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映画を完全に楽しむ、エンドロールから削除シーンまで

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「映画を完全に楽しむ、エンドロールから削除シーンまで」。ギッチョさんが書かれたこの記事では、映画鑑賞テクニックへの偏愛を語っていただきました! 皆さん、こんにちは。私は2000年から続いている映画サイトの管理人です。前回のこの世にクソ映画なんてない。どんな映画も絶対に楽しめる映画鑑賞のテクニックに引き続き、どんな映画でも(例え駄作でも!)楽しめるようになる、映画鑑賞テクニックをご紹介します。今回は映画を完全に楽しむためにエンドロールから削除シーンまでの楽しみ方をお伝えします。 映画のエンドロールを最後まで観るか? 映画のエンドロールを最後まで観るか論争、というのがあります。ネット上ではもう何回も繰り返されている議論です。私としてはどちらでも良いです。つまりエンドロールを見ずに映画館から出ても全く問題ないという考え方。エンドロールをじっくり楽しみたい観客にとっては、途中帰宅する観客は邪魔になってしまうのでマナー違反と言えます。とはいえ、ただの文字列を何分も見続けろ!というのは強制できないでしょう。 でも実は私はエンドロールマニアなのです。今回はいろんな映画の特殊なエンドロールを紹介します。 後日談があるエンドロール エンドロール中に後日談が流れるというパターンがあります。一番有名なのは『となりのトトロ』でしょうか。エンドロールで母親が退院して家族一緒になることが分かる、最高に幸せな気分になれるエンドロールです。 センスが良いのは、滅びゆく人類を描いた『トゥモロー・ワールド(2006)』。劇中では人類が滅亡するのか復活するのかハッキリと描かれないのですが、エンドロールで「ある音」が流れるので、それで滅亡か復活かどちらかが分かります。ハッキリと画面に描くと陳腐になってしまうので、音で表現したのです。 爆笑できるのは『オースティン・パワーズ:デラックス』です。劇中で倒された悪役の息子がバラエティ番組に出演して親について語るという後日談が流れます。『となりのトトロ』ほどではありませんが、意外と感動できます。 エンドロール後にも本編がある! アメコミ映画やフランチャイズ映画(シリーズ映画のことです)が大流行した結果、エンドロール後にも続きがあるのは、すっかり当たり前になっています。が、以前は「エンドロール後にも本編がある」は日本映画のほうが多かったんですね。エンドロールを最後まで観る、というのは日本独自の風習なので日本映画のほうが「仕掛けやすい」のです。 有名なのは『魔女の宅急便(1989)』でしょうか。エンドロール後にキキが両親に手紙を送って「落ち込むこともあるけれど、私、この街が好きです」と伝えるのは屈指の名シーンです。 壮大な三部作だった『20世紀少年 最終章 ぼくらの旗(2009)』ではエンドロール後も10分ほど本編が続くのが衝撃的でした。ネット上ではこの10分間を考察するサイトが沢山ありますね。 このパターンで最も凄まじいのは水野晴郎のミステリー映画『シベリア超特急(1996)』です。エンドロール後の本編が何と15分も続く上に、その内容がどんでん返しの連続。「このどんでん返しは、一体いつになったら終わるのか?」という不安な感覚に陥ります。他の映画には存在しない唯一無二の感覚なので、是非とも皆さんに『シベリア超特急』を味わって欲しいです。 凝っているエンドロール エンドロールでもきちんとアートワークを作り込んでいる映画は嬉しいですね。特にアメコミ映画のエンドロールは非常に凝っています。印象深いエンドロールはホラー映画の『エスター(2009)』です。劇中の悪魔のような少女エスターが書いた蛍光色の不気味な絵がエンドロールに映し出されて、かなり怖いです。 ピクサーの映画では、エンドロールでは2次元アニメが流れるのが定番です。『Mr.インクレディブル(2004)』や『レミーのおいしいレストラン(2007)』のエンドロールは非常に出来が良いです。数々の3次元アニメの傑作を作り続けてきたピクサーが最後に2次元アニメにこだわりを見せてくれるのが嬉しいですね。 特に傑作なのは『ウォーリー(2008)』です。エンドロールで「その後の世界」の様子が描かれるのですが、その画風がエジプトの壁画風、木炭画風、ゴッホ風など絵の歴史を辿って行き、最終的にはファミコン風のイラストになるのです。 現実が侵食するエンドロール もっとも特殊なエンドロールは現実とフィクションが混じり合うパターンです。どういうことかと言いますと『ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟(2006)』ではエンドロールで歴代のウルトラマンたちとお年を召されたかつてのウルトラ警備隊のメンバーたちが、ホテルで立食パーティーをやっている!実際に開催された「ウルトラマン40周年パーティー」の映像をエンドロールに使ったのです。ウルトラマンたちはタキシードを着ており、最後にはズラリと並んだウルトラマンたちが花束贈呈を受ける。シュールすぎるエンドロールです。 歌手の高橋ジョージが監督・原案・脚本・編集・音楽・主演を務めた『LUCKY LODESTONE(1999)』も凄いです。この映画は2007年に『ラッキー・ ロードストーン ディレクターズカット版』が作られるのですが、そのエンドロールが何と高橋ジョージと三船美佳の実際の結婚パーティーの映像!映画の内容自体は高橋ジョージと三船美佳のロードムービーなので、ラストが結婚パーティーなのは一応辻褄が合っているところが逆に恐ろしい。 最後に、映画史上もっとも有名なエンドロールとも言える香港映画の『群狼大戦(1990)』を紹介します。この映画のクライマックスは、ビルが爆破されて窓からヒロインたちが飛び降りるというド派手なスタントです。ところが火薬が多すぎ&女優が飛び降りに戸惑ってしまい撮影失敗。ヒロインの女優二人が爆炎に巻き込まれて全身大火傷を追ってしまいます(整形手術を受けて後に復帰)。映画本編は女優が爆炎に巻き込まれた時点でいきなり終了。エンドロールでは事故や女優の容態を報じた当時の新聞記事が映し出されるというもの。「俺はエンドロールなんて最後まで観ないよ!」という人でも絶対に最後まで観続けてしまう究極のエンドロールです。 DVDの特典を楽しむ! まだまだ紹介したいエンドロールが沢山あるのですが、それは別の機会にしてちょっと話題を切り替えます。皆さんの身近な映画鑑賞の方法は何でしょうか?若い世代でしたらDVD鑑賞に慣れていると思います。子供の頃の思い出のDVD映画などを持っているのではないでしょうか? DVDは売上を伸ばすために、特典映像をこれでもか!と付けてくれます。その中には貴重な情報や本編以上の面白さが詰まっています。今回はそんな特典映像の面白さを紹介します。 オーディオコメンタリーで観よう! DVDでの鑑賞方法で楽しいのがオーディオコメンタリーです。映画のキャストやスタッフの解説を聞きながら、映画を再生できるのです。YOUTUBEやTikTokの映画解説も楽しいと思いますが、オーディオコメンタリーはそれよりも贅沢な楽しみ方です。 世間で評判が高いオーディオコメンタリーは、やはり大物俳優や大物監督の解説が聴けるタイプのオーディオコメンタリーです。が、ヲトナ基地ではちょっと別の視点からオススメのオーディオコメンタリーをご紹介しようと思います。私は傑作映画のオーディオコメンタリーよりも、評判悪い映画のオーディオコメンタリーのほうが好きなんですね。どんな駄作でも作り手たちは一生懸命作っていて、その想いが伝わって駄作でも好きになれるからです。 若い女優たちの本音が分かる 『恋するミニスカウェポン(2004)』という映画があります。ちょっと刺激的な感じがする映画ですが、内容は超カワイイ系。女子大生たちのスパイ組織が悪の組織と戦う!と宣伝されてますが全然違います。何せ悪の組織の活動内容は、女ボスがレズビアンなので女性とのマッチングをサポートすること!悪の組織どころか単なる恋の応援団です。そんな女ボスが敵であるはずの女子大生スパイに恋してしまい…という日本のWebマンガにありそうな百合設定をハリウッドは既に20年前に実写で実現していたのです。 この映画は公開時には『チャーリーズ・エンジェル』のようなセクシーアクションを期待した男性からは叩かれましたが、女性には根強いファンが多い映画です。 そんな賛否両論映画のオーディオコメンタリーで何が語られているかというと…。女優たちは自分の髪型と画面写りを気にしているだけ!あとは脇役のイケメン俳優から誘われてデートに行ったとか、そういう話ばっかりです。日本でも数年前まではアイドルのドキュメンタリー映画が大量に作られてましたが、彼女たちは「アイドルとしての言葉」を選んで語っているだけで、本音とは言い難い。それに対して『恋するミニスカウェポン』のオーディオコメンタリーにはガチの本音しかありません。でも日本のアイドル映画で共演者とのデート話なんてしたらファンたちは大炎上すると思う。 失敗シーンを監督が謝罪する オーディオコメンタリーで面白いのは酷いシーンがあると、関係者がアッサリ謝罪するところですね。『ワイルド・ワイルド・ウエスト(1999)』は、主演がウィル・スミス、監督はバリー・ソネンフェルド。つまり『M.I.B』コンビの二人です。『ワイルド・ワイルド・ウエスト』はアメリカではとにかく嫌われていて最悪映画賞であるゴールデンラズベリー賞を5部門も受賞した映画ですが、駄作というわけではありません。面白いシーンがたくさんある意欲作です。 ただ観客に嫌われる悪趣味なシーンもたくさんあったのですね。特に醜悪なのはクライマックスで女装したウィル・スミスがおっぱいから出てくる火炎放射器で戦うシーン。自分で文章を書いて表現しても恥ずかしいレベルですが、監督はそれ以上に恥ずかしい思いを抱えています。どうやらプロデューサーの指示で不本意ながら撮影したシーンらしく、オーディオコメンタリーでは監督が延々と自己批判します。 「とにかく撮り終えましたが、その後も悩み続けました。」 「後の祭りです。」 「この映画を選んだことを後悔している人もいるでしょう」 「このシーンはあと少しで終わります」 「エキストラの緊張感も無い最悪のシーンです」 などと愚痴りまくり。確かにシーン自体はつまらないですが、監督のオーディオコメンタリーを聞きながらだと爆笑できます。 ワイルド・スピードにケンカを売ったと思ったら… 『トルク(2004)』というバイク映画があります。公開当時は「史上最悪の映画」とまで呼ばれてアメリカで大炎上したのですが、現在ではカルト的な人気を誇る映画です。私も「隠れた傑作映画を教えて欲しい」と言われたら、迷わずこの作品を紹介しています。そんな傑作が公開当時に大炎上してしまった理由の一つが、この映画が『ワイルド・スピード』シリーズを笑いものにしているから。この映画のコンセプトが「ワイルド・スピードを茶化す」なんです。劇中では『ワイルド・スピード』シリーズの決めセリフを笑いものにしたり、カーアクションよりもバイクアクションのほうが優れているということをやたら強調してきます。 オーディオコメンタリーでも、俳優たちが『ワイルド・スピード』ネタを解説してくれます。最高に爆笑できるのは、映画『トルク』劇中の情けないやられ役に『ワイルド・スピード』シリーズの主人公のヴィン・ディーゼルのソックリさんが出てくるシーン。オーディオコメンタリーの俳優たちがヴィン・ディーゼルのソックリさんにゲラゲラ笑っているときに、俳優の一人が「俺、ヴィン・ディーゼルさんと共演したことあるんだけど…」と気まずい告白をしてくれます。 未公開シーンを観よう! 映画への理解が深まる方法としてオススメなのが、未公開シーンです。ハリウッド映画は全体のテンポというものを非常に重視しています。そのために超重要シーンでもテンポが悪くなると判断したらアッサリとカットするのです。またハリウッド映画は複数のラストシーンを撮影して、テスト試写で一番評判良いものを採用したりします。そのため未公開シーンを観ると「この映画が本当に描きたかったもの」が良く分かるのです。ここでは私が今までで驚いた未公開シーンをご紹介します。 タイトルの意味はそうだったのか!『ダイ・ハード3』 誰もが知る人気シリーズ『ダイ・ハード』でも衝撃の未公開シーンがあります。それは『ダイ・ハード3(1995)』です。原題は『Die Hard: With a Vengeance』で「With a Vengeance」は「猛烈に」という意味と「復讐編」という2つの意味があります。『ダイ・ハード』の第一作で出てきた悪玉(演じるのはスネイプ先生で有名なアラン・リックマン)の兄が、主人公ジョン・マクレーンに高度なナゾナゾゲームで挑戦してくる!という内容です。でも映画を観た人にはお分かりだと思いますが「復讐」がまったく関係ないんですよね。兄の動機は復讐でも何でもない。劇場公開時でも「復讐の意味がない」という批判が多くありました。しかし、この謎はDVDについていた未公開シーンによって解けます。実は本当のラストシーンだと悪玉の兄は逃亡に成功し、主人公は刑事をクビになってしまう。そして主人公は悪玉の兄に復讐するためにナゾナゾゲームを仕掛ける!というダイ・ハードらしからぬ終わり方。「復讐」というのは実は主人公の行動を表現したタイトルだったのです。 クライマックスが全然違う!『バレット・モンク』 『ダイ・ハード3』のラストに未公開シーンがある。というのは有名なエピソードで知っている人も多いかもしれません。せっかくなのでヲトナ基地では誰も知らない削除シーンについても紹介しましょう。 『バレット・モンク』は2003年のハリウッドのアクション映画で、キャッチコピーは「そこの坊主、まるで弾丸!」。主人公はチョウ・ユンファ演じるチベットの超強い修行僧。彼は不老不死の巻物を守っており、第二次世界大戦中から現在に至るまでナチスの襲撃から巻物を守っています。クライマックスはもちろん修行僧とナチスの戦いです。が、DVDのオマケについている未公開シーンを観ると…ニューヨークのギャングの若者たちが修行僧たちと一緒に戦うという展開なんです。実はこの映画は現代のアメリカ人の若者たちとナチスの戦いを描くという、実にアメリカ人好みの内容だったんですね。ただテンポが悪いと判断されて全部カットされたのでしょう。若者を演じた俳優たちが可哀想です。 削除の決断が見える『Shall We Dance?』 ハリウッド版『Shall We Dance?(2004)』のDVD特典を観ると作り手の苦悩がよく分かります。劇中の俳優たちに社交ダンスを長期間トレーニングしてもらって、セットを組んで、見事なダンスシーンを実際に撮影する。そんな素晴らしいシーンを本編には採用せずにカットしているのです。少しでも映画を面白くするための苦渋の判断でしょう。実際、ハリウッド版は日本版よりも短くコンパクトにまとまっていて観やすいです。 意外だったのは削除された「本当のオープニング」で、その内容はリチャード・ギアが通勤しながらジョークを飛ばし続けるというもの。さらにジョークを盛り上げるド派手なダンスシーンも撮影済みで、ミュージカル映画っぽい陽気な始まり方のはずでした。しかし最終的には日本版と同じようにオープニングは社会人の暗い日常を描いたしんみりとした導入になっています。 DVDの特典映像でリチャード・ギアや監督は日本版『Shall we ダンス?』との差別化の苦労を語ります。日本版『Shall we ダンス?』が完璧すぎて、手を入れにくかったとのこと。このようにDVD特典は作り手の苦悩も共有できるのです。 最後に 「映画のエンドロールを最後まで観るか論争」と書きましたが、私は映画の見方は自由だと思っていて、途中でやめても、自宅でながら見でも、早送り機能を使っても、解説動画だけで満足しても、構わないと思っています。それが現代的な映画鑑賞スタイルです。でも一本の映画をとことん味わうのも、オススメの鑑賞方法ですよ。

「大長編ドラえもん」は全ての大人が読むべき聖典である。

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「「大長編ドラえもん」は全ての大人が読むべき聖典である。」。フミコフミオさんが書かれたこの記事では、『大長編ドラえもん』への偏愛を語っていただきました! 僕の世代にとって大山のぶ代=ドラえもんだった。 ドラえもんをテーマにこの文章を書きはじめた、ちょうどその日、長年ドラえもんの声優を演じていた大山のぶ代氏の訃報が飛び込んできた。2005年にドラえもん役を降板して以来、ドラえもんの声優は水田わさびさんが演じておられるが(そちらも素晴らしい)、1974年生まれで1979年からスタートしたアニメに慣れ親しんでいる僕にとって、ドラえもんの声といえば大山氏になる。これまでの人生で「僕、ドラえもんです」の物まねを何度やってきただろうか。 僕個人としても昨年末から、藤子・F・不二雄(以降F先生)が描かれた作品『未来の思い出』『TPぼん』『エスパー摩美』それから短編集を見直していて、その流れで大長編ドラえもんを約40年ぶりに再読して、その素晴らしさにハマってしまったのでタイムリーな訃報になってしまった。 なぜ今、「ドラえもん」なのか。 なぜ、今、ドラえもんなのか。それは世の中がギスギスしていて安心を求めているからだと思う。闇バイト犯罪のように突然狙われて強盗にあったり、日本市場の株価が乱高下したり、欧州で大きな戦争が起こって東アジアの国が派兵する動きがあったり、最近世間は物騒だ。僕個人としても、50歳の管理職になってから社内の勢力争いと過大なノルマでストレスのかかる日々を送っている。 しかし、ドラえもんの世界は優しい。ときどきキャラクターが酷い目に遭うが(スネ夫に意地悪をされたくらいの微笑ましいものだ)最後は安心感で終わる。秘密道具でハチャメチャ投げっぱなしのラストであっても、「チャンチャン!」で終わって、次のエピソードに移れば変わらない優しい世界が回復。これってすごいことだ。ストーリーものでは進行にともなってキャラクターや世界が変わっていくが、ドラえもんは変わらない。必ず、のび太の部屋と土管のある公園に戻ってくる。 そういえば50年生きて来たけれど、いまだに土管が真ん中に「どーん」と置いてある公園に出会ったことがない。あれもSFの世界のものなのかもしれない。「必ず心が安らぐ場所に戻ってくる」、これがドラえもんの求められる理由だろう。綺麗ごとに聞こえるかもしれない。そのとおり。綺麗ごとだ。でも、綺麗ごとが笑われるような世の中はおかしいのだ。 僕とドラえもんの出会い。「ドラえもんは僕の先生だった」 現代を生きている人には信じられないだろうが、僕が子供の頃、ドラえもんのアニメは毎日放送されていた。僕が暮らしていた地域では、平日夕方に10分番組、日曜日に30分番組を放送していた。なお10分版のOP曲は「ホンワカパッパ」という謎フレーズで有名(?)な名曲「ぼくドラえもん」である。嫌なことがあってもホンワカパッパと口ずさめば乗り越えられる気がする。 これだけヘビーローテーションで放送していたのだ。僕は毎回欠かさず観ていた。体感で当時のキッズの90パーセントくらいはドラえもんのアニメを週に数回は観ていたと思われる。ドラえもんが僕のF先生作品のファーストコンタクトだった。ここからいろいろな作品に触れて大きな影響を受けることになる。『エスパー魔美』が僕のエロスに与えた影響は絶大であったし、SF短編の完成度は「漫画家になりたい」という夢をくじけさせるに十分な作品だった……というのはまた別の話である(長くなる)。 ドラえもんのアニメをきっかけに漫画にも手を伸ばした。親におねだりしてはじめて買ってもらったドラえもんの単行本は、てんとう虫コミックスの13巻である。小さい複葉機の上にドラえもんが乗っている素敵な表紙の単行本だ。実は、僕にとってドラえもん13巻が人生ではじめて読んだ漫画単行本だ。F先生の完成度の高く読みやすい漫画で漫画の読み方を僕は覚えた。アニメよりも若干ハードな描写も刺激的で面白かった。 人生最初の漫画がレジェンド級の作品だったので、他の作家さんへの評価が厳しめになってしまい、「つまらない」「読みにくい」としょっちゅう言っていた記憶がある。当時から嫌な奴だったのだ。反省。アニメしか観ていない友達が多いなかで、漫画のドラえもんを読んでいるのは「アニメもいいけど漫画は一味ちがうよね」という優越感に浸れたのもドラえもんが人生初であった。 漫画雑誌もドラえもんがきっかけで読むようになった。単行本にドラえもんが掲載されていたコロコロコミックの宣伝が入っていたのがきっかけでコロコロを読むようになったのだ。今のコロコロがどんな状態の雑誌なのか僕は知らない。1980年ごろのコロコロコミックは滅茶苦茶分厚くてレンガのような形状をしていた。ドラえもん以外の作品が掲載されているとは知らなかった。そのとき漫画雑誌という概念をはじめて学んだのだ。 当時のコロコロコミックで印象に残っている作品はよしかわ進先生の「おじゃまユーレイくん」だ。事故で亡くなって幽霊になった主人公が幼馴染の女の子に取りついて更衣室やお風呂に入るというお色気漫画である。僕は一時期ドラえもんと同じくらいユーレイくんが大好きでねえ……突然連載が終わってしまったときはおおいに悲しんだものである。2000年代に「おじゃまユーレイくん」が復活したときは嬉しかったな。 子供の頃のドラえもんは漫画もアニメも結構ハードな描写があった。ジャイアンのパンチがのび太の顔にめり込む、「皮をはいでやる」みたいな台詞もあったような…。ただ、ハードな描写があったからこそ、悪いことをした人、ひみつ道具を悪用した人は最後にひどい目に遭うというドラえもんお約束のオチが効いていた。 ドラえもんは最後が酷い状態のカオスで終わる回は、その後をいっさい描かれないのが本当に素晴らしい。たとえば調子に乗ったのび太が道具を悪用してひどい目に遭っているのをドラえもんがやれやれと村上春樹のような台詞を言いそうな顔で見つめているコマで終わり、その後はいっさい描かれないのがとてもよかった。その後どう収束するかは僕ら読者である子供たちに任せる、投げっぱなしスタイル。説明過多にせず、受け手の想像力に任せているのが、子供でもわかった。ドラえもんで「最後のコマのあとはどうなるのだろう?」と誰でも想像したことがあるのでは? また、バミューダトライアングルとかスモーカーズフォレストといった子供心をくすぐるウンチクもドラえもんの魅力だった。ネッシーや雪男を知ったのもドラえもんがきっかけだったかもしれない。教科書には絶対にのらないギリギリな教養によってボンクラ人生を歩んでしまったのは、ドラえもんのせいである。投げっぱなしやSFやオカルトをぶち込んでも壊れないのは、ドラえもんの世界観、つまりあの土管のある公園に戻ってくればオッケーという世界観の強さがあるからである。いいかえれば安心感。壊れない強い優しさがあるから無茶ができるのである。子供のときはドラえもんの世界観の強さに安心して乗ることが出来たのである。 大長編ドラえもんは「長編」じゃなくて「大長編」だから子供たちにとって事件だった。 1980年の映画「ドラえもん のび太の恐竜」は僕がはじめて劇場鑑賞したアニメ映画である。つまり、人生初漫画単行本、人生初漫画雑誌と並んでドラえもんで人生初三冠達成である。 コロコロや単行本に掲載されていたドラえもんの話は短かった。それが突然「大長編」の連載がはじまり、映画化。テンション爆上がりだった。なんといっても「大長編」というワードが天才だった。「長編」じゃなくて「大長編」だ。ロマンしか感じない。ちなみに「大長編」の「大」が何かは50歳になった今でもよくわからない。長編小説はあるが、大長編小説は聞いたことがない。キン肉マンの「言葉の意味はよくわからないがとにかくすごい自信だ」という言葉に近いものがある。理屈をこえた凄み。 短編だったドラえもんが突然長いストーリーのある漫画になった。一話で完結せず、数か月間にわたって連載となり次月のコロコロが待ち遠しかった。僕にとってはストーリーものの漫画は大長編ドラえもんが最初だった。ゲストキャラが登場して、いつもの仲間たちと異世界に向かい、ピンチを乗り越えて悪者を倒し、最後には別れが待っている、これが「大長編ドラえもん」の大まかな流れだ。異世界でのび太たちはヒーローになるけれども、必ず、あの土管のある公園のあるいつもの世界に帰ってくる。大長編が成立するのは、壊れない優しい世界観があるからだ。 そして大長編ドラえもんは映画化された。扉絵に「映画化決定」の文字があったときの魂の高揚が想像できますか。平日の夕方に10分間放送されていたミニ番組が長編映画になるのは僕ら子供にとっても大事件だったのだ(大長編だけに)。僕がリアルタイムで大長編ドラえもんの原作漫画を読み、映画を鑑賞したのは「のび太の恐竜」から「のび太と竜の騎士」まで。 印象に残っているのは、やはり第一作目の「のび太の恐竜」になる。原作漫画よりアクションが多めで見どころが多くなっていた……という内容よりも、劇場にいたいちいち解説するバカなガキが記憶に残っている。そいつは僕よりひとつふたつ年上と思われるアホガキで、僕のひとつ前の席に母親と一緒に座っていた。おそらく、事前に映画の内容を紹介するようなフィルム本のようなものを読んで予習してきたのだろう(アホだから)、劇中に登場する恐竜の名前をアホみたいな大きな声で叫び、僕を「のび太の恐竜」の世界から現実世界に引き戻したのである。子供心に映画館には変な奴がいるという学びを得た。今頃はハラスメント上司か嫌味な中間管理職になっているにちがいない。あと、大長編ドラえもんは武田鉄矢のテーマソングが名曲ぞろいなのでぜひ聞いてもらいたい。特に「宇宙小戦争」の「少年期」は屈指の名曲だ。 成長にともなってドラえもんから遠ざかっていた。 80年代中盤、中学生になった頃から「ドラえもん」の熱心なファンとはいえない状態になった。嫌いになったわけではない。ドラえもんのアニメが放送されていれば観たけれど、わざわざ放送時間にテレビの前に座ることはなくなっていた。単行本やコロコロコミックは買わなくなってしまったし、大長編ドラえもんの連載開始も気にならなくなったし、劇場版映画も「竜の騎士」を最後に観なくなっていた。 成長するにつれて、コロコロコミックから週刊少年ジャンプをはじめ、マガジン、サンデーといった「ちょっと大人の香りがする雑誌」へ興味が移っていったのだ。「コロコロは面白いけれど、ちょっと子供っぽいよな。大人になるってこういうことだよな」みたいな感じだったと思う。ジャンプはドラゴンボール、北斗の拳、キン肉マン、ジョジョといったバトル系の漫画が全盛期で、登場人物が戦いで死ぬようなハードな展開にカッコよさを感じていたのだ。漫画以外にもファミコンや部活動がはじまって、ドラえもんに割く時間がなくなってしまったこともある。 大学から社会人になってもドラえもんを遠ざけていた。社会の理不尽さや不公平さを垣間見てしまったあとでは、それに対してドラえもんの優しさが有効な武器になるとは到底思えなかったし、ドラえもんに対して「何、きれいごとを言っているのだろう」といら立ちすら覚えてしまう気がしたからだ。かつて大好きだった、漫画とアニメのファーストコンタクトだったドラえもんを嫌いになりたくなかったのだ。追い打ちをかけるように1996年、F先生が亡くなってしまった。これが僕の中にあった「さようならドラえもん」感を決定的なものにしたといっていい。 だが、ドラえもんと距離を置いていても、心のどこかでは気にはなっていた。僕が子供の頃にスタートした「のび太の恐竜」から毎年新作が公開されていたことも、テレビアニメが過去作をリメイクしながらずっと続いていることも知っていた。また時々発売されていた単行本未収録作品集「ドラえもんプラス」は読んでいたし、ドラえもん0巻だって手に取った(「STAND BY ME ドラえもん」には違和感を覚えていた)。定年して落ち着いた生活を送れるようになったらまたドラえもんを読もうとうっすらと思っていた。 大人になって僕がドラえもんにはまっている理由。 今、僕は第二次ドラえもんマイブームの中にいる。勝手に「さようならドラえもん」をしておいて勝手なものである。わかる人だけにわかる言い訳をすると、「帰ってきたドラえもん」の「ウソ808」を飲んで「さようなら」をなかったことにしたのである。きっかけはテレビ放送されていた「のび太の宇宙小戦争」のリメイク版「2021」である。なんとなく観たところ、これが面白かったのだ。三十年間眠っていたドラ魂に火が付いた。 大全集が発売されていたので、かつて読んだことのある大長編が収録されている巻を買って読んだ。「のび太の恐竜」から「竜の騎士」まで一気に読んだ。記憶以上にハードな内容に読めた。優しさでコーティングされているだけだった。大長編で登場する異世界の住人たちは、悪者から侵略を受けていたり、権利を奪われようとしていたりしていた。大長編には、戦争や環境問題など、現実にある危機がモチーフにされていることがわかった。 たとえば「海底鬼岩城」はもろに当時の米ソ冷戦がモチーフになっている。滅びたアトランティスによる自動報復装置(鬼角弾という大量破壊兵器が全世界に発射される)などは、ロシア大統領が死んだら核兵器が発射されると噂されている「死の手」システムそのものだった。子供の頃は、そういう要素には気づかなかった。また、青年期の僕が「子供っぽい」「きれいごと」とドラえもんを評していたのは、僕の浅い見識による誤解だったことを思い知らされたのだ。 大人になった僕がドラえもん、特に大長編にはまったのは「スタンド・バイ・ミー」的な見方が出来るようになったのが大きい。なお、この「スタンド・バイ・ミー」はスティーブン・キング作品であって、「STAND BY ME ドラえもん」ではない。大長編ドラえもんはどの作品もひと夏の少年少女たちの冒険なのだ。そしてそれらの冒険は大人になってからでは二度とできない貴重なものだと、大人になってからわかるのだ。大長編ドラえもんは、子供の頃、友達との記憶と重なって「コロコロや単行本を貸し借りしたなあ」「友達と山や川へ冒険したなあ」という郷愁を喚起するのだ。 で、やっぱり大長編ドラえもんは大ピンチに陥っても必ず帰ってくる場所があるのがとてもいいのだ。<どんなに苦しいときがあっても、命の危険にさらされても、日常は続いている>が今になって刺さった。社会に出てからは仕事できっついノルマを課せられたり、ライター業の締め切りに追われたり、理不尽なこと、厳しいことばかりだ。それが続いている。でも大長編ドラえもんは必ず異世界から帰ってくる描写があり、「大丈夫なんだ」と安心させてくれる。「死の手」システムと戦ってもドラえもんたちは生還して普通の暮らしを取り戻しているじゃないか、俺はまだやれると思わせてくれるのである。 物語としては、悪を倒してガッツポーズで幕を引いてもよいF先生はドラえもんたちの帰還まで、冒険を終わらせて日常のスタートまで描いている。先に述べたように、短編のストーリーでは読者の想像にまかせて投げっぱなしにしているのとは対照的だ。大長編ドラえもん、特に80年代に描かれた作品は大人になってからも楽しめるし、勇気をもらえる作品なのでぜひとも読んでもらいたい。 最後に漫画版大長編ドラえもんで刺さったシーンを三つあげておく。一つ目は「のび太の大魔境」のクライマックス前。ピンチに陥ったドラえもんとゲストキャラクターのペコ。皆を救うためにペコが単独行動を取ろうとする。だが責任を感じたジャイアンがペコの後を追いそのあとから皆も。という胸が熱くなるシーンをF先生は台詞なしで描いている。 二つめは「海底鬼岩城」の海底バギーの特攻。大長編ドラえもんでは珍しい自己犠牲シーンに涙を禁じ得ない。漫画版だと欠片のねじをもったしずかちゃんが「わたし忘れない」というけれどもその後バギーを思い出しているシーンが観たことがないあたりもリアルでよい。 三つめは冒険後のシーン。どの大長編でもいいのだが日常に帰ってくるところはいずれもドラえもんやのび太たちが充実感にあふれていてよい。長々と語ってしまったが、殺伐として先の未来今だからこそ大長編ドラえもんの原作を読んでほしいし、読むべき作品だと思うのだ。初期大長編ドラえもんは全人類が読むべき聖典である。

なぜピクサーはいつだって懐かしいのか。〜『トイ・ストーリー』から探る創作術〜

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「なぜピクサーはいつだって懐かしいのか。〜『トイ・ストーリー』から探る創作術〜」。千葉集さんが書かれたこの記事では、ピクサーへの偏愛を語っていただきました! 3DCGアニメーションのトップランナー「ピクサー」  (Author:Coolcaesar、CC-BY-SA.3.0) ピクサーについてお話させていただきます。 1995年の『トイ・ストーリー』以来、ピクサーは3DCGアニメーションのトップランナーとして2024年現在までに30作近い映画を世に放ってきました。 その歴史は輝かしい傑作にいろどられています。『モンスターズ・インク』、『ファインディング・ニモ』、『Mr.インクレディブル』、『レミーのおいしいレストラン』、『ウォーリー』、『インサイド・ヘッド』、『マイ・エレメント』⋯⋯。だれもが子どものころに一度は見て、魅了されたおぼえがあるのではないでしょうか。 かくいうわたしも一作ごとに初めての鑑賞したときの思い出を鮮明に思い出せます。『インサイド・ヘッド』や『トイ・ストーリー4』での「別れ」のシーンでは非常に心打たれたのをおぼえていますし、『ファインディング・ドリー』に至ってはドリーに自分を重ね合わせて上映中ずっとマジ泣きしておりました。 あるいは、大人になってから観た作品でも楽しめたり、感激した経験を持っているひともいるでしょう。 ピクサー作品は、たとえそれが2024年に作られた初見の作品であっても、どこか懐かしさをまとっています。 そもそも、一作目である『トイ・ストーリー』からしてノスタルジックな味わいが顕著です。『トイ・ストーリー』の特徴とは、古いものしかないことだといってしまってもいい。 そういうと疑問に感じるもいるでしょう。 「『トイ・ストーリー』とは世界初の長編フル3DCGアニメーション作品であり、長らくディズニーが支配してきたアメリカのアニメ映画界にピクサーという新星が現れた画期であり、これまでのアニメにはなかったフレッシュなストーリーテリングを実践した物語であり、とにかく『新しさ』しかなかったのじゃないか」と。 その見方はただしい。『トイ・ストーリー』は技術的側面に関しては圧倒的に新しかった。 古くて懐かしいのは、『トイ・ストーリー』で描かれた世界のことです。 『トイ・ストーリー』は「みんなが観たいと思うもの」とは違っていた みなさんとうにご承知かともおもいますが、『トイ・ストーリー』のあらすじはこう。 とある郊外の一軒家、アンディという少年が子供部屋で想像力を羽ばたかせていろんなおもちゃでごっこ遊びをしています。 なかでもアンディのお気に入りは西部劇の保安官の人形、ウッディ。ウッディはアンディ少年の親友を自負し、アンディのおもちゃたちのリーダー的存在でもありました。 そこにある日、アンディへのプレゼントとして最新鋭のアクションフィギュアである宇宙飛行士バズ・ライトイヤーがやってきます。アンディはすっかり新しい人形に夢中。 持ち主の寵愛を横取りされたウッディは、嫉妬心からバズにいたずらをしかけますが、それがとんでもない方向へ転がっていき⋯⋯というお話。   制作当時、映画の出資者でもあったディズニーのCEOマイケル・アイズナーは「男の子がお人形遊びする話なんて、だれが観たいとおもうんだ?」(*1)と首を傾げたそうです。 (*1:Charles Solomon『The Toy Story Films:An Animated Journey』White Plains) 今から振り返るとあまりに見る目のなさすぎる発言ですが、しかし当時の情勢をふり返れば、無理からぬ受け取り方でもあります。ディズニーの考える「みんなが観たいとおもうもの」は『トイ・ストーリー』とは違っていました。  どういうことか。 『トイ・ストーリー』の監督をつとめたジョン・ラセターのディズニー時代の師匠的な存在(1981年に『きつねと猟犬』の冒頭シーンを共同して担当)であった伝説的アーティスト、グレン・キーンは「ピクサーとディズニーの違い」を問われてこう答えました。 >> ピクサーとディズニーそれぞれの特徴を一言で表すとするなら、ピクサーは「もし"こう"だったらクールじゃない?」、ディズニーは「むかしむかしあるところに……」だ。すぺてのピクサー映画は子どもの目線になって、「もしもおもちゃがしゃべれたら?」といったようなことを考えることから出発する。 出典:https://www.cloneweb.net/rencontre-avec-glen-keane << 今でこそ、完全オリジナル作品が多いディズニーの長編アニメーション作品ですが、2000年代以前はおとぎ話や子ども向け文学作品をベースにした映画ばかりでした。 それこそ「古いもの」の再解釈とノスタルジーがディズニーの十八番だったわけです。 『美女と野獣』を振り返る 1991年公開の『美女と野獣』を見てみましょう。本作ではルーカスフィルムの傘下にあった当時のピクサーチームの開発による3DCG技術が話題となり、ピクサーとも縁深い作品です。あとまあ、個人的に最近海外を訪れたさいに現地で観たミュージカル版の『美女と野獣』がめちゃよかったので。 古くからあるおとぎ話をブロードウェイ・スタイルのミュージカルとして再話したこの映画のラストシーンでは、いろいろあって何もかもうまくおさまり、ヒロインであるベルと王子さまである(元)野獣が親密そうにダンスする姿を見たある子どもが、「これでふたりは『いつまでも幸せに暮らしました(Happily Everafter=おとぎ話の最後につく「めでたしめでたし」的な常套句)』になるの?」と母親に訊ね、母親は「もちろんよ」と答えます。そして、メインテーマソングでもある『Beauty and The Beast』のサビがリプライズされます。 >> Tale as old as time. Song as old as rhyme. Beaty and the Beast. 時のはじまりからある古い物語。 詩(韻)のはじまりからある古い歌。 それが美女と野獣。 << そうして、しあわせな二人の姿がステンドグラスとして伝説に刻まれ、幕が降ろされます。 何重にも「これはおとぎ話ですよ」と強調されるわけです。 (『ヨーロッパのおとぎ話』という1916年の本に付されたジョン・B・バッテンによる『美女と野獣』の挿絵) 個人的にも『美女と野獣』は大好きな映画で子どものころから何回も観ていますが、そのファンの眼からしてもプロットや話運びにやや強引なところがあるのは否めません。 しかし、ひとびとの共同的な記憶であるおとぎ話や民話を下敷きにすることで、そうした無理やりさを中和しつつ、ある種の懐かしさを帯びさせる。ここにおいてノスタルジーは、たんなる雰囲気やなんとなくの感触ではなく、はっきり戦略として用いられています。 ディズニーは、ウォルト・ディズニーのころからノスタルジーを武器にしてきた会社です。みんなが知っている物語を、現代に即した形でチューンナップしつつ、同時に安心できる懐かしさを提供すること。それが旧来的なディズニーにとっての「みんなが望む物語」です。 最新作の『ウィッシュ』は、そうしたまなざしを自社作品そのものに向けたという点でよくも悪くも興味深いのですが、話をピクサーに戻しましょう。 『トイ・ストーリー』はわたしたちがかつて見ていた世界でもある グレン・キーンの物言いに従えば、ピクサーはディズニー式のおとぎ話を採用しません。それは大衆性を放棄しているという意味なのでしょうか?   もちろん、違います。『トイ・ストーリー』は、ディズニーとは別の仕方でひとびとの共通の記憶にアクセスしているのです。 おもちゃに想像を託して遊ぶこと。それは多くの人間が子ども時代に通ってきた道です。あのころは生命なき人形たちがほんとうに生きているかのように感じ、純粋に友だちのようにおもえた。「もし、おもちゃたちが生きてて喋ることができたら⋯⋯」という『トイ・ストーリー』の What if  は、ただ設定として意外性があるというだけでなく、こうした子どものリアルな心情の反映でもあります。『トイ・ストーリー』の世界は、われわれがかつて見ていた世界でもあるのです。 このようなセッティングが普遍的でないわけがない。ピクサーがディズニーと別の経路でひとびとの共通の記憶にアクセスしているとは、そういうことです。ノスタルジーを呼び起こすという点では、実はおなじ戦略を取っていました。 そして、『トイ・ストーリー』がおもしろいのは、そうした普遍的な子どもたちの記憶と同時に、ジョン・ラセターの個人的な思い出も埋め込まれていることです。 ピクサーの黎明を描いた『ピクサー 早すぎた天才たちの逆転劇』(ハヤカワ文庫NF)などでも触れられている有名な話ですが、ウッディの「取り付けられている紐を引くと録音されたセリフを喋る」という仕掛けは、ラセターが子ども時代に大好きだったおばけのキャスパー人形から得たものです(*2、*3)。また、もうひとりの主人公であるバズも、やはりラセターの好きだったアクションフィギュアであるG.I.ジョーをモデルにしています。映画公開に合わせてバズのおもちゃを出したときも、バズのフィギュアはG.I.ジョーのサイズに合わせて作らせたという逸話もあります。 (*2:映画公開当時のインタビューでは実際にその人形をカメラの前に見せていますから、よほど愛着があったのでしょう) (*3:David A. Price『The Pixar Touch』Vintage) 1957年生まれのラセターは、60年代から70年代にかけての少年期をカリフォルニア州のホイッティアという街で過ごしました。ホイッティアはもとはガチガチに保守的な田舎町でした(ニクソン元大統領の出身地でもあります)が、戦後の開発によって人口が倍増し、リベラルな郊外の空気も混じるようになりました。ラセターが育ったのは、そんな時期です。 (カリフォルニア州ホイッティアのダウンタウン) 批評家のジョシュ・シュピーゲルが指摘するように、『トイ・ストーリー』には、そんなラセターの少年時代の記憶が色濃く反映されています。みなさんもわたしも同様、マクドナルドで『トイ・ストーリー』シリーズのハッピーセットが出るたびに死に物狂いでコンプリートしたことかと思いますが、実はあれらのおもちゃの一部は『トイ・ストーリー』のオリジナルではありません。 『トイ・ストーリー』に出てくるウッディのおもちゃ仲間のうち、じゃがいもを模したミスター・ポテトヘッド、バネのおもちゃであるスリンキーをダックスフントと合体させたスリンキー・ドッグ、緑色の兵士のおもちゃであるアーミーメン、日本では「つなぐでござる」の愛称で親しまれている繋げるサルのおもちゃバレル・オブ・モンキーズ、これらはすべて50〜60年代にかけてアメリカで人気を誇った実在のおもちゃです。当時最もあたらしいおもちゃに見えたバズ・ライトイヤーでさえ、そのコンセプトは「1950〜1960年代のSF映画やテレビ番組の宇宙飛行士を彷彿とさせ」(*4)ます。 (*4:Josh Spiegel『Yesterday is Forever: Nostalgia and Pixar Animation Studios』The Critical Press) 一方で、90年代当時に流行していた最新のおもちゃは実名で登場しません。99年公開の『2』でようやくスーパーファミコンらしきゲーム機が出てくるくらいでしょうか(*5)。 (*5:ビデオゲーム自体はピザ屋附設のゲームセンターという形で『1』にも出てきます。)  『トイ・ストーリー』の世界は一見90年代的な風景に見えますが、こうして巧妙に現代的なものを隠蔽し、ラセターの過ごした60年代にこっそり塗り替えているのです。  そしてそのことがまた普遍性に貢献してもいる。新しいものは常に古びる可能性がありますが、すでに古く懐かしいものは(その時代を体験していないものにとってさえ!)永遠に古く懐かしいままです。 個人の記憶を普遍性に還元する物語づくりに挑みつづける (Mr.ポテトヘッド。Author: c'est la Viva/ CC-BY-SA 3.0) アニメ界の革新者であるラセターは、同時に伝統主義者でもありました。2006年にピクサーはディズニーによって買収され、ラセターはディズニーのアニメーション部門の最高責任者を兼ねるようになりましたが、そのときに彼がまず行ったのは80年代から「ウォルト・ディズニー・フィーチャー・アニメーション」となっていた社名を、「ウォルトが映画を作っていたときの名前に近い」(*6)という「ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ」に変え、手描きアニメーション時代のディズニーのベテランたちを呼び戻すことでした。 もともと、ディズニーは2004年の『ホーム・オン・ザ・レンジ』を最後に2Dアニメーションを放棄することを宣言していたわけですが、3Dの寵児たるラセターはそれを覆して新作2Dアニメーション作品を製作しはじめたのです。 (*6:https://www.gamesradar.com/interview-john-lasseter) 3D進出と並行して行われたディズニーの2D回帰路線は商業的には失敗に終わるのですが、時代に逆行してでも古き良きものを残そうとしたのです。実際、2009年の『プリンセスと魔法のキス』は歴史に残る一作になったといえるでしょう。つづけてほしかったなあ⋯⋯。TVシリーズや短編だと今でも2Dをやってはいるんですが⋯⋯。そうそう、去年の『ウィッシュ』の同時上映の短編『ワンス・アポン・ア・スタジオ -100年の思い出-』は100年分のディズニーキャラをインクと紙という文字通りの手描きで再現していて、泣きそうになりましたね⋯⋯。 さておきつ、3D時代のアニメの先駆者として知られ、実際キャリア初期には3Dの可能性を追い求めたことで憧れだったディズニーを追い出されたラセターですが、そうした彼のイメージと、上のような懐古的な態度はすこしズレがあるように見えるかもしれません。 2011年にラセターはアメリカン・フィルム・インスティテュート(AFI)のインタビューでこう語っています。 >> どんなに面白くてアクションに満ちた目に楽しい映画だとしても、最後に大事になるのはハートです。それはひとびとの心に残り、キャラクターへの愛となります。 私が特別誇りにしているエピソードがあります。『トイ・ストーリー』の公開から5日ほどたったころ、私はダラスフォートワース空港に家族といました。そこに通りすがった小さな男の子が、ウッディの人形を抱えているのを見たんです。 そのとき、私は悟りました。あのキャラクターたちは、もう私のものではなく、あの子たちのものになったのだと。 出典:htps://www.youtube.com/watch?v=eS192sE4wLY << 自らの思い出への愛着を作品に託して世に出し、それらを後の世代に明け渡して、「みんな」の記憶にすること。 その草創からアニメーションは技術の発展とともにあり、最新の技術を追求して表現の幅を広げていくことはアニメーションを志すものにとっては当然の営為でした。そうした技術に、物語やキャラクターにハートが乗ることで万人へ届く感動が生じるのです。 それは実はラセターの憧れであるウォルト・ディズニーも同様だったのですが、さておき、ラセターだけでなく、ピクサーは会社としても個人の記憶を普遍性に還元する物語づくりに挑みつづけています。 『ファインディング・ニモ』や『インサイド・ヘッド』は監督であるアンドリュー・スタントンとピート・ドクターそれぞれの子育ての経験から発したものですし、『私ときどきレッサーパンダ』では監督のドミ・シーが中国系カナダ人として不安定な思春期時代を過ごしたことが、『ソウルフル・ワールド』では主人公とおなじく元ミュージシャンだった脚本のケンプ・パワーズのアフリカ系コミュニティでの感覚が(*7)、それぞれ映画に深く根ざしています。 (*7:Disney+『ピクサーの舞台裏』(2020年) 個人的に興味深いのは、最近ではピクサーの初期作品それ自体がミレニアル以下の世代のノスタルジーとなりつつあることです。わたしは昨年、東京ディズニーリゾートのトイ・ストーリー・ホテルに泊まったのですが、子どもたちはもちろん『トイ・ストーリー』世代のお父さんお母さんも、ホテル内に施された意匠に反応したり、ホテル内レストランで食器をお片付けするともえらるロッツォのシールを嬉々として集めたりしているのを見ました。ラセターの思い出はいまやわたしたちの思い出なのです。 ピクサー作品はつねに新しくて懐かしい。だからこそ、誕生から三十年を迎えようとしている現在でも、わたしたちを魅了しつづけているのです。   【他参考映像・文献】 レスリー・アイワークス監督『ピクサー・ストーリー〜スタジオの軌跡』(2007年) ブラッド・ラックマン監督『トイ・ストーリー20周年スペシャル:無限の彼方へ さあ行くぞ!』(2015年) エド・キャットムル、エイミー・ワラス、石原薫訳『ピクサー流 創造するちから』ダイヤモンド社(2014年)

「Re:ゼロから始める異世界生活」のエミリアの人気を取り戻したい

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は『「Re:ゼロから始める異世界生活」のエミリアの人気を取り戻したい』。かんそうさんが書かれたこの記事では、『「Re:ゼロから始める異世界生活」のエミリア』への偏愛を語っていただきました! 「Re:ゼロから始める異世界生活」のエミリアを愛している。どれくらい愛しているかというと、ラノベやアニメを履修済みなのは当然ながら、2019年にリゼロのパチスロが導入された瞬間、それまで10年以上絶っていたパチスロをまた始め、毎回打つたびにどんなに収支がマイナスになろうがエンディングに辿り着くまで諭吉をサンドに突っ込み続けたくらい愛している。 しかし、リゼロファンの中ではエミリアよりもレムのほうが人気だという結果が何度も出ており、そのたびに俺は血の涙を流し、苦虫を噛み潰すような、いやナツキ・スバルを噛み潰すような思いをしてきた。なぜ、どうしてエミリアの魅力が伝わらないのか、この世界は間違っている。だったら俺が教えてやる。 「君が自分の嫌いなところを10個言うなら、俺は君の好きなところを2000個言う」 とは、1期第25話『ただそれだけの物語』でスバルがエミリアに言ったセリフですが、今から俺がスバルの代わりに2000個言いたいと思います。 荒野に咲く一輪の花のような可憐な笑顔 雪のように麗しい銀色の髪 脳髄に直接響く甘く切ない銀鈴の声 思わず吸い込まれそうになる紫紺の瞳 絹のように透き通った肌 しなやかに伸びた美しい手足 ツンと尖った耳 前髪からのぞかせる細眉 そんな自分の魅力に気づいてないところ 自分よりも他人を優先し、困ってる人を放っておけないところ なのにそれを認めようとせず真逆の態度を取るところ 氷魔法使いなところ 魔法使いなのに身体能力も高いところ 何事にも一生懸命で目標のために努力を惜しまないところ 嬉しいくせに恥ずかしがるところ エミリアたんって呼んだだけで頬を赤らめるウブなところ 自分も楽しみにしてるくせに「でいと(デート)”してあげる”」って言っちゃう素直じゃないところ 世間知らずなところ 天然なところ 意外と嫉妬深いところ 嘘がつけないところ 世話好きなところ 部屋着がかわいいところ 年上なのに子供みたいに純粋な一面があるところ 図太そうに見えて心配性なところ 決して他人を見下さないところ どれだけ周りに疎まれようが自分を見失わないところ おっとりした性格なのに決断は迷わない思い切りの良さ 綺麗なものをまっすぐ綺麗だと思える無垢なところ 「すごく」じゃなく「すごーく」と伸ばして言うところ 家事が苦手なところ 音痴なところ 焦ると早口になるところ 子供に優しいところ なにがあっても諦めないところ ケガをした人間に無茶をさせないところ でも自分のことは顧みずに大切な人を助けるためならどんな相手でも立ち向かうところ キスしたら赤ちゃんができると思ってるところ 「キス」じゃなく「ちゅー」っていうところ 勉強熱心なところ 身長164センチなところ 実年齢100歳超えているのに精神年齢は子供なところ すぐお姉さんぶるところ 合理主義ぶってるけど全然そうなれていないところ 友達少なそうなところ でも一回仲良くなったらなによりも大事にしそうなところ 仲良くなった相手だけに喜怒哀楽を見せてくれるところ 幼少期のほっぺたプニプニなところ 自分の弱さを認め、強くなろうと思えるところ 後ろから支えるんじゃなく隣で一緒に戦ってくれるところ 恋愛感情というものがよく分かってないところ 誰かを危険にさらさないためにわざと冷たい言い方をするところ そのくせすぐ他人を信じてしまうところ 「しっかりしている自分」を演じているところ でもどこか抜けているところ 疲れた時になにも聞かずに膝枕してくれるところ 太ももやわらかそうなところ 「ちょっと」と言いつつちゃんと付き合ってくれるところ 聞かれたくないことは聞かないところ 泣き顔もかわいいところ 怒った顔もかわいいところ 全部かわいいところ 「おったまげた」「おかんむり」「おたんこなす」などたまに喋り方が古臭くなるところ 「しっかりしている自分」を演じているところ でもどこか抜けているところ 身だしなみに無頓着なところ でも結局なに着ても似合っちゃうところ 強がってるけど実は寂しがり屋なところ なんでも自分でやろうとする意地っ張りなところ ただ甘やかして肯定するだけじゃなく悪い時はちゃんと悪いってくれるところ 弱さを他人に見せようとしないところ でも信頼している人の前では感情的になっちゃうところ 誰かに守られる存在じゃなく誰かを守る存在でありたいと思っているところ がんばったらがんばったぶんだけご褒美をくれるところ 「ごめん」よりも「ありがとう」を大切にしているところ 公平な世界を望むところ 人の幸せを願い人の不幸を悲しむことができるところ おっぱいデカいところ 俺より先に死なないところ 独り言が多いところ 「バカ」を褒め言葉として言ってくれるところ 人間界に来たらコンビニに感動しそうなところ 意外と酒に強そうなところ 字が綺麗そうなところ クレーンゲームとかムキになって何時間もやりそうなところ 待ち合わせの時間をちゃんと守りそうなところ むしろ20分前には着いてそうなところ 結構前から着いてたのに「待った?」って聞いたら「勘違いしないで!今来たとこだから!」とか言いそうなところ 野良犬に懐かれそうなところ 浴衣とかめっちゃ似合いそうなところ 一駅二駅くらいなら余裕で歩いて帰りそうなところ 何時間でも本屋にいられそうなところ 食べ物の汁が服についてシミになるのをなによりも嫌がりそうなところ 炊飯器の予約スイッチ押すのよく忘れそうなところ おなか鳴ったらめっちゃ恥ずかしがりそうなところ マラソンのペース配分間違えてすぐ疲れちゃいそうなところ 店員でも他の女子と喋ったりするとちょっとムッとしそうなところ スーパーで半額シールがちょうど貼られたらすごい嬉しそうな顔しそうなところ おみくじとか意外と信じそうなところ 初めて来た街でもすぐパン屋見つけそうなところ 唐揚げにレモンかけるかどうかちゃんと聞いてくれそうなところ たい焼き頭か尻尾どっちから食べていいか分からなそうなところ ホルモンいつ飲み込んだらいいか分からなそうなところ 葬式中にクシャミが出そうになっても我慢しそうなところ 洗濯洗剤と柔軟剤間違えそうなところ カラオケで店員入ってきたら歌うのやめそうなところ ゾロ目見たら喜びそうなところ 遊園地のコーヒーカップめっちゃ回しそうなところ LINEの返信早そうなところ 自撮り下手そうなところ マックでナゲットとポテト頼んでナゲットのソースにポテトつけて食べるのをすごい発明したみたいに自慢してきそうなところ 日焼けとかめちゃくちゃ気にしそうなところ コンビニでもらったクーポン付きレシートちゃんと取っておきそうなところ 朝起きたら これ以上は編集に「やめろ」と言われたのでこのあたりで一旦終わりにしておきます。少しはエミリアの魅力が伝わったでしょうか。残り1886個につきまして、知りたい方は個別にご連絡ください。 https://twitter.com/Rezero_official/status/1849405488313610414 さて、11月からリゼロのパチスロ新機種『Re:ゼロから始める異世界生活season2』が導入されています。 そう、またエミリアのためにサンドに渋沢栄一を突っ込むだけの生活が始まってしまう。勝てるかどうか?そんなのは関係ない。エミリアの笑顔を見るためなら俺は何度だって栄一を突っ込み続ける。これが俺の「Re:ゼロから始めるパチスロ生活」だ。

全マンガ読み必読の「埋もれた」超傑作『ヴァンパイア十字界』をネタバレ抜きで紹介する。

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「全マンガ読み必読の「埋もれた」超傑作『ヴァンパイア十字界』をネタバレ抜きで紹介する。」。海燕さんが書かれたこの記事では、『ヴァンパイア十字界』への偏愛を語っていただきました! 「大事なものを失ったのがどうした 這い回ったのがどうした 復讐を否定されたのがどうした それくらい私だって見たぞ ――いや それ以上のものさえ私は見ている お前はまだずっとましだ そんなもので支えられた剣を私に誇るな 私を殺したければ 私以上の地獄を見つけるがいい」 引用:城平京&木村有香『ヴァンパイア十字界』 埋もれた傑作などめったにないはずだが――あった。 https://twitter.com/Sin_Utyouten/status/1787141861465071919 それは、物語を愛する人々の心に宿るひとつの甘い幻想である。 どこかに、その破格の内容にもかかわらず、あまり知られていない、あるいは不当に評価されている「埋もれた大傑作」があるのではないか。その作品は、真にその作品を愛でるべき読者の手がとどかないまま、いまも膨大な出版物の山のなかに静かに眠っているのではないか。そういう、いかにも甘すぎるファンタジー。 現実には、とくにこのインターネット時代においては、そのような作品が存在する可能性は限りなく低い。 いまでは、どれほどマイナーな場所で発表された作品であろうと、だれかが見出し、正当に評価し、光をあてて情報を広めるものであり、埋もれた傑作がいつまでも埋もれている可能性はほとんどないのだ。 そう、ずっと埋もれたままの傑作など、まず、ない。そう断言してもかまわないように思われる。じっさい、わたしもまったく思いつかない――たったひとつの「例外」を除いては。 その唯一無二の「例外現象」こそがこの『ヴァンパイア十字界』なのだ。 緻密に練られた構成、幾たびとなくくり返す逆転、ドラマティックかつ悲劇的な物語、長く印象に残るキャラクター。いずれも、いままで読んできた物語のなかで最高水準であり、読後には唖然として言葉が出ないレベルの傑作というしかない。 原作の城平京が手がけたマンガ作品には素晴らしいものが多いが、そのなかでも圧巻の最高傑作というべきであろう。 あるいは、2000年代に発表されたすべてのマンガのなかでも、たとえば『進撃の巨人』などと並び最高峰を争う名作であることに、わたしはまったく疑いを抱かない。 だが、それにもかかわらずこの至上の作品は十分に読まれ、評価されているとはいいがたい。 もちろん、一定の層には読まれているし、最後まで読み終えた人の評価は総じて高いのだが、それでも、その内容の充実さを考えると、やはり「埋もれてしまった」作品と見ることが正しそうだ。 城平京の他の作品には『スパイラル ~推理の絆~』『絶園のテンペスト』『虚構推理』などアニメ化され、好評を博した有名作品が多々あるだけに、かれが手がけたマンガのなかでも白眉ともいうべきこの『ヴァンパイア十字界』が広く知られていないことはあまりにも惜しく感じられる。 これこそまさに「もっと評価されるべき」真のマスターピースだ。 あなたがもし、まだこの魂の物語を読んでいないのだとすれば、どうかわたしの言葉を信じていますぐ読んでみてほしい。 全九巻とコンパクトにまとまっており、一気に読み上げてしまうこともできると思う。読後には最高の満足感が待ち受けていることを保証する。 ほんとうにほんとうに素晴らしい物語だけが持つ、ため息すら出ないような感動。この作品はそういった格別の読後感をあたえてくれる、数少ない本物の名作のなかの一つなのである。 なぜ、この名作は埋もれたのか。 https://twitter.com/kuga_54/status/1806445312153919687 ただ、正直にいえば、それでもなお、十分に高く広く正しく評価されることなく「埋もれた傑作」になってしまった理由もわからないではないのだ。 一つには、作品のリアリティラインの問題がある。物語は「国を失ったヴァンパイアの王」ローズレッド・ストラウスの一千年の時をかけた長い旅から始まり、その後、じつに意外な方向へ二転三転していくことになるのだが、その構想の雄大さは最初の時点ではまったく見えないといって良い。 初めのあたりはごく凡庸な「中二病」のファンタジーと見える、いや、そうとしか見えないのである。 かつて、マンガ批評家の伊藤剛は名著『テヅカ・イズ・デッド』の冒頭において、「ガンガン系」のマンガが偏見の目にさらされ不当に低い評価を受けている事実を指摘し、そのような見方を批判したが、そうはいっても「ガンガン系」の特異なリアリティラインに反発を感じる読者は多いだろう。 『ヴァンパイア十字界』は一見するとその「ガンガン系」のごくありふれた一例と映るところがたしかにある。 強大な魔力を暴走させ一国を滅ぼした吸血鬼の女王アーデルハイトに、封印された彼女を探し求める亡国の吸血鬼王ストラウス、さらにかれが千年のあいだ戦いつづけるかつての愛娘ブリジット、そして、全人類のなかでたったひとりストラウスに対抗する力を持つ女性「黒き白鳥(ブラック・スワン)」と、いかにも「中二病」的といいたくなるような設定がそろっていて、あたかもただ「ハッタリ」や「雰囲気」で物語を演出しているかのように見える。 あまりにも広げた風呂敷が大きすぎて、とても満足に回収し切れるとは思えないような一面があるのだ。 どうせ、ただそれらしい設定をそろえて登場人物を戦わせることに終始するばかりのありきたりな「バトルもの」に過ぎないだろう。冒頭のあたりを読んで、そう判断する人物がいたとしても、わたしはまったく責められない。 むしろ、そういうふうに読むのが当然というものだ。第一話の時点でクライマックスの展開を予想できる人がいるとすれば、それは想像力というより妄想力がたくまし過ぎるというものである。 まさか、ストラウスの目的に、あのようなすさまじい真実がひそんでいようとは――。しかし、この記事ではあくまでネタバレは避けることにした。物語の先の展開についてふれることはやめておこう。 https://twitter.com/crosstaichi/status/1828046495465242918 とにかく、この作品、始まりのあたりではのちに待ち受ける雄大無比な展開をまったく想像できない構造になっており、しかもその構造こそが物語をでたらめに面白くしているその本質なのである。もし、そのすべてをここで書いてしまったなら、この作品の魅力は半減することだろう。 したがって、第一巻より第二巻、第二巻より第三巻と、物語はさまざまな謎を秘めつつ尻上がりに面白くなってゆく。いったい、ほんとうにこのすべての謎が解き明かされる結末が待っているものなのかどうか、そう疑ってしまうほどに。 ところが、物語が終盤に至ると、なんとすべての謎は疑問の余地なく解き明かされてしまうのだ。しかも、そこに展開する光景はまさに想像を絶するものだ。 世界を救うため立ち上がったダムピール(半吸血鬼)たちの軍団を敵にまわし、さらには転生を続ける代々の「黒き白鳥」を殺害しつづけ、ただひたすらに愛する妻の封印を解こうとするローズレッド・ストラウスの真意はどこにあるのか? その「隠された真実」があきらかになったとき、物語はまったく違う様相を見せる。そう、物語を読み進めれば読み進めるほどにつのるある感覚、何かがおかしい、いったい何が――そういうかすかな違和感が積み上がっていったその先に、孤独な吸血鬼王ストラウスが見た地獄がある。 傷つき、血まみれとなったヴァンパイアの王が、その美しい頬に哀しい微笑を浮かべて「それが政策だ」と呟くとき、あまりに凄惨で絶望的な真実の果てに見えるもの――それは、ひとりの傑出した「王」の壮絶なる覚悟である。 そうだ、これはあるひとりの真の王の物語なのだ。王とは何者なのか、どれほどの負担を強いられるものなのか、この物語は容赦なくそのことを描き出す。 かつて、一千年の昔、ストラウスが見たもの、そしてその後の長きときにわたってかれが背負ったもの、本来であれば個人が背負うべきではなく、背負えるはずもないもの、その重さに比べれば、『DEATH NOTE』で神を気取った夜神月なども、しょせんは覚悟が足りぬとすら思われてくる。 そのくらい、ストラウスの人生は過酷であり、その王としての使命は重すぎるのだ。しかし、ここで少しでもそのことについて明かすわけにはいかない。どうか、わたしの言葉を信じて、この作品を読んでほしい。必ず最後にはこの上なく純粋な感動にたどり着けるはずだ。 一篇の優れた「本格ミステリ」として読むべし。 https://twitter.com/ISLAY_MALT_RYO/status/1796411454054387836 たしかに一見するといかにもリアリティラインが低く設定されているように見えるし、中盤であきらかになる「ある設定」はさらに作品世界のリアリティを崩しているように見えるかもしれない。じっさい、ネットにはそのように評価している人も見つかる。 だが、『ヴァンパイア十字界』の本領は、あきらかにそういったところにあるのではない。それらはあくまでひとつの「背景設定」であり、「ゲームのルール」を成立させるためのコマなのだ。 城平京は本格ミステリ大賞を受賞している優れたミステリ作家である。そして、この作品を最後まで読めば、これがSFでもファンタジーでもなく、本格ミステリの方法論で書かれていることはあきらかだろう。 そして、まさに『ヴァンパイア十字界』はミステリがミステリとしてたどり着くことができる最高の境地へ至っている。わたしはそう考える。 すべての物語は「一千年前、ヴァンパイアの女王アーデルハイトを巡って何が起こったのか」、そのたったひとつの謎から派生している。ただ、見る人、語る人によってその謎には異なるものが見えるだけなのである。 すべての真相を知っているのは赤バラと呼ばれる王ローズレッド・ストラウスただひとり。かれの真意を知る者は敵にも味方にもだれひとりいない。その、暗澹(あんたん)たる孤独の深さよ。 この構造は、映画脚本の世界では、黒澤明の名作『羅生門』から採って「羅生門効果(ラショーモン・エフェクト)」と呼称される種類のものだ。 事実は一つ。しかし、真実は人の数だけある。だからこそ、あらたな語り手があらわれるたび、それは異なる姿を見せる。 だが、そうなのであれば、そのたびごとに異なったかたちを見せるいくつもの「真実」のそのさらに向こうにある唯一の「事実」とは何なのか。そのすべてが解き明かされるとき、ついに最後の悲劇の幕が開く。 いったいだれが悪かったのだろう、何をまちがえていたというのだろう、なぜこのようなことになってしまったのだろう、読後、考えさせられることは数多い。 しかし、一つたしかにいえるのは、それらすべてを乗り越えたストラウスの覚悟の崇高さだ。 かれこそは至高の王、君主のなかの君主。ヴァンパイアたちの夜の王国を統べるために生まれ、その覚悟を背負って育ったただひとりの人物。結果として国を滅ぼすことになってしまってもなお、それは揺るがない。 そのことは、物語を読み終わったときにはだれもが実感しているだろう。 https://twitter.com/Sayama01Sayama/status/1787782803331096642 たしかに『スパイラル』も『絶園のテンペスト』も『虚構推理』も傑作だし、きわめて素晴らしい作品といえるのだが、それでもぼくが『ヴァンパイア十字界』こそ城平京の最高傑作だと信じるのは、そのどこまでも哀しく凛然とした英姿がいつまでも記憶に残るからだ。 物語の中盤において、ストラウスは想い人の復讐のためにかれのいのちを狙い、五十年にもわたって地獄を見てきたと語る若者に対し、冷たい目で語る。 「大事なものを失ったのがどうした 這い回ったのがどうした 復讐を否定されたのがどうした それくらい私だって見たぞ ――いや それ以上のものさえ私は見ている」と。 その言葉はまさにほんとうなのである。一千年前の「その事件」において赤バラの王が見たもの、それからずっと見つづけているものは、ただ愛する者を失うといったあたりまえの悲劇の次元に留まるものではない。 だが、まさにそうであるからこそ、かれはしんじつ気高い王なのだ。はたしてひとりの人間がこれほどの重荷を背負うことは正しいことなのだろうか。読後には、何ともいえない重いものが残る。 決して気楽に読み捨てられる作品ではない。だが、だからこそこれは本物の傑作だ。読書人生のすべてをかけておすすめする。『ヴァンパイア十字界』、これこそはまさに読むべき物語であり、広めるべき作品だと。 どうかお願いだ、あなたも読んで、この「なぜか埋もれてしまった大名作」を世の中に広める伝導の使徒のひとりになってほしい。何もかも終わったそのあと、赤バラ王の伝説の全貌を知り、それを語り伝えることができるのは、ただ、読者たるわたしたちだけなのだから。

「サイコパス役マニア」の私が絶賛するアイドルが演じたサイコパス映像作品

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「「サイコパス役マニア」の私が絶賛するアイドルが演じたサイコパス映像作品」。かんそうさんが書かれたこの記事では、サイコパスへの偏愛を語っていただきました! 私はドラマや映画に登場する悪役、サイコパス役が大好きな人間です。「サイコパス役だいすきクラブ」という団体(所属人数1名)を立ち上げ、会長を務めるなど、精力的に活動をしています。 なかでも特に私が興奮を感じるのがアイドルが演じる悪役、サイコパス役。普段は圧倒的なヒーロー、ヒロインとしてその輝きでファンを狂わせ続けているアイドルが真逆の立ち位置でその力を発揮したとき、震え上がるほどの魅力が生まれるのです。 今回は、私が愛したアイドルが演じた悪役、サイコパス役を紹介したいと思います。少しでもその魅力が伝われば幸いです。 菊池風磨(ギバーテイカー) https://www.youtube.com/watch?v=Rzjk1sIwXlA 喜志ルオト。「幸せは奪い取るもの」という異常な考えを持ち、12歳で教師・樹(中谷美紀)の娘を殺した通称・殺人騎士。医療少年院を出てからも樹に執着を見せ、樹の大切な人間を奪おうと犯行を繰り返す。 悪役、サイコパス役の演技は、ことエンタメに限っては「やりすぎ」なくらい「やりすぎ」なほうがいいのですが、菊池風磨はそれを完全に理解し、ある意味「楽しんで」この喜志ルオトという役を演じることで、夢に見たサイコパスを詰め込んだようなキャラクター性に、菊池風磨の色気が絡み合い、一癖も二癖もある唯一無二の「味」となっていました。 特に、ルオトが務めているパン屋の娘を洗脳し、店長を殺させようとするシーンで、 ルオト「うん…悪くない…」 と下卑た笑みを浮かべながら自らトドメを刺すシーンは、普段ステージやバラエティで見せる菊池風磨の顔とは全くの「別物」。これぞ「アイドルが悪役をやる意味」が凝縮された最高のシーンで、私は白目を剥きながら気絶しそうになりました。 山田涼介(グラスホッパー) https://www.youtube.com/watch?v=_IBfRi08f-E 蝉。裏社会で生きる若き殺し屋。人間離れした身体能力とナイフ捌きで、一回りも二回りもデカい男たちを絶命させていく。 ダンスで培った山田涼介の華麗な身のこなしはまさに「殺し屋役を演じるために生まれてきた」と言っても過言ではありません。 冷酷なだけでなく、上司・岩西を殺され対峙することになる鯨(浅野忠信)の洗脳を解くために自らの耳を切り落とすなど、ただでは死なない悪役としての根性を見せるなど最初から最後まで魅力たっぷりのトッポのような役でした。 特に印象に残ったシーンが「いつもなに考えながら殺るんだ?」と問われた時の回答です。 「なんも考えちゃいねぇよ。仕事だから殺る、それだけだ。どいつもこいつも殺されるってことの意味がわかってねぇ。シジミは泡を吐くんだ。人間もシジミみたいに呼吸をすんのが泡でわかりゃいいのにな…。そうすりゃ、殺す方も殺される方も、生きてる意味ってのがもっと分かるかもな…」 まったく意味が分からない。言ってることの意味の分からなさ=悪役としての魅力なのです。 風間俊介(それでも、生きてゆく) 三崎文哉。幼児に対して異常な執着を見せ、学生時代に親友・深見洋貴(永山瑛太)の妹をその手にかけ、少年院を出所してからも殺人未遂を繰り返す。 特に衝撃的だったシーンが終盤。彼を理解したいと洋貴は10分以上にも及ぶ心からのメッセージを投げかけます。しかし、文哉の心には0.1ミリも届かず 「ごはんまだかな」 とテメェの空腹を心配するヤバさ。アイドルの悪役好きを自称している私ですらさすがにこのシーンは、あまりのサイコっぷりに見ている自分の目と耳をちぎりたくなりました。 風間俊介という俳優の魅力とは「ギャップ」だと私は考えています。芸能界屈指の飛行機、ディズニー好きとして高い好感度を誇る風間俊介さんですが、アイドル界において彼以上に「犯罪者役」を演じている人間はいないでしょう。本人曰く「前科27犯」の圧倒的再犯率を誇り、たびたび世間を恐怖のドン底に叩き落としています。 冒頭でも述べましたが、好きなものをキラキラとした目で語る「光の風間俊介」が濃くなればなるほどに、悪役の顔で見せる「闇の風間俊介」が色濃くクッキリと浮かび上がってくるのです。最新作の映画『先生の白い嘘』でも、キャラクター紹介をしようとすれば「全文字コンプライアンス違反」と言わんばかりの衝撃的な役を演じているので、精神が健康な方はぜひその目で目撃していただきたい。 髙橋優斗(ポイズンドーター・ホーリーマザー) https://www.youtube.com/watch?v=VFo059gIJQ8 黒田正幸。幼い頃に主人公・幸奈(清原果耶)が住むアパートの上の階に住んでおり、まるで姉弟のような関係を築いていた。気の弱い自己主張に乏しい少年だったのだが、大人になり幸奈と再会した直後に無差別殺傷事件を起こしてしまう。 当時、髙橋優斗には演技経験はほとんど無かったのだが、その「何色にも染まってない純粋さ」が逆に恐ろしく、黒田正幸という人間の心の闇を「そのまま」表現していたのです。 事件直後のいっさい瞳に光の入っていない、なにを考えているか分からない顔からの、幸奈のことを弁護士から訊かれた時の狂気に満ちた顔への「表情の変化」は鳥肌が立つほど素晴らしく、なぜ正幸がこんな事件を起こしてしまったのか、いったい誰が悪いのか、物語の持つ複雑性をより濃くしていました。 特にラストの「その女、会ったら言っといて。死ねって。な、な、な」というセリフはアイドルサイコパス史の歴史に残る衝撃的なシーンでした。 西野七瀬(あなたの番です) https://www.youtube.com/watch?v=irpCvb4vOgQ 黒島沙和。高層マンションで起こった謎の連続殺人事件。そのほぼ全ての犯行を行っていた。幼き頃から殺人衝動を抑えきれず、理由もなく数々の人間を葬り去ってきた正真正銘のサイコパス。 最後まで「誰が犯人か」が一番のポイントになる作品において「最も意外な人物が犯人」というのは王道ですが、一歩間違えればそれまでの全てを壊しかねない危険性もあります。 当時のインタビューではドラマ撮影前に自身が黒幕であることを明かされていたらしく、その上で表と裏の顔の両面を演じ分け、視聴者にギリギリまで確信を持たせない絶妙な役作りは「見事」という他ありませんでした。 今では女優としてなんの違和感もなく多くの作品に出演している西野七瀬を作ったのはこの作品からと言ってもいいでしょう。私も仮に誰かに殺されるのであれば、断然黒島ちゃんに殺されたい。 (注:撮影時点では、すでにグループを卒業しています。) ジェシー(新空港占拠) https://www.youtube.com/watch?v=PgqiC7fB0CY 新見大河。空港を占拠するテロリスト集団「獣」の一人・鼠にして、己の復讐のためだけに暴走する危険因子。 SixTONESの中でも、いやアイドル界においても屈指の陽キャぶりを見せつけているジェシーとのギャップはあまりにも激しく、 「生温いな…解放しないでその場で殺せばいい…それこそが本当の裁きだ」 「それだけじゃ意味がない…この国を牛耳ってる奴等を…まとめてぶっ殺す…本当の裁きだ…」 「世間に褒められたいのか?俺はけだものになる…この世界に血の雨を降らせてやる…」 など、悪役参考書の序盤に載っているであろう狂気のセリフをなんの躊躇もなく連発し、私に衝撃と興奮を与えました。ぜひ、SixTONESの楽曲『PARTY PEOPLE』と交互に見ていただきたい。 川栄李奈(デスノート Light up the NEW world) https://www.youtube.com/watch?v=xtXsv90MdGs 青井さくら。どこにでもいる普通の女子高生。名前を書かれた人間が死亡する「デスノート」を拾い、渋谷のスクランブル交差点で無差別殺人を行う。 寿命を半分にする代わりに見た人間の名前を知ることができる「死神の目」もなんの躊躇もなく契約しているなど完全に「自分の快楽」のためだけにノートを使う人間です。 夜神月ら稀代の天才同士が頭脳戦を繰り広げる世界において、「ただの女子」というのは、ある意味で完全な異物。無邪気な笑顔で通りすがりの名前をノートに書き込む姿は恐怖という他ありませんでした。この映画で一番のインパクトを残したと言っても過言ではないでしょう。 当時のインタビューでも「普通の女の子がデスノートを拾って、好奇心で名前を書いて殺しちゃう感じと言われたので、役を作り込むようなことはせず、デスノートを手にした時のわくわく感をそのままお芝居にしました」と語っていたように川栄李奈の凄さは自然さだと私は思っています。作り込むようなことはせず、と簡単に言ってもそれを実際にできる役者は多くはありません。 普通の役であればあるほど、逆にどうしても「演じている」感が出てしまうものです。しかし、川栄李奈はそれを当たり前のようにやってのける。この作品でも「もしバカな子供がデスノートを拾ったら?」を体現する完璧な演技を見せていました。 (注:撮影時点では、すでにグループを卒業しています。) 森田剛(ヒメアノ~ル) https://www.youtube.com/watch?v=iRXBIwm8dKY 森田正一。主人公・岡田(濱田岳)の同級生で、岡田の彼女であるユカ(佐津川愛美)に執着し、ストーカー行為を繰り返すようになる。暴行、放火、銃撃、メッタ刺し、ひき逃げ。自らの存在を誇示するかのようにあらゆる犯罪に手を染める殺人鬼。 『ランチの女王』『前科者』『インフォーマ』など、ただのチンピラから、陰のある元受刑者、得体の知れない殺し屋まで幅広いタイプの悪役を演じてきた森田剛ですが、『ヒメアノ~ル』の森田は異質中の異質。 口調こそ穏やかですが、人間があるべき心のブレーキが完全に壊れており、森田剛の演技によって森田正一の異常な行動を「日常」として溶け込ませてしまいます。この映画を見たあと私は三日三晩眠れなくなり、色んな意味で俺をどこかに連れて行ってくれ…Take me, take me higherしてくれ…とつぶやいてしまいました。 稲垣吾郎(十三人の刺客) https://www.youtube.com/watch?v=LGEgOpv02is 明石藩主松平斉昭。江戸時代末期の将軍の弟。己の権力を傘に暴虐非道の限りを尽くす最悪の男。 たまたま目に入った家臣の妻を襲う、その家臣を「山猿の骨は硬いのぉ」などと言いながら妻の前で切り刻む、など絶対に地上波では放送できない描写を表情ひとつ変えずに行うその精神性。いざ、自分が殺されそうになると 「怖い…死ぬのが怖い…」 と地面をのたうち回り逃げ惑う。悪としての美学などいっさいない、正真正銘の畜生。世の中にあるゲロというゲロを煮詰めてできたゲロの原液。「吾郎ちゃん」と呼ばれ、国民的スターとしての顔はそこには1ミリもありません。彼の持つ上品さが逆に斉昭のおぞましさを増幅させていました。こんなやつ1秒たりとも守りたくない逆・らいおんハート。思い出すだけで震えが止まりません。 木村拓哉(古畑任三郎) https://www.youtube.com/watch?v=7KXKX2WvRc8 林功夫。「ある理由」で遊園地の観覧車に爆弾を仕掛ける電子工学部研究助手。 若く才能があるがゆえに自分以外の大人を舐めきった気だるげな態度を取り、己の能力を過信し疑わないその傲慢さ、そんな「ダサい若者」を、当時の若者の代表格だった圧倒的なカッコよさを持つ木村拓哉が演じる。そのミスマッチが完璧に「フリ」になっている。 「時計台が見えなくなったから観覧車を爆破しようとした」という屈指の動機のしょうもなさに加え、作中で古畑が唯一「手を出した犯人」として、古畑ファンの間でもいまだ「神回」として語り草になっています。 中居正広(模倣犯) 模倣犯 : 作品情報 - 映画.com 網川浩一(ピース)。自分が行う殺人を「舞台」、被害者は自分が作り出した舞台の「女優」と称し、自分の頭脳で他人の人生を手のひらで転がせると思っている狂気の男。 そこにいるのにまるで「温度」を感じないその「得体の知れなさ」最後の最後まで本心が見えず、映画を見終わったあとの空虚さは他の作品では味わうことのできない中毒性がありました。ラストの「首爆発CG」は邦画史に残る伝説のワンシーンとして記憶に残り続けています。 そんなピースのキャラクターは中居くんの持つ良い意味での「掴めなさ」と完璧にマッチしていました。特に、他人を見るときの「瞳」。バラエティ番組などで中居くんが「ネタ」として氷のような冷たい目で共演者などを見るくだりがありますが、それが「演技」として活かされた時、こんなにも恐怖を感じるのかと、失禁するほど震え上がりました。 世間的に役者のイメージはあまりない中居くんですが、この『模倣犯』や『私は貝になりたい』などでの怪演を見るたびに、もっと「役者・中居正広」を味わわせてくれ…と願わずにはいられません。 さて、私が考える「良いサイコパス役の条件」に「3ない」という要素があります。 容赦ない…いかに人を人と思わないか、残虐なことをなんでもないような顔でできるか、時には自分すら顧みず目的のために行動できるか。ここで重要なのは「しでかしたことの大きさ」ではなく、やったことに対しての「罪の意識のなさ」。嘘も盗みも裏切りも殺しも「呼吸」と同義であれば最高です。 語らない…サイコパスに一番大切なのは「潔さ」。なぜこうなってしまった、なぜこんなことを、とか動機マジでどうでもいい。そのバックボーンがカラッポであればあるほどたぎります。 わからない…物語の最後の最後までその人物のことが一切わからないことこそサイコパスの真骨頂。「一見優しそう」とかギャップがあればなお良し。そもそもサイコパスのことをわたしたちが理解しようなどと考えてはいけません。サイコパスの言動に対して「なぜ」と疑問を持つのはやめましょう。 この「3ない」の要素ですが、「アイドル」という職業とまるで「真逆」なことにお気づきでしょうか。他人が見せたいものを見せ、希望を与える。誰かにとっての光。 だからこそ、アイドルという光が輝けば輝くほど、悪役、サイコパス役という闇はより深くなる。私はそのギャップに狂わされ、興奮するのです。 その魅力、魔力にあなたも触れてみてはいかがでしょうか。

アニメ『キン肉マン』シリーズの歴代主題歌を総まとめ!

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「キン肉マンの新旧アニメ主題歌を一挙公開!」。保育園のころからキン肉マンが大好きで、コミックを買うだけではなく、キン肉マン消しゴムも集めていたという福井俊保さんが書かれたこの記事では、キン肉マンのアニメ主題歌への偏愛を語っていただきました! キン肉マンは、週刊少年ジャンプで1979年から1987年まで連載されていた漫画であり、1983年に『キン肉マン』、1991年には『キン肉マン キン肉星王位争奪編』のアニメが放送されました。 その後、2002年にはキン肉マンの息子である『キン肉マンII世』、2024年には『完璧超人始祖シリーズ』のアニメも放送されました。 アニメの主題歌も絶大な人気を集めていたため、「子どものころに『キン肉マン Go Fight!』などの主題歌を歌った」といった人も多いのではないでしょうか。 そこでこの記事では、キン肉マンシリーズののオープニング(OP)主題歌とエンディング(ED)主題歌を総まとめ。各曲の魅力についても徹底解説してきます。 40年以上愛される名作!キン肉マンとはどんな内容? https://youtu.be/ItKW1z4GFqk?si=lSwIduZuEDtd-CdD 出典:Youtube『週プレChannel【集英社 週刊プレイボーイ公式】』 キン肉マンは、ゆでたまご氏による日本の漫画作品、およびそれを原作としたアニメ作品です。1979年から1987年まで「週刊少年ジャンプ」で連載され、その後もシリーズが続いています。 物語は、ドジでマヌケな超人「キン肉マン」ことキン肉スグルが、地球を侵略しようとするさまざまな敵と戦い、成長していく様を描いています。初期はギャグ要素が強く、キン肉マンのコミカルな行動や奇想天外な技の数々が読者の心を惹きつけました。 しかし、物語が進むにつれてシリアスな展開が増え、友情や努力、勝利といったテーマが色濃く描かれるようになっていくのです。 また、個性豊かな超人たちも魅力の一つ。「正義超人」「悪魔超人」「完璧超人」など、さまざまな勢力の超人が登場し、キン肉マンと熱い戦いを繰り広げます。ラーメンマン、テリーマン、ロビンマスクなど、誰もが知っているであろう人気キャラクターも数多く誕生しました。 キン肉マンは、少年漫画の王道ともいえる作品です。「バトル」「友情」「ギャグ」「感動」が詰まった本作は、世代を超えて今も愛され続けています。 キン肉マンⅡ世ではキン肉マンの息子が主人公に! キン肉マンⅡ世は、ゆでたまご氏の原作による漫画作品、およびそれを原作としたアニメ作品です。前作「キン肉マン」の主人公キン肉スグルの息子、キン肉万太郎を主人公に、新たな世代の超人の活躍を描いています。 舞台は前作から数十年後の世界。平和になった地球で、キン肉万太郎は軟弱なダメ超人として育ちます。しかし、邪悪な超人組織「d.M.p」の出現により、悪行超人との戦いに挑むことになりました。 前作同様、個性豊かな超人たちが登場し、万太郎と共に戦います。ケビンマスク、セイウチン、ジェイドなど、次世代の人気キャラクターも誕生。また、前作の超人たちも登場し、新旧キャラクターの共演も見どころの一つとなっています。 キン肉マンⅡ世は、前作の要素を受け継ぎつつ、時代に合わせて進化した作品です。親子の絆、友情、そして自己犠牲といったテーマが描かれ、前作とは異なる魅力を放っています。 キン肉マンの歴代オープニング・エンディング主題歌一覧 キン肉マンでは9つのオープニングテーマとエンディングテーマがあります。ここではそれぞれの特徴について解説します。 1. キン肉マン Go Fight!/串田アキラ https://youtu.be/x4scqkonxEw?si=2ODcGbyRqRG7M-xz 出典:Youtube『TAB Channel / タブ【Toei Animation Beyond】』 アニメ第1期の前半(第1話~第65話)を彩ったオープニングテーマ。歌っているのはアニソン界の大御所、串田アキラ氏。イントロから「Go! Go! Muscle!」の掛け声と、闘志を掻き立てるような力強いメロディが炸裂し、キン肉マンの活躍を予感させます。 「キン肉マン旋風」と並ぶキン肉マンの代名詞といえる楽曲で、多くのファンに愛されています。 歌詞は、正義超人の使命や友情の大切さを歌い上げており、作品の熱い戦いを盛り上げます。 「心に愛がなければスーパーヒーローじゃないのさ」というフレーズは、単なる力自慢ではない、キン肉マンのヒーローとしての在り方を示す、作品全体のテーマを象徴するものとして、多くの人の心に響いています。 2. 肉・2×9・Rock'n Roll/串田アキラ https://youtu.be/13JOdELnYAA?si=Uz5S5s0Scyc2Dl3- 出典:Youtube『TAB Channel / タブ【Toei Animation Beyond】』 同じく串田アキラ氏が歌うエンディングテーマ。オープニングとは打って変わってコミカルな曲調で、ロックンロールのリズムに合わせてキン肉マンが踊ります。 「屁のつっぱりはいらんですよ」という意味のわからないフレーズも入っており、一度聴いたら忘れられないユニークさが最大の魅力です。実際に「言っている意味はよくわからんが…」という突っ込みが入っています。 作品のコミカルな一面を前面に出した、楽しい楽曲に仕上がっていると言えるでしょう。 また、エンディング映像では、ミート君や他の正義超人もいっしょに踊っており、本編のバトルシーンとはまた違ったキン肉マンが見られるのです。 この曲のコミカルさは、作品の魅力の一つである「笑い」を象徴するものであり、後のシリーズにも受け継がれていく要素となっています。 3. 炎のキン肉マン/串田アキラ アニメ第1期後半(第66話~第124話)のオープニングテーマ。串田アキラ氏のパワフルな歌声はそのままに、よりハードロック色が強くなっています。 炎のように燃え上がるキン肉マンの闘志を表現した歌詞と、スピード感のあるメロディが、視聴者の興奮を盛り上げました。 とくに、サビの「俺は炎のキン肉マン」というフレーズは、キン肉マンの不屈の闘志を象徴する力強いメッセージとなっており、視聴者に勇気を与えてくれます。 また、キン肉マンはピンチからの逆転勝利が多いですが、歌詞にも「(ATACK!)ラスト5秒の (FIRE!)逆転ファイター」という一節があります。物語が進むにつれて、戦いがより激しさを増していくことも暗示しているように感じられる歌詞です。 4. キン肉マンボ/神谷明 キン肉マン役の神谷明氏が歌うエンディングテーマ(第66話~第96話、第107話~第124話)。陽気なマンボのリズムに乗せて、作品に登場するキャラクターやプロレスの技をコミカルに紹介しています。 エンディング映像では、キン肉マンや仲間たちがマンボを踊る姿が描かれており、見ているだけで楽しくなります。この曲は、子どもたちにも親しみやすい曲調と歌詞で、当時、多くの子どもたちが口ずさんでいました。 神谷氏は声優としてだけでなく、歌手としても活躍しており、その歌唱力は折り紙付きです。この曲は、神谷氏のエンターテイナーとしての才能が発揮された、楽しいエンディングテーマとなっています。 5. キン肉マン音頭/神谷明、松島みのり キン肉マン役の神谷明氏とミートくん役の松島みのり氏が歌うエンディングテーマ(第97話~第106話)。盆踊りをイメージした夏らしい雰囲気の曲調で、作品の世界観を和テイストで表現しつつ、二人の掛け合いが楽しい一曲です。 エンディング映像では、浴衣姿のキン肉マンや仲間たちが、盆踊りを踊る姿が描かれています。この曲は、シリーズ主題歌の中でも、とくに異色な楽曲といえるでしょう。 コミカルな一面と、日本の伝統的な音楽である「音頭」を組み合わせることで、独特の魅力を生み出しています。 6. キン肉マン旋風(センセーション)/串田アキラ アニメ第1期終盤(第125話~最終話)のオープニングテーマ。再び串田アキラ氏が担当し、疾走感溢れるメロディと、キン肉マンの成長を思わせる歌詞が特徴です。 新たなステージへと向かうキン肉マンの力強さが表現されており、最終決戦に向けて盛り上がりを加速させる楽曲となっています。 この曲は、第1期の集大成となるオープニングテーマとして、キン肉マンの成長と、未来への希望を力強く歌い上げています。最終決戦に向けて闘志を最大限に高める、熱い楽曲といえるでしょう。 7. キン肉マン倶楽部/神谷明 神谷明氏が歌うエンディングテーマ(第125話~最終話)。友情をテーマにした心温まるバラード調の楽曲です。仲間との絆を大切にするキン肉マンらしいメッセージが込められており、アニメ第1期の締めくくりにふさわしい感動的なエンディングとなっています。 エンディング映像では、キン肉マンと仲間たちが楽しくローラースケートをしているシーンがあり、激しい戦いの後の平和を描いています。また、歌詞は子どもたちへのメッセージです。 当時、この歌を聞いた子どもたちは、未来に希望を持って頑張ろうと思っていました。第1期の最終回にふさわしい、余韻を残すエンディングテーマとなっています。 8. ズダダン!キン肉マン/鈴木けんじ 「キン肉星王位争奪編」のオープニングテーマ。鈴木けんじ氏による力強い歌声が、新たな戦いの幕開けを告げるような楽曲です。王位争奪戦という壮大なスケールを感じさせる、重厚なサウンドが特徴です。 歌詞には、キン肉マンの決意や覚悟が力強く表現されており、戦いに挑む彼の姿を応援したくなるような楽曲に仕上がっています。 鈴木けんじ氏の力強い歌声は、キン肉マンの力強さと、王位争奪戦の緊張感を表現するのにぴったり。この曲は、「キン肉星王位争奪編」という章の始まりにふさわしい、壮大なオープニングテーマとなっています。 9. 月火水木・キン肉マン/ケント・デリカット、松田多香子 「キン肉星王位争奪編」のエンディングテーマ。ケント・デリカット氏と松田多香子氏によるデュエットソングで、コミカルな歌詞とキャッチーなメロディが印象的です。月曜日から木曜日まで、毎日キン肉マンを応援したくなるような楽しい楽曲です。 エンディング映像では、月火水木という歌詞に合わせてキン肉マンが踊っています。続いて金土日は休みたいという歌詞。週休3日制なのがいかにも彼らしい。 この曲は、「キン肉星王位争奪編」のシリアスな展開とは対照的に、明るく楽しいエンディングテーマとなっています。作品のコミカルな一面を強調することで、視聴者に癒しを与え、次のエピソードへの期待感を持たせるような楽曲に仕上がっています。 キン肉マンⅡ世の歴代オープニング・エンディング主題歌一覧 キン肉マンII世には、8つのオープニングテーマとエンディングテーマがあります。ここではそれぞれの特徴について解説します。 1. HUSTLE MUSCLE/河野陽吾 キン肉マンII世の初代オープニングテーマ(第1話~第51話)。河野陽吾氏の力強い歌声が、新たな世代の主人公、キン肉万太郎の活躍を予感させます。「Go! Go! Fight!!」のフレーズは初代OPを彷彿とさせつつ、より現代的なロックサウンドに仕上がっています。 歌詞には、万太郎の成長と、正義超人としての葛藤、そして友情の大切さが。初代キン肉マンの意志を継ぎ、次の時代を担う万太郎の熱い戦いを予感させるオープニングテーマです。 万太郎の若さと情熱、そして、懐かしい初代キン肉マンの映像もあり、視聴者の心を掴む楽曲となっています。 2. 愛のマッスル/ザ・パーマネンツ 初代エンディングテーマ(第1話~第26話)。ザ・パーマネンツが歌う、明るく爽やかなロックンロールナンバーです。愛と友情をテーマにした歌詞は、万太郎の真っすぐな性格を表現しており、聴いていると元気をもらえるような楽曲です。 エンディング映像では、万太郎が二階堂凛子を追いかけて振られるシーンがあり、父親であるキン肉スグルとの共通点が伺え、映像だけでも楽しむことができます。 この曲は、作品の明るく楽しい雰囲気を象徴するエンディングテーマといえるでしょう。 3. 恋のMy chop!!/横須賀ゆめな 2代目エンディングテーマ(第27話~第51話)。横須賀ゆめな氏が歌う、ポップでキュートな楽曲です。恋する乙女心を歌った歌詞は、万太郎の恋の行方も気になる本作のストーリーにぴったりです。 エンディング映像は、万太郎とヒロイン・凛子のラブコメディ風の演出で、二人の関係性が気になるファンを楽しませました。凛子への淡い恋心を抱く万太郎の心情を、可愛らしい歌声と映像で表現しています。 この曲は、万太郎の青春物語としての側面を強調したエンディングテーマといえるでしょう。キン肉マンII世は、バトルだけでなく、恋愛や友情など、青春の要素も魅力の一つ。この曲は、そんな本作の魅力を表現する楽曲となっています。 4. believe/The NaB's キン肉マンII世 ULTIMATE MUSCLEのオープニングテーマ。The NaB'sが歌う、疾走感溢れるロックナンバーです。新たな敵との戦いに挑む万太郎の決意を表現した歌詞と、力強いサウンドが、視聴者の興奮を盛り上げます。 ULTIMATE MUSCLEシリーズは、熱い戦いと友情、そして成長の物語を描きながら、新旧の超人たちが織りなす新たな伝説を紡ぎ出していきます。 また、歌詞全体を通して、未来への希望や夢を追い続けることの大切さが強調されています。主人公の成長や挑戦を応援するメッセージになっており、視聴者に勇気や希望を与えてくれます。 5. 赤色ダンスホール/sui https://youtu.be/3Nn9xWoAC3A?si=prnqVZQsCiQX6xwC 出典:Youtube『taxk Promise』 『キン肉マンII世 ULTIMATE MUSCLE』のエンディングテーマ。suiが歌う、ミステリアスな雰囲気の楽曲です。この曲は、他の主題歌とは一線を画す、独特な雰囲気を持っています。 作品の世界観や熱い戦いの雰囲気を反映した歌詞が特徴的です。エンディング映像を見ると、友情や努力、成長といったアニメの主要テーマとリンクしており、聴くものの心に響きます。 6. Trust Yourself/高取ヒデアキ https://youtube.com/shorts/7ExO5nxWplY?si=MH1JzK9bnOAKWBMc 出典:Youtube『高取ヒデアキ』 『キン肉マンII世 ULTIMATE MUSCLE2』のオープニングテーマ。高取ヒデアキ氏が歌う、力強いメッセージソングです。自らの力を信じ、運命に立ち向かう万太郎の姿を応援する歌詞は、視聴者に勇気を与えてくれます。 さらに、高取ヒデアキ氏のハイトーンボイスが、万太郎の闘志とマッチしており、激しい戦いを連想させます。また、歌詞には、「自分の力を信じろ」というメッセージが込められており、逆境に立ち向かう万太郎の姿と重なることも。 この楽曲は、アニメの世界観を反映しつつ、聴く人に勇気と自信を与えるような力強いメッセージを込めた歌詞だといえます。高取ヒデアキの特徴的な歌唱力と相まって、印象的なオープニングテーマとなっています。 7. 誓ノ月/Kagrra, https://youtu.be/3rJBZZszZ3A?si=jcCuZqZJCSv2gf_b 出典:Youtube『MiyakoKagrraFanTR』 Kagrra,が歌う『キン肉マンII世 ULTIMATE MUSCLE2』のエンディングテーマ。激しい曲調の中に、どこか哀愁漂うメロディが組み込まれており、戦いを振り返るエンディング映像ともマッチしています。 「誓ノ月」は、『キン肉マンII世 ULTIMATE MUSCLE2』の世界観と見事に融合した楽曲です。力強い歌声とメロディ、そしてアニメのテーマと共鳴する歌詞は、これからの戦いを期待されるものになっています。 8. MUSCLE BEAT/角田信朗 『劇場用アニメーション キン肉マンII世』の主題歌です。角田信朗氏が歌う、熱いファイトソングです。映画の壮大なスケールに負けない、パワフルな歌声と、本作らしい熱いメッセージが込められた歌詞が印象的です。 劇場版のストーリーを盛り上げる力強い楽曲で、角田信朗氏のパワフルな歌声は、劇場版の迫力満点のバトルシーンにぴったり。 歌詞には「諦めない心」「友情の大切さ」など、シリーズを通して描かれてきたテーマが込められています。映画の世界観を最大限に盛り上げる、熱い主題歌となっています。 キン肉マン完璧超人始祖編のOP・ED主題歌一覧 2024年7月より放送開始した完璧超人始祖編。往年のファンも新規ファンも惹きつける本作を音楽面で盛り上げる主題歌を紹介します。 1.LOVE & JUSTICE/高梨康治×FLOW https://youtu.be/3ipeXNG8wEk?si=4qbCQUhTXH62AvnN 出典:Youtube『キン肉マン 公式チャンネル』 『NARUTO -ナルト-』シリーズなど、数々のアニメ音楽を手掛けてきた高梨康治氏と、人気ロックバンドFLOWによるコラボレーションが実現。 高梨氏による重厚なサウンドと、FLOWの力強いボーカルが融合した、まさにキン肉マンにふさわしい熱く激しい楽曲に仕上がっています。 正義超人たちの熱い闘いを予感させる、スピード感溢れるメロディと、FLOWのボーカルKEIGOによる情熱的な歌声が、視聴者の心を掴みます。 2.「超人」キン肉マン/宮野真守 https://youtu.be/lS3ndSYP3Bs?si=3OvWOLJy8hymi4gz 出典:Youtube『キン肉マン 公式チャンネル』 主人公・キン肉マン役の声優、宮野真守氏が歌うエンディングテーマ。ラップ調のメロディに乗せて、キン肉マンの心情を歌い上げています。 これまで数々のアニメキャラクターソングを歌いこなしてきた宮野氏ですが、今回は「超人」という、まさに本作のための楽曲を熱唱。 エンディングテーマでありながら、作品の特徴を表している歌詞にも注目です。かっこいいラップ調の中に「屁のつっぱりはいらんですよ」というお決まりのセリフも含まれており、初期のキン肉マンらしさを表しています。 まとめ https://youtu.be/whOWsuBAjBE?si=MB31WmQz61JpaXry 出典:Youtube『キン肉マン 公式チャンネル』 この記事では、世代を超えて愛されるキン肉マンシリーズの歴代主題歌を振り返りました。 「キン肉マン Go Fight!」や「炎のキン肉マン」など、作品の代名詞とも言える串田アキラ氏の楽曲は、力強い歌声が作品の熱い戦いを盛り上げ、多くのファンに愛されています。 一方、「キン肉マンボ」や「キン肉マン音頭」など、神谷明氏によるコミカルな楽曲は、キン肉マンのユニークな世界観を表現していました。 また、キン肉マンII世では、「HUSTLE MUSCLE」や「believe」など、新たな世代の活躍を象徴する力強い楽曲が登場。「愛のマッスル」や「恋のMy chop!!」など、万太郎の青春物語を彩るポップな楽曲も人気を集めました。 それぞれの主題歌は、作品の世界観を表現し、ストーリーを盛り上げるだけでなく、時代を超えて愛される名曲として多くのファンの記憶に残っているのです。 2024年7月から放送された完璧超人始祖編は、2025年1月から第2期の放送も決まっています。キン肉マンらしさもありつつ、新しさも感じられる名曲が生まれることに期待が高まりますね!

SFマニアの私が解説する世界的ヒット作「三体」の魅力

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「ドラマに小説に大盛りあがりの中国SF『三体』の魅力を語る!」。冬木糸一さんが書かれたこの記事では、中国SF『三体』への偏愛を語っていただきました! こんにちは、冬木糸一です。 今回は日本を含む世界中でベストセラーとなり累計で3000万部以上を売り上げた歴史的な中国SF『三体』を、今日本で読むことができる小説と二本のドラマを中心に紹介させてもらおうかと思う。というのも、『三体』は先日三部作のすべてが文庫化され、別作者によるスピンオフ長篇『三体X』や事実上の前日譚『三体0』も翻訳済み。さらにはNetflixで第一部のドラマ化、中国本国で作られたドラマ版も各種配信サイトで視聴できて──と、小説から映像媒体まで入口が揃ってきたからだ。 『三体』とは何なのか? なぜ世界中で盛り上がっているのか? 最初に『三体』の盛り上がりについて触れておくと、これが世界的に人気を博したのは、世界的に有名なSF賞であるヒューゴー賞を、2015年にアジア人作家として初めて受賞したのがきっかけとなっている。その受賞後、オバマ元大統領、FacebookCEOのマーク・ザッカーバーグなどの著名人も相次いで推薦。もともと中国国内では盛り上がっていた作品だが、その人気が世界中に広がっていったのだ。 日本でもこの時期(2015年頃)以降に「三体っていうのがスゴいらしい」「いつ日本語に翻訳されるんだ!」「原書・英語で読んだけどすごかった!」と評判が伝わってきたものだ。そこから日本で第一部が翻訳で読めるようになったのが2019年のこと。その後あれよあれよという間に日本でも累計80万部を突破し、今年はついにドラマも日本で公開され──と、いまだに破竹の勢いでその人気が広まっているのだ。こうした人気には中国が国策としてSFを推進していることも関係している。なかでも成都は「SF都市」としてPRされ、昨年は中国で初の世界SF大会(世界SF協会が主催し、戦術のヒューゴー賞の受賞作を参加者らの投票で決定する)もここで開催された。 入口は多く、そのどれもに良さがあるので、『三体』未体験、もしくは観ていない・読んでいないものがある人は、本記事が手をつけるきっかけになったら幸いである。 原作《三体》三部作 というわけで、最初にすべての基本となる原作小説の紹介から入ろう。現在三部作すべてが文庫化されており、第一部は一冊、第二部『黒暗森林』と第三部『死神永生』がともに上下巻となっている。これまで内容の話を一切せずに持ち上げてきたが、本作の物語は基本的にはシンプルな”ファーストコンタクト物”であるといえる。 ファーストコンタクト物とは人類が地球外文明・生物とはじめて接触した時の驚きやコミュニケーション、時には戦争に至るまでを描き出すSF内のサブジャンルだ。《三体》三部作の中で、人類ははじめて地球外の生命体と遭遇し、種の存続を賭けて戦うことになる。本作が世界中で評価されたのは「それだけのことをどこまでもスケールをデカく、しかも緻密に突き詰めて描き出したから」という点にあるだろう。 さらには、中国発の作品らしく中国の文化に根ざした──本作は文革の過程で科学者の父を殺され、人類に絶望した女性が最初の主人公となる──第一部から、次第に地球人類全体の物語へと移行し(第二部)、最終的にはこの宇宙に住まう生命全体の行く末を描き出す(第三部)ような、ローカルな文化描写とグローバルを超えた宇宙論的な視点を併せ持っている点も、世界中で大ヒットしている要因といえる。 その性質上物語は第一部〜第三部まででテイストが異なっていて、筆者(冬木)は四回ほど読書会に参加したがみんな好きな部もバラけていた。たとえば第一部はすべてのはじまりを描き出す物語で、なぜ地球から遠く離れた地に住んでいた三体星人が地球を発見したのか、またなぜ地球人類を征服するためにやってくることになったのか、その顛末が中国での文化大革命と合わせて描き出されていく。1970年代から2000年代の比較的現代に近い時代を描いていて、文学的な魅力が光るパートだ。 続く第二部は、地球に向かってくる三体星人をどうにかして打ち倒さねばならぬ──となった地球人類が、三体星人よりもはるかに劣る科学技術で奮闘する「頭脳バトルパート」にあたる。この部数がエンタメ的な濃度は一番高い。というのも、ある事情から地球の通信はすべて三体星人に傍受されていて、声に出したり通信を行うとすべてバレることから、信頼できるのは「天才の頭の中だけ」という状態から頭脳戦がはじまるのだ。三体星人に対抗するため作られた惑星防衛理事会は「面壁計画」を立ち上げ、天才的な四人の人物を選出し、彼らに人類のリソースを集約することになる。 面壁者と呼ばれる選ばれし四人は、そのリソースを真意を説明せずともあらゆることに使用することができる。一見不可解なことや馬鹿げたことにリソースを費やしているように見えても、それはすべて人類もろとも三体星人を騙すための”ブラフ”なのかもしれないのだ。 それに続く第三部はこれまでの二作と比べるともっともSF度の高い作品だ。物語はまず第二部で進行していた事態の裏側で起こっていたことから始まり、最終的には惑星規模を超えて全宇宙における生命の生存戦略にまで話のスケールが及ぶ。 著者の劉慈欣によれば、最初の二巻はSFファン以外の一般読者に広く受け入れてもらうために、現代や近未来を舞台にし、物語の現実感を高めた。しかし第三部に至っては、物語ははるかな未来や本格的に宇宙を舞台にした物語となり、ハードコアなSFファンを自認する劉慈欣自身が心地よく感じる、”純粋な”SF小説を書くようにしたのだという。そうした振り切った作品として書かれた第三部はしかし中国本国でも大人気となり、本邦での三部の評判も(普段あまりSFを読まない読者にも)良い。 読み始めた読者には、ぜひ第三部のラスト──壮大な物語の果てに、寂寥感の残る情景が訪れる──にたどり着いてもらいたいものだ。 ドラマはどちらから見るべきか? 続いて映像作品の紹介に移ろう。こちらは現在日本国内から視聴できるものとしては、Netflix版とテンセント版の二種類が存在する。それぞれの特徴を書いておくと、Netflix版は主な舞台をイギリスに移して原作を再構成した物語になっていて、話数的にも概ね原作第一部に相当する部分が全八話とコンパクトにまとまっている。 もう一方のテンセント版(現在AmazonPrimeやU-NEXT、FODプレミアム、TELASAなどに有料登録することで視聴可能)は本家本元の中国で作られたドラマだ。中国人中心のキャストで、各話40〜50分の全30話と、たっぷりと尺を使って原作に忠実に映像化を試みているのが特徴である。 Netflix版について 原作の再現度や、「文字はたくさん読む気がしないけれど物語は原作通りのものが堪能したいな〜」というのであればテンセント版を薦めるが、Netflix版にはNetflix版の良さもある。そもそもNetflix版は最初から制作を進めるにあたって大きな制約があったようで、制作者らは「ドラマを英語版として作る」権利を持っており、登場人物はみな英語で話すことを前提として作品を作らなければならなかったのだ。 それで改変して物語がとんちんかんだったら問題だが、本作は原作既読勢からみてもそう違和感のない内容に仕上がっている。違和感なく物語を再構成するため、物語の舞台は中国からイギリス・オックスフォードへと移り、さらに各部にまたがった物語を一貫した(人間関係の)ドラマとしてまとめあげるために、原作で第一部、第二部、第三部で異なるはずの登場人物を序盤から登場させたり──と、さまざまな変更を行っている。 本作のスタッフは大きく話題になったファンタジー大作ドラマの『ゲーム・オブ・スローンズ』と共通していて、彼らが経験豊富で得意な群像劇の魅力を本作で存分に発揮しているといえるだろう。後述するが、テンセント版では原作で重要な意味を成す文化大革命のシーンが大幅にカットされている一方、このNetflix版では冒頭から(文革のシーンを)丹念に描くなど、プロットや登場人物は異なっても作品の核はきちんと引き継いでいる。「もう一つの三体」が楽しめるのは間違いなくNetflix版の美点だ。 登場人物がわっと出てくることもあって序盤のテンポこそ悪いものの、後半の山場である「古筝作戦」(第五話「審判の日」)まで視聴すれば、あとはラストまで一気だろう。 テンセント版について 一方のテンセント版の良さはなんといっても長大な尺を活かした映像表現の豊かさだ。たとえば、原作『三体』の第一部では、VRゲーム「三体」が重要な役割を果たすが、VRというだけあって視覚的にはなんでもあり。たとえば十万桁までの円周率を求めよという始皇帝の無茶振りに答えるため数百万の軍隊を用いて人間計算機を構築するシーンが原作にはあるのだが、こうした壮大なシーンも予算も尺もとってじっくりと描き出している。 他にも原作勢的には、原作でちょい役だった人たちがこのドラマ版では30話と尺たっぷりなせいか描写が盛られていること(史強の部下である徐冰冰など)、原作通り物理学や天文学の専門用語が飛び交うこと──といったあたりは、『三体』の物理学部分の壮大なホラの吹き方が好きな人にはたまらないだろう。役者陣も、中心人物の汪淼を演じる张鲁一をはじめとして、個人的には非常によくマッチしていると感じた。 全30話と長大なドラマで説明がひたすら長い回などもあるのでダレがちだったり、こちらはやはり文化大革命の描写が弱い点、主人公らを明確な悪にしづらい点(先述の「古筝作戦」の描写でそれが露骨に出る)もあり、良い点、悪い点がNetflix版とテンセント版では見事に表裏に分かれているなと感じる。 おわりに 原作やドラマなど、何から『三体』に入るのが正解ということはないので、この記事で興味を持った人は(まだ読んで/観ていないものがある人も)手を出すきっかけになってもらえたら嬉しい。このあとドラマもシーズンが続いていくし、映画化も、スピンオフ作品も出てくるようなので、しばらく『三体』フィーバーは続きそうだ。