犠牲シーンに涙を禁じ得ない。漫画版だと欠片のねじをもったしずかちゃんが「わたし忘れない」というけれどもその後バギーを思い出しているシーンが観たことがないあたりもリアルでよい。

三つめは冒険後のシーン。どの大長編でもいいのだが日常に帰ってくるところはいずれもドラえもんやのび太たちが充実感にあふれていてよい。長々と語ってしまったが、殺伐として先の未来今だからこそ大長編ドラえもんの原作を読んでほしいし、読むべき作品だと思うのだ。初期大長編ドラえもんは全人類が読むべき聖典である。

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