予想を裏切り期待は無視する天才作家・永野護と世界でいちばん訓練された読者たち
あらゆる表現を過去にしつづける男
〈天才〉。
いつの時代も、どこの国でも、創作の世界には群を抜いたクオリティの仕事を軽快に成し遂げ、絶大なる畏怖と絶対の尊敬を込めてそのように呼称される作家がごく少数ながら実在する。『ファイブスター物語』、『ゴティックメード』などの作品で知られる永野護もそのひとりだ。
若くして『機動戦士ガンダム』の「あの」富野由悠季に見出されて『重戦機エルガイム』のキャラクター及びメカニックのデザインを努め、その後は雑誌『ニュータイプ』で『ファイブスター物語』の連載を開始。絢爛と華やかな世界を描き出して各界から注目を浴び、連載30年を超えるいまなお熱狂的なファンからの支持を集めている唯一無二の作家である――と、このように通り一遍の説明をしても、かれの破格の才能と実力について何を説明したことにもならないだろう。
しかし、いったいそのあまりにも独創的な世界をどう解説したら良いものだろう。永野はこのようなあたりまえの言葉ではとても語り切れない「とんでもない」クリエイターなのだ。
たとえば『ファイブスター物語』の副読本である『アウトライン』を読んでみよう。かれはまだ若い頃、このような発言を残している。
永野護というキャラクターデザイナーを起用するときに求められるのはただひとつ。簡単なひと言で済む。
「いままでに誰も見たことのないような、すっごい奴をつくってくれ」
これは僕がかつてとあるアニメ製作会社にいたとき、当時の上司、山浦氏から言われたことばです。
それに対して僕は
「あ、そういうのなら簡単です。いちばん得意ですから」
何という強烈な自負! 傲慢、尊大、平気で偉そうなことをいい放つ奴、と思われるかもしれない。だが、永野はじっさいにその「いままで誰も見たことがないような、すっごい奴」を延々と何十年も生み出しつづけている。
その尽きることを知らぬ絶大なる才能は疑う余地もなく、何より、その年齢が初老に達したいまでも、まだ何とも「鋭くとがった」イマジネーションは少しも衰えていない。
天才でありつづけることは、ただ天才として登場することより遥かにむずかしい。素晴らしいデビュー作で注目を集めながらその後が続かない作家は時々いるものだが、永野は40年近くも過去の自分を乗り越えつづけている「本物中の本物」なのだ。
凄まじいまでに傲慢に思える発言には並はずれた実力の裏打ちがあるのである。少なくとも口先だけの男ではまったくない。
とはいえ、単に長期間にわたって優れた作品を生み出しつづけているクリエイターなら他にもいるだろう。永野の場合、特筆するべき個性はその破天荒な「ロックスピリット」にある。
多くの作家が歳を重ねるにつれ守旧に堕し、自分自身の過去の作品を自己模倣してマンネリに陥っていくのに対し、永野はつねに過去を更新し、超越し、ときには破壊すらして、乗り越えてきた。
ある意味では永野にとって唯一にして最大のライバルとは「過去の自分」にほかならないのかもしれない。
とりあえず現状維持を望む読者の願望は無視
じっさいのところ、ある至高の一点に到達したならその場に留まってほしいと望む読者は少なくない。いつまでも成功した作風にこだわっていてほしい、自分にとって最も気持ちの良い状態をずっと続けてほしい、そういうふうに希望することは、人としてごく自然なことである。
だが、永野はその「自然な期待」の一切を軽々と無視する。かれにとって優先順位の一は何より「いつも最善を更新しつづけること」であるようだ。生きている限りどこまでも続くかとすら思える最新最高表現のアップデート。それは、かれが作家としていまでも若々しくあることの証拠だといっても良い。
むろん、口でいうほど簡単なことであるはずもない。どのような傑作も、それが生み出され世に出たまさにその瞬間から「ただの過去」になるわけで、それを延々と書き換えつづけることは、ほとんど不可能に等しい偉業だといって良いだろう。
ふつう、だれであれ息の長い作家はどこかで表現のピークを迎え、その頂点の高みから少しずつゆっくりと衰えていく。それは作家である以前にひとりの人間である以上、ほとんど避けようもない鉄の摂理であるかとすら思える。
だが、いま、齢60代にして永野デザインの鋭さは増してゆく一方だ。その冒険心の豊かさ、探求心の大きさよ。わたしはかれの「あまりにも天才的な天才」よりもっとその「いつもいつまでも挑戦しつづける開拓精神」にこそリスペクトする。
あるいは不世出の天才キャラクター・デザイナーである永野ですら、いつも成功できているわけではないかもしれない。いくら何でもすべての最新デザインが最高傑作というわけにはいかないだろう。
しかし、超一流(永野の言葉でいう「プリマ・クラッセ」)の条件とは、それがどれほど困難であってもなお、その時点での自分の限界をさらに乗り越え彼方なるフロンティアをめざそうとする炎のチャレンジスピリットにこそあるのだ。永野護の作品が衰えはじめるときが来るとすれば、それはかれの心が老い、挑戦しつづけることに疲れ果ててしまったときのことだろう。
そもそも〈天才〉とは、決してある一点に留まることなく、はてしなく自分自身の最高傑作に挑みつづける異常に誇り高い人々にのみふさわしい黄金の桂冠である。
並の作家がその一生を完璧な作品をめざして試行錯誤しながらついに最高傑作に達せず終わるのに対し、天才と呼ばれる人たちは一様に最初の時点で満点の作品を生み出してしまい、そこからキャリアをスタートする。この凡人の常識をあっさりと無視する破格のルートこそが超絶的な才能の証明なのだ。
永野の場合もやはりそうで、かれは『ファイブスター物語』の最初期にナイト・オブ・ゴールド、LEDミラージュ、バッシュ・ザ・ブラックナイトといった最高傑作デザインを生み出している。そして、その後はそれらを延々と「改良」しつづけているのである。
永野のキャリアにおける最大の仕事であり、ほとんどかれの内的世界そのものなのではないかとすら思われる長大な『ファイブスター物語』は、この「改良」の積み重ねそのものである。
かれは同じデザインを長く使いつづけることを良しとしない。キャラクターにせよ、ロボットにせよ、新しく出てくるときには以前とはまた違う格好をしている。さらにいうなら、幾千年に及ぶ冒険と闘争の舞台となるジョーカー太陽星団そのものが「改良」されつづけている。
そこにはいつまでも「もっと!」と求めつづける永野の精神性が見て取れる。もっと美しく、もっとかっこ良く、もっと素晴らしく、もっと力づよく、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと!
あたりまえの作家ならこのような真似をしていてはただ疲弊し果てるだけに終わることだろう。世にも素晴らしい何かを生み出すその端から「もっと」といい出すその貪欲さ! その意味でもかれはやはりスペシャルなクリエイターとしかいいようがない。
いままでの設定、デザイン全部なし!
その「際限なく自分自身に挑みつづける挑戦の気概」が最も端的にあらわれたのが、『ファイブスター物語』13巻での設定一新である。なんと、このとき、永野はその時点でそれまで長々と積み重ねた作中のロボットに関する設定をことごとく捨て去り、〈モーターヘッド〉と呼ばれていたそれらのマシンをすべて〈ゴティックメード〉に変えてしまったのだった!
こう書いても、多くの人はどういうことなのかわからないかもしれない。これは、単行本13巻を機に「作中の世界がよく似ていながらまったく異なる世界へと取り換えられた」と考えるとわかりやすい。
それまでの幾多の美しい〈モーターヘッド〉たちは、その面影をかすかに残しながらも基本的にはまったく異なる〈ゴティックメード〉になり、ドラゴンと呼ばれていた超次元の存在たちはなぞめいた〈セントリー〉になり、妖精のような人工生命体ファティマたちは〈オートマチック・フラワーズ〉という別名で呼ばれることとなった。
いってしまえば、何十年もかけて営々と積み重ねてきた設定とデザインを、あっさりと投げ捨て「最初からやり直し!」と宣言したようなもの。常識的に考えれば、ありえない、あってはならないことだろう。
それぞれのモーターヘッドには熱心なファンがたくさんいるのだ。ふつうに捉えるなら、これは暴挙である。いったい、連載の途中でここまで極端な設定一新が行われた作品がかつてあっただろうか。過去の財産に執着していればこのような真似ができるはずもない。どこまでもどこまでも「現在」にこそ集中する永野護をして、初めて成し遂げられた「暴挙にして快挙」であるといって良い。
もっとも、いたって当然のことながら、この「事件」は賛否両論を生んだ。このあたりから読者をやめてしまった人も少なくない。それも無理はない。このような、リファインという次元に終わらない「とんでもない」冒険を経てそれでもついていく読者のほうがおかしいのかもしれない。
だが、おかしくても狂っていても良い。少なくともわたしはこれからも『ファイブスター物語』を楽しみに読みつづけるつもりだし、永野護のこの「はてしなく己の限界を超えていく挑戦と超克のスピリット」を尊敬してやまない。かれにとって、ある表現の完成は、次なる表現のスタートでしかないようだ。
だから『ファイブスター物語』はいつまで経っても古くならない。少なくともその最先端の部分は、いつも時代の一歩先を進んでいるように見える。いまでも、なお、永野の最新傑作ロボットが発表されるとき、全世界の全ロボットが一瞬にして過去と化す。これは常識的な想像以上に尋常ではないことだ。
もっとファンの声に応えるべきだと考える人もいるだろう。せっかく期待してくれている人たちがいるのだから、その声を無視してはならないと。そうかもしれない。しかし、だれが読者に媚びる永野護など見たいだろうか。
そもそも、世の中には読者の欲望にアジャストしてくれる作家や作品が山ほどあるのだから、そういうものを見たい人はそういう作品だけを消費していれば良いのではないか。あえて『ファイブスター物語』などという劇毒を口にする必要もない。この五つの星から成る太陽星団を舞台にした物語は、いつも新陳代謝をくりかえし、決して読者の思い通りになったりはしないのである。
そういう作風をときに苦笑しつつもことさらに問題視しない「世界でいちばん訓練された読者たち」こそがいまでも『ファイブスター物語』を読みつづけている。あまりにも非常識な話。暴走する教祖と狂った信者たち。そうだろうか。だが、そもそもいわゆる「永野デザイン」は、そのすべてがあたりまえの常識など遥か遠くに置き去りにしてきたものばかりである。
きっと永野護はどこまでいっても自分の作品に満足し切ることがないのだろう。だから、営々と延々と作品を更新しつづける。わたしはその姿勢、その作家としてのありようにこそ感動する。
「もっと安全そうに見えるルート」をあっさりと無視し、「停滞を求める読者の切ない期待」を当然のように裏切り、ただどこまでも自分の理想だけを追い求めつづける美しいほどピュアな表現姿勢。それが、わたしの心をつよく揺り動かすのだ。
何という稀有な作家と同時代を生きているのだろう。『ファイブスター物語』をリアルタイムに読めることは最高の幸せだ。あしたの永野護は、きょうのかれよりさらに凄い。そう確信できる作家とともにあることが、何とも嬉しい。わたしはほんとうにそう思う。
まさにただ者ではない作家であり、作品である。その連載が続くかぎり、わたしはこの不世出の「お伽噺」を追いかけつづけることだろう。星団暦7777年、人跡未踏のなぞの惑星フォーチュンで光の神アマテラスと妻ラキシスが再会を遂げ、聖なる婚姻を迎える、そのときまで。
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