WOTONAKICHI
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昭和日本からドラクエまで、日本でいちばん賛否を呼ぶ映画監督・山崎貴の作品世界を再評価する。

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「昭和日本からドラクエまで、日本でいちばん賛否を呼ぶ映画監督・山崎貴の作品世界を再評価する。」。海燕さんが書かれたこの記事では、映画監督・山崎貴への偏愛を語っていただきました! 山崎貴は、議論の余地なく現代日本で最高の映像作家のひとりだ。 ――と、こう書くとそれだけでひとつの議論が巻き起こりそうだ。 山崎貴が現代日本映画産業で随一のヒットメーカーであることはたしかだが、その作品の出来不出来に関してはさまざまな意見があり、その評価に「議論の余地がない」とはとてもいえそうにない。 それでは、このように書き直してみたらどうだろう? 山崎貴は議論の余地なく現代日本で最も賛否が分かれる映像作家のひとりだ。 こうすると、前の文よりずっと多くの賛成票が集まるのではないだろうか。そのくらい、山崎貴の映画に関しては賞賛と批判が拮抗している。 山崎貴は、きわめて多作でありながら、新作を出すたびに必ずヒット作となるいまの日本では数少ない人気作家であることは間違いない。だが、それにもかかわらず、あるいはそれだからこそ、そのフィルモグラフィを批判的に語る人は少なくないのだ。 それはかれがアカデミー賞を受賞したいまですら変わらない。今回は、この稀代の「商業映画監督」の作品世界を取り上げ、詳細かつ好意的に分析することとしたい。 そう、はじめに書いておくが、ぼくは山崎の業績をすこぶる高く評価する立場に立つ。どんなにたくさんのシネフィルが批判しようが、山崎の映画は(そのすべてがとはいわないまでも)素晴らしい。ぼくはそう信じる。その根拠を、これから書いていくことにしよう。 ハイペース、ハイアベレージ。 https://www.youtube.com/watch?v=fmeB08Qd4Qo 客観的に見て、山崎貴はあきらかに現代日本を代表する映画監督のひとりである。そのキャリアといい、受賞歴といい、興行成績といい、一般観客からの評価といい、かれに匹敵する監督はそうとう広く探し求めてもそうはいないだろう。 何といっても注目するべきはその多作ぶりだ。高度なVFXを多用する独自の作風にもかかわらず、ほぼ1~2年に1作ずつ、場合によってはそれ以上のペースで新作を発表しつづけていることには驚くしかない。 しかも、その大半が10億円を越す興行を記録しており、50億円を越えた作品すら複数ある。これはハリウッドの大作と比べれば平凡な数字かもしれないが、その予算規模が相対的にかぎりなく小さいことを考え合わせると、驚異的な事実だといえるだろう。 しかも、かれは延々と同じシリーズを作りつづけているわけでもない。つねに新しい作品にチャレンジしつづけながら、いままで一度たりとも興行的大失敗を記録していない。そのすべての作品が高い水準で観客を動員しているのである。これはやはり、ふつうに考えても凄いことではないだろうか。 ただ、そのいっぽうでいわゆる「シネフィル(映画通)」からの評価はからいものがある。 もちろん、すべての映画好きが「アンチ山崎貴」を標榜しているわけではないだろうが、自分は映画をよく理解していると考える人のうちかなり高いわりあいが、山崎作品を否定的に見ている印象は否めない。 少なくとも、比較的「薄い」一般観客層がかれの作品をいたって高く評価している事実と比較すると、「マニア」はとても批判的だといって良いのではないだろうか。 その理由として挙げられそうなことは、主にふたつある。ひとつは、山崎映画の一様にウェットでセンチメンタルな作風だ。 初期の『ALLWAYS』三部作で大ヒットを飛ばして以来、山崎は一貫して「泣ける」ことをウリにした、きわめてウェットな作品を作ってきた。 そこが俗ウケをねらっているとみなされ、より繊細なシナリオを期待する観客から忌避されているという一面はあるように思える(とはいえ、かれの全作品を一望してみれば、ほんとうにそれほどウェットなばかりの作家なのか? その点には一考の余地があるだろう)。 そしてもうひとつは、山崎がほとんどいつものように何らかの原作をもとに映画を撮っている監督である点だ。 前述の『ALLWAYS』の原作は名作マンガ『三丁目の夕日』であり、そのあとも『クレヨンしんちゃん』『宇宙戦艦ヤマト』のような国民的知名度を誇る作品から、『永遠の0』のようなベストセラー、『寄生獣』などの異色作に至るまで、幅広く原作ものを手がけ、そしてそのほとんどをあてている。 おそらく映画会社にとってはきわめてありがたい監督だろう。Amazonやフィルマークスを見るかぎり、世間一般の評価も高い。 つまりは、一部の映画ファン、あるいはマニア、あるいはフリーク、あるいはオタクと呼ばれる人を除いては、ごく素朴に山崎貴の映画を楽しんでいると見て良いようなのである。 天才でもなく、芸術家でもなく。 https://www.youtube.com/watch?v=7iIoHGv9hZU しかし、やはりそれでも山崎の映画を批判的に語る人は少なくない。 もちろん、スピルバーグだろうがキューブリックだろうが悪くいう人はいるわけで、すべての人に愛されることはそもそも不可能だろう。だが、山崎貴の場合、そのかがやかしいキャリアに比して、苛烈な批判的意見が目立つ。 とにかく好き嫌いが分かれる作風であり、しかも嫌いな人はみな自分の意見の正当性を信じて疑わないように見えるのだ。この現象はいったい何なのだろう? ウェットな作風の監督は他にいくらでもいる。かれと同じようにマンガや小説を原作にしている人だって何人もいることだろう(そもそも、最近の邦画のヒット作はその多くがマンガ原作ではないか)。 それなのに、山崎貴を嫌いな人たちはそれはもう激烈に「議論の余地なし」という調子で批判する。その激しさは、ぼくのようないたって素朴にかれの映画を楽しんでいる人間から見ると面白い限りである。 当然、山崎の作品にも出来不出来はある。歴史に残るほどの傑作だと思う作品があるいっぽうで(『アルキメデスの大戦』とか)、わりあい凡庸な展開に終始している作品もなくはない(『ルパン三世』とか)。だが、より重要なのは平均して一定水準を越える作品を出しつづけ、高く評価されつづけていることだ。 そう、くりかえしになるが、これは広く見て平成以降の映画界ではまったく類を見ない、ワン・アンド・オンリーの個性である。 わが国では、何十年も映画を撮っていないのに堂々とカントクと呼ばれている人がわりにいることを思えば、その職業に対する誠実さは疑う余地がないように感じられる。 思うに、映画監督とは映画を撮ってこその職業である。どれほどまわりで賛否について騒がしかろうと、いっさい頓着することなく淡々と延々と映画を撮りつづけている山崎は、いま、日本でもっともプロフェッショナルな映画人といっても良いのではないだろうか。 もちろん、監督業が、優れた作家であればあるほど身も心も削るほどのハードワークであることを考えれば、庵野秀明や宮崎駿のように一作撮ったらそれで消耗し切ってしばらく撮れなくなってしまう天才作家を責めることはできない。 むしろ、恐ろしいほどのハイペース、ハイアベレージで新作を創りつづける山崎のほうが例外的な存在なのだ。 「いや、数ではなく質こそが重要なのだ」という意見もあるだろう。なるほど、その通りではある。しかし、一定の質が担保されているのなら、たくさんの「数」を生み出していることもまた評価の対象になるのではないだろうか。 生涯にただ一作か二作、傑作を撮って歴史に名を残す作家はかっこいいかもしれないが、何十本という作品を撮りつづけて大衆を魅了する作家もまたかっこいい。ぼくは心からそう思う。 そして、単純にひとりの観客としてありがたいのは後者のほうなのだ。 たしかに山崎の作風はいかにもウェットである。しかし、そのウェットなナラティヴを成立させているものは際立ってドライな計算であり、戦略なのである。 現実問題として商業的な失敗作を撮りつづけたら監督業は成り立たないわけで、映画監督は「芸術的な」自己満足に留まることを許されない。山崎の姿勢は、その意味でとても映画という産業とマッチしているように思える。 かれは天才でもなければ芸術家でもないかもしれない。だが、最高の職人であり、しかもときに驚くほど挑戦的に「常識的な作法」から足を踏み出してみせる。 まあ、だからこそ嫌いな人には嫌われるのだろうが、そのようなやんちゃな姿勢もぼくのような一ファンには魅力的に映る。 とにかく、好悪はさておき、凡庸なクリエーターではないことだけは間違いない。 責難は成事に非ず。 https://www.youtube.com/watch?v=x7ythIm0834 それにしても、山崎の作風の一貫性には驚くべきものがある。どれほど膨大な非難が寄せられても、かれはそのスタイルを変えようとはしない。そして、あくまでもエンターテインメントの最前線に踏みとどまって、一歩一歩、その評価を高めていっているのだ。 動かざること山のごとし。かれの姿勢はたしかに天才作家とか芸術家というにはあまりに現実的で、面白みがないように感じられるかもしれない。だが、この社会で大人が仕事をするとはこういうことなのではないだろうか。 世の中には、「おれだって十分な予算さえあれば大傑作を撮ってやる」と思っているような無名の監督がたくさんいることだろう。 だが、実際にはどのような才人もかぎられたスケジュールとバシェット、うんざりするような人間関係のしがらみのなかで撮るしかなく、「条件さえ整えば」良い作品を創れるなどというのはどこまでいっても戯れ言の域を出るものではない。 山崎の映画も、ときにその映像表現がいかにもチープに見えることはある。おそらく、かれ自身もまたいくらでもいいたいことがあるだろう(じっさい、ときどき愚痴をこぼしている)。が、かれはそれでもなお、つねに最善を尽くすだけのように見える。 もっと予算があれば、もっと時間があれば、もっと俳優に恵まれれば、かれより良い映画を撮れる者はいるかもしれない。しかし、それはしょせん「イフ」の話でしかない。それに対し、山崎は現実に『寄生獣』や『アルキメデスの大戦』を映画化してのけているのである。 原作ファンにはいいたいこともあるだろうが、これらの企画のそもそもの困難さ、あえていうなら無謀さを考えるとき、山崎の功績は巨大なものと見るしかない。 かれはそうやって賛否のあらしをあの、かれ一流の気さくな態度でかいくぐりながら、いっそ頑固と思えるほど作風をつらぬき、キャリアを築いて、ついに『ゴジラ-1.0』を生み出した。 これは紛うかたなき不世出の天才映像作家である庵野秀明の代表作『シン・ゴジラ』に比肩する山崎の集大成にして、おそらくは最高傑作である。 この映画の出来栄えを観て一驚したハリウッドの映画人たちは、その予算の少なさを耳にして二驚したともいう(こんな日本語はないが)。 山崎はいつも現実の制約に立ち向かい、きっと切歯扼腕(せっしやくわん)しながらなのかもしれないが、その範疇でどうにかこうにか最善の成果を出しつづけた。ぼくはひとりの社会人として、その姿勢を心からリスペクトする。 だれだって、最高の環境がととのえば最高の成果を挙げることができるだろう。問題は、いつまで待っていても最高の環境がととのう日など来ないということで、現実に成果を生み出そうとする人間は現実の制約の内側で何とかするしかないのである。 あるいは、何かを成し遂げることをあきらめて口だけ達者な傍観者になりおおせるか。 山崎は前者の道を選んだのだろう。そして、いま、アカデミー賞の受賞を経て、さらなる高みへ飛躍しようとしている。これが、これこそが現代社会を生きる大人のあるべき姿でなくて何だろう? ほんとうに素晴らしい。 山崎貴にかぎらず、だれかの仕事を横から批判することはたやすい。しかし、責難は成事に非ず。ただ批判しただけでは、なにかを成したことにはならないのである。 成すことだけが成すことなのであり、だからこそぼくはときに失敗しながら、挫折しながらでも成しつづける人を尊敬する。 山崎貴は責難の人ではなく成事の人である。かれが真にプロ中のプロであることは、もはや疑う余地がない。新作が楽しみでならない。またも山崎は、なんらかの意味で想像を超えてくるに違いない。そう――この現実世界の冷淡なる制約が許す、その範疇で。

医師って、面白っ! 自衛隊出身の精神科医が見た「人の鑑」には収まり切らない治療者の素顔

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「医師って、面白っ! 自衛隊出身の精神科医が見た「人の鑑」には収まり切らない治療者の素顔」。益田さんが書かれたこの記事では、医師の方々への偏愛を語っていただきました! 精神科医として働いている今も、時折ふと思うことがあります。“医師って、面白い人達が多いな”と。“そもそも、変わっている人も多く、そのうえエネルギーに満ち溢れているから、面白い活動している人達が多いのだろうな”と。 私は、テレビやドキュメンタリー番組で他の医師たちが活躍している姿を見るのが子供の頃から大好きでした。例えば、救命救急の現場で命の瀬戸際に立つ人々を助ける外科医や、医療過疎地で懸命に治療を続ける地域医療の専門家、そういう人たちが登場するドキュメンタリーが好きです。それは今でも変わらず、自分も医師なのに、お医者様にあったり、話すと、いつもドキドキしたり、ワクワクします。 他にも、未知のウイルスに立ち向かう感染症の研究者たち、こういう人たちのロジカルさと滲み出る日常感や素朴さ、そのギャップを隠そうとしないところが面白くて、私は好きです。最近は、YouTubeで色々な学会や発表の様子なども見られるので、面白いなぁ、と喜んでいます。日本のものは少ないですが、海外の研究者などは発表をYouTubeに載せていることが多いですね。 自己紹介 ここで少し自己紹介をさせていただきます。私は精神科医として働いている益田裕介と申します。会社員家庭の出身で、子供の頃は転勤族でした。2010年に埼玉県所沢市にある防衛医大を卒業し、陸上自衛隊勤務を経て、2018年より東京都新宿区の早稲田で開業医をしています。早稲田大学がある、あの早稲田です。なので患者さんは若い人が多く、日々、さまざまな刺激を受けながら臨床をしています。彼らのアドバイスから2019年12月よりYouTubeをはじめ、それを今も続けています。 メンタル系YouTuberの会 専門家による情報発信には正しい情報は当然として、他にも責任と高い倫理観が求められます。しかし、目先の再生数や人気に目が眩みやすいのも人間の弱さであり、その弱さに支配されないように、相互監視の場として2021年2月ごろより、メンタル系YouTuberの会を発足し、色々な人に参加してもらっています。相互監視のみならず、情報交換やコラボ撮影の依頼など、さまざまな助け合いをする場として機能しています。 彼らと交流していると、やはり面白いな、と思うことが多いです。基本的にみなさん優しく、親切なのは当然ですが、それぞれが個性的です。そういう彼らの様子を見ていると、教科書的には精神科臨床というものが目指す先は標準化された、画一的な医療サービスと書かれていますが、実際は、とてもそんなふうにはなれないだろうな、と確信します。 僕自身は自衛隊出身なので、全て統制されるべきという教えが身体に染み込まされているのですが、人間の心を扱い、人間という温かさを伝えていく職業である医療は、そうであってもいけないんだろうな、と気づかされます。 サイエンスやエビデンスを重視しつつも、自由さが滲み出る彼らの言動を見ていると、励まされるというか、まぁ、いいか、と自分の不自由さに気づくことができ、さらに自由に自己表現をしていこう、という勇気をもらえます。 周囲の人たち同様、僕も彼らの表現を外野から見ていて、ヒヤヒヤすることもあります。しかし、コメント欄などその後の反応を見ていると、案外、すんなりと視聴者さんや患者さんらに受け入れられていることも多いです。それらを見たり、知ったりすることで、医療者ももっと自由で、人間らしくあっていいのだろう、と気づかされます。 実際の臨床でのプレッシャーは計り知れず、僕ら医師は優秀であることをアピールし続けなければならないことが多いです。そうしなければ生き残れない厳しさは、自分達の首も締めていることになっているのでしょう。医師も人間であり、同じような弱さを持っていることを伝えていくことは、患者さんのみならず、他の医師や医療従事者にも良い影響を与えられるのではないか、と思っています。 精神科医開業医の会 数ヶ月に一度、精神科を標榜している開業医の人たちと集まり、食事会をしています。2020年の発足当初は経営やスタッフ教育など様々な相談もあったのですが、最近は皆の経営が安定し、ほとんど食事を楽しむだけの会になっています。経営者同士でしか話せないようなものもあり、色々と相談したり、愚痴を言ったり、お金の使い方などを相談するのは、心の安定に大変役立っています。 彼ら全員に言えるのですが、やはり「元気」です。バイタリティに溢れ、経営を拡大したり、趣味を極めたり、スケールが大きく面白いです。相手から見ても、益田のYouTube活動に対して、感心していると思うので、同じエネルギーや成果が他の方面で花開いている、といえばみなさんもイメージが湧くかもしれません。グルメや旅行、外車購入など月並みなものかもしれませんが、身近な話として、贅沢話を聞くのも面白いです。 地域や医師の専門性、所属している医師やスタッフの人数によっても、治療のやり方や価値観、思想は微妙に異なります。どれが正しい、最適なのか、というよりも、それぞれがそれぞれのやり方で最適化した末での個性なので、それらは尊重されるべきなのだ、という全員の共通理解が心地よいです。 治療者は鏡のようであるべきか、それとも人生の先生か? 僕自身のキャリアは、最初は自衛隊という医師が極めて少ない環境から教科書と現場で必死に学ぶところから始まり、大きな医局などに属することなく、若いうちに開業、YouTubeでの情報発信というほとんど未開の分野を突き進んできた、という自負があります。 大きな医局に属さなかったメリットとして、若いうちから決断や判断をする機会に恵まれ、新しいことにチャレンジしやすかったことが挙げられます。一方で、先輩や権威ある人たちからお墨付きをもらえていない、常にエビデンスやサイエンスと向き合いつつ、正解を模索し続けねばならなかった、というデメリットがありました。 僕が今考えているのは「治療者は鏡のようであるべき」という誤解についてです。もちろん、治療者が人生の先生として、患者さんに説教をたれるのは問題でしょう。彼らの価値観や思想を尊重し、その上で一緒に正解を探していくべきです。鏡のようにあるべきとは、自らの主観を押し付けない態度の例えとして登場しましたが、今は誤解されていることも少なくないかと思います。 臨床とは、自衛隊の兵隊のように個性を殺し、皆が同じ行動や態度をとるものではありません。一人の人間として向き合い、笑顔や悲しみを引き出し、共に悩むことを指します。ここでのありようは多様であり、様々な正解がありえるでしょう。 僕が今出会い、交流している彼らは皆個性的で、変わっていて、でも素晴らしい人たちです。YouTubeやSNSなどの個人メディアの登場によって、治療マニュアルやガイドラインで語りきれないものを表現できるようになってきている今、これらの個性を表現し、受け入れられるような土壌を作りたいなと思っています。

占いアンチの皆さんにも読んでほしい、法律家がロジカルに語り尽くす【占い】の深い深い世界

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「占いアンチの皆さんにも読んでほしい、法律家がロジカルに語り尽くす【占い】の深い深い世界」。ナツメミトさんが書かれたこの記事では、占いへの偏愛を語っていただきました! ☆占いと法律とは組み合わせとして水と油ではないのか。というお話。 はじめまして、ナツメ ミトと申します。タイトルからして「コイツ占い師なのか?」とお思いでしょうが、さにあらず。普段はIT系企業の法務部で、契約書まみれの日々を過ごしています。 自分が過去にやってきたことの一例を挙げると、司法試験受験、大学院生。放送作家、探偵、夜逃げ屋の内勤(この辺はいずれもバイトですが)社畜、等々。そしてこれらよりもずいぶん長く続いたのが占いということになります。占いをやり始めてからもう15年くらいは経つのでしょうか。 話は変わって「占いなんて、占い師が口先だけでテキトーなこと言ってんじゃん!」 とお考えのそこのアナタ。 占いは科学でなければ統計学でもないという点には同意します。ただし、全く出まかせでやっているわけではなく、それなりのロジックはあったりするんですよね。そうでなければ「占いの方法が書いてある本」は書けないですし、師匠から弟子に占いのやり方を教えるなんてことも出来ません。 そして上記プロフィールをお読みいただいた皆さんが次にお考えなのは「なぜ法律屋が占いなんぞをやっとんねん?」でしょう。法律なんて「現実」の最たるものですし、占いなんて言ってしまえば「精神世界」的なジャンルですもんね。全く真逆なのですからそりゃそういう感想にもなると思います。 ところで、法律というのはロジックを使って、「権利や義務」と言った目に見えないものを確定する作業です。そうであれば、ロジックを使って「運勢」という目に見えないものを観測しようとする営みであるところの占いをやっていることだって、そう不思議なことではないと思う…のですが、どういうわけだかこの理屈を理解してくれる人はいないんだな、これが。 そんな変人が今回何を行うのかというお話ですが、どういうロジックを使っているかによって占いを分類してみたり、占いごとに使い分けの方法を解説してみたりとそのような内容となっております。 占いアンチの皆も占い師を罵倒するときに「お前ら口から出まかせばかりだな!」みたいな罵倒よりもこのガイドを熟読して「○○は××のはずなのに、お前はそうではないから占いを使いこなせていないよな!」という煽りを行って頂いたほうが占い師的にはキツいです。 下記を熟読の上それぞれ煽ってみてくださいね。(※本当にやるとケンカになるので止めましょう) ~注意事項~ ・世の中にはいろいろな占いがありますが、自分が使っている占いは東洋の占い(四柱推命、易占い、風水)が多いので例えとしては西洋占星術やタロットと言った西洋の占いよりも東洋の占いが良く出てきます。 ・今回の目的は「あまり占いに詳しくない人になんとなくでイメージしてもらうこと」を主眼としていますので、色々はしょっちゃった結果占いに詳しい人が読むと「ん?」となることがあると思いますがそこは大目に見てください。ゴメンて。 ・つらつらと書いていたら全体の文字数が15,000字に膨らんでおりました。休み休みお読みください。 ☆どういう方法論で答えを出しているか で占いを分類してみる。 台湾では占いを「命卜相」という分け方で分類しているらしいのでこれに乗っかって説明してみます。(以下「命占」「卜占(ぼくせん。と読みます)」「相占」と分類します。) ・命占 四柱推命や西洋占星術 めっちゃ簡単に言うと「自分の誕生日(と誕生時間)で何かが決定してしまう」占い。とでも言うのでしょうか。誕生日によって何が決定するのかは占いごとに異なるので、これは解説が必要でしょう。 四柱推命: 生まれた年月日時の暦(こよみ)で諸々が決定する占い。なのですが、そんなことを言われても何が何だかですよね。 例えば皆さん自分の「生まれ年の干支(えと)」はご存じだと思いますが、実は月日時にもそれぞれ十二支が配当されています。「土用丑(うし)の日」ですとか、「丑三つ時」なんて言葉を聞いたことはないでしょうか。要はコレ、「丑の日」と「丑の刻」があるということです。さらに生まれ月にも十二支が存在します。 実際にこのサイト(※)で皆さんの誕生日を入れてみると分かりやすいのかな。 ※四柱命式計算 (by八字仙人):https://www.moonlabo.com/calendar/?OpDv=stewcore_spclこちらは老舗の四柱推命用サイトでして、全く怪しくないのでその辺りはご安心を。 はい、誕生日や性別をポチポチ入力して「四柱命式計算開始」のボタンを押したあと、「四柱組織の基礎計算結果 (命式)」をご覧頂くと、「年月日時」にそれぞれ「干支」という欄があったりしますが、そちらをご確認ください。 この八文字(それぞれ年柱、月柱、日柱、時柱の四つの柱となっているため、四柱推命と言います。そのためこの八文字は八字とか四柱と呼ばれます)があなたの生まれた日時を表す暦で、この暦を使って色々と占っていくことになります。なお、生まれた時間が分からないと時柱が不明となり、それでも占えなくはないですが精度はかなり落ちます。 例えば今これを書いている2025年1月26日15時51分。この瞬間に生まれたお子さんがいる場合、この八文字は以下の通りです。 年:甲辰 月:丁丑 日:乙亥 時:甲申 それぞれ2文字あるうちの右側が十二支ですね。(子、丑(うし)、寅、卯、辰、巳、午(うま)、未(ひつじ)、申、酉、戌、亥。「年:」の欄を見て、あれ?もう辰年が終わって巳(み→へび)年になったのでは?と思ったアナタ…なかなか鋭い。この占いでの年の変わり目は太陽暦とは別の(一般的には)立春とされるため、まだ辰年扱いなのです) 戌月とか午日は分かったけど、その上の「甲」とか「丁」とかってなんだよ。というお話になりますが、これは十干(じゅっかん)と呼ばれていて、それぞれに十二支とは別の性質をもつものです。この十干と十二支を組み合わせた60種類の2文字×四柱。という構成になっております。(鬼滅の刃でほぼ忘れられている設定ですが、鬼殺隊は強さによって甲~癸までの階級があったはずでして、アレが十干なのです) 「辛亥革命」や「壬申の乱」といった歴史用語、ご存じではないでしょうか。あれは1911年が「辛亥(かのと+い(のしし))年」だったり672年が「壬申(みずのえ+さる)年」であったりすることから来ています。 この四柱八字で後述の「生まれつきの性質、特性」を占ったりしますが、どう占うかまでは文字数が足りないので今回は省略。次があればそんな話をするかもしれません。 西洋占星術: これも実際にホロスコープを作ってもらった方が早いと思うので、西洋占星術業界の大有名人、鏡リュウジ先生のサイト(※)をお借りするとしましょう。 ※ホロスコープを作成する|鏡リュウジ公式サイト:https://kagamiryuji.jp/horoscope/ ホロスコープとはなんぞや。とりあえずは星の配置図くらいに思っておいて頂ければ良いのかと。今しがた鏡先生のサイトで誕生日誕生時間の入力をお願いしましたが、そうであれば生まれたその日その時間の星の配置図が表示されているはずです。これを使って占っていくのが西洋占星術です。 本来太陽の周りを諸惑星が回っているはずですが、この占いでは天動説というか地球の周りを星が回っていることになっています。(そのため円の中心が地球)その周りの惑星(太陽は恒星ですが以下、ここに含めてください)同士の角度や各惑星が何座や何ハウスに入っているか。等々で占うのがこの占いの基本です。 各惑星は地球の周りを周っていることになっているのでこの円内を周っていくことになります。地球を中心としたこの円を1周するのにどのくらいかかるのかは地球と各惑星の位置によってかなりばらつきがあります。月は約28日でこの円内を1周する(月は一つの星座を約2.5日で移動するので生まれ時間が分からないと月の正確な位置がわからないことになります)のに対して土星は約30年で1周、冥王星にいたっては約250年をかけて1周するのだとか。 そのため、どの星がどの位置にいるかは都度都度ホロスコープを出す必要があるのですが、ひとつだけ誕生日を聞けばそのときどの位置にいるか分かる星があります。さて、その星とはなんでしょうか。 はい、太陽ですね。まぁ太陽暦(地球が太陽の周りを1周すると約365日が経過する)なんだから当然なのですが、これの良いところは、昭和平成何年生まれでも1月26日生まれであれば、朝の情報番組で見かける十二星座占いではみずがめ座であることが確定する点です。これがとにかくお手軽でわかりやすい。 世間ではこの「太陽がどの星座にあるか(太陽星座と言ったりするようです)」だけで性格や相性占いなどをしたりするようですが、ホロスコープを使い、他の惑星との関係性も考えることで、さらに詳しく性格をみたり、才能や特性、金運、特定の相手との相性を見たりすることが出来たりします。(こちらも誕生日から割り出したモノで生まれつきのなんやかんやを見ることが出来る。とするのは先ほどの四柱推命と同じです。) ・卜占 タロットカード、易占い これは「問いを立てたのち、偶然出てきた何かをその答えとしてしまう」占い。とでもいうのでしょうか。 タロットカード: 今これをご覧の皆さんであれば、上記12星座占いと共に一番見たことのある占いというのはこれでしょう。不朽の名作「ジョジョの奇妙な冒険 第三部」の幽波紋(スタンド)名にも使われたため、タロットカードの名前くらいであればご存じの方も多いのではないでしょうか。 質問をしたのち、たまたま出てきたカードをスプレッド(カードの配置方法)に従ってたまたまその位置に配置(配置された場所によって色々意味が変わってくる)。その結果が、その質問に対しての答えとなっている。という手法なのは何となくご理解いただけるでしょうか。 例えばスリーカードと呼ばれるスプレッドで占ったとしましょう。「自分が浮気をして彼氏に振られてしまったが、そんな自分に新しく彼氏は出来るでしょうか」みたいなお題で占ったと仮定します。 結果ですが、画像を見ると3枚のカードが並べられています。左から「過去」「現在」「未来」を表しており、左からそれぞれの位置に、「悪魔」「審判」「恋人」のカードが出たとします。 となると、『欲望に負けて浮気をしてしまうが(過去=悪魔)今回のことでそれが良くないことに気づき(現在=審判)、将来的には彼氏は出来るであろう(未来=恋人)』…みたいな感じに読んだりしますが、これはたまたまその位置にたまたまそのカードが来たための結果ということになります。 なお、カードは正位置で出るか逆位置で出るかも偶然に頼っています。(逆位置を考慮しない考え方の人も一定数いるみたいですが、正位置か逆位置かで意味が変わる考え方も根強いように思います。)ということは、たまたま「悪魔」「審判」「恋人」が出たとしても… 過去=恋人の逆位置 現在=審判の正位置 未来=悪魔の正位置 という配置であれば、『誘惑に負けて目移りして浮気をし(過去=恋人の逆位置)、バレて反省の機会があったものの(現在=審判)将来的には欲望や快楽に負けてしまう(未来=悪魔の正位置)』という割と大変な結果になってしまうのですが、まぁ偶然出てきたもので占うわけですからそうなってしまえばしゃーないんですよ。 当たるか当たらないかの問題はありますが、こうなってしまえばあとはお客さんへの伝え方とこの予測に対しての対策をどうするかの話になるのだと思います。 易占い: なお、自分が使っている卜占は易占い(最近全く触っていないですが)という占いです。いらすとやさんのこの画像。 画像の向かって左側に竹の棒(のようなもの)が筒に入っているのを確認できるでしょうか。ざっくりいうとこの竹の棒(49本)を二つに分け、今たまたま何本持っているか?を使って占うやり方です。タロットカード同様にこれまた偶然を使った占いであり卜占に分類されます。 はるか昔だと飲み屋街の片隅にこういう感じの占い師さんがいたと思うんですが、今はもう絶滅しとるんやないやろか…それはともかく、よく「当たるも八卦当たらぬも八卦」と言いますが、その偶然持っていた竹の棒の本数から八卦を出し、それを掛け合わせて八×八の六十四卦を出す。というのがこの易占いのやり方です。 この竹の棒でどうやって占うの?という方用にYouTubeで筮竹の動画の検索結果(※)を貼っておきます。ご興味ある方は各自色々とご覧頂ければ幸いです。 ※「筮竹」での検索結果|Youtube:https://www.youtube.com/results?search_query=%E7%AD%AE%E7%AB%B9 ・相占 手相人相風水 これが一番(原理としては)簡単と言えば簡単なのでしょうか。ズバリ形などの「見た目」で判断する占いです。 手相人相: 人相や手相は分かりやすいんじゃないかと思います。顔の輪郭の形、ほうれい線のある無し、眉毛の位置、生命線や頭脳線の長短、あるいはそれらの線の曲がり具合…徹頭徹尾どういう形か。という「見た目」で判断する占いです。 (あとは皮膚の色なども見たりしますが、これも「見た目」の一種ですね) 風水: まぁ人相手相は分かったとして、風水のどこが「見た目」やねん、黄色いものを西に置いておけばええんとちゃうんかい。と思ったアナタ。 どこかに何かを置くことで運を上げる感じのテクニックが無いわけでは無いんですが、実はお家やお店の風水の吉凶は周りの地形でそこそこ(あるいはそれ以上の場合もありますが)吉凶が決まってしまっているのです。 「地形」という言い方は大雑把すぎるかもしれません。お家の周りにどのような建物があるかや周りの道路の形、玄関を開けたら何が見えるか等々。言ってしまえば「家の周りの形」とでも言うことになるのでしょうか。 あと家の中だと玄関やベッドがどこにあるかという「間取り」が問題になりますが、これもある種「家の中の形」の問題なのです。 ☆それぞれの占いにはそれぞれの得意不得意があるというお話 さてさて。ここまでどういう根拠で吉凶を占っているかを説明してみましたが、続いてそれぞれの占いは何を得意としているか。そしてどういう場面でその占いを使うか。というお話となります。 ・命占が得意としていること:生まれつきの強みや生まれつきの傾向をつかむ。遠い将来の吉凶の把握。 先ほど四柱推命の説明に使ったサイト(※)をもう一度ご覧頂きましょう。 ※四柱命式計算 (by八字仙人):https://www.moonlabo.com/calendar/?OpDv=stewcore_spcl こちらの一番上には先ほど説明した四柱が載っていますが、まずこの四柱のどこにどういう十干十二支の文字があるか。また、その文字の組み合わせでその人の先天的な能力や傾向が読めるとされています。 西洋占星術であれば、自分が生まれた瞬間の星々の配置を見て、その星がどの星座やハウスにいるか。また、それぞれの星と星の関係(角度)で色々なことがわかるとされているわけですね。 何が読めるかというと、金運とか恋愛運や特定の相手との相性なども大丈夫なのですが、十干十二支の文字や惑星の配置が特徴的であればそれ以外にも色々とわかる場合もあります。実際に自分が読めた例で言うと…「自営業が向いている」「頭が良い」「メンタルが弱い」「キツい仕事をしがち」「オタクの傾向がある」「冷え性である」「占いに向いている」等々でしょうか。 わかる「場合もあります」と書いたのは、文字や星の配置が極端で「これはだれがどう見てもそうだよな」という場合は上記の事柄を読むのは比較的簡単なのですが、世の大半の人は自分も含め凡人なわけです。 そうすると四柱や星の配置も普通というか、見るべき特徴があまりはっきりせず「ここから何を読み取ればええんや?」となることもしばしばではあるのですが、そういう微妙な差異から色々読み取れるのが実力ということなので、単に精進が足らんということになるのでしょう。 四柱推命の話が続きます。先ほどのサイトに戻り、四柱から少し下にスクロールすると「大運」という文字が出てきます。何歳からスタートしているかは人によって差異がありますが、並んでいる2文字が全てキッカリ10年ごとに入れ替わって行っていることにお気づきでしょうか。(○○歳のすぐ右隣りの十干十二支の2文字のみ。あとは見なくてOKです) 先ほどは生まれた年月日時で決定した四柱にどういう文字が入っているかやその組み合わせを考えましたが、今度はその四柱をひとまとめにします。10年ごとに入れ替わるこの文字が、ひとまとめにした四柱のどこにどう作用するか。(先ほどは四柱のそれぞれの文字間の関係性でしたが、今度は四柱全体と大運の関係性の話になります)それによってその時々の吉凶が出てくる。と、そのような感じです。 生まれた時の暦や星回りで元来の性質が決定するというお話をしたのですが、それにプラスしてその時々の運の巡りにも影響を受けることになります。元々金運の良い生まれの人が この大運で更に金運が良い時期に入り確変モードに入ることがあれば、元来割とモテるタイプのはずなのに若い頃の大運が「非モテ」期だったり…と言った感じの悲喜こもごもが起こるわけです。(なお、10年という長期スパン以外にも1年単位での短期スパン運もあります。) 少し話をはしょっちゃいますが、西洋占星術も出生時のホロスコープに知りたい時期の天体図を重ねることで未来を予測する手法等がありますので、生まれたときの星の巡りと時間の経過で変わっていく運を割り出すことは出来ると言って良いでしょう。 そして、今の時代PCを使えば50年先の暦も50年先の天体図もすぐに割り出せるわけで、そうなれば50年先の『大体の』運の良し悪しについて予想が出来るということになります。 命占は『遠くは見えるかもしれないがあまりはっきりは見えない、望遠鏡みたいな占い』と例えることがあります。 ・卜占(ぼくせん)が得意としていること:割となんでも。ただし遠めの未来を占うのは難しいことが多いよ。 突然ですが「財布を無くした」ことにします。この財布が見つかるかを占いたい場合、上記の誕生日を使った命占で占うことは難しいでしょう。今日落とした財布が見つかるかどうかは生まれたときから決定しておらず、10年ごとに変わる時の運(大運)で決定しているとも考えにくいからです。 1年単位の運で金運が良ければよいのでは?ですか。なるほどそれも悪くないかもしれませんが、今2万円の入った財布が出てこないものの、今年は仕事運が良く年単位で考えるとトータルでプラスになっている。という可能性もないわけではありません。 ということで登場するのがタロットをはじめとする卜占です。これがまぁわりとなんでも占える。「さっき無くした財布は出てくるか。」「今日行く合コンで好みの人に出会えるか」 「職場に気に入らない上司がいますがどうしたらいいか」占い師にとってはド定番質問の「気になる彼は私のことをどう思っていますか」というアレもタロットに聞くことが多いんではないでしょうか。 先ほどの財布の応用で行くと、命占で今年は就職運が良いらしいとなったとして、「これから1日おきに3社の就職面接があります。どこかに受かるでしょうか」と聞くならばやはり卜占になるのでしょう。 しかし万能にも見える卜占ですが、命占と違い流石に20年先とかの未来を読むことは難しいように思います。 では卜占でどのくらい先までのことが占えるの?となるとその卜占を行う人が「どのくらい先まで占えるか」についてどう考えているかと、腕の良し悪しの要素などが関係してくるんでしょうか。どのくらいまでの未来が読めるか。近時の流行りとしてはタロットだと長くても1年くらいまでかな。という気がしているんですがタロット使いの皆様方、いかがでしょうか。 卜占は『わりと何でも占えるかわりにあまり遠くは見えない。』 命占が望遠鏡だとすればこちらは顕微鏡や虫眼鏡に近い占いと考えて良いかもしれません。 (別に「私は結婚出来ますか」等を卜占で聞いても良いんですが、「生きているうちに結婚出来ますか」という超ロングスパン質問になると当たらなくなる気がするので、時間的射程距離については占い師に相談の上、質問をしましょう) ・相占が得意としていること:誕生日と道具が無くても出来るのはデカい。占える事柄としては命占寄りかも?風水は自分で運をつかめる(場合もある) めちゃめちゃ重要なことを忘れていました。卜占と相占は誕生日が不要なのです。これだけで俄然取り回しが良くなるんですよ。命占はきちんとやろうと思うと出生時間まで必要ですし、命占で相性占いをするとして合コンで知り合ってすぐの子とか、職場の嫌な上司に誕生日なんて聞けないですからね。 そして卜占は基本タロットカードや筮竹(上の方の動画を見てください)と言った道具が必要になりますが、先ほどお話ししたように相占は「見た形」で吉凶を占うため、占いのための道具すら不要です。 ここまでは占う側の都合(?)でしたが、占われる側としては相占ってどういう事柄を占えるんですっけ。というお話ですよね。 実は人相と手相は勉強中なのであまり確かなことは言えないのですが、その人の特性や才能とか、結婚とか職業に関する大きな出来事であれば、大体このくらいの年齢でこういうことが起こるかも。という答えを出せる気がするので卜占ほど自由自在ではなく命占寄りなんでしょうか。 ただ滅茶苦茶な達人になると、「ペットがいなくなったがきちんと帰って来るか」という卜占にて尋ねるべき質問を人相で当てたりもできるらしいので油断が出来ません。自分も人相で「父親と母親の実家は距離的に離れていること」を当てられたり、同じく人相で数か月後に東南アジアに旅行する計画のあることを当てられた人を見たことがあるので、少ないながらもそういう鬼みたいな達人がいることはどうやら事実のようです。 もう一つ相占(形で占う)で風水を挙げましたが、これは今までの占いとはもう劇的に意味合いが変わってきます。今までが「受動的」と言うならば、こちらはかなり「能動的」と言えます。 これまで占いで悪い結果が出た場合、占いのアドバイスに従って良い時期を待ったり、それまでに現実的な面で努力するという対応策が必要で、占いの結果自体を変えることは出来ませんでした。しかし風水は簡単です。悪い風水の家に住んでいれば、良い風水の場所に引っ越せばいいわけです。 ここでは触れませんが、方位術も「自分で良い方角を選んでそちらに行く」ということであれば「能動的」に使える占いの一種ということになりますね。 た!だ!し!これも今回は触れませんが、「運とはいろいろな運の複合体である」という問題があるため、風水で全てをひっくり返せるかどうかのワンチャンあるかと問われると難しい場合が多いというのが実情でしょう。 ・応用問題:なぜ占い師は占いで万馬券を当てて生活して行かないのか問題について。 ここまで占いの種類と種類ごとの使い方をやってきましたが、競馬で勝ち馬を占うにはどの種類の占いを使えば良いでしょうか。はい。卜占ですね。今日のこの日のレースの馬の勝ち負けについて誕生日で色々を決定する命占を使うのは中々難しいからです。 じゃぁ、卜占が上手ければ万馬券当て放題じゃね?占い師ボロ儲けやん。と思ったアナタ。 コトはそう簡単ではありません。「命占でその人の傾向が読める」としたこと、お忘れではないでしょうか。傾向って何よって話ですが、「モテる」とか「健康運が良くない」とか「引越しが多い」とか「倹約家である」とかまぁ色々ある中に「金運がある」とか「ギャンブルが強い」みたいなものがあったりしたらどうなるでしょうか。 占い師だって人の子です。命占の結果の影響を受けないわけではありません。ということは「ギャンブル運の弱い」傾向のある占い師がギャンブルを占ってその馬券を買うとどうなるでしょう。 占いが当たっていれば万馬券が買えそうなものですが、万馬券が当たりにくい傾向があるのであれば、負ける方向に運が引っ張られる結果、卜占も自ずとはずれる方向に引っ張られると思いません? なお、お客さんでもギャンブルがらみの質問をしてくる人はたまにいますが、およそそういう人ってそもそもギャンブル運が強くない人ばかりなので、いくら当たる占い師に助言をもらったとて博打がはずれる世界線に集束してしまうのです。そういうものなのです。 ちなみにワタクシも「ギャンブル運の無い」占い師の一人でして…去年の6月くらいに占い師仲間の皆さんと初めてオートレースを見に行きました。そんでもってその場で占って当たりそうな車券を買う。というイベントに参加してきたんですね。 オートレースなんて1mmも知らないのですが、占いだけを頼りに8レース分くらい車券を買って回収率が120%程度というなんだか微妙な結果を叩き出してきました。しかし自分に元来ギャンブル運がないことは分かっていたので、大きく賭けず100円単位でチマチマ賭けていたのがマイナスにならなかった理由の一つではないかと考えています。 卜占に通ずれば、高級焼肉何回か分のお金が当たることはあるのかもしれませんが、大きくギャンブル運が無いのであれば占いで人生が変わる額のお金を手にするのは難しいんではないですかね。というお話でした。 ただし、ギャンブルで卜占の腕を磨くこと自体は大変良いことだと思います。大体占いの結果は数か月が経たないと当たりがわからないものも多いですし、当たるにせよはずれるにせよお客さんから結果を聞かせてもらえることもそう多くないのです。 そのため、占ってすぐ即結果の判明するギャンブルや天気、スポーツの試合を使い、腕を磨くことは悪いことではありません。 (易占いでも古くは「米相場を占う」的な本だって存在していたくらいですし) あと何より重要なことは、占いを使っても使わなくてもギャンブルや相場で大当たりした場合、ある程度寄付をした方が後々後悔しない場合が多いということです。もう文字数が大概なことになっているのでなぜかはここでは触れないですけどね…続編があればあるいは… ☆占いにもやってくる近代化の波 ・古い時代に成立した占いによって出てくる象徴を、現代アイテムに当てはめる必要がある場合もあるというお話。 タロットカードを見て頂ければわかるのですが、絵柄中のアイテムとして剣や舟や二頭立ての戦車が出てきます。ですが、マシンガンやスマホやラザニアは出てきません。 そらまぁ占いというのはかなり古い時代からある(自分がやっている四柱推命だと宋代(西暦960年頃から1300年くらいまで)に今の形になったのだとか)わけでそれは当然なのですが、タロットカードの意味、易占いの卦の意味について現代の状況やアイテムに当てはめる必要に迫られることもしばしばです。 (詳細は避けますが、八卦や気学を使う方は「八卦や九星でパソコンを表現する際ってどの星や卦に配当すべきか」を思考実験としてやってみると良いと思います。個人的には「震」だけが正解ではないと思っています。) 「スマホを落としたのですが、見つかりますか」を占う場合において「見つかりますか。」にフォーカスする場合はまだ何とかなりそうですが、問題は「スマホ」部分にフォーカスする必要がある場合です。これをお読みである占いビギナーの皆様に対して説明が難しいのですが、こうなると星や十干十二支やカードや卦にどう新しい時代のアイテムを対応させるかという問題が出てきます。 極端な例だと「射覆」(せきふ。品物を箱の中に入れたり布で覆った状態でその品物が何であるかを占うもの。通常何らかの卜占の練習として行われます)でしょうか。これはもう「スマホを無くした」とか「新しいスマホが欲しい」とかそういう話ではなく、只々箱の中身がなんなのかを占うしかないのです。射覆を行う際、考えるべきことは多岐にわたりますが、新しい時代のアイテム問題もその一つでしょう。 自分が出会った一例を。 飲み会の帰り道「あたしぃ今転職活動中なんですけど、どんなとこに勤めると思いますぅ~」と問われれば「しらんがな、せめて業種くらい教えやがれ」とコンマ5秒くらいはムッとするも、数少ない後輩は大切にした方が良いと思えるくらいには酔っていなかったため、とりあえず占いを開始するわけです。 オフィス街であるこの近辺、芝公園方面から下っていく坂道を通る車もめっきり減ってくる時間帯。コンビニ用と思しき配送車と多分何らかの配達用三輪バイクが連なって赤いランプと共に坂を下って行きます。 はい、占い終了! 卜占には道具が必要(自分の場合易占いなので、さっきのいらすとやさんの画像やYouTubeで出てきた竹の棒です)。と書きましたがこの場合は車両のナンバーを占いの道具に使い出した結果は「地水師」(このワードで卦の解説が出てきますので興味のある方はweb検索してみてくださいな)です。 卜占の際にぼんやりとした質問を投げかけられた場合、ぼんやりとした答えを投げ返すのがワタクシ流。とりあえず言えるのは… ・なんか職場としてはそこそこ以上の人数がいそうだから、大きな会社なんかね。 ・規律の厳しい職場っぽい。官公庁なのか、そうでなければ「皆で右向け右」ってカラーのトコだと思うよ。 と言ってはみたものの、このちゃらんぽらん女子がそんなトコに就職すんのかねぇ。 そんなため息も木枯らしにかき消され季節が1つ進んだ頃、やってきた彼女よりの連絡は「あたしぃ百貨店で美容部員になりましたー」というもの。 …そうかい。うーん百貨店とか化粧品みたいな華やかさのある卦ではないしまぁはずれよね。などとガッカリしつつ卦の形を何となく見ていたんですが、このちゃらんぽらん女子。大きな駅ビルにある百貨店で働くんだそうです。 はい、都会の駅ビルにありがちな1階より少し上階部分(赤で囲った部分)に線路が通っているビルの形になっていること。なんとなくお分かりいただけるでしょうか。低層階は百貨店。その上はオフィスなんだそうです。 しかし、寒風吹きすさぶ中その場ですぐ「駅ビルだ!」なんて思いつくわけも無いですし、そもそもこれが駅ビルの形として良いのかって話すらある。まぁでも有名百貨店なら職場に人が多いし、接客業の中でもかなり規律は厳しいと言えるから全くの落第点でもないのかな。 …長く占いを続けていくためには、ときにはこうして自分を慰めるすべを持つことも重要です…なんか主旨が変わって来ていますが。 なお、問題はこれだけではありません。 音楽で生計を立てている方を四柱推命で占ったことがあるのですが、その方が音楽を仕事とされている理由と言うのが音楽の適性があったから。というよりは四柱八字を見た感じパソコンに強いからだろうなぁ。みたいな事例もありまして(ピアノは多少弾けるが、作曲等はほぼPCのみでDTMとして行っている。ゲーム音楽や地下アイドルへの楽曲提供だとそんなんでも何とかなりますよーとのこと。そんなもんなの?)何というか、時代やなと。 別のところでは、占いに関する80年代の古本を読んでいた際、「恋愛結婚が出来ないのでお見合いをする方が良いでしょうか」みたいな質問を誌上で見かけたことがありました。 80年代であればその質問で良かったのでしょうが、現代であれば合コンや街コン、SNS、結婚相談所、マチアプ(これで結婚にたどり着けている人は稀だと思いますがまぁ一応)手段だけは沢山あるわけです。 上記質問を占うとき、恋愛とお見合いの間にグラデーション的に存在する(あるいは恋愛やお見合いにこれらが含まれる場合の)様々な手段。命占や卜占ではどう扱うべきなのか、これも悩ましい点の一つです。 人の世に悩みが尽きないことは永久不変なのかもしれませんが、科学技術の発達に伴う新アイテムの登場、社会や職業の変化、文化の変化は時代が進むごとにそのスピードを増し、悩みの対象になるもの、悩みの質の変化のスピードも速くなっています。占いと占い師はその変化のスピードにどこまでついて行けるのでしょうか。 ☆一億総中流社会の崩壊した日本で占いに何が出来るのか いきなり話が大きくなってきましたが、これも前の章の続きと言えば続きです。経済が上向きで男性は年功序列で働いていればなんとかなり(あるいは小さい自営や町工場でも普通に食べていけ)、家に帰れば子供と奥さんがいて普通にマイホームに住み…みたいな世の中で無くなってしまったことはもうずいぶん昔に皆さんお気づきのことと思います。 そんな過去の景気の良い時代にあってもそのレールに乗り損ねたマイノリティの人々がいて、その人達の悩みを占っていたことは想像に難くありません。ですが、現代はそもそも「これに乗っていれば安心」というレールが無くなったか、先がどこに続いているかわからないレールが複数あってどれに乗るべきか。というような世の中になった気がしています。 そして「今の世の中は多様化している」と言えば聞こえは良いですが、これって一億総中流社会で提供できていた安心に満ち満ちた「これに乗っていれば安心」という大きな物語の提供ができなくなった結果の副産物なのでしょう。 私見ですが、占い師は占断(占いでの判断)に当たって『基本的には』自分の価値観を挟むべきでは無いと考えています。悩みに関して自分の目線でアドバイスしてしまえば、それは普段顔を合わせず自分のことをよく知らない口うるさい親戚の説教と大差が無くなってしまうからです。 …ですが、出てきた占いの結果をどう解釈するか、どう相談者に伝えるかに当たって、時代の雰囲気や先が見えないながらも世の中の流れを考慮しないといけない場面というのは存在するように思えて、そのときの難しさは上記の「カードからスマホを読むときってどうしたらいいんだっけ?」「合コンって恋愛に入れていいんだっけ?」問題よりも数段上なのではないかと感じています。 ただ、一億総中流社会の崩壊が遠因とはいえ「世の中の多様化」については、単純に悪いことばかりでもない気がします。副産物の一つとしてマイノリティーとされた人々が声を上げやすくなったということがあるからです。 しかし、これは悩んでいる内容の多様化を意味し、占い師が困る事態にも発展しがちです。「このお悩みに対して占いは何が出来るんだ」というものについて、見聞きしたものの中から一例を挙げてみます。 ・LGBTの方の相性占い。 (お付き合いや結婚に関して「男女間」しか想定できない占いには鬼門なのです) ・自分がADHDかどうかと言った相談。 (ADHDかどうかは占い上、わかる場合もあるのですが、目の前のその人の様子を見て「この人は本当にADHDなのか」を判断する訓練を占い師は受けていない上に、それをやってしまうと医師法違反となるでしょう) ・自分(奥さんです)や子供が旦那や転がり込んできた彼氏から虐待を受けているがどうしたらいいか。 (もはや占いでどうにかという段階では無いですし、たまたま筆者が法律に詳しいからと法的な手段で手を出すと、もちろん弁護士法72条違反になる可能性が高いです) ・2020年上半期辺り、緊急事態宣言で営業できなくなった店の夜職の子達(の中でも本当に貯金の無い子)の「お店が閉まってしまって手持ちのお金が無いので来月の家賃を払うことが出来ない」等のお金が稼げないがどうしたらいいか問題。 一昔前だと社会の陰に潜っていたものが、色々と表面に出てくることは悪いことではない反面、それに向き合う占い師には難しい局面も多くなっているような気がします。悩みの多様化と共に一億総中流化社会の崩壊に関連して問題視しているものがあります。それが各種中間団体の崩壊と、各種専門家へのアクセスのしにくさです。 中間団体とは何か。一番大きい団体が国や社会とした場合、それと個人の間にあるものです。中間団体の例としては、家族、会社、学校、地域社会辺りがイメージしやすいのでしょうか。 そして、この中間団体の崩壊が始まって久しい(親族は高齢化が進み亡くなっていき、核家族化が進む。会社では正規雇用と非正規雇用で分断が起こり、終身雇用制の崩壊により転職も容易に。学校ではクラス内でグループ間で断絶が起き、都市部の賃貸であれば自分の隣に住む人がどのような人か知らないことも珍しくはないでしょう)わけで、どの中間団体の構成員も頼りにならないということになれば、何か困りごとが起きたときに相談できる人というのもいないことになります。 各種専門家について考えると、数十年前に比べ弁護士の数が増えたとはいえ、司法にアクセスするにはまだハードルも高く、行政的な支援はその制度を知っている人の下へしか届きません。 先祖供養について聞きたくても昔ほど檀家寺との距離は近くなく、精神的なもやもやがあっても欧米に比べると心理カウンセラーへの敷居が低いとはまだまだ言えない状況です。 矢野経済研究所によれば、2023年度の占いサービスに関連した市場規模は約1000億円なのだそうです。 この章は仮説だらけで突っ走ってきましたが今までの仮説たちが正ければ、約1000億円規模の悩みが中間団体の誰かや各種の専門家にではなく占い師に襲い掛かって来る(?)時代はまだまだ続くのかもしれません。占いの館や電話占いでは「気になっているあの人の気持ちを占ってください」という今も昔も変わらずの牧歌的なお題も多いようです。しかし「(自分も含めて)ちょっと変わり者程度の人」であることが多い占い師からは想像もつかないような多様化しまくった内容の悩みや相談は社会の黄昏が深まるほどにいくらでも増えるのだろうという暗くて深くて静かな確信を持っています。 そのとき、それまで考えたこともないような事象についての吉凶をどうやって出し、どう適切に伝えるか。占い師の手腕が問われる時代はまだまだこれからのようです。

いまこそ読むべし! 伝説の名作SF『戦闘妖精・雪風』を熱く深く鋭く解説する

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「いまこそ読むべし! 伝説の名作SF『戦闘妖精・雪風』を熱く深く鋭く解説する」。フミコフミオさんが書かれたこの記事では、「戦闘妖精・雪風」への偏愛を語っていただきました! 「戦闘妖精・雪風」にエンゲージ!するのは今がベストタイミング https://www.youtube.com/watch?v=5kxlFwqsBH4 僕自身は全国民必読と考えている、神林長平先生のSF超大作「戦闘妖精・雪風」の一般層への認知度がやや低いようで、日々悶々としている。たとえば、先日、営業先で冷淡な対応をされたあとに「まるで『戦闘妖精・雪風』雪風の零みたいな人だったね」と感想を述べたのだが、同僚にはまったく伝わらなかった。「『艦これ』ですか?」などと返されて「そうそう、艦これ、艦これ。幸運艦雪風」と軍艦マーチを口ずさみながら話を合わせてしまった。違う。僕は架空の航空機、特殊戦第三番機(のちに一番機)の「雪風」の話がしたかったのに……。このように、『戦闘妖精・雪風』を知らない人がいることに危機感を抱いて筆をとった次第である。正確にはキーを叩いたのである。フムン。 この文章は、『戦闘妖精・雪風』を知らない人、「食わず嫌いしている人、単純に知らない人」に、興味をもってもらうためのものだ。そして偶然にも、な、なんと今が雪風をはじめるベストの時期だったりする。最新作『インサイト 戦闘妖精・雪風』が今年の2月に刊行され、それにあわせて前作『アグレッサーズ 戦闘妖精・雪風』が1月に文庫化されているのだから。 神林長平先生は、ここ数年の刊行ペースを奇跡的に早めておられて、1984年『戦闘妖精・雪風』からはじまり1999年に『グッドラック 戦闘妖精・雪風』2009年『アンブロークンアロー 戦闘妖精・雪風』2022年『アグレッサーズ 戦闘妖精・雪風』と一連のシリーズ作が十数年スパンで発表されてきたのに、2025年『インサイト 戦闘妖精・雪風』は前作から3年で刊行。 良かった。『ガラスの仮面』と並んで完結するのか心配していたが、今の刊行ペースなら結末を見られるかもしれないという希望をもって、最新作を待機している僕なのである。それにしても、中学生だった1986年に「雪風」とファーストコンタクトした僕が、第二作『グッドラック 戦闘妖精・雪風』が刊行されたときは25歳になっていたからね。よく脱落しなかったものだ。自分を褒めてあげたい。繰り返しになるが2025年が「雪風」に触れるのに最適なタイミングなのである。 「雪風」とは何か? https://twitter.com/FAFyukikaze_bot/status/1642906052181241858 『戦闘妖精・雪風』の内容については、僕よりも詳しい人が詳しい解説と分析をされているのでそちらを読んでいただきたい。ここで僕が申し上げたいのは『戦闘妖精・雪風』は、テーマは深く難解であるけれども、誰でも楽しめる作品であるということだ。深掘りすればいくらでも語れるけれども、ボンクラ学生だった僕でも「意味わかんないけど面白い。カッコいい」って軽い気持ちで楽しめるエンタメであることもまた事実なのである。 「今さら私のような新参者が入っていけるのかしら?」という人もおられるかもしれないがまったく問題ない。な、なんと!シリーズが始まって40年以上経っているが基本となる原作本は5冊しかない。『戦闘妖精・雪風《改》』『グッドラック 戦闘妖精・雪風』『アンブロークンアロー 戦闘妖精・雪風』『アグレッサーズ 戦闘妖精・雪風』『インサイト 戦闘妖精・雪風』のみ。40年で5冊。すぐに追いつける!原作が700冊以上ある「宇宙英雄ペリー・ローダン」シリーズと比べたらあっというまに通になれるのだ。いつやるの?今でしょう! 『戦闘妖精・雪風』のあらすじを初心者向けにサクっとまとめると、「30年くらい前に突然南極に「通路」が出来て宇宙のどこかにある「フェアリイ星」と繋がった。「通路」を通って未知の異星体「ジャム」が侵攻。地球側が応戦。戦線をフェアリイ星に押し戻すことに成功。人類はフェアリイ星に「FAF」という地球防衛軍みたいなものをつくってジャムと戦わせる。FAFのうち、主人公深井零が所属するのが「特殊戦」という戦略偵察機部隊で、零が搭乗するのがスーパーシルフ三号機「雪風」。特殊戦は戦場の情報を持ち帰るのが任務。そのため味方機がピンチにいても「見てるだけ~」である。 そのため特殊戦の戦士たちは高い空戦技術と過酷な任務に堪えうる精神をもった人間が選ばれている。ひとことでいうと冷酷で共感性の低い人間。また、雪風はスパコンや人工知能を搭載しており、自ら意志をもってジャムと対峙していく。ジャムは人間より雪風をはじめとした地球の人工知能を敵として認識しているらしく…人間とジャムと地球のコンピューターの三者の関係性が目まぐるしく変わっていく…」という内容である。シリーズが進むにつれ、人間対外敵という構図から逸脱して、人間とは?意識とは?というテーマを深めていく。うん。かなり序盤を割愛したけれども全然サクっとまとまっていないですね。反省。 つまり、異星人との戦争という単純なストーリーではないのだ。実際にストーリーが進んでいくとほぼ人間同士、あるいは人工知能との会話主体で構成されたエピソードも出てくる。空戦シーンもないエピソードもある。このちょっと難解な部分、じっくりと考えさせられる要素も『戦闘妖精・雪風』の魅力であるが、初見のハードルを上げているのも否めない。一方で、エヴァや最近の『機動戦士ガンダム ジークアクス』のように作品の考察自体がエンタメになっている作品もある。『戦闘妖精・雪風』もそのひとつだ。『戦闘妖精・雪風』はいろいろな読み方ができる作品。小難しいことを抜きにしてエンタメとしてもじゅうぶん成立している作品なのだ。 僕は『戦闘妖精・雪風』と出会って「痛い若者」になった。 https://twitter.com/konnoshoten/status/1883093831450816787 僕が『戦闘妖精・雪風』と出会ったのは中学生のときだ。人間が戦闘機に乗って宇宙人と戦うSFとガンダム好きのボンクラ同級生から聞いていたので、戦闘以外の人工知能との関係性や、意識や自我とは何か的な展開に衝撃が走ったのだ。つか同級生は何を読んで「宇宙人相手のトップガン」という感想を述べたのだろうか。今でも不思議だ。 とにもかくにもそういう衝撃から僕は『戦闘妖精・雪風』の虜になったのである。ジャムという敵は正体不明。雪風のコンピューターも何を考えているのかわからない。主人公深井零は雪風に対して依存しているような畏れを抱いているような微妙な感じ。人間・コンピューター・ジャムの三つ巴の関係が、ハイテク戦闘機の戦闘シーンに集約されているのと、登場人物(人工知能含む)が繰り広げる意味深な会話が新鮮で面白かった。 『戦闘妖精・雪風』は、ボンクラ中学生の僕にとって正体不明なジャムのような存在だった。わからないけれど面白い。読んでいるだけで頭が良くなったようなインテリになったような気分になれた。錯覚である。そのうえメカと空戦の描写がカッコいい。しかし周囲の友人たちで『戦闘妖精・雪風』を読んでいる人は皆無だった。  おかしい。僕が愛読しているSF雑誌やパソコン雑誌では、雪風マニアのような人が確かに存在している。たが、周辺には一人もいない。痛い中学生だった僕は、作中に登場する味方からも忌避されている特殊戦の戦士と自分の姿を重ねた。次第に、『戦闘妖精・雪風』を理解するにはある程度の知性、具体的には偏差値65以上が求められるのだなと痛い誤解をするようになった。孤独だった。 「雪風」の一篇「妖精の舞う空」の冒頭の一文、 『様様なものを愛し、ほとんどに裏切られ、多くを憎んだ。愛しの女にも去られ、彼は孤独だった。いまや心の支えはただそれのみ、物言わぬ、決して裏切ることのない精緻な機械、天翔る妖精、シルフィード、雪風。』と自分を重ねていたのだ。痛すぎる。 ひとりだけヘビーなSFファンの知人がいて、そいつは『戦闘妖精・雪風』を読み、自己流ジャム論を展開していた。だが、そいつとは雪風サイコーだよねーと連帯はしなかった。主人公・深井零が雪風と一対一の関係を築いたように、僕もそいつもそれぞれの雪風を持っていた。なによりも、そいつとつるむことによってモテない気がしたのだ。僕もそいつも孤独に雪風を愛していたのだ。余談だが、リアルに雪風ファンの女性と出会ったことがある。三十代になってからだ。雪風マニアといえる女性だったけれども、僕も彼女も互いに主人公深井零のように人格がちとアレだったために関係は長く続かなかった。残念です。 雪風は「エンタメ作品」として楽しめばいい。 https://twitter.com/Jun_com_world/status/1883648720216178929 SFの超大作、名作として取り扱われている『戦闘妖精・雪風』であるが、40年もの長きにわたって支持されてきたのは、「人間とは何か」という不偏的なテーマを取り扱っているからだ。そこにジャムや人工知能といった存在を通じて、意識や自我やコミュニケーションについても掘り下げられていく。この部分が雪風のよく語られている部分ではあると思う。 だが、しかし、あえて繰り返し申し上げたいのは、『戦闘妖精・雪風』は極上のエンタメであることだ。まず、楽しいのである。僕はボンクラだったので、最初は、小難しい部分をスルーして触れて、そこから少しずつ小難しい部分に入っていった。だから今でもファンでいられる。SFは読んでいるほうではあるが、SFマニアに比べたら知識も読書量も全然な僕が「雪風」のファンの端っこにいられるのは、エンタメという切り口から入っていったからに他ならない。エンタメとして読んでいるから五十歳を過ぎて脳の力が落ちてきても楽しめているのである。 大事なのは「なんだかよくわからないけど楽しい!かっこいい!大好き!」というドリカム的な精神で楽しむことである。僕が雪風ビギナーのときに実践した雪風読書を特別に伝授しよう。僕は文系人間でメカはちんぷんかんぷんである。心理学や哲学についても大学の一般教養の講義で居眠りしていたくらい。なので、その種の描写が出てきたとき真正面からどすこーいとぶつかると脳が疲れて「もうやめよ」とエラーを起こしてしまう。 コツがある。そういうときは英語がまったくわからなかった頃に戻って洋楽を聞くようにさらりと受け流すのである。意味を取ろうとしない。イメージを浮かべようとしない。外国人ヒップホッパーが訛りの強い英語でなんか言っていて意味わかんないけどカッコいいなーみたいに流すのである。 たとえばこんな描写だ。『戦闘妖精・雪風《改》』「騎士の価値を問うな」より『マスター・テストセレクタを機上チェックモードにセット。スロットル-OFF、武装マスターアーム‐SAFEを確認してから、セルフテスト・プログラムのスケジュールにしたがってプログラマブル電子機器類のテスト。飛行・航法用各種センサにテスト用疑似信号を入力しながら、エアインレット・コントロール・プログラマ、オートマチック・フライトコントロール・セット、セントラル・エアデータ・コンピュータ、スロットルコントロールのオートモードなどの機能をシミュレートチェックする』 あるいは 「スーパーフェニックス」より『コクピットにつき、プリフライトチェック。オール・コーションライト-クリア。マスターアーム‐チェック。オートコンバット・システム‐セット。A/G・AS-チェック。A/G・ASの各モード、自動、連続目標指示、高精度誘導、直接照準、手動、のセルフテスト』のような描写が出てきたら、洋楽ラップのように流せばいい。何言ってるかわかるようでわからないけどなんかかっこいい。それでいいのである。このノリに身を委ねられれば、気づいたときには『戦闘妖精・雪風』のディープな魅力の沼から抜けられなくなっているはずである。 「雪風」はどこから始めればいいのか問題。 https://twitter.com/Hayakawashobo/status/1871755020489932895 最新刊『インサイト 戦闘妖精・雪風』を含めて単行本(文庫)は5冊刊行されている「雪風」。よくある質問としてどこから読み始めればいいのかという問題がある。答えはない。どこからでもいいと僕個人は思う。ただ、刊行順が時系列になっているので第一巻『戦闘要請・雪風《改》」から読み始めるのがわかりやすいし、収録されているエピソードが短くてシンプルかつ空戦が多いのでエンタメ度も高いといえる。あっ『アンブロークンアロー 戦闘妖精・雪風』から取り掛かるのはやめたほうがいいかも(とっつきにくいから)。 小説が苦手な人は、20年ほど前に発表されたOVAがあるのでそちらから始めるのがいいかも。古い作品だが完成度が高い。なお、主人公の声が半沢直樹である。最後に現在刊行されているシリーズを紹介してこの文章の〆とさせていただく。 ①『戦闘妖精・雪風《改》」』一作。エピソードがシンプルかつ登場人物も少ないうえ、空戦シーンも多くエンタメしている。 ②『グッドラック 戦闘妖精・雪風』第二作。前半は主人公のリハビリの話が続く。最後のエピソードの盛り上がりはシリーズ屈指。 ③『アンブロークンアロー 戦闘妖精・雪風』第三作。前作の直後からはじまる魔訶不思議なエピソードが収録された異端の一作。ここから始めるのだけはやめたほうがいい。 ④『アグレッサーズ 戦闘妖精・雪風』第四作。新キャラクターと新展開。ファンサも充実したエンタメを志向した一作。めっちゃ盛り上がる展開。ここから読み始めて、①②③に進むのもありかもしれない。なお、「アグレッサーズ」からが新三部作になるらしい(知らなかったが文庫の帯カバーにそうあった)。 ⑤『インサイト 戦闘妖精・雪風』 未読(連載を読んでいない単行本全裸待機派なので) 以上である。『妖精を見るには 妖精の目がいる』とは作中の一文だが、皆さんにも雪風という妖精の姿を見てもらいたい。あと、神林先生の猫まみれ日記のインスタグラムもお茶目なので見てくださいね。エンゲージ!

巨匠ミヤザキの欺瞞のパンツ――なぜ宮崎駿は手塚治虫を否定するのか(2)

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「巨匠ミヤザキの欺瞞のパンツ――なぜ宮崎駿は手塚治虫を否定するのか(2)」。海燕さんが書かれたこの記事では、宮崎駿への偏愛を語っていただきました! 連載第一回「天才対天才、血まみれの思想闘争――なぜ宮崎駿は手塚治虫を否定するのか(1)」はこちら 「冒険飛行家の時代は終わっちまったんだ 国家とか民族とかくだらないスポンサーをしょって飛ぶしかないんだよ」 『紅の豚』フェラーリン少佐 「空を飛びたいという人類の夢は呪われた夢でもある 飛行機は殺戮と破壊の道具になる宿命を背負っているのだ」 『風立ちぬ』カプローニ男爵 連載第二回をお送りする。 シリーズ第一回「天才対天才、血まみれの思想闘争」では、宮崎駿と手塚治虫というふたりの大物作家が、ヒューマニズムとニヒリズムのあいだにひき裂かれている一点において双子のように似通った個性を備えていることを見、宮崎の手塚治虫に対する「闘い」とは何を意味しているのか一考した。 今回はそれに続き、庵野秀明による宮崎駿批判を端緒に、宮崎が果たしてしんじつ内なるニヒリズムと正対してきたのか見てみることにしたい。 巨匠とされる師・宮崎駿と天才といわれる弟子・庵野秀明 出典:宮崎駿『紅の豚』 庵野秀明――その名は、多くのアニメ/特撮ファンにとってある種、特別な響きを持つ。 かれは過去40年ほどにわたり『トップをねらえ!』、『エヴァンゲリオン』シリーズ、『シン・ゴジラ』などの傑作を断続的に発表、常に時代をリードしてきた。 その庵野が宮崎を「師匠」と呼び、深く敬愛していることは周知の事実である。だが、庵野の「恩師」に対する批判は凄まじいものがある。それこそ、宮崎による手塚への批判に匹敵するだろう。 庵野も宮﨑も(もっというなら押井守も富野由悠季も)たがいの作品をいつもしんらつに批判しあっているにもかかわらず、それなりに良好な関係を築いているらしいことは興味深い。だがしかし、特に庵野の言葉はその内容が鋭く、的確と思われるだけにきわめて興味深い。 たとえば代表作『新世紀エヴァンゲリオン』にまつわるインタビューを集めた『スキゾ・エヴァンゲリオン』において、かれはこう語っている。 庵野「『紅の豚』はもうダメです。あれが宮崎さんのプライベート・フィルムみたいですけれど、ダメでした。僕の感覚だと、パンツを脱いでいないんですよ。なんか、膝までずらしている感じはあるんですが、あとは足からパンツを抜くかどうか。パンツを捨てて裸で踊れば、いよいよ宮崎さんは引退を決意したかなと思います。」 この主張をどう解釈するべきだろう。庵野が語る「パンツ」とは、すなわち自己欺瞞の心理武装を意味しているのであろう。それはわかる。 『紅の豚』には、庵野ほど慧眼でなくても欺瞞的と受け止めるしかない一面がある。 この映画の主人公である豚の顔をした飛行機乗りポルコ・ロッソは、宮崎駿のすべてのキャラクターのなかでも最も直接にかれ本人を連想させるところがあるが、その顔を豚に設定したことからは、宮崎駿の含羞が見て取れる。よく漫画家の自画像などで見る類のデフォルメだ。 それは良い。しかし、この作品から、いわば「血のにおい」が都合よく消し去られている点はどうだろう。物語の舞台は、ひとつの戦争と次の戦争の間隙(かんげき)であるように見える。「冒険飛行家」の黄金時代が終わったあとの、すべてがむなしく色褪せてしまった頃。 そこではまたも世相に戦争の翳(かげ)が差して来ているが、まだじっさいに戦火が世界を覆うまでには至っていない。宮崎はこのある意味でおおらかともいえそうな時代を背景に、豚になってしまったポルコのコミカルなストーリーを展開する。 あたかも宮崎の内面世界そのものであるかのような、飛行機と飛行機乘りたちの物語――悪くはない。否、単に一作の娯楽映画と見るなら、愉快で楽しい、暖かな想像力に富んだ非常に優れたエンターテインメントであるといっても良いだろう。 ただ、この世界からは戦争の地獄、その実相は伝わってこない。ファシズムの悪夢もまたその本質が描かれていない。あくまでもどこまでもロマンティックにごまかされた「戦争ごっこ」の映画でしかないのだ。 つまり、この映画では、宮崎のロマンティシズムが前景化した一方、ニヒリズムが徹底して隠蔽されている。手塚治虫がヒューマニストという仮面の裏におのれのニヒリズムを隠したとするなら、宮﨑もまた大衆的なエンターティナーという欺瞞の仮面をかぶって血まみれの素顔をさらすことを拒んだといっても良いだろう。 ここでは人間の「悪」はいかにも鈍磨した形で描写されるに留まっている。まさに「パンツを脱いでいない」という庵野の指摘はまさに核心を突いているというしかない。 最後の一枚を脱げないストリッパーに価値はない。 出典:宮崎駿『もののけ姫』 すべてクリエイターが魂のストリッパーであり、おのれにとっての裸の真実をオープンにさらすところにその本質があるとするなら、宮崎の態度は不徹底というしかない。 この後、宮崎のフィルモグラフィーは『もののけ姫』、『千と千尋の神隠し』と続いてゆき、日本映画興行の歴史に燦然と輝く大ヒットを記録。宮崎は史上最高といえる国民的アニメーション映画監督としての地位を確立する。 だが、かれの映画は「家族で安心して見ることができる」大衆向けの娯楽作品としての品質と評価を高める一方で、やはりその暗黒面は隠される傾向が強かった。 むろん、『もののけ姫』にせよ、『千と千尋の神隠し』にせよ、だれも見たことがない独創的な別世界を構築してのける格別の想像力は圧巻のものがあり、映画史上に残る大傑作というしかない。 しかし、それはひっきょう、かれの「裏の顔」を隠す役割を果たしたに留まる。 ただ、そのあくまで「パンツを脱がない」態度は必ずしも己の暗黒面と対峙することを忌避する意気地のなさから来ているものとはいえないであろう。むしろ、宮崎は明確な意図を持ってダークサイドの噴出を閉ざしていると見るべきだ。 庵野による「パンツを脱いでいない」という批判は正しい。しかし、宮崎にはパンツを脱ぐことを良しとしない理由があるはずなのである。 じっさい、かれは個人作業のメディアであるマンガではあきらかに欺瞞のパンツを脱いで「大人向け」の作品を生み出している。 何といっても、庵野も絶賛するマンガ版『風の谷のナウシカ』という空前の大名作があるのだ。この一作だけを取っても、宮崎が抱える光と闇に満ちた内的世界の奥深さは明瞭である。 『ナウシカ』はまさに規格外の傑作だが、一方で『宮崎駿の雑想ノート』と『泥まみれの虎 宮崎駿の妄想ノート』と題する二冊にはその他のマンガも収録されていて、しかもこれがめっぽう面白い。 じつは『紅の豚』の原作もそれらの短編マンガのひとつ。つまり、『紅の豚』は本来、宮崎がかなりのところまで個人的な嗜好を込めて描いた「大人向け」のマンガをアニメーションとして展開した作品だということになる。 のちに宮崎は『風の帰る場所』で、このことを悔やむような発言をしている。 宮崎 いや、「紅の豚」は作っちゃいけない作品だったんです。 司馬 どうして? 宮崎 僕はスタッフに子供のために作れ、子供のために作れといってきたんです。自分のために作るな、自分のためなら、本を読めといってきたんですが、恥ずかしいことに自分のために作ってしまいました。 つまり、個人作業であるマンガという表現なら「自分のため」に作ることは許されて良い。しかし、アニメーションはあくまで「子供のため」に作られるべき表現であり、『紅の豚』のような表現はあるべきではないのだ、ということになるだろう。 宮崎にとって「子供向け」と「大人向け」の区分がいかなる意味を持っているのかは次回の記事でくわしく検討するが、ともかくかれのなかでは「大人向け」と「子供向け」は明確に違う。 それは単に子供向けのほうが内容が易しいとか表現が手加減されているということではまったくない。「大人向け」と「子供向け」はそもそもめざすべきところが異なっているとするのが宮崎の方法論なのだ。 ここにおいてあらためて宮崎が手塚批判を延々と続けていることの意味がわかる。手塚は、アニメでもマンガでもいつも「自分のため」に作っていたように見える。 かれのマンガは一見して「子供向け」に見えるものでさえも、どこかに暗い負の情念のかげろうをただよわせている。そして宮崎も認める通り、そのニヒリズムの闇こそが手塚マンガの一種独特な魅力だった。 しかし、手塚はその「自分のため」の表現を貫徹させることができず、ヒューマニストの仮面をかぶった。あるいは、庵野ふうにいうなら「パンツを履いた」。それは初志を見失っている。宮崎はそのようにいいたいのではないだろうか。 すなわち、手塚のマンガもアニメも「自分のため」のものであることも、「子供のため」のものであることも貫けていない、と。 しかし、宮崎もまた『紅の豚』において「大人向け」のアニメを作ってしまった。これはある種、手塚的な自己矛盾であり言行不一致であり恥ずべきことである。かれはそう自己批判している。わたしは宮崎の発言をそのように受け取る。 宮崎駿がパンツを脱ぐとき。 出典:宮崎駿『風立ちぬ』 しかし、宮崎のキャリアには、あきらかに「大人向け」の映画として構想され製作された作品が、少なくとももう一本ある。第一回でも名前を挙げた宮崎の長編映画第10作『風立ちぬ』である。 この作品もまた『紅の豚』と同じく「浪漫」と「兵器」というふたつの側面にひき裂かれた飛行機という名の「夢」が、題材として選ばれている。 そして、さらにここでは『紅の豚』では執拗に封印されていた小暗いものが前面に出ている。宮崎は、ここにおいてついに「パンツを脱いだ」のだ。 『紅の豚』では、戦争の悪夢とその残虐な性質は薄っすらと示唆されるだけだった。だが、『風立ちぬ』で宮崎はその「道具としての飛行機の本質」と明確に向き合っている。 物語の主人公は飛行機設計の天才・堀越二郎。かれは幼くして飛行機の美に魅入られ、その生涯を優れた飛行機を生み出すことに使い切る。あたかもその死に物狂いの生き方は、アニメーションを生み出すことに一生をささげた宮崎本人の人生をなぞるかのようだ。 作中では、飛行機とは夢、ただ「美しい夢」であると同時に「呪われた夢」でもあるという複雑に屈折し矛盾した認識がくり返し語られる。 つまり、ここでは宮崎が愛してやまない飛行機という「夢」の分裂と相互矛盾がはっきりと直視されているのである。 ここまではっきりと「大人向け」となった結果、この映画では、自然、人間の愚かしさに対する冷めた視線と、底知れず暗いニヒリズムがにじみ出てくる。飛行機がどれほど美しく飛ぶとしても、それは結局、戦争と虐殺のために使われる運命でしかない。 この暗く絶望的な認識は、この映画を『紅の豚』的なロマンティシズムからはっきりと遠ざけている。重要なのは、「それでもなお」作中の堀越が飛行機の製造をやめようとしないことだろう。 自分が生み出したものが人を殺すための道具として使われることに対して、矛盾はある。葛藤もある。だが、それでも、かれはつくることをやめられない。常に何かをつくり出すことだけにしか意義を見いだせないクリエイターという人種の業というべきだろうか。 否、おそらくその本質はさらにもっと根深い。堀越の「飛行機という美しい夢」にかける情熱はそれよりずっと子供っぽいものなのだ。 かれは結局のところ、生涯にわたってひとりの模型好きの少年に過ぎないのであり、ただ「美しい」ことだけにしか価値を見いだせない。 人並みの正義感も道徳観もあるだろう。あるいはむしろ、人一倍、繊細で優しい心すら持っているかもしれない。しかし、それでも堀越は「美しい夢」を求めて生きることしかできない。 宿命といえばそれこそ欺瞞的に過ぎる表現だろうが、つまりは、かれは生涯にわたって、ふいに見つけた綺麗な蝶を追いかけてどんどん森の奥へ入り込んでいくひとりの子供に過ぎなかったわけである。 第一回でも書いたように、その果てに見出されるものは廃墟と化した世界。その「夢の王国の廃墟」にあらわれたカプローニ男爵は皮肉とも韜晦ともつかない言葉をもらす。「国を滅ぼしたんだからな」。 これが、宮崎の「大人向け」の映画である。凄まじいとしかいいようがない。しかし、それではこの深度を持つにもかかわらず、なぜ宮崎は「子供向け」にこだわるのだろう。 次回、最終回「すべては子供たちのために。」では宮崎にとって「子供」とは何を意味しているのか追いかけてみよう。そこに見つかるものは天国か、地獄か。希望か、絶望か。どうかご一読いただければ幸いである。 (連載第三回「すべては子供たちのために。――なぜ宮崎駿は手塚治虫を否定するのか(3)」につづく!) ※アイキャッチ画像出典:宮崎駿『紅の豚』

【2025年最新版】17年日本酒を愛する者が紹介するおすすめ日本酒12選

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「【2025年最新版】17年日本酒を愛する者が紹介するおすすめ日本酒12選」。日本酒歴17年のトイアンナさんが書かれたこの記事では、日本酒への偏愛を語っていただきました! こんにちは、トイアンナです。私が日本酒を愛するようになって17年。ときには現地の酒造を訪問し、ときには日本酒イベントに参加して、全国の味を楽しんできました。しかし、日本酒はとにかく銘柄が多い! 国内にある酒蔵の数は1,350箇所以上(※)にもおよび、銘柄はなんと1万種類を超えているといいます。 ※参考:国税庁 清酒製造業の概況/平成30年度調査分 この世にある1万種類の酒に対し、わずか17年の日本酒歴。「日本酒を知っている」というにはおこがましい話ではありますが、私が知る限りでおすすめできる日本酒をご紹介します。 注目の的!今、おすすめ日本酒を知りたい人が急増中 日本酒は、世界のお酒となりつつあります。国内では1970年代に出荷のピークを迎え、その後は半減しているものの、海外輸出では13年連続で過去最高を記録。中国やアメリカを中心に、日本酒ブームが到来しています。 また、インバウンドによる日本酒需要も上昇中。日本にしかないレストランこと「居酒屋」を楽しみたい海外客が、日本酒体験を楽しんでいます。 他方、冒頭に書いたとおり、1万種以上もある銘柄を把握している方は限られます。また、数量限定、期間限定品も多く「知っても手に入らない」日本酒も数知れず。そこで、ネットなどで簡単に手に入るおすすめの日本酒をご紹介したいと思います。 おすすめの日本酒を知る前に押さえるべき基礎知識3つ おすすめの日本酒銘柄をお出しする前に、少しだけ基礎知識をカバーさせてください。 日本酒は法律で定義されている まず、日本酒の定義から。日本酒とは、米、米麹、水を原料として発酵させてこした「清酒」のうち、原料の米に日本産米を用い、日本国内で製造されたお酒を指します。アルコール度数は酒税法で最大22度未満と定められ、強すぎるお酒が苦手な方にも愛されています。 おすすめできる日本酒は4種類ある味わいのどれを好きかで分かれる トイアンナがSSIの分類をもとに自作 日本酒サービス研究会・酒匠研究会連合会(SSI)が2万点以上の商品をテイスティングして定めた、日本酒の分類があります。 フルーティで薫り高い薫酒(くんしゅ) すっきり辛口の爽酒(そうしゅ) 長期熟成させた香ばしい熟酒(じゅくしゅ) コクある旨味が複雑にからむ醇酒(じゅんしゅ) そして、どの日本酒をおいしいと感じるかは、この4種のうちどれが好きかに依存します。たとえば、私は薫酒や醇酒ばかりを好みます。薫酒は香りがぶわっと押し寄せるタイプの日本酒で、醇酒は「お米を飲んでる感じ」がするどっしりと重い味わい。いずれも、スッキリとした爽酒が好きな人は、あまり飲まない味わいです。 逆に、私は爽酒が苦手でほとんど飲むことはありません。つまり、この記事のおすすめ日本酒は薫酒と醇酒に偏りがちです。その点はお許しください。 また、日本酒のラベルに「これは爽酒」といったラベルが貼ってあるわけでもなければ、ショップに書かれているわけでもないのがやっかいなところ。自分の好みがなんとなく4種類の中で想像できたら、まずは「たぶん〇酒が好きだと思うんですけれども……」と酒屋さんで相談してみるのがよいでしょう。 結論:12種のおすすめ日本酒をまとめた表から好みを選んでください! 忙しい方はここだけ見ていただければOK! この記事で紹介するおすすめの日本酒12種類、全銘柄の味を表にまとめました。 銘柄味わいこんな人におすすめ風の森・フレッシュな微発泡感と爽快な飲み口・米の旨みとジューシーさがしっかり感じられる・日本酒初心者・味に軽さを求める方・普段はキレのいい辛口なお酒が好きだけれど、少し別の味にチャレンジしたい方鳳凰美田・華やかな香りとフルーティーな甘み・酸味と甘味のバランスがよく、余韻まで香りが続く・甘めのお酒が好きな方・果実酒や梅酒など、バリエーションを楽しみたい方・フルーティーなワイン感覚で楽しみたい人楯野川・軽快でキレのある味わい、上品な吟醸香・透明感のある飲み口・古き良き日本酒の伝統を踏襲した味わい・辛口かつスッキリした味わいが好みの人・食事に合わせやすい日本酒を探している人・繊細な味が好きな方仙禽・瑞々しい酸味とフレッシュな香り・仕込み水の特徴を活かし、水のようにスッと染み入るような飲みやすさ・口当たりの軽やかさを重視する人・和食だけでなく洋食にも合わせたい人獺祭・華やかな吟醸香とやや甘めの上品な味わい・繊細でクリアな後味・世界的に有名な銘柄を試してみたい方・ギフトに最適な日本酒のブランドを探している方冩楽・落ち着いた香りと程よい旨み&コク・バランスの良い味わいで食事との相性も良い・香りとコクのバランスの良い食中酒を探している人・派手さよりも安定感のある味わいを求める人伯楽星・キレのある辛口で、「究極の食中酒」を目指した造り・口当たりは軽快だが、旨みもしっかり感じられる・食事に合わせて日本酒を楽しみたい人・辛口派だけど、旨みもきちんと欲しい人紀土・柔らかい口当たりと心地よい甘み・コストパフォーマンスが良く、日常酒としても人気・気軽に日々の食卓で日本酒を楽しみたい人・優しい飲み口や手頃な価格帯を重視する人神蔵・上品で繊細な香りとまろやかな口当たり・京都の風土や米の旨みを活かした優美な味わい・エレガントでしっとりとした雰囲気の日本酒を好む人・香りと旨みのバランスを丁寧に味わいたい人五橋・米の旨みが生きるどっしりした味・山口県の自然豊かな水源を活かした清涼感・重みのある味わいを試してみたい人・フルスイングで脳を殴られたような衝撃を受けてみたい人而今・フレッシュでジューシーな果実感と米の旨み・入手困難なプレミアム銘柄としても知られ、完成度が高い・希少な限定酒を探している方・フレッシュで華やかな味わいが好みの人ロ万・やや甘口寄りで優しい味わい・程よい酸味と旨みの調和が取れたバランスの良さ・まろやかでほんのり甘みのある日本酒を探している人・落ち着いた飲み口でリラックスしたい人ゆり・米の旨味がしっかりした味わい・日本酒の奥行きを感じる力強いテイスト・ボディがしっかりしたお酒を飲みたい方・日本酒通を「この銘柄は知らなかった」とうならせたい方 ただし、同じ銘柄でも日本酒には多種多様なバリエーションがありますので、「よし、この銘柄ならなんでもおいしいんだな!」と考えないでください。この記事では商品名までつき詰めたレビューを掲載しております。可能であればぜひレビューを細かくご覧いただいたうえで、買うものを選んでいただければと思います。 市販で手に入りやすい、おすすめ日本酒12選 ここからはいよいよ、市販で手に入りやすいおすすめの日本酒を実際に紹介していきます。今回紹介する日本酒は、ひとまずすべて冷蔵庫で保管するものと考えてください。特に「生」という文字が入っている日本酒は常温保存するとすぐ劣化しますのでご注意ください。 おすすめ日本酒(1) 風の森 ALPHA1 次章への扉 出典:酒泉洞堀一 日本酒って名前からして自由だな!? と思わされた1本。もともと日本酒ヲタクの中では愛されている銘柄「風の森」のなかでも、軽い口当たりで飲みやすく、日本酒の初心者にもおすすめできる1本です。 香りはバナナやメロンなど、しっかり甘い果実のようです。味わいは深く、甘み、旨味、酸味がバランスよく配合されています。つまり、おいしいです。余韻は短くするっと飲めて、食事にも合わせやすいです。風の森が好きな人は多いのですが、ALPHAシリーズまで手を伸ばしている方は珍しいため、プレゼントにもおすすめです。 おすすめ日本酒(2) 鳳凰美田 純米大吟醸 山田錦50 生 出典:SAKE-SHOW YAMADA どのシリーズを飲んでもおいしい鳳凰美田(ほうおうびでん)のなかでも、圧倒的なおいしさを誇る生酒。甘めのテイストで、たとえばホップのきいた苦めのビールを飲んだ後や、ゴーヤのように苦みのあるつまみを食べながらだと、最高の変化を味わえます。カクテルみたい。ジュースのノリでごくごく飲んでぶっ倒れる人が多い印象があります。 メロンを思わせるフルーティな香り、ほのかな甘み、そして上品な口当たり。さながらペルシャ猫や深窓の令嬢を思わせる日本酒です。どんな和食にも合うところが、人気の理由かもしれません。とはいえ、さすがにオムライスやカツカレーとは合わせないでください。繊細な風味がぶっ飛びます。 おすすめ日本酒(3) 楯野川 純米大吟醸 清流 出典:楯野川公式オンラインショップ ひとつ前に紹介した鳳凰美田とは真逆の楯野川(たてのがわ)は、辛くてキレキレのお酒です。山登りをしながら見つけた、清い川の水をすくって飲んだようなフレッシュさ。アルコール度数も14度と優しく、普段リースリングのキリっとした白ワインを召し上がる方にピッタリです。初めての日本酒としてちょうどよいバランス感で、後味の余韻も爽やかです。 あえて悪口をいうならば、あまりクセはありません。刺激を求める方には印象に残りづらい味わいかと思います。 おすすめ日本酒(4) 仙禽 モダン仙禽 無垢 無ろ過原酒・瓶囲い瓶火入れ 出典:Amazon.co.jp 外食で仙禽(せんきん)が置いてある店を見つけると、嬉しくなっちゃう。日本酒ヲタクが喜ぶ、美味しい日本酒です。江戸時代の醸造技術であった生酛(きもと)を復活させ、合理性に頼らない、味の魔法を生み出します。 中でも筆を流すように描かれた字体のラベルが特徴のモダン仙禽は、繊細なのに芯がしっかりしていておすすめ。煮付けやうな重など、濃い目の和食にも寄り添う強さを見せてくれます。青リンゴを思わせる甘酸っぱさが、口の中をみずみずしく満たします。 なお、もっと尖った超・自然派の伝統的手法で醸造されている「仙禽 ナチュール」シリーズも見かけたらぜひお試しください。酸味がはっきりとしていて、ナチュールワインと似た味わいを楽しめます。 おすすめ日本酒(4)  獺祭 純米大吟醸 磨き二割三分 出典:獺祭 公式オンラインショップ 獺祭(だっさい)は日本で初めて、海外向けにブランディングを確立した日本酒です。そのため、海外の高級レストランで、コースメニューのペアリングとしてしばしば登場します。ブランディングの成果もあってお値段は急上昇。「コスパが悪い」と顔をしかめる日本酒ヲタクもいますが、180mLという手に取りやすい容量で販売してくれているため、ギフトにぴったりです。一升瓶なんかを手土産で持ち込むと、びっくりされますからね……。 日本酒の原料となるお米でも、トップブランドである山田錦。そのお米を残り23%になるまで削り上げ、雑味を極限まで除いた高級酒です。洋ナシやハチミツのような甘み、そして軽い香り。味は強めで、さっぱりとした余韻。日本酒としては強めの味わいで、フレンチやイタリアンにも合わせておいしいため、洋食派におすすめの日本酒です。 だいたい2,000〜3,000円で4合瓶(ワインボトルのサイズ)が買える日本酒において、獺祭はAmazonで5,725円と高級ラインに入ります。だからこそ、1,500円程度で買える180mLサイズは、プレゼントする目的におすすめの一品です。 おすすめ日本酒(5)  冩楽(写楽) 純米酒 出典:Sakenomy 冩楽(しゃらく)は、日本酒がおいしい銘柄を多数輩出する福岡・会津のお酒です。バランスがよくとれている味で、まろやかな口当たりにフルーティさ、甘さ、辛さ、旨味が整っています。最初に飲む日本酒としてもおすすめできるお酒となるです。人でたとえるなら、「全教科まんべんなく高い点数を取れる受験生」といった具合です。ちゃんとおいしい、を地でいくお酒でしょう。 そのバランス感から、尖ったお酒が好きな方から酷評されるかわいそうな存在でもあります。おいしいのにねえ……。たくさん飲める方なら、まずは尖った日本酒を選んでいただき、2杯目に冩楽を選ぶと口内がまろやかに整って「ほう……」と感動するはずです。 おすすめ日本酒(6) 伯楽星 特別純米 出典:buzaemon 楽天市場店 甘い香りに柑橘類の酸味。さっぱり感と、しっかり感が天秤の上でちょうどつり合い、何杯でも飲みたくなるお酒です。伯楽星(はくらくせい)は「究極の食中酒」をコンセプトに作られているため、香りを抑えて醸造されています。穏やかで飲みやすく、しかし旨味を忘れていないからこそ、どんな料理にも合う傑作です。個人的にはお蕎麦など、繊細な香りを重視する料理と合わせて呑みたいですね。 率直に申し上げると、私は伯楽星を「どんなお料理を好きか分からない方」へプレゼントする選択肢として愛しています。淡麗・辛口な味わいで、昔ながらの日本酒が好きな方にも喜ばれるおすすめの品です。 おすすめ日本酒(7) 紀土 -KID- 純米吟醸 出典:銘酒本舗 IMANAKA SAKE SHOP 楽天市場店 紀土(きっど) 純米吟醸は、デイリー価格で買える最高レベルの日本酒です。リンゴを想起させる軽やかで上品な香り、そして透明感のある甘み。もし天国に水があったら、こんな味がするに違いないと思わせてくれます。いわゆるワンカップ大関や菊正宗を飲んで「ツンツンするから苦手」と感じた方に、ぜひ紀土をおすすめしたいと思います。 紀土を作っている平和酒造さんは、かなりイノベーティブな生産者です。ビールのホップと従来の紀土を掛け合わせた「紀土 KID フュージョンサケ」など酒税法の制約を超えた新しい製品を次々と生み出していますので、ちょっと面白いお酒を探してみたいな、というときはAmazonや楽天などで「平和酒造」の商品を検索することをおすすめします。 おすすめ日本酒(8) 神蔵 KAGURA 無濾過生原酒 黒 出典:福島酒店 楽天市場店 神蔵(かぐら)は京都駅前すぐのイオンに入っていた立ち飲みの日本酒専門店、浅野日本酒店KYOTOで出会った銘酒です。普通の日本酒は活性炭などで濾過し、火入れを行うことで、すっきりとした味わいと安定した品質を維持します。しかし、この神蔵は品質を保ちながらも、できたての味とほぼ同じ味を家でも楽しめるように作られた技術の結晶です。 これが実現できるのは、生産者の松井酒造が1726年創業と京都最古クラスの酒造でありながら、最新鋭の設備と衛生管理でこだわりぬいた施設を導入することでクオリティを上げたからです。 澄んだ味わいに、軽やかに去る余韻。鼻の奥にだけ上等な香りがふんわりと残り、もう一口飲みなよ、と優しく語り掛けてくれます。4合瓶で6,000円ほどする高級酒のため、プレゼントや特別な日の贅沢におすすめの一本です。 ※現在、浅野日本酒店KYOTOは京都河原町へ移転しています。 おすすめ日本酒(9) 五橋 純米大吟醸  出典:銘酒館倉松 もし、今回掲載した日本酒から1本だけ買っていいよと言われたら、五橋(ごきょう)を選んじゃうなあ、という一本。口内で爆発的に膨らむ旨味と甘みのコクは、他の追随を許しません。ささやかな酸味がアクセントに加わり、シルクのように滑らかでありながら麻のようにたくましい。シンプルに、おいしいお酒です。ただし、「スッキリ! キレ!」とは真逆なので、ツンとくるくらいのお酒が好きな方にはおすすめしません。 脂の入った刺身や、すき焼きなどどっしりした料理と合わせても美味しそう。あまり売れすぎると私の買う分がなくなるので、おすすめしたいけれどもしたくない、そんなお酒です。 おすすめ日本酒(10) 而今 純米吟醸 山田錦 無濾過生 出典:酒乃店もりした 而今(じこん)は私が「2,000円台で買える日本酒なら、日本一はこれだな」と思っているおすすめのお酒です。一人飲みでカウンターに座っていても、思わず「ああ、うまい」と声が出るほどおいしい。 蜜、とれたてのリンゴを思わせる香りに、ふすまが次々と開いていくような奥行きを感じる旨味。そこへ差し込む鋭角の酸味が、これまた気持ちいい。とろとろの舌触りは、なんともいえない幸福感で脳を満たします。 多幸感でぎゅんぎゅんになるお酒なのに、この価格。たまにワインでも「この値段で高級酒と張り合っちゃうの!?」と言いたくなる銘柄がありますが、日本酒なら而今がそうでしょうね。というわけで人気のお酒なため、居酒屋に置いてあると一瞬で売り切れます。 おすすめ日本酒(11) ロ万 純米吟醸 一回火入れ 出典:尾崎商店 ロ万(ろまん)は、お米の香りが豊かな日本酒で、優しい味の日本酒です。ロ万のおすすめポイントはその柔軟さ。火入れしたお酒だからこそ、という部分はありますが、冷やしても熱燗でも美味しいのです。しかも、旨味の芯がしっかりした味わいで、刺身や天ぷら、コロッケ、果てはパスタまで合わせられる万能さが特徴。ロ万はデイリー日本酒として購入すると、どんな気分のときも、どんなご飯にも合わせられて助かることこの上ありません。 おすすめ日本酒(12) 大吟醸 ゆり 出典:酒商山田オンラインショップ 最後に紹介するおすすめの日本酒、ゆり。ゆりには会津若松で酒造を巡っていたときに出会いました。 しとやかな名前とは裏腹に味は強く深く、ぐいぐい来るお酒です。力強い辛口でありながらまろやかで、しっとりと舌へしみこむ味。「強くて弱い」という、矛盾した感想を抱きたくなる味わいは、何度も手にとりたくなる依存性があります。 世間でプレミアとされる日本酒よりも、何倍もおいしい。そう考えると6,000円台というちょっと気を張るお値段も安く感じるものです。抜群においしいからこそ、おすすめです。 おすすめリストに掲載できなかったレア酒たち さて、ここまでのリストで書けなかった日本酒があります。それは、レア度が上がってしまい、ネット通販であまり買えなくなってしまったり、価格が上がりすぎたりした銘柄です。具体的には、田酒(でんしゅ)、鍋島(なべしま)、新政 No.6(あらまさナンバーシックス) の3種類。この3つを和食屋さんで見かけたら、ぜひ一杯召し上がってください。 私の人生を変えてくれた日本酒 特に私の人生を変えてくれたのは、新政 No.6 でした。バイトを何個も掛け持ちし、有り金はたいてフレンチレストランをめぐっていたころ、あるレストランで新政 No.6がペアリングとして登場したのです。「フレンチに日本酒?」という疑念はすぐに晴れました。フォアグラとあまりにも調和した新政は、私の心を洗い流してくれたのです。日本酒とは、単なる和食の添え物ではない。日本酒は世界中で通用する、日本産の高級酒なのだと教えてもらった瞬間でした。 特に新政は海外で人気となった結果希少性が高まり、空瓶だけで売られたり、偽物まで出回ったりする始末。くれぐれもオークションやフリマアプリで偽物の日本酒をつかまされないよう、ご注意ください。 おすすめした日本酒をおいしく飲むポイント 日本酒を飲むだけなら、極端な話、家のグラスでぐびぐび飲んでも構いません。ただ、もっとこだわりたい、もっとおいしく飲みたいと思った方へ、少しだけポイントを解説します。 日本酒を飲む温度を変えてみよう 日本酒には主に3つの飲み方があります。冷や(ひや)、常温、燗(かん)です。冷や、または冷酒は、冷蔵庫で冷やした状態の日本酒を指します。すっきりとした軽やかさが際立ち、酸味が強調されて爽快感が増します。 常温は室温のこと。冷やよりも香りが広がりやすくなり、甘み、旨み、酸味が均等に感じられます。 燗とは、温めた状態で飲むこと。燗酒はぬる燗、熱燗などさまざまな温度に分けられますが、全般的に酸味やアルコール感がやわらぎ、まろやかで落ち着いた印象になります。熱燗だと味わいが壊れてしまうお酒もあるため、濃厚な味わいのお酒に適しています。 同じ日本酒でも温度によってがらりと味が変わるため、瓶で買うなら温度差を楽しんでみてください。 日本酒を飲む器を変えてみよう 日本酒は、飲む器を選ぶのも楽しいものです。私はそれでいっとき、古美術の沼にも落ちてしばらく帰ってこられませんでした。無難かつ安価に買えるのは日本酒用のグラスで、頑丈なつくりが多く日常づかいにちょうど良いです。江戸切子などにのめりこむと、これまた深い沼が待っています。 個人的なおすすめはワイングラスで飲むこと。特に開口部が狭まっているグラスを使えば、日本酒の香りをぞんぶんに楽しめます。 そして、定番かつ最も深い沼である、徳利(とっくり)とおちょこを用意する飲み方。徳利は小さな片手鍋に入れてお湯で温めれば燗酒も作れます。おちょこは一口ごとに濃縮された味わいを楽しめるほか、素材により口当たりが全く異なり、集めたくなります。集めたくなるから、危険な趣味です。 出典:かたくち屋 ほとり 田澤祐介 釣鐘型片口 拭漆 薄白 初心者におすすめの酒器は片口(かたくち)といわれる、上が開いた器です。上が開いているため洗いやすく、手入れが簡単。注ぎ口をパキッと割らないよう注意しておきさえすれば、とても楽に扱えます。この片口とおちょこをセットで買えば、あなたも日本酒ヲタクの仲間です。ようこそ、深い沼へ……。 シーズンに合わせておすすめの日本酒を飲んでみよう 日本酒を飲むべきシーズンは、10月と2月です。10月ごろになるとその年のお米を使った新酒が製造され、「しぼりたて」と書かれた限定品が出回ります。作りたての味である「無濾過・生酒」がおいしいのもこの時期。10月になったらぜひ、日本酒ショップをご覧ください。 次に、2月3日から始まる「立春朝搾り」。その日の朝に搾ったばかりのお酒を、その日のうちに届けてくれる大イベントです。立春朝搾りの日本酒は例年予約限定で販売していますので、事前にお酒を押さえましょう。この立春朝搾りに参加している酒造は当たりの比率が高く、初心者にもおすすめです。 それでは、よい日本酒の旅を!※本稿の中に登場するレーダーチャートの画像は、すべて日本酒レビューアプリ「さけのわ」のレビューをもとに作られたフレーバーチャートを引用しています。

野菜? それとも果物? 「赤い絶品」トマトを巡る意外な真実、そして美味しさの秘密

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「野菜? それとも果物? 「赤い絶品」トマトを巡る意外な真実、そして美味しさの秘密」。手紙さんが書かれたこの記事では、トマトへの偏愛を語っていただきました! 考えてみると、人はなにかと「赤いもの」にひかれる傾向があるようだ。子どものころは夏にスイカが食卓に並ぶと踊らんばかりに(本当に踊ったわけではないけれど)歓喜。冬になればサンタクロースの姿が頭にチラついて、クリスマスが来るまでずっとソワソワしていたものだ。 僕にとって赤いものといえば、どういうわけか「トマト」が真っ先に思い浮かぶ。トマトって美味しいですよね。なんでトマトって美味しいんだろう? と、ときどき真剣に考えてみるんだけれど、いまだに答えが見つからない。 だが、こんなに美味しいトマトなのに「美味しくないよね」と、トマト嫌い派を堂々と宣言してはばからない人が一定数いるのも事実だ。子どもの嫌いな野菜といえば必ず上位にランクインするし、大人になっても好きになれないという人もいる。僕は子どもの頃からトマトにはわりと好感をもっていて、大人になった今では一番好きな野菜といっても過言ではない。 でも調べてみると、トマトって実は植物学的に野菜ではないって知っていましたか?トマトはナス科の果菜で、野菜として扱われることが多いから「野菜的果実」と呼ばれている。(でも、農林水産省と総務省の区分によって、日本ではトマトは野菜に分類されているというややこしさ。) 僕はトマト大好き派を自認しておきながら知らなかった。それなのに嫌いな野菜に無理矢理ランクインされるトマトには同情を禁じ得ない。同じ赤いもの仲間であるスイカほど人気があるわけでもなく、人によって野菜と言ったり果物と言ったりする。トマトってけっこう気の毒な立場にある食材なのだ。 気の毒だといえば、また子どものときの話になるんだけれど、夏休みに祖母の家で食卓に出されたトマトも気の毒だった。祖母はあまり料理が好きなタイプではなかったのだが、トマトのスープを作ってくれたことがある。それまで何度も祖母の手料理を食べたことはあったが、トマト料理が並ぶことはほとんどなかったからいささか虚をつかれてしまった。 恐る恐るスープを一口飲んでみると、どうにも美味しいと言えるようなものではなかった。味はまったく覚えていないが、「あまり美味しくない」という記憶だけは鮮明に残っている。「せっかく作ってくれたんだから」と何度かスプーンですくって飲んでみた。でも結局、完食することなくギブアップしてしまった。 スープを残したときの祖母の残念そうな顔は、なんとも気の毒だったけれど(お婆ちゃんゴメンなさい)、あの残されたトマトスープもまったく気の毒としかいいようがない。あのスープは結局どうしたんだろう? 祖母が全部飲んだのか、それとも誰にも知られることなく廃棄物として処理されたのか。祖母が亡くなったいまとなってはもう確かめようもない。 幸か不幸か、僕はトマト料理が好きで最近よく作っているけれど、亡くなった祖母とは違って、母はわりと料理が得意なほう。なので僕の料理好きは母の影響を少なからず受けているのかもしれない。 トマトが赤くなると医者が青くなる トマトといえば栄養豊富な野菜(ここでは野菜としておく)としても有名で、特に「リコピン」はトマトの代名詞といってもいいかもしれない。リコピンの他にもビタミンが豊富でカリウムも含まれる。 これだけ健康に良い野菜なので、世界のどこかでは「トマトが赤くなると医者が青くなる」と言われている。トマトの栄養価が高いことを婉曲的に表現してるわけだが、実は生で食べるより加工したほうがリコピンの吸収が格段に上がるらしい。しかも旨み成分の「グルタミン酸」もたくさん含んでいるから、調理することでトマトの旨みがぎゅっと引き出される。これだけ世界中にトマト料理があるのも当然といえば当然なのだ。 でも世界的な視点で眺めると、日本人はあまりトマトを食べない民族で、トマト大好き派の僕としては残念で仕方がない。世界平均では一人あたり年間20kgも消費しているのに、日本人はその半分の10kgしか食べていないそうだ。僕たちはもっとトマトについて、いやトマト料理について知るべきなのではないだろうか。 というわけで、まったくの独断と偏見で僕の好きなトマト料理を紹介します。一人でも多くの人がトマト料理を好きになってくれたら、これほど嬉しいことはない。 僕の選ぶトマト料理 ①トマトソーススパゲティ お腹がすいたときの白米は格別に美味しいけれど、スパゲティも負けずに美味しい。特にトマトを使ったスパゲティは僕たち日本人にも馴染みが深い。 ニンニクをオリーブオイルで熱し、刻んだ玉ねぎとトマト缶をフライパンでしばらく炒め、茹で上がったスパゲティを絡める。タバスコで辛味を加えてもいいし、粉チーズをパラパラ振りかけてマイルドに仕上げてもいい。そのときの気分で味の方向性を決められるのもトマトソーススパゲティの良さのひとつだ。 口に含んだときのトマトの酸味と旨みは、空腹であればあるほどマシマシになる。できればトマトソースが口の周りにつくのも気にぜずに貪りたい。無心に貪った分だけ満足感が爆増するからだ。 ②トマトカレー S&Bのカレー粉を使ってカレーを作ることがある。多くの人が知っていると思うが、カレーは文句なく美味しい料理のひとつだ。ニンジンや玉ねぎ、じゃがいもを入れた野菜たっぷりカレーもいいけれど、シンプルにトマト缶だけを入れたトマトカレーも美味しい。 ケチャップ、ウスターソース、砂糖、しょう油で味付けしてトマトを煮込むと、旨みがジワジワ引き出される。トマトだけでもこんなに美味しくなるのかと驚くはずだ。とろけるチーズをトッピングしてもいい。スパイシーさがおさえられてよりマイルドになる。あまり食欲がないときでもペロッといけてしまう、それもトマトカレーの良さだ。 ③鶏肉のトマト煮込み 肉にもいろんな種類があるけれど、僕は圧倒的に鶏肉が好きである。豚肉も牛肉も悪くないけれど、普段料理するときは鶏肉をチョイスすることが多い。別に何か理由があるわけではない。鶏肉料理といえば親子丼とか照り焼きとかカシューナッツ炒めとか料理名をあげればキリがない。中でもトマト煮込みは僕の好きな鶏肉料理の一つとして真っ先にあがる。 鶏のモモ肉をトマトで煮込むと両者の旨みがグッと増す。それもそのはずで、トマトが持つグルタミン酸と鶏肉の持つイノシン酸が掛け合わされると、単体で食べるより旨みが何倍にも強化されるのだ。トマトの旨みと酸味をまとった鶏肉は、舌の上でジュワッと溶けてくる。冷蔵庫の中にトマトと鶏肉があるとき、一緒に煮込まない理由があるだろうか?? ④トマトゼリー 僕はゼリーが好きだ。夏の暑いときに食べるゼリーは格別だけれど、冬の寒いときに食べても美味しいものは美味しい。みかんやキウイや柿のゼリーを作ったことがあるけれど、僕はやっぱりトマトのゼリーが好きなんです。 トマトを細かく刻んでミキサーにかけ、水と砂糖を加えて混ぜ合わせる。最後にゼラチンをいれて冷蔵庫に冷やすと簡単にトマトゼリーが作れてしまう。トマトが苦手な人でもトマト感をあまり主張してこない料理なので、ツルッといけてしまうはず。油っこい料理を食べたあとの、爽やかなトマトゼリーの喉越しはなんの罪悪感もない。 僕はつくづく思うのだけれど、トマトほど有能な食材はないんじゃないだろうか。肉にも合うし魚にも合うし(サバ缶のトマト煮美味しいんだよなあ)、スープにも合う。主役として目立たせることもできれば、脇役に徹することもできる。 こんな有能多彩なトマトを料理に使わない手はない。明日から、いや今日からトマト料理に親しんで少しでもトマトの美味しさを再認識してもらえたら、トマト大好き派の僕としては本望だ。
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管理か自由か―『PSYCHO-PASS(サイコパス)』あらすじから見る未来社会のリアル

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「管理か自由か。『PSYCHO-PASS サイコパス』あらすじから見る未来社会のリアル」。もともと娘さんがハマったアニメにヌマってしまい、season1~3、劇場版サイコパスもすべて見尽くしたうえで「season1はぜったい見てほしい!」という森佳乃子さんが書かれたこの記事では、アニメ『PSYCHO-PASS サイコパス』season1への偏愛を語っていただきました! AIにもはや「できない」ことはない。AIはいまやすさまじい勢いで進化している。スマホ、顔認証による防犯カメラ、ビッグデータ……。AIは確かに生活を便利にしたし、これからさらに便利になっていくだろう。しかし一方で、自分の情報が自分の知らないところで管理されていることに不気味さを感じている人もいる。 管理か。自由か。アニメ『PSYCHO-PASS サイコパス』が描いた世界はもうすぐ、そこまで来ている。なお、本作品は全部で3シリーズ制作された。しかしseason1のインパクトがあまりにも強烈であったために、ここではseason1についてのみとりあげる。 『PSYCHO-PASS サイコパス』は、スリリングなアクションや緊張感あふれるサスペンスだけでなく、「人間とは何か」を描き出す哲学的な思考を促す作品だ。常守朱(つねもり あかね)や狡噛慎也(こうがみしんや)をはじめとするキャラクターたちは、それぞれの異なる価値観や背景を持ちながら、システムの中での人間らしさを守り続ける。 この作品が多くの視聴者に支持される理由は、深い人間ドラマにあると言えるだろう。 まあ、読んでくれ。読んだらぜひ見てみて欲しい。『PSYCHO-PASS サイコパス』は間違いなく最高作品のひとつだから。 『PSYCHO-PASS サイコパス』あらすじ https://www.youtube.com/watch?v=b0ml1lqhpWw 『PSYCHO-PASS サイコパス』の舞台は未来の日本だ。人間が「サイコパス」という概念で管理されるディストピア社会が描かれる。「サイコパス」は、人間の精神状態や心理的傾向をあらわすこの物語独特の概念である。世界を管理しているのは「シビュラシステム」と呼ばれるAIであり、特殊な人間の脳をつないだ集合知的なネットワークシステムである。 圧倒的な世界観!シビュラシステムが作るディストピアの全貌 「シビュラシステム」によって人々は、犯罪の未然防止、社会の安定、個人の適性評価など、多岐にわたる分野で恩恵を受けている。しかし同時に、人の「自由意志」や「選択肢」は制限される。「管理による安全」と「自由意志」は完全にバーターである。このシステムの存在を通じて物語は「理想的な社会とは何か」「管理と自由のバランスをどう取るべきか」という深い問いを投げかけてくる。 主人公たちは、システムの恩恵と矛盾の間で葛藤しながら、それぞれの正義や信念を模索する。視聴者もまた、シビュラシステムをどう捉えるかによって、物語を異なる視点から楽しめるのがこの作品の魅力だ。 シビュラシステムの主な機能 犯罪係数の測定 人間の精神状態をリアルタイムで測定し、「犯罪係数」という数値であらわす。犯罪係数が一定以上の数値になると、潜在犯と判断され、社会から隔離される。 社会秩序の維持 個人の精神的安定や行動を監視し、犯罪を未然に防ぐ。公安局刑事課や「ドミネーター」と連携し、現場での対応を判断する。 職業適性の判定 個人の能力や性格に基づいて、最適な職業や社会的役割を割り当てる。社会の効率性を高めるために、個人の行動を制御する役割も果たす。 裁判システムの代替 従来の司法制度に代わり、即座に犯罪者の処罰や更生プログラムを決定する。 「サイコパス」とは https://twitter.com/saraloveais21/status/1866802042846712329 物語において「サイコパス」という言葉が設定や会話の中で使われる。ただし、現実世界での「サイコパス」という言葉の意味(精神障害の一つである反社会性パーソナリティ障害など)とは異なり、作品独自の意味合いで使用される。 物語の中における「サイコパス」とは、シビュラシステムが測定する心理状態や精神の健全性をあらわすスキャンデータのことである。ひとりひとりの色(クリアな色から濁った色まで)と数値(犯罪係数)で表現される。 具体的な使い方 「サイコパスが濁る」→ 精神的ストレスが増大し、犯罪係数が上昇している状態を指す。 「サイコパスをクリアに保つ」→ 健全な精神状態を維持し、犯罪係数が低く保たれていることを意味している。 サイコパスのスキャン結果は、犯罪係数や心理色相(Hue)として具体的なデータに落とし込まれる。特に「心理色相」は、その人の精神の健全度を色の濁りとして視覚的に表すシステムである。 人々はシビュラシステムによって24時間監視の対象とされ、管理されている。犯罪係数が高くなった者がいれば即時通報され、社会から排除される。そのため、事件が起きる前にすべてがコントロールされ治安は保たれる。 100以下: 健常とみなされ、一般社会で普通に生活可能。100以上: 潜在犯と判断され、公安局により監視や治療の対象となる。300以上: 危険人物と見なされ、即時排除(=致死処分)の対象。 アクションだけじゃない!『PSYCHO-PASS サイコパス』が描く人間ドラマの魅力 https://twitter.com/yasuda1229/status/1870964375198277659 物語の中心にあるのは、完全な管理社会を実現した「シビュラシステム」だ。 人々の精神状態や行動が数値化され、犯罪係数という指標によって安全な社会が維持されている。このような状況下で、登場人物はそれぞれの立場や信念に基づいて、「自分なりの正義」を考える。 『PSYCHO-PASS サイコパス』の人気は、緻密に構築された世界観、魅力的なキャラクター、深遠なテーマにある。この作品は単なるエンターテインメントにとどまらず、見るものに哲学的な問いを投げかけ、考える楽しさを提供していることが、支持を集める最大の理由である。ここで、本作品の魅力について大きく3つ挙げてみる。 1. 深いテーマと社会批判 『PSYCHO-PASS サイコパス』は、未来社会における全体主義や管理社会の恐怖、自由意志の尊重、正義の在り方といった哲学的・倫理的テーマを扱っている。見るものに現代社会との類似点に気づかせ、自分たちの未来にも起こりうるかもしれない問題を考えさせる。 そして本作品が描くドラマの真髄は、社会における「正義」と「自由」の間で揺れ動く人々の姿にある。登場人物たちの行動や選択は、視聴者に「理想の社会とは何か」 「人間らしさとは何か」という問いを突きつける。シビュラシステムの絶対秩序のもとで生きるキャラクターたちの物語は、私たちの社会で直面するかもしれないジレンマを予言しているようだ。 2. 魅力的なキャラクター 登場人物たちはそれぞれ強い個性を持ち、背景や信念について深く描かれている。後述するが、特に主人公の常守朱やアンチヒーローの狡噛慎也、また二人にとっての強力な敵である槙島聖護(まきしましょうご)といったキャラクターは、物語におけるジレンマとなり、視聴者の心に残るものとなっている。 主人公の常守朱は、新米監視官として物語に登場する。彼女はシビュラシステムの正義を信じ、その価値観の中で仕事に取り組むが、やがてシステムの矛盾や限界に気づき始める。犯罪係数に基づく「潜在的犯行」の扱いや、一切の温情を排除するシステムの躊躇ない決断が、彼女の信念を大きく揺さぶる。 常守朱の成長は、ただ「正義」を追い求めるだけではなく、どのようにシステムを活用して社会をより良くするかという現実的な視点を含むものであり、その姿勢は、理想と現実の間で苦悩する視聴者自身の姿を見ているようにも感じられる。 一方、執行官の狡噛慎也は、過去に経験した苦い経験からシステムに強い不信感を抱いている。その姿もまた、視聴者に強い共感と感動を与えるはずだ。 彼の行動にはときに冷酷さを伴うが、それは「復讐」や「正義感」という人間らしい感情の表現でもある。 特に、システムに逆らい自由意思を尊重する槙島聖護との対立は、狡噛の葛藤の重要な要素である。 彼は槙島の考えに共感しながらも、犯罪という手段を許すことができない。この二人の関係性は、人間の「弱さ」や「揺らぎ」を象徴するものとして、season1の物語の中心に位置する。 『PSYCHO-PASS サイコパス』は、サブキャラクターたちの物語も細やかに描いてゆく。宜野座伸元(ぎのざのぶちか)は、システムに従順であると同時に父親との関係に苦しみ、葛藤を抱えながら任務に就いている。彼もまた、「0か100か」といったシステマチックな正義だけではない人間らしさゆえに立場を失う側の人間だ。しかし、それを受け入れた時、穏やかにほほえむ宜野座を見た人は、彼の選択は間違っていなかった、と感じるだろう。 3. 緻密な世界観とシステムの設定 このドラマの見どころの一つは「シビュラシステム」という未来の管理社会の設定が極めて緻密なことだ。この世界がいかに機能しているかが丁寧に描かれており、視聴者は物語に没入することができる。また、システムの裏に隠された秘密が少しずつ明らかになっていくミステリー性も人気の理由の一つである。 シビュラシステムは完全に数値だけで人を分けていく。「以上」か「以下」か。このシステムがあれば冤罪は発生しえない。人間には限界がある。人の心や考えを読むことはできない。それが時に重大な犯罪を見逃すことにもなり、また逆に全く無実の人を何十年もの間拘置所に閉じ込めるという失態にもつながった。 「人の心が読めたなら」 シビュラシステムは犯罪を抑止する側の人たちの願いにも、冤罪を起こさせないために戦っている側の人たちの願いにも応えているようにみえる。 『PSYCHO-PASS サイコパス』の主な登場人物 常守 朱(つねもり あかね)CV:花澤香菜 物語の主人公で新任監視官。正義感が強く、シビュラシステムに対して複雑な感情を抱く。 『PSYCHO-PASS サイコパス』は朱の成長の物語でもあり、核となる人物である。season1開始時には20歳であり、まだ幼さがあった。しかしながら監視官として卓越した判断力を持ち、冷静沈着に物事を捉える能力に優れている。 人間性やシステムの倫理性に関する深い思索を持ち、「シビュラシステム」に対しても盲目的には従わず、自分なりの正義を追求していく。また部下や同僚の心情に寄り添いながらも、状況に応じて冷徹な判断を下すバランスの取れた人物として描かれる。 シビュラシステムの本質をとらえ、その限界や非人道的な側面を受け入れつつ、それでも社会に必要なシステムとしての役割を認識する。シビュラシステムを排除するのではなく、システムを利用してよりよい社会を作り上げようとする物語の「良心」。 狡噛 慎也(こうがみ しんや)CV:関智一 物語の中心的な登場人物の一人であり元刑事課一係の執行官。元監視官でもあったが、過去に親友であり同僚でもあった佐々山光留(ささやま みつる)を猟奇的な方法で槙島に殺害されるという事件がきっかけで監視対象となる。加害者である槙島に対する強い復讐心を抱くとともに、シビュラシステムに対する強い疑念を持っている。その複雑な人格や過去が物語の大きな魅力でありファンを強く引きつけている。 槙島 聖護(まきしま しょうご)CV:櫻井孝宏 シリーズ1の主要な敵役。シビュラシステムに反旗を翻す思想家でカリスマ性がある。その残虐性や異常性にシビュラシステムが反応しない「異常体質」の持ち主であり、システムに対抗できる唯一の人物ともいえる立場から、シビュラシステムの非人道的な本質を明らかにする役割を果たしている。犯罪者でありながら深い知識と論理的思考を持ち、強烈なカリスマ性で他者を引きつける。文学や哲学に通じ、よく引用や議論を通じて自らの思想を語る。 登場時はおそらく30代と思われ、学校の教師をしている。美しい外見とは裏腹に他者の命を軽視し、犯罪を道具として使用する冷酷さを持つ。一方で、彼の行動にはシビュラシステムへの強い批判と一貫性がある。 槙島は、「人間の価値は自由な意志によって決まる」と考え、シビュラシステムによって制御された管理社会を激しく否定する。システムが正しいとされる社会に波紋を投げかける存在として、視聴者に「理想の社会とは何か」を問いかける。 シビュラシステムによる管理社会に対する強烈なアンチテーゼにおいて狡噛慎也と同じ思想を持つが、彼の親友である佐々山を残酷な方法で殺害したことにより狡噛とは激しく対立する。 宜野座 伸元(ぎのざ のぶちか)CV: 野島健児 シーズン1登場時は厳格な監視官として登場する。父親が監視官でありながら潜在犯となり執行官に降格となったことから父親と距離を置いている。物語の初頭、同じく監視官であったにもかかわらず執行官に降格した狡噛慎也と対立する場面が多く描かれる。しかし物語が進むにつれ、シビュラシステムや人間関係に対する柔軟さを身につけていく過程で父親とも和解する。 父親に対する反発心から人にも自分にも厳格な宜野座はもっとも「人間らしい」一面を持った人物と言えるかもしれない。彼の厳しさや内面の葛藤は、物語全体のテーマである「正義と自由」「人間性と管理社会」の複雑さを象徴している。視聴者にとって、彼の成長は作品の大きな見どころの一つである。 六合塚 弥生(くにづか やよい) CV:伊藤静 寡黙で冷静、感情をあまり表に出さない性格。他のキャラクターに比べて、控えめで落ち着いた印象を与える。判断力と洞察力に優れており、チームの中では「クールな知性派」として描かれる。 Season1第12話「Devil’s Crossroad」では、彼女の過去が描かれる。このエピソードでは、彼女がもともとギタリストとして音楽活動をしていたことが明かされる。しかし、シビュラシステムによる管理社会の中で、自分の自由や夢を抑圧される形となり、やがて潜在犯と判定されてしまう。 音楽活動を諦めざるを得なかった彼女が、公安局の執行官になるという選択をした背景には、シビュラシステムへの複雑な感情が影響している。シビュラシステムが支配する社会の中で、彼女の自由な表現や個性は受け入れられず、次第に精神的な負荷を抱えるまでにいたる。その結果、彼女は犯罪係数が上昇し、潜在犯として社会から排除される立場に追い込まれてしまうのだった。 しかし弥生はシビュラシステムを完全に否定しない。システムの利便性を享受しながら、個性や自分らしさを追い求める生き方を見せる。バランスの取れた見方と音楽に対する未練、システムに従うことでしか生き残れないことに対するあきらめとが交錯する人間らしさを見せる。「自由と管理社会の狭間で生きる人間」を象徴する存在である。 槙島聖護の名言から見る『PSYCHO-PASS サイコパス』 https://twitter.com/yu04_movie/status/1861920949408600212 槙島聖護は単なる「敵役」ではない。『PSYCHO-PASS サイコパス』という物語の中に一貫している「人間らしさとは何か」「自由とは何か」というテーマを具現的にあらわしたものだ。私たちは思考停止してはならない。しかし、自由もまた無制限ではなく責任が伴う、ということを槙島との戦いによって見ることになる。 「魂を痛めた人間にとって、自由は恐怖でしかない」 この完璧に見える社会に反旗を翻すのが、season1の敵役である槙島聖護だ。彼は、シビュラシステムの管理を拒否し、人間が持つべき「自由意志」について自分の考えを譲らない。彼の「魂を痛めた人間にとって、自由は恐怖でしかない」という言葉は、このテーマを象徴している。 槙島は、システムに依存せず自分の意思で行動することの重要性を美学とするが、そのための手段として暴力や犯罪を選ぶことが多く、その行動は多くの人の命を奪う。自由意志の価値を示唆する瞬間、それが暴走したときの危険性も示しているのである。 管理された社会は人々から「思考」を奪い、人としての感情から生まれる行動を抑制する。それは果たして本当に幸福であると言えるのだろうか。 槙島聖護は朱や狡噛ら公安警察との戦いの中でそう問い続ける。 現代社会において、ビッグデータやAIに囲まれ生活が便利になった半面、「思考停止」していることはないだろうか。私たちに「人間らしさとは?」「自主的に判断しているか?」といった問いを投げかけてくる槙島のセリフは文学書からの引用であったり哲学的であったりする。それら「知性」を感じさせる言葉ゆえに犯罪者でありながら単なる悪役ではなく、見るものをひきつける魅力的なキャラクターになっている。 「真実とは人の数だけ存在する。だが、事実は一つしかない」 この言葉は、槙島がシビュラシステムの本質や管理社会の矛盾を語るシーンで語られている。 彼は、システムが提供する「事実」に依存しすぎる社会を批判し、個人が持つ「真実」の多様性を否定している現状に疑問を投げかける。 槙島が言う「事実」とは、数値化された犯罪や係数システムによる絶対的な評価である。この考えは、私たちが事実に基づいて合理的な選択をすることの重要性を認識しつつも、その裏にある多様な真実を軽視してはいけないという教訓を与えているのではないだろうか。 「本を読むということは、過去の偉人たちと対話することだ」 槙島は第5話「誰も知らないあなた」で高校の国語教師として初登場する。彼は会話の中で頻繁に文学や過去の哲学者について触れる。その文学的な素養と博識は彼の真の目的をカムフラージュする。彼は純粋で思考の柔らかな高校生たちに自分の思想を刷り込み、いじめを煽り、人が極限に立たされた時にどう行動するかを観察する。 「学校」という管理社会がどのように若者の心に影響を与えるかを見つめ、システムに管理されることを批判する。しかし、ドラマを見ている人たちは人の自由意志が制御されなくなったときの凶暴性や残虐性についても見ることになる。無制限の自由もまた人に幸福をもたらすものではない。 狡噛慎也というアンチヒーロー 自由と正義の狭間で https://twitter.com/shochikucollabo/status/1863508420105752770 『PSYCHO-PASS サイコパス』の物語世界において、狡噛慎也(こうがみしんや)は最も印象的で複雑なキャラクターの一人である。 彼は「理想の正義」を追い求め、シビュラシステムに管理された社会の中、信念と現実の狭間で葛藤し続ける。その姿は、「ヒーロー」像とは一線を画し、「アンチヒーロー」として物語の核となっている。 かつて狡噛慎也は、シビュラシステムの管理下における公安警察という組織の中において、犯罪者を追い詰める優秀な「監視官」であった。しかしあるできごとをきっかけに、彼の人生は一変する。復讐心と正義感の狭間で揺れ動く中で犯罪係数が急上昇し、自らも「潜在犯」として降格され、執行官となった。この経験が彼の信念を形作り、彼を単純な正義の追求者ではなく、深い葛藤と闇を抱えるアンチヒーローへと変えた。 狡噛はシビュラシステムに対して大きな疑念を抱きながらも、その一部として社会に貢献し自らの正義を実現しようとする。 しかし、シビュラシステムが生む不条理や矛盾に、彼の信念は揺さぶられる。 特に物語の中盤、槙島聖護と対峙するシーンでは、狡噛の葛藤が生じる。槙島の考えに一定の共感を示しながらも、その方法論には強く反対し対立する。 狡噛慎也の魅力は、彼が持っている「人間らしさ」にあると言える。 彼は完璧な正義を求めるヒーローではない。しかし、その行動の背景には、システムに管理される社会の中で自分なりの正義を追求しようとする強い信念がある。その葛藤こそがリアルで共感しやすいキャラクターにしているといえるだろう。 また、彼は常に自分の行動に責任を持ち、それがいかなる結果であろうとも受け入れる覚悟を持っている。この姿勢こそ、視聴者に槙島とは違う面での「正義とは何か」「自由とは何か」という深い問いを投げかける重要な要素となっている。 狡噛慎也の行動や選択は、物語の展開に大きな影響を与えるだけでなく、他のキャラクターにも深い影響を与えることになる。彼の影響を受けた朱は、シビュラシステムの中で自らの正義を追求する道を選択しはじめる。 視聴者に対しても、「正義とは何か」「自由を追求することの代償は何か」という問いを突きつけ続ける。狡噛を見ている私たちは理想と現実の間で苦悩する私たち自身の姿を眺めているのかもしれない。 狡噛慎也というキャラクターの本質は「不完全であること」にあると言っても過言ではないだろう。彼の行動や選択は、時には失敗を招き、周囲に禍根を残すこともあるが、その不完全さゆえ、いやまさにその不完全さこそが彼を「人間らしいヒーロー」としているのだ 。狡噛慎也は、理想的な正義の概念ではなく、現実社会で私たちが直面する葛藤に寄り添う存在であろう。 管理社会 vs 自由意思――『PSYCHO-PASS サイコパス』が予見する未来の可能性 『PSYCHO-PASS サイコパス』は、正義や人間の本質について問いかける、深遠なテーマを扱った作品として評価されているアニメだ。 本作品が提示する管理社会と自由意志の対立は、単なるフィクションではなく、私たちが直面する現実の問題として提示される。安全と自由のバランスをどう取るかは、技術が進歩するほど重要なテーマとなっていくことが予想される。 この作品を通じて、視聴者は「理想的な社会とは何か」「自由を守るために必要なことは何か」を考えるきっかけを得るだろう。『PSYCHO-PASS サイコパス』は、私たちに未来の可能性と選択を示し、その中で人間らしさをどう守るかという問いを投げかけている。