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【いまからでも間に合う!】『薬屋のひとりごと』徹底解説!薬学×宮廷ドラマの魅力を語る【いままでのおさらい】

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「【いまからでも間に合う!】『薬屋のひとりごと』徹底解説!薬学×宮廷ドラマの魅力を語る【いままでのおさらい】」。森佳乃子さんが書かれたこの記事では、『薬屋のひとりごと』への偏愛を語っていただきました! 薬と毒に精通した少女・猫猫(マオマオ)が、後宮で巻き起こる不可解な出来事を解決していく『薬屋のひとりごと』。その見事な推理力と魅力的なキャラクターが多くのファンを虜にしています。この記事では、作品を詳しく解説するとともに、物語の感想や登場人物の魅力、世界観の深さに迫ります。 『薬屋のひとりごと』とは? 物語の概要と作品の魅力 (出典:ABEMA) 『薬屋のひとりごと』は、日向夏氏によるライトノベルで、架空の中華風帝国の後宮を舞台にしたミステリー作品です。主人公の猫猫(マオマオ)は、薬師としての知識を活かし、後宮で次々と起こる不可解な事件を解決していきます。本作は、ミステリー要素に加え、宮廷の陰謀やロマンスも絡み合う独特な作風が魅力。緻密なストーリー展開とリアルな薬学描写が高く評価され、幅広い層に支持されています。 小説から漫画、アニメへ―『薬屋のひとりごと』の広がり 本作は、もともと「小説家になろう」で連載され、2014年に書籍化されました。その後、スクウェア・エニックス版と小学館版の2種類の漫画が連載され、どちらも累計発行部数が高く評価されています。さらに、2023年にはアニメ化され、緻密な作画と原作に忠実な脚本でファンを魅了しました。ライトノベル、漫画、アニメと幅広く展開されており、多くの人が楽しめる作品になっています。 なぜ今、大人気?ファンを魅了する独特の世界観 『薬屋のひとりごと』は、後宮を舞台にしながらも、ただの宮廷ロマンスではなく、ミステリーや薬学の要素が加わった新感覚のストーリーが特徴です。主人公の猫猫は、恋愛よりも薬と謎解きが何より好きな異色のヒロインで、作者がそれを意図したのか「猫猫」との名前の通りちょっとツンで冷静な態度と鋭い推理が読者の心を掴んでいます。また、精緻に描かれた美しくも激しい後宮の権力争いや歴史的背景がリアリティを増し、大人でも楽しめる作品となっています。 宮廷×薬学融合!唯一無二のジャンルとは 本作の最大の特徴は、「宮廷ドラマ」と「薬学ミステリー」の融合です。後宮内の権力闘争や陰謀が絡む中で、猫猫が薬師としての知識を使って事件を解決する展開は、他の作品にはない魅力を持っています。また、実際の薬学や毒の知識をベースにしたストーリーはリアルで、専門的な内容でありながら、エンターテイメントとして楽しめるバランスの良さも評価されています。 主人公・猫猫とは何者か? 謎多き少女の魅力に迫る (出典:ABEMA) 猫猫(マオマオ)は、薬師の父に育てられた少女で、幼い頃から薬や毒に対する深い知識を持っています。好奇心旺盛で冷静沈着な性格をしており、誘拐されて後宮に売られても動じることなく下働きをこなしていました。 しかし、後宮内で皇帝の子どもたちが次々と病に倒れる事件が発生し、彼女の薬学知識を活かして原因を突き止めたことで、物語が大きく動き出します。物語のもう一人の核となる人物である壬氏(ジンシ)が猫猫を皇帝の寵妃・玉葉妃の侍女としたのです。 これ以降、猫猫は後宮で女官として仕えながら、さまざまな事件を解決に導いていきます。猫猫は一見クールですが、意外とお節介な一面や皮肉屋な言動があり、そんなギャップが多くの読者に愛される理由のひとつです。 天才的な薬学知識と冷静沈着な性格 猫猫の最大の特徴は、その天才的な薬学知識です。幼い頃から毒に慣れ親しみ、実験と称して自ら毒を摂取して耐性をつけるなど、常識外れの行動を取ることもあります。また、事件が起こると周囲の状況や証拠を冷静に分析し、的確な推理を展開します。 しかし、本人はあくまで「薬師」としての興味で動いており、権力争いには興味がない点もユニークです。そのため、思わぬ形で後宮の陰謀に巻き込まれつつも、持ち前の冷静さで乗り切っていきます。 好奇心旺盛で皮肉屋!?猫猫のユニークなキャラクター性 猫猫は、物事を合理的に考える性格ですが、強い好奇心を持ち、面白そうなことにはつい首を突っ込んでしまいます。そのため、危険な事件に関わることも多く、しばしばトラブルに巻き込まれます。 また、彼女は毒舌で皮肉屋な一面があり、周囲の権力者や美形の男性にも遠慮なく辛辣な言葉をぶつけることが特徴です。特に、後宮の上位者である宦官・壬氏に対しても、飾らずズバズバと物を言うため、彼の興味を強く引くことになります。でも見ていてちょっとひやひやします……。 後宮で巻き込まれる事件と、彼女の変わらぬ信念 猫猫は、後宮の様々な事件に関わることになりますが、彼女自身はあくまで「薬師」としての立場を貫いています。宮廷の権力争いには興味を持たず、誰かを陥れようとすることもありません。ただし、自分の信念に従い、人の命を救うことには全力を尽くします。 例えば、おしろいに含まれていた鉛で中毒になり死にかけた梨花(リファ)妃のため、禁止されていたおしろいを妃に使い続けていた侍女を平手打ちし「なんでこれが禁止されたかわかってんのか!」と一喝。 その後、死の淵をさまよう梨花妃を懸命の看病で生還させました。しかし、梨花妃が意識を取り戻した時、猫猫は静かに梨花妃のもとを去り、恩を売ろうとはしませんでした。事件の真相に気づいてもそれを利用せず、純粋に解決しようとする姿勢が、多くの人々の心を動かし、猫猫を後宮の妃たちの人気者にしていくのです。 猫猫の愛称として壬氏の従者である高順(ガオシュン)が呼ぶ「小猫(シャオマオ)」は「マオちゃん」のような意味です。彼女が愛されていることがわかります。 美しき宦官・壬氏の正体とは? 彼の魅力と猫猫との関係 (出典:ABEMA) 後宮で高い地位にある美貌の宦官・壬氏は、物語の重要人物の一人です。端正な顔立ちと優雅な振る舞いを持つ彼は、後宮に住まう多くの女性たちを虜にする存在ですが、猫猫に対してだけは特別な興味を持っています。 彼女が事件を解決するたびに、彼はますます猫猫に惹かれていき、やがて執着とも言えるような感情を抱くようになります。猫猫はといえば壬氏にはまったく興味がなく、隙あらば言い寄ろうとする壬氏を軽くあしらいます。 優雅さと美貌の持ち主、壬氏の正体 壬氏は、後宮で絶大な権力を持つ宦官のひとりですが、その立ち居振る舞いはまるで皇族のように洗練されています。壬氏が通れば後宮に使える美しい女性たちの誰もが振り向き、目はハート。優雅で穏やかな雰囲気を持つ一方で、内心では鋭い観察眼を持ち、冷徹な判断を下すこともあります。 そのことから、壬氏が単なる後宮の「番人」ではなく、高貴な生まれであり、かつ重要な任務についていることをうかがわせます。壬氏は、実は現皇帝の弟であり、東宮となることを避けるため自ら宦官となった人物。男性性を抑えるために毎日薬を飲んでおり、それがかなりまずいらしい。事情によって後宮にとどめられているらしいことが猫猫とファンに示される場面があります。 猫猫に執着する理由とは? 二人の関係の行方 壬氏は、猫猫の賢さと無頓着な態度に強く惹かれ、何かと彼女に絡んできます。しかし、猫猫は美しい男に興味がないどころか、むしろ警戒しており、彼の甘い言葉も軽くいなしてしまいます。むしろ、壬氏が近寄ってくると逃げ出してしまうほど。なんてもったいない! そのため、壬氏は彼女の関心を引くために様々な手を打ちますが、猫猫は一向に振り向きません。この微妙な関係が、読者にとっても大きな見どころの一つとなっています。むずキュン……。 壬氏の隠された過去と、その秘密に迫る 壬氏の正体は、物語が進むにつれて徐々に明らかになっていきます。彼がなぜ宦官として振る舞っているのか。彼の出自が明らかになったとき、猫猫との関係にも変化が訪れます。彼の秘密が物語の核心のひとつとなっており、多くの読者がその展開に注目しています。壬氏は東宮の誕生を願い、皇帝と寵妃のために媚薬を作るよう猫猫に依頼しました。 物語を彩る個性豊かな登場人物たち (出典:ABEMA) 『薬屋のひとりごと』には、主人公・猫猫や壬氏を取り巻く、魅力的なキャラクターたちが登場します。後宮の寵妃たちや宦官、武官、皇帝など、それぞれが物語に重要な役割を果たしており、猫猫の推理劇に大きな影響を与えます。また、彼らの過去や思惑が交錯することで、後宮の陰謀や権力闘争がより複雑なものとなっています。個性豊かな登場人物たちが織りなすドラマが、『薬屋のひとりごと』の大きな魅力の一つです。 猫猫とふたりの父・羅漢と羅門―謎多き人物の過去 (出典:ABEMA) 羅漢(らかん)は、猫猫の実の父親であり、宮廷の軍隊を統率する優秀な軍人です。その才能から「軍師」と呼ばれるほどの人物ですが、片メガネの奥から人をにらみつけるように見るような癖の強さがあります。羅漢は緑青館(ろくしょうかん)の妓女・鳳仙(フォンシェン)との間に生まれた猫猫が後宮に仕えていることを知り、接触を図りますが猫猫に拒まれます。 猫猫とは長らく疎遠でしたが、物語が進むにつれて、彼が宮廷に関わる理由や、猫猫の出自に関する秘密が明らかになっていきます。登場時は嫌味な印象でしたが、第1期終盤で猫猫の実母である妓女・鳳仙との悲恋と純愛について知った時、羅漢がどうしようもなく愛おしく思えたのは私だけではないでしょう。23話「鳳仙花と片喰」とそれに続く24話「壬氏と猫猫」はファンの間で人気の高いエピソードです。 羅漢の恋 (出典:ABEMA) 猫猫の養父となった羅門(ルォメン)は御典医を務めたこともある天才的な医師です。彼は猫猫の幼少期から薬学を叩き込み、彼女の知識の基礎を作った人物ですが、その存在は謎に包まれています。物静かで多くを語らぬ男は、猫猫を静かな愛情で見守ります。 皇帝と寵妃たち―後宮に渦巻く権力争い 後宮には、皇帝の寵愛を受ける妃たちが存在し、彼女たちの間では常に権力争いが繰り広げられています。皇帝の子を産むことが、妃たちの地位を確立する最も重要な要素であり、猫猫はこの争いに巻き込まれる形で多くの事件を解決していきます。特に、上級妃である玉葉妃(ぎょくようひ)や里樹妃(りじゅひ)は、それぞれ異なる立場から物語に深く関与し、猫猫とも特別な関係を築いていきます。 事件の鍵を握る脇役たち――それぞれの立場と影響 『薬屋のひとりごと』には、多くのサブキャラクターが登場し、それぞれが物語の伏線や謎解きの鍵を握っています。猫猫の友人である侍女・小蘭(シャオラン)や、壬氏の腹心である高順(ガオシュン)、また宮廷内の様々な役職を担う宦官や武官たちが、物語の進行に大きく関わります。彼らの背景や目的が絡み合うことで、後宮内の複雑な人間関係が描かれ、ミステリー要素に深みを与えています。 『薬屋のひとりごと』の主要エピソードを徹底解説! (出典:ABEMA) 物語の中で特に印象的なエピソードをピックアップし、その魅力や重要な伏線を解説します。猫猫の成長や、壬氏との関係、後宮の陰謀がどのように絡み合っていくのかに注目していきましょう。 猫猫、後宮へ売られる―物語の幕開け 物語は、猫猫が人さらいによって後宮に売られるところから始まります。もともと自由気ままに薬屋として暮らしていた彼女は、突然の環境の変化にも動じることなく、下働きとして日々を過ごしていました。しかし、後宮内で皇帝の子供たちが次々と体調を崩す異変が起こり、猫猫の薬学知識が試されることになります。彼女が見つけた「毒」の痕跡が、この後の波乱を予感させる重要な要素となります。 皇帝の御子たちの病―初めての謎解き 猫猫は、皇帝の子供たちの病が「ある特定の毒」によるものだと突き止めます。母子ともに「頭痛、腹痛、吐き気」の特徴。妃のげっそりと痩せた体。彼女はその知識を活かし、原因がおしろいに含まれる「毒(鉛)」だと突き止め、玉葉妃にこっそり伝えようとします。しかし、猫猫の行動だと知られ、元薬師としての知識を壬氏に買われた猫猫は、玉葉妃の毒見役として仕えることになります。 このできごとをきっかけに「悪目立ちして命を狙われたくない」との猫猫の思惑とは裏腹に、後宮の勢力争いに巻き込まれる大問題に発展していきます。猫猫の鋭い洞察力と知識が交錯するこのエピソードは、物語の本格的な幕開けとなります。 毒殺未遂事件と猫猫の推理力 宮廷内では、陰謀と策略が渦巻いており、毒を使った暗殺未遂事件が頻発します。猫猫は、被害者の体調や周囲の状況から瞬時に毒の種類を特定し、犯人の目的を推理します。しかし、彼女の知識は時に「余計なことを知りすぎた」と見なされ、命を狙われることも……。猫猫の冷静な推理と、生き延びるための駆け引きが展開されるエピソードは、読者をハラハラさせる要素の一つです。 壬氏との出会いと猫猫へのむずキュンな片思い 猫猫に対しては思いっきり3枚目になってしまう壬氏サマもたまらん。(出典:ABEMA) 壬氏は、猫猫の推理力と無邪気な毒舌に興味を持ち、彼女を特別扱いするようになります。彼は何かと彼女をそばに置こうとしますが、猫猫は彼を「女たらしの美形」として警戒。何かと理由をつけて猫猫のもとにやってくる壬氏に猫猫はそっけなく、「また来たのか」「キモッ!」と冷たくあしらいます。 園遊会で簪(かんざし)を贈られることが、愛の告白であることも知らなかった猫猫。多くの女官たちが壬氏の簪を与えられるのは自分だとばかりに気持ちを高ぶらせる中、「ん。やる」とひとことだけ言って猫猫に簪を差し出した壬氏サマの不器用さがたまりません。中学生か。 猫猫に振り回されてばかりいる壬氏。「マゾか」と言われながらも猫猫に対する壬氏サマの愛は止まりません。 宮廷内の陰謀と猫猫が直面する危機 後宮の陰謀は深く、猫猫は次第により大きな秘密に巻き込まれていきます。権力争いの中で彼女が知るべきでなかった事実を知ってしまうことで、殺人の濡れ衣を着せられ、後宮から追放されることにもなります。 第1期後半では、後宮から追放され緑青館に戻っていた猫猫ですが、大金を払って身請けした壬氏の屋敷でかくまわれ、壬氏の身の回りの世話係として再び後宮に戻ってきます。 作品に散りばめられた「薬学」と「毒」の知識 (出典:ABEMA) 『薬屋のひとりごと』の大きな魅力のひとつは、リアルな薬学や毒に関する知識が巧みに物語に組み込まれている点です。主人公・猫猫は幼い頃から薬や毒に親しんでおり、その知識を駆使して宮廷内の事件を解決していきます。本作では、実際に存在する毒や治療法が多数登場し、それがストーリーの伏線やキーアイテムとして機能しています。 『薬屋のひとりごと』で登場する実際の薬と毒 本作では、架空の世界ながら歴史的に実在した毒や薬草が多く登場します。たとえば、以下のようなものが劇中に登場し、重要な役割を果たしています。 【CASE1】鉛:鉛入りのおしろいは肌を美しく見せる、との理由で広く使用されていました。第一話で皇帝の御子たちが次々と命を落とし、「呪い」ではないかと噂の元になったのは鉛が使用されたおしろいが原因でした。(1話) 【CASE2】カカオ:猫猫は壬氏に「媚薬」を作るようにと命じられ、チョコレートを作ります。カカオはまだ手に入りにくい高級品でした。妓館で身に付けた知識をもとに、猫猫が作ったチョコレートは効果てきめん。つまみ食いした玉葉妃の侍女たちをトロトロにしてしまいました。(2話) 【CASE3】シャクナゲ:猫猫が初めて事件を解決したとき、シャクナゲの枝に巻き付けた布に警告文を書いて玉葉妃に渡しました。メッセージは「おしろいは毒。赤子に触れさせるな」と書かれたものでした。(1話) また、野営を張っていた軍の中で「毒殺事件」が起きたとき、解決に導いたのも猫猫の毒についての知識でした。この時にも猫猫はシャクナゲを例に説明します。シャクナゲは後宮内で飾られていた一般的な花でしたが葉に毒があります。グラヤノトキシンという有毒な成分で、誤って口にすると下痢や嘔吐、血圧低下や痙攣、めまいなどを起こすことがあります。 「身近な植生でも枝や根に毒のあるものがあり、生木を燃やすだけでも毒になるものも」。この時には、壬氏に判断を仰いだ懸命な軍隊長のおかげで、村人が命拾いをしたのでした。(2話) 【CASE4】曼陀羅華:チョウセンアサガオ。3世紀ごろの中国で麻酔薬として使われていたと言われています。壬氏暗殺に暗躍した官女が仮死状態となって後宮を脱出するために用いられたと考えられている薬草です。その後、この下女は行方不明となっており、伏線が回収されるのかも見どころです。(20話)【CASE5】カエンタケ:猛毒を持ち、食べることはおろか触れるだけでも強い炎症を起こすことで知られています。下級妃同士の嫉妬から起きた毒殺事件で用いられたと考えられています。(27話) これらの毒や薬草が物語の中で巧みに用いられ、ミステリー要素を深めるスパイスになっています。 猫猫の知識はどこから?歴史に基づくリアルな描写 (出典:ABEMA) 猫猫の薬学知識は、単なるフィクションではなく、歴史的な医薬の知識に基づいています。本作は、中国の伝統医学(漢方)の概念を取り入れており、実際に古代中国で使われていた薬草や治療法が参考にされています。 また、猫猫が薬草を扱う際の調合方法や毒の中和など、実際の薬学に基づいたリアルな描写が魅力です。特に、「毒をもって毒を制す」考え方が劇中にたびたび登場し、薬と毒の紙一重の関係が描かれています。 日本の伝統医学と漢方の影響とは? 『薬屋のひとりごと』は、中華風の世界観を持つ作品ですが、実は日本の伝統医学や薬学の影響も見られます。例えば、漢方薬の概念や調合法は、日本の江戸時代にも発展した医学の知識と通じるものがあります。また、毒見役としての猫猫の役割は、日本の歴史にも見られる文化であり、宮廷内の食事管理に関する描写は非常にリアルです。 このように、薬学・毒物学の知識をベースにした緻密な設定が、本作のミステリー要素をより奥深いものにしています。 『薬屋のひとりごと』が映し出す宮廷社会のリアル (出典:ABEMA) 本作の舞台である後宮は、歴史的に見ても非常に特殊な社会でした。皇帝の寵妃たちがしのぎを削り、権力争いが日常茶飯事の世界。そんな後宮の仕組みや、そこに生きる女性たちの立場を深掘りすると、『薬屋のひとりごと』の物語がより奥深く理解できます。 後宮とは何か?実際の歴史と作品の設定 権力争いの温床:妃たちは、皇帝に寵愛されることで自分や実家の地位を確立しようとし、熾烈な争いを繰り広げます。 女性だけの閉鎖空間:後宮には皇帝の寵愛を受ける妃たちが暮らし、外部との接触が制限されていました。 宦官(かんがん)の存在:後宮には男性がほとんど入れないため、唯一の例外として宦官と呼ばれる去勢された男性が仕えることが許されていました。壬氏もその一人として登場しますが、彼には大きな秘密があります。 後宮とは、皇帝の妃や女官たちが暮らす宮廷内の区域を指します。『薬屋のひとりごと』の舞台となる後宮も、実際の歴史的な後宮制度に基づいて描かれています。 後宮に使える女性たちの世話係でもある「宦官」は、世界各国の宮廷に見られる制度です。『薬屋のひとりごと』は歴史的な宮廷制度を巧みに取り入れ、リアリティをもたせています。 宦官とは、去勢されることで後宮に仕えることを許された男性のことです。歴史的には、中国の宮廷では宦官が権力を握ることもあり、時には皇帝すら操るほどの影響力を持った者もいました。 宦官制度とその実態―壬氏はどこまで本物なのか? しかし、壬氏は「宦官」として振る舞っていますが、実際は違うのではないか?との疑惑が物語の鍵となっています。彼の正体が明らかになるにつれて、物語はより深い陰謀へと発展していきます。後宮に入ることが許されるのは宦官と「最も高貴な血筋の者だけ」と、1話の猫猫のセリフで示されます。壬氏は後者であり、自ら望んで宦官に降格した人物です。 壬氏はなぜ宦官となる道を選んだのか。そのなぞもまた物語が進むにつれて明かされていくことになります。 女性の生きる道―寵妃たちの運命と猫猫の立場 後宮に生きる女性たちにとって、皇帝の寵愛を受けることは、唯一の生き残る道でした。しかし、それは同時に激しい競争と危険を伴うもので、皇帝に見捨てられれば命を落とすことすらある過酷な世界です。 後宮で下働きとして働く女性が皇帝に見初められて下級妃となることもある世界。しかし、猫猫は妃になることに興味を持たず、あくまで薬師としての人生を貫こうとします。ところがそんな彼女だからこそ、後宮の権力争いの渦中に巻き込まれてしまうのです。 『薬屋のひとりごと』はミステリー作品としても優秀? 『薬屋のひとりごと』は単なる宮廷ドラマではなく、ミステリー作品としても非常に優れた要素を持っています。 緻密な伏線と謎解き:事件が起こるたびに、猫猫の鋭い推理が光ります。 心理戦と駆け引き:毒殺未遂や陰謀が絡み合い、真相にたどり着くまでの過程がスリリング。 専門知識を活かした説得力:薬学や毒物に関するリアルな知識が、推理の説得力を増しています。 このように、物語の展開はミステリー作品としての完成度も高く、読者を飽きさせません。 『薬屋のひとりごと』の今後の展開は? (出典:ABEMA) 『薬屋のひとりごと』は、原作小説がまだ進行中であり、物語の展開がさらに深まっていくことが期待されています。猫猫の薬学の知識や後宮での立場、壬氏との関係がどのように変化していくのかが、大きな見どころです。 また、未解決の伏線や新たな事件が登場することで、さらなるミステリー要素が加わることが予想されます。今後の展開を考察しながら、どのような物語が待っているのかを探っていきましょう。 壬氏と猫猫の関係はどうなる? 壬氏は猫猫に対して特別な関心を抱いており、その感情が単なる興味や執着ではなく、もっと深いものへと変化していることが伺えます。しかし、猫猫は壬氏に対して特に恋愛感情を抱いておらず、むしろ彼の行動に戸惑うことが多い状況です。 しかし、今後の展開次第では、猫猫が壬氏の正体を知り、彼の過去や本当の目的を理解することで、二人の関係性が大きく変わる可能性があります。 また、猫猫は現在のところ後宮での立場を守りながら生きていますが、壬氏との関係が公になれば、後宮内の勢力争いにも影響を与える可能性があります。二人の関係がどのように進展するのか、読者の間でも大きな注目を集めています。 最新話から読み解く今後の展開予想 原作の最新話では、猫猫が後宮内で新たな事件に巻き込まれる展開が続いています。特に、新たな毒殺事件や、皇帝の周囲で起こる異変などが今後の鍵となる可能性があります。 また、猫猫自身の立場が変化する兆しもあり、彼女が単なる薬師としてではなく、後宮や宮廷全体に影響を与える存在になるかもしれません。彼女の知識や推理力がどこまで評価され、利用されるのかも見どころのひとつです。 さらに、壬氏や羅漢以外のキャラクターたちの動向にも注目が集まっています。新たな登場人物が加わることで、物語の展開がさらに複雑になり、今後も予測不能な展開が続くことが期待されます。 『薬屋のひとりごと』をもっと楽しむために 『薬屋のひとりごと』は、小説、漫画、アニメと幅広いメディアで楽しむことができる作品です。それぞれのメディアごとに異なる魅力があり、より深く物語を楽しむためのポイントを紹介します。 原作小説・漫画・アニメ、それぞれの違いと魅力 ・小説版:詳細な心理描写や、伏線の深みが楽しめる。猫猫の内面の葛藤や推理の過程がより鮮明に描かれている。 ・漫画版:スクウェア・エニックス版と小学館版の2種類があり、それぞれ異なるアートスタイルで楽しめる。ビジュアルとして世界観がより伝わりやすい。 ・アニメ版:動きや音声が加わることで、物語の臨場感が増す。特に、キャラクターの表情や声優陣の演技が作品の魅力を引き立てる。 【まとめ】 『薬屋のひとりごと』は、宮廷ミステリー、薬学、ロマンスが融合した唯一無二の作品です。リアルな薬学知識や、緻密な伏線、魅力的なキャラクターたちが織りなす物語は、多くのファンを惹きつけ続けています。 今後の展開がどのように進むのか、猫猫の推理は?壬氏との関係は変わるのか?―これからも『薬屋のひとりごと』から目が離せません! ぜひ、小説・漫画・アニメを通じて、この魅力的な物語を堪能してください。

アニメヲタクが語る!2025年夏アニメでどれを観るべき?初心者向けおすすめ作品一覧

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「アニメヲタクが語る!2025年夏アニメでどれを観るべき?初心者向けおすすめ作品一覧」。トイアンナさんが書かれたこの記事では、2025年夏公開アニメへの偏愛を語っていただきました! こんにちは、アニメヲタクになって25年目を迎えた、ライターのトイアンナです。非ヲタの友人と話していると「アニメが多すぎて、どれを観るべきかわからない」と、よく言われます。確かに。日本では、子供向けアニメも含めれば年間100作品以上のアニメがリリースされます。そのため、非ヲタからすれば「何が何やら」となるのは当然のことでしょう。 というわけで、今回は2025年の夏に始まる「アニメ初心者が観て楽しめる作品」をピックアップし、その魅力をぞんぶんに解説します! 2025年夏に公開されるアニメは27作品 まず、2025年夏に公開予定の作品は、以下の通り。そのなかで、タイトルに★をつけた作品が、この記事で「初心者にもおすすめできる、2025年夏に公開予定のアニメ作品」です。 2025年夏に公開予定のアニメ作品一覧(あいうえお順) ★雨と君と うたごえはミルフィーユ おそ松さん(第4期) 怪獣8号 第2期 彼女、お借りします 第4期 クレバテス-魔獣の王と赤子と屍の勇者- ゲーセン少女と異文化交流 cocoon ★地獄先生ぬ~べ~ CITY THE ANIMATION 白豚貴族ですが前世の記憶が生えたのでひよこな弟育てます ★ずたぼろ令嬢は姉の元婚約者に溺愛される 盾の勇者の成り上がり Season 4 ダンダダン 第2期 強くてニューサーガ 出禁のモグラ 転生したら第七王子だったので、気ままに魔術を極めます 第2期 ★桃源暗鬼 ニャイト・オブ・ザ・リビングキャット ばっどがーる BULLET/BULLET 光が死んだ夏 ふたりソロキャンプ My Melody & Kuromi ★水属性の魔法使い 勇者パーティーを追放された白魔導師、Sランク冒険者に拾われる ~この白魔導師が規格外すぎる~ わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!(※ムリじゃなかった!?) いわゆる、ヲタクが注目するのは「人気作の続編」ですが、普段からあまりアニメを視聴しない層にとって、続編アニメはとっつきづらいものです。しかも、シリーズ作品はSNSで検索しようものなら公開済みエピソードの容赦ないネタバレにあいます。 そこで、この記事では2025夏アニメの中でも「新しく始まるアニメ作品」のみピックアップしました。 *本稿のアイキャッチ画像の引用元:ORICON NEWS プレスリリース 2025年夏公開のおすすめアニメ【1】雨と君と 出典:『雨と君と』アニメ公式サイト 作品名雨と君と放送形態TVアニメスケジュール2025年7月予定キャスト藤:早見沙織ミミ:鎌倉有那レン:佐藤聡美クラウゼ・エラ・希依:湯本柚子スタッフ原作:二階堂幸監督:月見里智弘シリーズ構成:待田堂子キャラクターデザイン:大和田彩乃アニメーション制作:レスプリ ある雨の日。ずぶぬれになった女性・藤は、捨て犬と出会います。フリップを振り、折り畳み傘を藤に差し出してまで「自分を拾って!」とアピールする姿勢に負け、一緒に暮らし始めた彼女。しかし、その犬はよく見ると「わんこ」ではなさそうで……。 出典:原作『雨と君と』第一話 原作の愛らしい犬……ではないたぬきの賢さとかわいさにほっこりします。何しろたぬきなので、賢くても「人を化かす生き物だしなあ」と許せてしまう設定もいいですよね。 本作はもともとはXで公開されていた漫画のため、拡散されて閲覧したことがある方もいらっしゃるのではないでしょうか。原作がショートストーリーなので、おそらく本編も1話15分未満の短い作品になる可能性が高いと思われます。 つまり、アニメにじっと向き合わずとも、家事をしながら、仕事の息抜きに楽しめる可能性大。大人の疲れをすっと癒してくれる、ほっこりアニメとして、のんびり楽しめるのではないでしょうか。 制作会社は『コウペンちゃん』『アニメ カピバラさん』などを手がけてきたレスプリ。このジャンルのマイスターが手がけるとあって、期待大です。さらに、声優は『鬼滅の刃』で胡蝶しのぶを演じているベテラン声優・早見沙織さんとあって、ヲタクにも嬉しい作品となっています。 2025年夏公開のおすすめアニメ【2】地獄先生ぬ~べ~ https://www.youtube.com/watch?v=h5BdLs3rARw 作品名地獄先生ぬ~べ~放送形態TVアニメ テレビ朝日系列スケジュール2025年7月予定キャスト鵺野鳴介:置鮎龍太郎立野広:白石涼子稲葉郷子:洲崎綾細川美樹:黒沢ともよ木村克也:岩崎諒太栗田まこと:古城門志帆高橋律子:遠藤綾ゆきめ:加隈亜衣玉藻京介:森川智之スタッフ原作:真倉翔(集英社『週刊少年ジャンプ』連載)漫画:岡野剛監督:大石康之助監督:山田史人シリーズ構成:大草芳樹キャラクターデザイン:芳山優サブキャラクターデザイン:高橋敦子プロップデザイン:伊藤依織子妖怪デザイン:田中宏紀、きじまるアクション監督:加々美高浩、芳山優美術設定:平澤晃弘美術監督:春日美波色彩設計:野地弘納3DCGディレクター:吉良柾成画面設計:田村仁撮影監督:平本瑛子編集:吉武将人音響監督:名倉靖音響効果:森川永子、佐藤理緒録音:椎原操志音楽:EVAN CALLアニメーション制作:スタジオKAI 「あのヒット作品をもう一度アニメ化する」リバイバル作品で、最近最も話題になったのが『地獄先生ぬ~べ~』でしょう。本作は1993年に連載開始した同名漫画の再アニメ化作品。過去に1度アニメ化されたときは、ギャグとラブコメとホラーをてんこもりにしたオムニバス作品として、大ヒットを記録。スピンオフ作品も連載されました。 舞台は小学校。5年3組担任の鵺野鳴介(ぬえの・めいすけ)は、通称ぬ~べ~と呼ばれるダメ教師。普段は生徒にもイジられているけれど、実は「鬼の手」を持つ最強教師なのだった……! しかし、そんな特殊な教師がいるところには妖怪も集うわけで、日夜生徒を守るために妖怪・幽霊と戦ったり、交渉したりするお話しです。 『地獄先生ぬ~べ~』は、怖い話が苦手な方でも安心して視聴できる、ギャグの多さが魅力。ゲラゲラ笑って、ときどき泣いて。緩急があって飽きさせないのに、1話見逃してもストーリーに支障が出づらいオムニバス形式だから、忙しい方も安心して観られるのもおすすめポイントです。 2025年夏公開のおすすめアニメ【3】ずたぼろ令嬢は姉の元婚約者に溺愛される 出典:『ずたぼろ令嬢は姉の元婚約者に溺愛される』アニメ公式サイト 作品名ずたぼろ令嬢は姉の元婚約者に溺愛される放送形態TVアニメ スケジュール2025年7月予定キャストマリー:本村玲奈キュロス:濱野大輝スタッフ原作:とびらの、仲倉千景(双葉社 モンスターコミックスf)キャラクター原案:紫真依監督:北川隆之副監督:砂川正和シリーズ構成・脚本:猪原健太キャラクターデザイン:佐藤秋子音楽:夢見クジラアニメーション制作:ランドック・スタジオ 突然ですが、おとぎ話の「シンデレラ」が、なぜ現世に残るほど継承されてきたと思いますか? 私は、疲れた大人の「夢」を、シンデレラが担ったからだと思います。職場で仲たがいする同僚、腹の立つ家族の一言。それらを洗い流してくれる、一発逆転ストーリー。それも、自分から積極的に冒険の旅へ出ずとも、勝手に報われる物語。これぞ、疲れた大人の「救い」だと思うのです。 本作『ずたぼろ令嬢は姉の元婚約者に溺愛される』は、現代のシンデレラ・ストーリー。家族にいびられて育った主人公、マリーが、姉の死に伴い代理としてある男性のもとへ結婚することになります。その男性がスパダリ(※完全無欠のスーパー彼氏のこと)で、これまでの不幸をなかったことにできるほど、主人公を溺愛してくれるのです。 ええ、都合のいい物語ですよ。けれど、主人公に都合の悪い物語のどこに、感情移入する余地があるでしょう。真剣に正座して観たくなるアニメがあってもいいし、「あ~もう無理~疲れた~」と言いながら、癒されるために観るアニメがあってもいいのです。 私は原作小説を全て読みましたが、この作品は何より各話が面白い。単なる「私って何もしてないのに愛されちゃって最強!」で完結しない、ハラハラ・ドキドキ要素があります。それがアニメでも見ごたえにつながると信じているため、おすすめ作品にリストアップしました。 2025年夏公開のおすすめアニメ【4】桃源暗鬼 出典:コラボカフェ 作品名桃源暗鬼放送形態TVアニメ 日本テレビ、ほかスケジュール2025年7月予定キャスト一ノ瀬四季:浦和希無陀野無人:神谷浩史皇后崎迅:西山宏太朗屏風ヶ浦帆稀:石見舞菜香矢颪碇:坂田将吾遊摺部従児:花江夏樹手術岾ロクロ:三浦魁漣水鶏:愛美スタッフ原作:漆原侑来(秋田書店『週刊少年チャンピオン』連載作品)監督:野中阿斗監督補佐:橋本裕之シリーズ構成・脚本:菅原雪絵キャラクターデザイン:網サキ涼子美術設定:別役裕之美術監督:Scott MacDonald色彩設計:多田早希撮影監督:芹澤直樹CG監督:福島涼太編集:岡崎由美佳音響監督:飯田里樹音楽:KOHTA YAMAMOTO音楽制作:ポニーキャニオンアニメーション制作:スタジオ雲雀 あなたは、小さいころに「桃太郎」の物語を読んで、不思議に思ったことはないでしょうか。 「どうして何の落ち度もない鬼が、桃太郎に倒されなくてはならないのか?」 桃太郎は圧倒的強者として鬼を虐殺し、財宝まで強奪する。これが正義の側であっていいのでしょうか? この問いに「鬼の側」から答えてくれるのが、『桃源暗鬼』です。 父の敵を討つため、鬼が若手を育成するための施設・羅列学園に入学する主人公の四季。四季が鬼としての力を覚醒させる一方、敵の「桃太郎機関」は、鬼を一斉排除しようとしていた……。鬼と桃太郎が異なる「正義」を抱き、大志のために衝突するシンプルで重厚なストーリーに引き込まれます。 そして、自らの血を武器化して戦うド派手な戦闘シーンも、アニメだからこそ映えるはず。制作会社のスタジオ雲雀は、『暗殺教室』などを過去に手掛けており、キャラクターが俊敏に動くシーンをどう設計するかに期待が高まります。直観ですが、第2期までは必ず制作決定しそうな注目作で、第1期が始まる今だからこそ観ておきたいおすすめアニメです。 2025年夏公開のおすすめアニメ【5】水属性の魔法使い 出典:『水属性の魔法使い』アニメ公式サイト 作品名水属性の魔法使い放送形態TVアニメ TBS、ほかスケジュール2025年7月予定キャスト涼:村瀬歩アベル:浦和希セーラ:本渡楓スタッフ原作:久宝忠『水属性の魔法使い』(TOブックス)原作イラスト:天野英漫画:墨天業監督:佐竹秀幸シリーズ構成:熊谷純キャラクターデザイン:小堤悠香アニメーション制作:颱風グラフィックス×Wonderland 『水属性の魔法使い』は、「異世界転生もの」といわれるジャンルの作品です。「異世界転生」とは、現実世界でトラックに轢かれるなどして死んでしまった主人公が、異世界で人生をやり直す物語のこと。通常、この手の物語では主人公が最強の魔法を身に着けていたり、なんでも願いが叶う加護を受けていたりするものですが、この主人公はまあまあ努力型。 しかも、本人はせっかく転生したのだから……と、まったりスローライフを考えるも、その願いむなしく敵が襲ってくる、むしろ現世より過酷な経験を積みます。そのおかげもあって鍛え抜かれ……という、観ているだけで「がんばれ」とつぶやきたくなるストーリーがおすすめポイントです。 本作の面白さは、通常の「異世界転生作品」にはない「年月の経過と、場面の変化」です。作品の序盤で主人公は転生してから20年の時を過ごし、もはや転生前の寿命を超えてしまいます。しかも、スローライフ志向なら最初の家にとどまるかと思いきや、世界中を旅することになる。だからこそ、名作ファンタジー作品のような重みのあるストーリー展開が見られます。 ……って、簡単に書きましたけれども、ということはその分アニメーターさんが背景画像を多数描かないといけないわけで、「現場泣かせの作品だなあ」というのが私の所見です……。そういう意味では、制作会社の力量を見たい! というのが、ヲタク視点では楽しみ&おすすめポイントですね。 2025年夏公開のおすすめアニメ【おまけ編】ダンダダン 第2期 出典:集英社 プレスリリース 作品名ダンダダン 第2期放送形態TVアニメ MBS, TBS系28局「スーパーアニメイズムTURBO」枠にてスケジュール2025年7月予定キャストオカルン<高倉 健>:花江夏樹モモ<綾瀬 桃>:若山詩音星子:水樹奈々アイラ<白鳥愛羅>:佐倉綾音ジジ<円城寺 仁>:石川界人ターボババア:田中真弓スタッフ原作:龍 幸伸(集英社「少年ジャンプ+」連載)監督:山代風我、Abel Gongoraアニメーション制作:サイエンスSARU そして、冒頭で「シリーズものは選ばない」と言ったにもかかわらず、あえておすすめの2025年夏アニメに入れさせていただきたいのが『ダンダダン』第2期。ストーリーは複雑怪奇、ホラーで、SFで、ギャグで、恋愛で、感動で……そう、エンタメの全部をぎゅっと詰め込んだ傑作が『ダンダダン』です。 非ヲタの方にあえてたとえるなら、『スパイダーマン』『アベンジャーズ』に代表される、MARVEL作品に近いかもしれません。カッコよくて、ちょっぴりおバカで、青春で、アクション。『ダンダダン』は、私たちがエンタメに欲しているものを、全部盛りにしてくれた作品です。 主人公は高倉健と綾瀬桃のダブルヘッダー。宇宙人の存在を信じる「オカルン」こと高倉健と、祖母が霊媒師の「モモ」が、喧嘩の果てにチャネリングと心霊スポット訪問をしたところ、本物のUFOと妖怪に遭遇してしまい、命をかけた戦いをすることに……という、ドタバタから始まる物語です。 『ダンダダン』はストーリーが始終ドタバタしているので、目が離せないアニメ作品です。まったりアニメを視聴したいスローライフ好きは本稿の冒頭に紹介した『雨と君と』でも見ていただいて……。本作では特撮のプロもうなる怪獣のデザインや、超速で動くアニメーションの美しさがたまらない! まるで映画のように迫力たっぷりの戦闘シーン、そしてボロボロ泣かされるサイドストーリーの完璧なサンドイッチに、心をやられることでしょう。 『ダンダダン』第1期はABEMA、Netflix、U-NEXT、Amazonプライムのすべてで配信されているため、今からでもストーリーを追いかけやすいのがおすすめ理由の一つ。さらに『スパイダーマン2』のように、2期から見始めても十分に楽しめるはずです。あまり考えず、ぽちっと視聴してみてください。 第1期のオープニング曲を担当した Creepy Nutsの「オトノケ」も名曲ですしね! https://www.youtube.com/watch?v=Nw_XzGZ35As 2025年夏公開のおすすめアニメをもとに、視聴作品を決めてみよう この記事では、2025年夏に公開予定のアニメ27作品のなかから、ヲタクでない方にもおすすめできる6作品をピックアップいたしました。今年は年初からいいアニメが多くて、ヲタクは嬉しいものの、非ヲタの方がついてこられるか心配……! というわけで、初心者でもとっつきやすく、しかも今から「まず30時間正座して前シリーズを観て」と言われずとも楽しめる作品をご案内しました。これで日本のアニメを好きになってくれる人が一人でも増えてくれたら、嬉しい限りです!

「機動戦士ガンダム ジークアクス」が話題の今こそ見ておきたい富野アニメの到達点「伝説巨神イデオン/発動篇」

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「「機動戦士ガンダム ジークアクス」が話題の今こそ見ておきたい富野アニメの到達点「伝説巨神イデオン/発動篇」」。フミコフミオさんが書かれたこの記事では、「伝説巨神イデオン/発動篇」への偏愛を語っていただきました! 「機動戦士ガンダム ジークアクス」面白かったね。 https://twitter.com/G_GQuuuuuuX/status/1894311841855410291 みなさん、こんにちは。ガンダムの新作「機動戦士Gundam GQuuuuuuX(ジークアクス)」、劇場でご覧になりましたか。面白かったですね。未見の方のために、ネタばれしないようにギリギリの線で感想をいうと、前半はめっちゃ「ギレンの野望」でしたね!後半の展開も、スタジオカラーらしい作品になりそうで、テレビ本放送に向けて期待は高まるばかりでございます。 「ギレンの野望」部分に突っ込みをいれるとしたら「シャア・アズナブルさんは戦況を変えるほどの強キャラじゃなくね?パプテマス・シロッコ様曰く、ニュータイプのなりそこないですよ」くらいでしょうか。とにもかくにも、二十年以上前の大昔に「ギレンの野望」シリーズを遊びまくった人間なので、あの展開は琴線に触れまくりでございました。 けれども、「これはガンダムですか……?」もうひとりのリトル自分から問いかけられたら「うーん」とうなってしまう、ファーストガンダム至上主義者でもある。楽しめたし、クオリティも高かったので勢いで「あえて言おうガンダムであると!」と言ってしまいたい衝動にかられるが、やはりそれでもガンダムなのかと問われると即答しかねてしまう。なぜかというと、富野由悠季大先生が関わってないから。御大という存在がガンダムをガンダムたらしめているからである。 少年時代、毎年発表されていた富野由悠季御大アニメに触れて影響を受けて育った世代なので、富野成分が欠落していると物足りなさを感じてしまうのだ。もちろん御大が絡んでいなくても面白いガンダム作品はあるけれども(近作だと「水星の魔女」も変わっててよかった)、御大が作るガンダムは特別なのだ。「ジークアクス」は、劇場公開された冒頭部分であれほどの期待値の高い面白い作品を作れるのなら、ガンダムという枠組みに頼らずに新しいものを作ったほうが…とも思ったりする(でも楽しみ)。 富野作品の極北「伝説巨神イデオン」 https://www.youtube.com/watch?v=7H0kxW8qhmQ 異論はあるのを覚悟しておりますが、機動戦士ガンダムの生みの親である富野由悠季大先生によるハードコア路線の到達点が「伝説巨神イデオン」である。まずストーリーが無駄に壮大。リアルロボット系の機動戦士ガンダムに対して「伝説巨神イデオン」は超リアルだ。地球人が地球圏を飛び出して外宇宙を開発中に、辺境のソロ星で異星人バッフ・クランと接触。戦闘に発展。主人公コスモたちは遺跡から出てきた巨人イデオンと宇宙船ソロ・シップに乗ってバッフ・クランと戦うことになる…というもの。ガンダムに比べるとアバウトでスケールが大きくてとてもいい。 遺跡であるイデオンがどういうわけか合体前はトレーラーのような形をしており、かつA・B・Cの三つのメカに分裂していて、わざわざ合体する仕様なのも、大人になってから見直すと趣深いものがある。「三つのメカが合体して巨大メカになったらウケるよね」「メカがトレーラーだったら子供の心はガッチリだ」という玩具メーカーの担当者を交えた企画会議が盛り上がった様子が目に浮かぶようである。盛り上がった会議のあと、冷静になって見直すと「なんでこんなものが…」となるのである。そういう大人の事情を感じさせて味わい深いのだ。合体前はトレーラー、顔は量産型モビルスーツ(ジム)、無駄に巨大で全身が真っ赤なイデオンがチート級の強さで活躍するのも今でいうギャップ萌えかもしれない。残念なことに、登場が40年早かった。 そのうえイデオンを動かす源である無限力とよばれるイデの強大な力が、不安定かつわかりにくい。ガンダムに登場するニュータイプという存在が鼻くそレベルの小さいものに見えてくる。コスモたちはバッフ・クランと戦いながら宇宙を旅するなかで、たびたび無限力/イデの発動に翻弄され、主要人物たちがばたばたと倒れていくというのがテレビシリーズ。地球圏あたりでちまちま戦っている宇宙世紀もののガンダムとはスケールの大きさがちがうのだ。シャアの操縦するザクが3倍のスピードで動いていてもその空間ごと蒸発させるのがイデオンなのだ。 僕は、小学生の頃、「伝説巨神イデオン」のテレビ放送をリアルタイムで見ていた。主人公メカであるイデオンや敵対する重機動メカのカッコ悪さ(失礼)や、揃いも揃って我がままで共感できない登場人物たちに耐えながら見続けていたのは、いつか面白くなるのではないか、だってガンダムをつくった人のアニメだから、という根拠の乏しい期待感と湖川友謙さんの絵が大好きだったからだ(湖川さんの名前は当時知らなかったが)。頬骨のあるリアルで美しい登場人物に魅せられていた。ハイセンスな小学生だったのである。 テレビシリーズの最終回に呆然とした。 https://twitter.com/masahashi17/status/1884972294373802129 しかし、小学生目線からは伝説巨神イデオンはいっこうに盛り上がらなかった。一緒に観ていた友達たちは一人、二人と「悪いな。もう無理」といってイデオンから脱落した。イデオンが強すぎたのも大きな原因だったように思える。強いのはいい。だが強すぎはよろしくない。惑星をぶった切るわ、数えられないほどの敵に囲まれても殲滅してしまうわ、強すぎて弱い者いじめをしているように見えてくるのだ。なんやねん惑星斬りって(惑星の裏にいる敵ごと破壊)。 ガンダムのように死線をサバイブするようなヒリヒリした展開を期待しているのに、反則兵器イデオンガンを使って数千の敵を蒸発させるのだから……。反則技と暗い展開に何度も心が折れてしまいそうになった。見続けたのは、当時の家のルールがあったからである。「一度始めたものは最後までやりきりなさい」という亡き父が定めたルールがあり、それを破ったらこづかいが減額されるという厳罰が設定されていた。今も昔もこづかいに縛られている人生なのだ。 それでも終盤、物語が微妙な傾斜で盛り上がっていき、そこで僕は、テレビ版伝説巨神イデオン伝説の最終回を目撃することになるのである。イデオン放送の十数年後のエヴァンゲリオンの最終回にも驚いたが、エヴァの方がまだまとめている努力が見られたのでマシに思えた。イデオンのテレビシリーズの最終回はまさしく突然、唐突に、いきなり、終わった。戦いのなかでこれからどうなるの……佳境に差し掛かった瞬間、画面が止まり、「そのときであったイデの力が発動したのは」というナレーションが流れて終了。 テレビの前で「ぽかーん」である。テレビシリーズを見続けた友達は皆無だったので、突然の最終回について誰ともシェアできずに悶々と過ごした。なんとなく凄いものを見せられたような気はしたが、意味のわからなさがそれを上回っていた。なお、大人になってから「俺たちのテレビ神奈川」で再放送されたイデオンのテレビシリーズを見直したのだが、人間の業が描かれていて記憶よりもずっと面白かった。ただ、小学校低学年のボンクラに、敵対する異星人の子を宿した娘に対する愛憎入り混じった宇宙人のリーダーの葛藤や、種の滅亡に際しても私怨で戦いをやめられない人間の業の深さなんて、わかるわけないっす……。 映画版「イデオン」を劇場で鑑賞した黒歴史 出典:バンダイチャンネル『伝説巨神イデオン』 テレビシリーズのもやもやを解消する劇場版が公開された。昭和57年、小学三年生の夏休みだ。今は亡き父親と劇場へ観に行った。後年、父にそのことを確認したら「覚えていない」といわれた。映画が終わったときに大きなお兄さんたちが拍手をしていたのを覚えているので間違いないが、父からみれば「鑑賞をなかったことにしたかった」のかもしれない。イデオン自体を知らない、心優しい父が劇場版鑑賞体験を、富野風にいえばナノマシンで黒歴史にしても、わからないでもない。それほど意味不明で凄まじい作品だったからだ。 イデオンの劇場版はテレビシリーズの編集版である『接触編』と真の完結編である『発動篇』の二部構成。打ち切りになったテレビシリーズを二部あわせて3時間オーバーの大作として劇場公開したのだから、暴挙である。『接触編』はダイジェスト版でまあこんなものだよね、という内容なので令和の時代に見る価値はないと思われるけれども、完全新作の『発動篇』がヤバい。令和の時代にこそ観てもらいたい作品だ。 『発動篇』のストーリーはシンプルである。つか、テレビと一緒。結末は「敵味方一人残らず全滅」。地球人類と異星人バッフ・クラン双方とも全滅である。主人公コスモたちソロ・シップご一行と、バッフ・クラン側ドバ総司令官の軍勢が前線で戦っているあいだに、イデの力の発動で双方の母星に隕石が降り注いで滅亡しているため、前線のメンバーが両勢力最後の生き残りというハードコアな展開。イデの力によって殺し合いをさせられてイデオンと巨大兵器ガンドロアが相打ちで爆発、最後に残った全員が爆発に巻き込まれて死亡という壮絶な展開となる。主人公コスモは最後まで戦ったけど爆死。母星が滅びているのに何してんの…という人間の業の深さを思い知らされるすさまじさよ…。 「発動篇」はイデオンBメカ担当のベントさんに注目しよう。 https://twitter.com/ShiningAcguy/status/1872133056628412888 こんな結末から書いてしまってもまったく問題ない。そこまでの過程が凄まじいからである。まず冒頭のオープニングから異常である。とある惑星で知り合って主人公コスモと懇ろになる青髪のキッチ・キッチンという少女がいる。彼女はオープニングの段階で無事死亡する。死にざまがハードコアである。コスモの目の前でバッフ・クランの空爆で死んでしまうのだが、首だけになって血を吹き出しながら空を飛んでいくのがコスモの被るヘルメットのバイザーに映るのである。コスモが「バッフ・クランめー」と絶叫してタイトルが出る。オープニングのタイトルが出るまでにすでにハードコア。 なお、キッチ・キッチンはテレビシリーズではあっさりと死んでしまうので劇場版のためにわざわざ生首描写が作られたことになる。なお、ギジェというバッフ・クランから地球側に寝返った重要なキャラクターも「これがイデの力の発現かー」と絶叫して下半身を吹っ飛ばされてオープニング中におまけのようにあっさり死亡することをお伝えしておきます。 ハチの巣にされるヒロイン(?)カーシャや顔面に弾丸を打ちこまれるカララ、頭を吹き飛ばされる幼女アーシュラ、「発動篇」が語られる際にかならず指摘される登場人物たちの壮絶な死にざまであるが、本作未体験の方にはイデオンBメカのパイロット・ベントさんに注目していただきたい。Bメカのメインパイロットはモエラ、ギジェと代々死んでいるのだが、なぜかベントだけはサバイブしている。そんな彼も「発動篇」で死亡するが、僕はどこで彼が亡くなったのかまったくわからなかった。それくらいあっさり。物好きな人にはぜひとも彼の最期を見つけて供養していただきたい。 凄惨な「発動篇」に魅了されるのは主人公がイデだから。 https://www.youtube.com/watch?v=9MUyTb5p964 発動篇の真の主人公は「イデ」の力である。主人公コスモは狂言回しだ。地球側とバッフ・クランを滅亡させるまで戦わせるイデこそ真の主人公にふさわしい。生命の存続がかかっているのにエゴと私怨をむき出しにして戦いをやめようとしない登場人物たちをイデは滅びの道へ突き進ませる。登場人物たちを徹底的に突き放して描写しているのが「発動篇」の凄みだ。登場人物たちにも容赦がない。だから、女性や子供にも平等に凄惨な死が訪れる。そして「発動篇」の魅力は、イデという圧倒的な力に振り回されながらも、一部の登場人物たちが生きるために最後まで抗う姿にある。 「発動篇」の主人公コスモとカーシャのやり取り。「分かったぞ、イデがやろうとしてることが。イデは元々知的生命体の意志の集まりだ。だから俺達とかバッフ・クランを滅ぼしたら、生き続けるわけにはいかないんだ。だから新しい生命を守り、新しい知的生物の元をイデは手に入れようとしているんだ」(コスモ)「じゃあ、あたし達はなぜ生きてきたの!」(カーシャ) コスモやカーシャはイデの意図に気づくが、それでも最後まであがいて生きようとする。カーシャを失いながらも、イデの意思に最期まで抗って戦おうとするコスモの姿に胸を打たれるのである。 「みんな星になってしまえ」というヒロイン・カーシャの台詞がある。そのとおり登場人物たちは皆星になって、全裸で因果地平の向こうへ飛んで行って終わるというトンデモなラストで「発動篇」は幕を閉じる。全滅という悲惨なエンドだが不思議な爽快感のある怪作である。こんな作品は富野由悠季御大しか作れない。なお、その昔、ケチで物欲の乏しい僕が、入手困難でプレミア価格がついていた「接触篇」「発動篇」のDVDをオークションでおとしたくらい(ヘッダー画像参照)、富野作品とイデオンの業は深いのだ。 「機動戦士Gundam GQuuuuuuX(ジークアクス)」にはイデオンくらいぶっ飛んだ物語を期待している。「いやー富野さんのガンダムより凄かったよ」といえるようなガンダム作品になることを期待している。そろそろ僕ら富野作品で育ったオッサンを富野から卒業させてくれるくらいのガンダムを見せてくれよ。マジで。

すべては子供たちのために――なぜ宮崎駿は手塚治虫を否定するのか(3)

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「すべては子供たちのために――なぜ宮崎駿は手塚治虫を否定するのか(3)」。海燕さんが書かれたこの記事では、宮崎駿への偏愛を語っていただきました!連載第一回「天才対天才、血まみれの思想闘争――なぜ宮崎駿は手塚治虫を否定するのか(1)」はこちら連載第二回「巨匠ミヤザキの欺瞞のパンツ――なぜ宮崎駿は手塚治虫を否定するのか(2)」はこちら   連載第三回である。 過去の第一回および第二回では、日本アニメーション界の宮崎駿が強烈な「ニヒリズム」を抱え込んだ人物であることを見、また、その虚無的な思想を欺瞞のヴェールで隠蔽しようとする傾向があることを見た。 宮崎にとっての手塚とは、その漆黒のニヒリズムを体現したある種の自身の陰画なのではないか、とも思えてくるとろである。自分自身の否定するべき可能性であり、戦うべき鏡像。 むろん、その根底にはいまなお消しがたい畏怖があり、同じ創作者としてのリスペクトがあると考えるべきであろう。 あるいはそこには何らかの個人的隔意も含まれているのかもしれないが、ただそれだけのためにかれが手塚を批判し否定すらしているものと受け止めるべきではない。すべては日本を代表する最大最高の天才作家どうしのあまりにも高度な思想対立なのである。 以下では、あらためて宮崎にとってのマンガとアニメーションが意味するものを見ていきたい。 「子供たちにニヒリズムを語ってはならない」 出典:宮崎駿『千と千尋の神隠し』 手塚治虫は戦後マンガ界最大の巨人であり、戦後マンガ界を特徴づけた人であった。手塚のアニメーションの仕事を否定的に捉える宮崎ですら、かれのマンガにおける仕事を礼賛していることは興味深い。 宮崎の言葉を信じるなら、かれが批判するのはあくまで手塚のアニメ作家としての一面だけであって、マンガ家としての手塚はやはり偉大な先人というべきなのである。 それでは、なぜ、宮崎は手塚のアニメーションにおける仕事をどこまでも否定的に評価するのだろうか。単に手塚のアニメ作家としての技量が稚拙なものに留まったからに過ぎないのか。 そうではない。やはりそこには「ニヒリズム」と「ヒューマニズム」の問題を見て取るべきであろう。 宮崎によれば、手塚はほんらい、ニヒリズムに凄みを見せた作家であった。そのニヒリズムには、宮崎ですら「畏怖」を覚えるほどの魅力があった。 しかし、かれはそのニヒリズムをヒューマニズムという欺瞞的な作法で覆ってしまった。そのことにより、手塚の世界は矛盾をきたし、致命的な問題を抱え込むこととなった。それが宮崎の見解であると、ひとまずは、そういえる。 とはいえ、ここで重要なのは、手塚のニヒリズムを宮﨑は肯定的に受け止めているのか、ということである。 かれはニヒリズムを嫌い、それを超克しようとこころみているのではなかったのか。いったい、宮崎にとってニヒリズムとはどのような位置付けになるのだろう? 一見すると宮崎の主張は自己矛盾しているようにも思われる。かれは手塚のニヒリズムを肯定しているのか、否定しているのか? そうなのだ、こういった宮崎の手塚に関する発言はきわめて錯綜しており、一見すると無理を孕んでいるようにも思えるのだ。 だが、よりていねいに整理していくと必ずしもそうではないことがわかってくる。 まず、重要なのは、宮崎が「マンガ」と「アニメ」というメディアを分けて考えていることだ。 宮崎にとってはマンガは「大人向け」でもありえるメディアであるのに対し、「アニメ」はあくまで「子供向け」のメディアである。いい換えるなら、アニメとはあくまで「子供たちのために」作るものであるということになる。 これは宮崎が一貫して掲げている信念であり、かれの創作における思想の根本にあるものである。宮崎がアニメーションの新作にこだわりつづけるのは、それが子供たちへのメッセージであるからなのだ。 『千と千尋の神隠し』、『崖の下のポニョ』といった作品も、それがあくまでも「子供向け」であることを頭に入れておかなければ理解できないことになるだろう。 アニメにおいては、自分のために作品を作ってはならない。あくまでもどこまでも子供たちのためにこそ作るのだ。それが、宮崎の基本的な考えかたなのである。 宮崎がくりかえし述べるのが「子供たちにニヒリズムを語ってはいけない」という言葉である。これはつまりいい換えるなら、「子供向けの表現であるアニメーションにおいて、ニヒリズムを表現してはならない」ということになる。 逆にいうなら、大人向けでありえる表現であり、また個人による作品ということになるマンガにおいてはニヒリズムを表現することは許される、という意味にもなるであろう。 宮崎が手塚のニヒリズムに畏怖を感じたと語るのは、この意味では理解できることである。ただ、宮崎がこのように子供たちに配慮をしながら作品を作っているのに対し、手塚は違った。 かれはアニメであろうとマンガであろうとかまわず、ニヒリズムを(ときにヒューマニズムで粉飾しながら)描いた。そこが宮崎にとって気にくわないポイントなのではないか。 「神様」手塚治虫の創作における姿勢とは 出典:宮崎駿『風と谷のナウシカ』 手塚治虫という作家についてあらためて考えてみよう。かれは世間では「手塚ヒューマニズム」の作家として考えられている。 その代表作として見られる『鉄腕アトム』にせよ、『火の鳥』にせよ、『ブラック・ジャック』にせよ、「人間であることは美しい!」「生きていることは素晴らしい!」と高らかに訴えかけるテーマの作品として捉えられている。そういい切っても良いであろう。 だが、じっさいにその作品を読んでみると、とうていそのようなきれいごとでは割り切れない虚無の深淵が見えてくる。手塚は戦後マンガに生々しいエロティシズムや底知れないニヒリズムを持ち込んだ作家であり、そのことによって歴史に名を残しているのである。 それでは、手塚はそのような虚無的な思想の人であったのか。そうなのかもしれない。しかし、そういい切ってしまうのには何か違和感を覚える。 たとえば『風の谷のナウシカ』という戦後日本を代表する空前の大名作を一読してみればすぐに判然とするように、宮崎には紛れもなく思想があり、その思想にのっとって作品を生み出している。その意味で、宮崎は思想の人である。 だが、手塚はどうだろう。私見では、かれのニヒリズムもヒューマニズムも、本質的な思想ではない。そもそも、手塚がある思想なり主題を伝えるために作品を作っているとは思われない。 そう、手塚はまず何よりもエンターティナーであり、そしてストーリーテラーであった。むろん、かれにもそれなりのテーマはあっただろう。だが、いってしまえば、それが手塚の作品の本質的な魅力ではない。 手塚はまず何よりも物語が波乱万丈であること、面白くてたまらないことを追求した作家なのである。いってしまえば、そのために「ニヒリズム」も「ヒューマニズム」も利用したに過ぎない。 手塚は決して「思想の人」ではなく、その作品に一貫した思想を読み取ったところで、じつはさして魅力的なものは見えてこないのである。 なるほど、手塚作品にも思想はある。深刻なテーマは数知れない。だが、手塚においてはそれはあくまでも物語に奉仕する形でのみ使用されるべき従属物であるに過ぎない。 つまり、「面白いことがいちばん大切」であり、「面白ければ何をやっても良い」、それが手塚治虫の創作における姿勢であった。 対して宮崎は異なる。かれはマンガにおいては重厚な思想をともなう『ナウシカ』のような作品を描いたし、アニメにおいては「あくまでも子供たちのために」作品を作りつづけた。 庵野秀明が批判しつづけるように、その「思想」は、かれの天才に対して足かせにもなっているようにも思われる。 かれほどの才能ならもっと自由に、もっと奔放に、アニメーションを生み出すことも可能なのではないか。観客はむしろそれをこそ求めているのではないか。そうも思われるが、宮崎はあくまでも「子供たちのために」アニメを作ることにこだわった。 かれの作品は決して「何でもあり」ではなかった。その意味では、手塚と宮崎の「思想対立」とは、単にイデオロギーの違いによる対決というよりは、無思想対思想のたたかいなのである。 すべては子供たちのために、という嘘 出典:宮崎駿『もののけ姫』 宮崎はひとりのマンガ作家として『風の谷のナウシカ』という戦後日本を代表する空前の大名作を生み出してなお、すぐにアニメの仕事に帰還した。 そこから『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』といった、スタジオジブリを超えて邦画史上でも最大級といえるヒット作が続くことになるのであるが、あのダークな『ナウシカ』を経ているにもかかわらず、それらもまたあくまで「子供向け」の作品であった。 くりかえすが、ここでいう「子供向け」とは、内容がチャイルディッシュであるということではない。子供たちへ向けたテーマとメッセージを込めた作品ということなのである。 宮崎の認識では、子供たちとはこの世界の未来をになっていく存在なのであり、だからこそかれらに対して虚無を、絶望を説いてはならない。ほのかなものではあれ、希望をこそ見せてあげるべきだ。 宮崎はそのような「思想」のもと、作品をつくりだしつづけた。少なくとも『風立ちぬ』に至るまではそうだったはずである。だからこそ『紅の豚』などは、あってはならない、あるべきではない作品なのである。 宮崎の手塚への批判、もっというなら否定は、この観点から見たとき、初めて真に理解できる。 それは、岡田斗司夫がいうように個人的に「何かあったのではないか」といった低い次元の話ではない。そして、また、ただ手塚がアニメーターに賃金を下げる行為に手を染めたといったことへの反感に留まるものでもない。 宮崎が手塚を否定しようとするのは、つまりは手塚の無思想性を拒絶しようとしているのである。 「大人向け」のメディアでもありえるマンガはともかくとして、アニメーションはあくまで子供たちのために作られるべきものだ、そこに無節操に「ニヒリズム」やら「ヒューマニズム」を持ち込むべきではない、それが宮崎の態度だとしたら、かれの発言には一貫性が感じ取れる。 そして、この宮崎の批判は、手塚治虫に対してのみならず、手塚が導いた日本のマンガやアニメーション全体に対しても向けられているであろう。 日本のマンガにしろ、アニメにしろ、その特徴は「節操がない」ところにある。それこそ手塚が描き出したようなエロティシズムやニヒリズムやヒューマニズムが、そこでは臆面もなく多用されている。 個々の作家を見ていけばもちろんそれなりの主題も思想もあることだろうが、全体として考えると、その現状はカオスとしかいいようがないように思われる。 そこにあるものは「面白いことがすべて」、「物語こそが神だ」という世界であり、その「光と闇」は宮崎のような作家にとって我慢がならないほど低俗なものに思われても不思議ではない。 本質的にこの世界に絶望しているニヒリストである宮崎の思想的態度は、シンプルである。すべては子供たちのために。このことに尽きる。 だが、それはほんとうに子供たちのためなのだろうか。むしろ、宮崎のほうこそが子供たちに頼り、子供たちのなかに希望を見いだすことでかろうじてニヒリズムの深みに嵌まり込まずにいられるということなのではないだろうか。それほどにかれの絶望は深い。 いっぽう、手塚はニヒリズムともヒューマニズムとも受け取れるような膨大な作品を生み出しつづけながら、生涯、ついに人間と世界に絶望し切ることはなかった。 かれは楽観的だったのだろうか。かれの人間観は宮崎のような暗い絶望を欠いているのか。そうではないだろう。いままで縷々述べてきたように、手塚にも深い絶望はある。 しかし手塚においては、それはあくまで「物語のために」活用されるべきものだったのだ。宮崎において子供たちが、あえていうなら幻想の子供たちが神であるように、手塚においては物語の躍動こそが神であった。 ふたりの違い、もっというなら宮崎のアニメーションと日本の他の「アニメ」との違いをわかりやすく表現するならそういうことになる。 これが、これこそが「なぜ宮崎駿は手塚治虫を否定するのか」、その問いの答えである。いかがだろうか。ご納得いただけただろうか。 読者の皆さまには、全三回に及ぶ連載をお読みいただけたことに感謝する。今後とも「ヲトナ基地」ではぼくの偏愛する作家たちを取り上げてその魅力を語っていくつもりだ。ぜひ、継続してお読みいただきたい。 宮崎や手塚についてもいずれまた形を変えて語ることもあるであろう。そう――まさにかれらこそがぼくにとっての創造の神々なのだから。

私の棺には単行本を入れてください。『幽☆遊☆白書』蔵馬の魅力に囚われた人生が幸せすぎる

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「私の棺には単行本を入れてください。『幽☆遊☆白書』蔵馬の魅力に囚われた人生が幸せすぎる」。さばこさんが書かれたこの記事では、『幽☆遊☆白書』に登場する蔵馬への偏愛を語っていただきました! 私は幽☆遊☆白書の自由研究というテーマで同人誌を発行している普通のオタクである。今回は蔵馬についての偏愛を書くわけだが、正直言うと私が蔵馬に対して思っている気持ちがどういう感情なのかよく分からない。 「蔵馬のこと好きですよね??」と質問されると「えっ?あ、はい、そうなのかな」みたいな変な返答をしてしまうと思うのだ。蔵馬のことを否定されるときっと怒ると思うので、私は蔵馬を好きではある。(と、書きながらもちょっと腹立たしい気持ちにもなるのだ) けれども、グッズが欲しい!ずっと彼の好きなところについて語っていたいというような初々しい気持ちではなく、まるでずっと家で大切に漬けてきた梅酒のような、苦味も甘味も色々なものを長年蓄積して発酵してきた大切な何かみたいな存在なのかもしれない。これはうまく伝わらないかもしれない。 そんなこんなで、この文章に付き合わせるのには申し訳ないが、私が蔵馬に思っているこの面倒な感情について、ただひたすらに書きおこしてみたいと思う。 蔵馬と出会った中学時代からの、生きた痕跡 数年前のある日。いつも寝ているベッドの下からひょこっと蔵馬が飛び出していた。どの蔵馬が飛び出していたかは覚えていないが、下記写真のうちのどれかだった。 これは私が中学生のころに切り抜いたジャンプの蔵馬だ。なんて怖いのだろう。人はこうして生きてきた証をどこかに残してしまう。隠しても隠しても、どこかに必ず生きた痕跡が残るのだ。あのころは本当に蔵馬に夢中で、ジャンプを捨てることができなくて、もったいないからありったけの蔵馬を切り抜いて保管していたのだ。見つけたのが私でよかった。 当時14歳だった私は幽☆遊☆白書の蔵馬に夢中だった。毎週月曜日発売のジャンプが待ち遠しく、今週は蔵馬が出るのか、出たらどのような活躍をするのだろうかと毎週こころ踊らされていた。とくに仙水編の蔵馬には毎度のようにボディーブローを食らわされてきた。舞台が暗黒武術会から人間界にうつる。蔵馬が再登場したときは、なんとずっと知りたかった蔵馬の高校名や高校生活が分かったのだ。 出典:冨樫義博『幽☆遊☆白書』 盟王高校の2年生。ああ、蔵馬もふつうに高校生しているんだ。生物部なんだ、先輩に責任感ないですし、なんて言っちゃったりするんだ、うふふ、とそのことだけで頭がいっぱいだった。当時中学生の私からしたら、少し上の高校生の先輩なのである。憧れの目線で見てしまう。暗黒武術会であれほど血を流しながら命をかけて戦っていた蔵馬も人間界に帰ってきたら普通の高校生。この二面性がたまらなく好きだった。 そこから、かの有名な海藤戦である。蔵馬の同級生、海藤優の存在は大きい。言葉が1分でひとつずつ使えなくなっていく部屋。ここで行われた心理戦は、蔵馬の頭脳明晰さを物語っていた。相手のテリトリー内であるにも関わらず、相手の条件を知ったばかりの蔵馬は自分からタブーの変更を申し出て、戦いを挑む。いったい、どのタイミングで勝利を計算したのだろう。 この人の思考回路は早すぎやしないか。そんな心配はよそに蔵馬は見事に相手を驚かし、最終的には笑わせるという手段で勝利を得たのだ。笑わせた顔芸に関しては企業秘密というオマケつきだ。美味しすぎる。自ら変顔もすることもあるという事実がこちらとしてはとても嬉しい。 大変だ。つらつらと語りすぎて収まる気がしない。先を急ごう。 どうして蔵馬を好きになったのだろう。ここからまずは紐解いていこうと思う。 蔵馬に惹かれた謎を紐解く まずはビジュアルだ。長髪という時点で好きになる要素しかなかった。しかしながら、ここまで私が蔵馬に固執している要因は蔵馬が血を流しすぎたということがあると思う。見て欲しい。蔵馬が血を流した場面を。 出典:冨樫義博『幽☆遊☆白書』 出典:冨樫義博『幽☆遊☆白書』 暗黒武術会は血のオンパレード。蔵馬が血を流すのはたいてい頬だ。鋭いナイフのようなもので切られても顔色ひとつ変えない。痛みはあるだろうに平然としている。あれほどきれいな顔をしているのに、その自分の顔に傷をつけられているのに、その自身の容姿については無頓着。そこがまた堪らない。母さんを人質に取られた優しい妖怪、そのようなそぶりを見せておきながらも敵に対して放つ言葉は「死ね」。これで好きにならない訳がない。タイトルは血染めの花。蔵馬に興味を持った人はこの1話だけ見てもよいのかもしれない。蔵馬入門にはおすすめの1話だ。 そしてなんといっても代表的なものは「今何かしたか?」蔵馬だ。蔵馬は戸愚呂兄に腹を突き抜かれて血を吐きだし、それでも平然とした顔で「今なにかしたか?」と言うのだ。 出典:冨樫義博『幽☆遊☆白書』 初めてジャンプで見たときは蔵馬が死んでしまうかもしれないと思ったので、こちらの心臓も止まりそうなうえに、血を流す蔵馬が美しくて正直パニックだった。今となってはそれも蔵馬の策略だったということも分かっているので冷静に見ることができるのだが、初めてみたときのショックは計り知れなかった。この蔵馬、どこからどう見ても悔しいけれど美しい。流れている血すら美しい。冷たい目が最高。ああ悔しい。 のちに友人が、「これって兄者の脳内の蔵馬なんだよね」ととんでもないことを言いだした。30年以上も経ってから気付いたのだ。私が好きだと思っていた蔵馬は戸愚呂兄の脳内フィルターを通過した蔵馬だったことに。戸愚呂兄の脳内にある蔵馬はこれほどにも美しく色気のある蔵馬だったのかと。 戸愚呂兄の蔵馬に対する解像度の高さがなければこの蔵馬に出会うことはなかった。戸愚呂兄は今も入魔洞窟の奥でこの幻影の蔵馬と過ごしているのかもしれない。戸愚呂兄はいまどのような蔵馬を見ているのだろう。教えていただく術はないのだが、「今何かしたか?」蔵馬を生み出してくれた兄者には大変感謝している。 次に、蔵馬を好きになった最大の理由はここだ。 蔵馬は優しいと見せかけておいて、実はとても残忍な部分もあるということ。 これは、私が蔵馬の敬語率を計算する本を執筆していた際に、夜中に突然蔵馬のセリフだけを書きたくなって、勝手に書いて並べてみたものだ。 こうしてみると分かりやすい。蔵馬はいつも敬語できれいな言葉で話をしているイメージがあるかもしれないが、意外と攻撃的な言葉を使っている。実際には戦っている相手、自分が嫌いな相手に対してはかなり手厳しい。「死ね」、「今投げたゴミから話は全て聞いた」「バカかお前人質は無事だから意味があるんだ」、「お前は命令通りただそいつに入ってればいいんだよ」「猿芝居は誰に習った」 出典:冨樫義博『幽☆遊☆白書』 あれほど優しそうに見える人からのこの蔑んだ言葉の数々。長年(おそらく2000年超えている)培ってきた知性と経験がちょっと見え隠れしたりもするから。これは好きになるに決まっている。ああ、やっぱり悔しい。 蔵馬はそもそもが母親思いの妖怪ということで初登場した。残忍な心を持った妖怪が人間の受精体に憑依し人間として生まれ変わったのが南野秀一。蔵馬の人間としての部分だ。蔵馬は育ててくれた母さん、南野志保利を自分の命と引き換えに救おうとした。母さんに対する思いは絶対であり、15年間ダマして育てて貰った恩を感じているのも事実だろう。しかしながら蔵馬という妖怪は元は残忍な盗賊妖怪、妖狐蔵馬なのである。2000年以上も悪党をしてきたことは消えることはない。 それを証明するかのようにかつて盗賊時代に仲間であった黄泉様に対する態度は酷く冷たいものだ。人によって態度が違い過ぎる。好きな人に対しては限りなく優しく振る舞うが敵とみなした相手には容赦ない。このふり幅があるからこそ、蔵馬というキャラクターの魅力が増していると言っていいだろう。 なお、コミックス19巻のおまけにはこのような蔵馬のカットが入っている。 出典:冨樫義博『幽☆遊☆白書』 これは、幽☆遊☆白書連載終了後に冨樫先生がコミックスに加筆してくれた貴重な蔵馬だ。この蔵馬は南野秀一の背後に妖狐蔵馬がいる。そして南野秀一の中央部分は妖狐によってガッチリとホールドされている。まるで妖狐に支配されているような構図なのだが、逆を言えば、そのような妖狐を背負いながらも自信満々に生き抜いていく蔵馬と取れなくもない。 蔵馬の優しさと冷たさのアンバランスさを1枚で表しているようで、なんて恐ろしいイラストを最後に描いてくれたんだ冨樫先生。連載終了後に見た最後の蔵馬のイラストだったこともあり、このイラストへの私の執着もやはりちょっとしぶとい。 そして、最後のポイントは蔵馬の将来を私達がいくらでも想像できたことだ。 蔵馬は大学にいかなかった。義理の父親である畑中さんの会社に就職した。これは物語の最後でわかったことだ。物語が終わって寂しくなってしまったその後に私ができたことは、蔵馬が畑中さんの会社でどのような社会人生活をしているか想像することだった。 10人以下の小さな町工場かもしれない、長年働いているパートのおばちゃんにかわいがられていたらいいな、何か会社がピンチになったときは知略と交渉術でなんとかしてしまうのだろうな、会社帰りは幽助のラーメン屋に寄って人間らしくちょっとした愚痴でも吐いているかもしれない、時には幻海さんの残したお寺で妖怪の人生相談を受けているかもしれない、そのような妄想をいくらでも広げることができた。 恋愛に関しても蔵馬だけは最後まで決まった相手がいなかった。初恋の女の子、喜多嶋麻弥ちゃんの存在はあれども、その後、彼が誰を想ったのかは物語上で描かれることはなかった。 彼の未来をいくらでも想像できたことで連載終了してからもずっと長く、好きで居続けることができたのだと思う。ここは気持ちを継続していくには一番大きなポイントだったハズだ。 私の葬儀には幽☆遊☆白書19冊を並べて 私の中で蔵馬、そして幽☆遊☆白書という物語は人生の根幹だ。これから先の未来につらい時間があったとしても、きっとコミックス19巻があれば何があってもここに戻って来られる。私にとってはお守りのような作品だ。 私の葬儀にはどうか黄ばんだ幽☆遊☆白書19冊を並べて欲しい。もしできることならば、1992年9号のジャンプも一緒に添えて。(個人的に大好きなエピソードである番外編TWOSHOTSが掲載されている)お経の代わりに蔵馬の台詞をひたすら読み上げてもらって、香典返しにはコミックス1冊をランダムでつけてくれないだろうか。 私は幽☆遊☆白書に出会えたから、こうして文章を書いている。蔵馬について語り合える友人にも出会えた。友人とはときに笑い、ときに共感し、ビールを呑みかわす日もある。多くの縁を繋いでくれたのは幽☆遊☆白書という作品に出会えたおかげだ。 幽☆遊☆白書を生み出してくださった冨樫先生には本当に感謝している。 このような気持ちになれるほど、私はやはり蔵馬のことが好きなんだ。30年後の老人ホームでも90年代のジャンプ本誌を片手に蔵馬について語っている未来がなんとなく想像できる。その日まで、私は幾度となく蔵馬のことについて語り、ときには知らない人とも分かち合うだろう。そう思うと割といい人生だったのではないかと思う。(まだ終わっていないけれど) 幽☆遊☆白書に出会えて本当によかった。やっぱりちょっと悔しいけれど、蔵馬にも感謝しなければならない。A4の紙にでっかく「多謝」と書いて伝えたい。 あなたのおかげで私の人生は楽しいです。ありがとうございます。 -0 ※

昭和日本からドラクエまで、日本でいちばん賛否を呼ぶ映画監督・山崎貴の作品世界を再評価する。

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「昭和日本からドラクエまで、日本でいちばん賛否を呼ぶ映画監督・山崎貴の作品世界を再評価する。」。海燕さんが書かれたこの記事では、映画監督・山崎貴への偏愛を語っていただきました! 山崎貴は、議論の余地なく現代日本で最高の映像作家のひとりだ。 ――と、こう書くとそれだけでひとつの議論が巻き起こりそうだ。 山崎貴が現代日本映画産業で随一のヒットメーカーであることはたしかだが、その作品の出来不出来に関してはさまざまな意見があり、その評価に「議論の余地がない」とはとてもいえそうにない。 それでは、このように書き直してみたらどうだろう? 山崎貴は議論の余地なく現代日本で最も賛否が分かれる映像作家のひとりだ。 こうすると、前の文よりずっと多くの賛成票が集まるのではないだろうか。そのくらい、山崎貴の映画に関しては賞賛と批判が拮抗している。 山崎貴は、きわめて多作でありながら、新作を出すたびに必ずヒット作となるいまの日本では数少ない人気作家であることは間違いない。だが、それにもかかわらず、あるいはそれだからこそ、そのフィルモグラフィを批判的に語る人は少なくないのだ。 それはかれがアカデミー賞を受賞したいまですら変わらない。今回は、この稀代の「商業映画監督」の作品世界を取り上げ、詳細かつ好意的に分析することとしたい。 そう、はじめに書いておくが、ぼくは山崎の業績をすこぶる高く評価する立場に立つ。どんなにたくさんのシネフィルが批判しようが、山崎の映画は(そのすべてがとはいわないまでも)素晴らしい。ぼくはそう信じる。その根拠を、これから書いていくことにしよう。 ハイペース、ハイアベレージ。 https://www.youtube.com/watch?v=fmeB08Qd4Qo 客観的に見て、山崎貴はあきらかに現代日本を代表する映画監督のひとりである。そのキャリアといい、受賞歴といい、興行成績といい、一般観客からの評価といい、かれに匹敵する監督はそうとう広く探し求めてもそうはいないだろう。 何といっても注目するべきはその多作ぶりだ。高度なVFXを多用する独自の作風にもかかわらず、ほぼ1~2年に1作ずつ、場合によってはそれ以上のペースで新作を発表しつづけていることには驚くしかない。 しかも、その大半が10億円を越す興行を記録しており、50億円を越えた作品すら複数ある。これはハリウッドの大作と比べれば平凡な数字かもしれないが、その予算規模が相対的にかぎりなく小さいことを考え合わせると、驚異的な事実だといえるだろう。 しかも、かれは延々と同じシリーズを作りつづけているわけでもない。つねに新しい作品にチャレンジしつづけながら、いままで一度たりとも興行的大失敗を記録していない。そのすべての作品が高い水準で観客を動員しているのである。これはやはり、ふつうに考えても凄いことではないだろうか。 ただ、そのいっぽうでいわゆる「シネフィル(映画通)」からの評価はからいものがある。 もちろん、すべての映画好きが「アンチ山崎貴」を標榜しているわけではないだろうが、自分は映画をよく理解していると考える人のうちかなり高いわりあいが、山崎作品を否定的に見ている印象は否めない。 少なくとも、比較的「薄い」一般観客層がかれの作品をいたって高く評価している事実と比較すると、「マニア」はとても批判的だといって良いのではないだろうか。 その理由として挙げられそうなことは、主にふたつある。ひとつは、山崎映画の一様にウェットでセンチメンタルな作風だ。 初期の『ALLWAYS』三部作で大ヒットを飛ばして以来、山崎は一貫して「泣ける」ことをウリにした、きわめてウェットな作品を作ってきた。 そこが俗ウケをねらっているとみなされ、より繊細なシナリオを期待する観客から忌避されているという一面はあるように思える(とはいえ、かれの全作品を一望してみれば、ほんとうにそれほどウェットなばかりの作家なのか? その点には一考の余地があるだろう)。 そしてもうひとつは、山崎がほとんどいつものように何らかの原作をもとに映画を撮っている監督である点だ。 前述の『ALLWAYS』の原作は名作マンガ『三丁目の夕日』であり、そのあとも『クレヨンしんちゃん』『宇宙戦艦ヤマト』のような国民的知名度を誇る作品から、『永遠の0』のようなベストセラー、『寄生獣』などの異色作に至るまで、幅広く原作ものを手がけ、そしてそのほとんどをあてている。 おそらく映画会社にとってはきわめてありがたい監督だろう。Amazonやフィルマークスを見るかぎり、世間一般の評価も高い。 つまりは、一部の映画ファン、あるいはマニア、あるいはフリーク、あるいはオタクと呼ばれる人を除いては、ごく素朴に山崎貴の映画を楽しんでいると見て良いようなのである。 天才でもなく、芸術家でもなく。 https://www.youtube.com/watch?v=7iIoHGv9hZU しかし、やはりそれでも山崎の映画を批判的に語る人は少なくない。 もちろん、スピルバーグだろうがキューブリックだろうが悪くいう人はいるわけで、すべての人に愛されることはそもそも不可能だろう。だが、山崎貴の場合、そのかがやかしいキャリアに比して、苛烈な批判的意見が目立つ。 とにかく好き嫌いが分かれる作風であり、しかも嫌いな人はみな自分の意見の正当性を信じて疑わないように見えるのだ。この現象はいったい何なのだろう? ウェットな作風の監督は他にいくらでもいる。かれと同じようにマンガや小説を原作にしている人だって何人もいることだろう(そもそも、最近の邦画のヒット作はその多くがマンガ原作ではないか)。 それなのに、山崎貴を嫌いな人たちはそれはもう激烈に「議論の余地なし」という調子で批判する。その激しさは、ぼくのようないたって素朴にかれの映画を楽しんでいる人間から見ると面白い限りである。 当然、山崎の作品にも出来不出来はある。歴史に残るほどの傑作だと思う作品があるいっぽうで(『アルキメデスの大戦』とか)、わりあい凡庸な展開に終始している作品もなくはない(『ルパン三世』とか)。だが、より重要なのは平均して一定水準を越える作品を出しつづけ、高く評価されつづけていることだ。 そう、くりかえしになるが、これは広く見て平成以降の映画界ではまったく類を見ない、ワン・アンド・オンリーの個性である。 わが国では、何十年も映画を撮っていないのに堂々とカントクと呼ばれている人がわりにいることを思えば、その職業に対する誠実さは疑う余地がないように感じられる。 思うに、映画監督とは映画を撮ってこその職業である。どれほどまわりで賛否について騒がしかろうと、いっさい頓着することなく淡々と延々と映画を撮りつづけている山崎は、いま、日本でもっともプロフェッショナルな映画人といっても良いのではないだろうか。 もちろん、監督業が、優れた作家であればあるほど身も心も削るほどのハードワークであることを考えれば、庵野秀明や宮崎駿のように一作撮ったらそれで消耗し切ってしばらく撮れなくなってしまう天才作家を責めることはできない。 むしろ、恐ろしいほどのハイペース、ハイアベレージで新作を創りつづける山崎のほうが例外的な存在なのだ。 「いや、数ではなく質こそが重要なのだ」という意見もあるだろう。なるほど、その通りではある。しかし、一定の質が担保されているのなら、たくさんの「数」を生み出していることもまた評価の対象になるのではないだろうか。 生涯にただ一作か二作、傑作を撮って歴史に名を残す作家はかっこいいかもしれないが、何十本という作品を撮りつづけて大衆を魅了する作家もまたかっこいい。ぼくは心からそう思う。 そして、単純にひとりの観客としてありがたいのは後者のほうなのだ。 たしかに山崎の作風はいかにもウェットである。しかし、そのウェットなナラティヴを成立させているものは際立ってドライな計算であり、戦略なのである。 現実問題として商業的な失敗作を撮りつづけたら監督業は成り立たないわけで、映画監督は「芸術的な」自己満足に留まることを許されない。山崎の姿勢は、その意味でとても映画という産業とマッチしているように思える。 かれは天才でもなければ芸術家でもないかもしれない。だが、最高の職人であり、しかもときに驚くほど挑戦的に「常識的な作法」から足を踏み出してみせる。 まあ、だからこそ嫌いな人には嫌われるのだろうが、そのようなやんちゃな姿勢もぼくのような一ファンには魅力的に映る。 とにかく、好悪はさておき、凡庸なクリエーターではないことだけは間違いない。 責難は成事に非ず。 https://www.youtube.com/watch?v=x7ythIm0834 それにしても、山崎の作風の一貫性には驚くべきものがある。どれほど膨大な非難が寄せられても、かれはそのスタイルを変えようとはしない。そして、あくまでもエンターテインメントの最前線に踏みとどまって、一歩一歩、その評価を高めていっているのだ。 動かざること山のごとし。かれの姿勢はたしかに天才作家とか芸術家というにはあまりに現実的で、面白みがないように感じられるかもしれない。だが、この社会で大人が仕事をするとはこういうことなのではないだろうか。 世の中には、「おれだって十分な予算さえあれば大傑作を撮ってやる」と思っているような無名の監督がたくさんいることだろう。 だが、実際にはどのような才人もかぎられたスケジュールとバシェット、うんざりするような人間関係のしがらみのなかで撮るしかなく、「条件さえ整えば」良い作品を創れるなどというのはどこまでいっても戯れ言の域を出るものではない。 山崎の映画も、ときにその映像表現がいかにもチープに見えることはある。おそらく、かれ自身もまたいくらでもいいたいことがあるだろう(じっさい、ときどき愚痴をこぼしている)。が、かれはそれでもなお、つねに最善を尽くすだけのように見える。 もっと予算があれば、もっと時間があれば、もっと俳優に恵まれれば、かれより良い映画を撮れる者はいるかもしれない。しかし、それはしょせん「イフ」の話でしかない。それに対し、山崎は現実に『寄生獣』や『アルキメデスの大戦』を映画化してのけているのである。 原作ファンにはいいたいこともあるだろうが、これらの企画のそもそもの困難さ、あえていうなら無謀さを考えるとき、山崎の功績は巨大なものと見るしかない。 かれはそうやって賛否のあらしをあの、かれ一流の気さくな態度でかいくぐりながら、いっそ頑固と思えるほど作風をつらぬき、キャリアを築いて、ついに『ゴジラ-1.0』を生み出した。 これは紛うかたなき不世出の天才映像作家である庵野秀明の代表作『シン・ゴジラ』に比肩する山崎の集大成にして、おそらくは最高傑作である。 この映画の出来栄えを観て一驚したハリウッドの映画人たちは、その予算の少なさを耳にして二驚したともいう(こんな日本語はないが)。 山崎はいつも現実の制約に立ち向かい、きっと切歯扼腕(せっしやくわん)しながらなのかもしれないが、その範疇でどうにかこうにか最善の成果を出しつづけた。ぼくはひとりの社会人として、その姿勢を心からリスペクトする。 だれだって、最高の環境がととのえば最高の成果を挙げることができるだろう。問題は、いつまで待っていても最高の環境がととのう日など来ないということで、現実に成果を生み出そうとする人間は現実の制約の内側で何とかするしかないのである。 あるいは、何かを成し遂げることをあきらめて口だけ達者な傍観者になりおおせるか。 山崎は前者の道を選んだのだろう。そして、いま、アカデミー賞の受賞を経て、さらなる高みへ飛躍しようとしている。これが、これこそが現代社会を生きる大人のあるべき姿でなくて何だろう? ほんとうに素晴らしい。 山崎貴にかぎらず、だれかの仕事を横から批判することはたやすい。しかし、責難は成事に非ず。ただ批判しただけでは、なにかを成したことにはならないのである。 成すことだけが成すことなのであり、だからこそぼくはときに失敗しながら、挫折しながらでも成しつづける人を尊敬する。 山崎貴は責難の人ではなく成事の人である。かれが真にプロ中のプロであることは、もはや疑う余地がない。新作が楽しみでならない。またも山崎は、なんらかの意味で想像を超えてくるに違いない。そう――この現実世界の冷淡なる制約が許す、その範疇で。

医師って、面白っ! 自衛隊出身の精神科医が見た「人の鑑」には収まり切らない治療者の素顔

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「医師って、面白っ! 自衛隊出身の精神科医が見た「人の鑑」には収まり切らない治療者の素顔」。益田さんが書かれたこの記事では、医師の方々への偏愛を語っていただきました! 精神科医として働いている今も、時折ふと思うことがあります。“医師って、面白い人達が多いな”と。“そもそも、変わっている人も多く、そのうえエネルギーに満ち溢れているから、面白い活動している人達が多いのだろうな”と。 私は、テレビやドキュメンタリー番組で他の医師たちが活躍している姿を見るのが子供の頃から大好きでした。例えば、救命救急の現場で命の瀬戸際に立つ人々を助ける外科医や、医療過疎地で懸命に治療を続ける地域医療の専門家、そういう人たちが登場するドキュメンタリーが好きです。それは今でも変わらず、自分も医師なのに、お医者様にあったり、話すと、いつもドキドキしたり、ワクワクします。 他にも、未知のウイルスに立ち向かう感染症の研究者たち、こういう人たちのロジカルさと滲み出る日常感や素朴さ、そのギャップを隠そうとしないところが面白くて、私は好きです。最近は、YouTubeで色々な学会や発表の様子なども見られるので、面白いなぁ、と喜んでいます。日本のものは少ないですが、海外の研究者などは発表をYouTubeに載せていることが多いですね。 自己紹介 ここで少し自己紹介をさせていただきます。私は精神科医として働いている益田裕介と申します。会社員家庭の出身で、子供の頃は転勤族でした。2010年に埼玉県所沢市にある防衛医大を卒業し、陸上自衛隊勤務を経て、2018年より東京都新宿区の早稲田で開業医をしています。早稲田大学がある、あの早稲田です。なので患者さんは若い人が多く、日々、さまざまな刺激を受けながら臨床をしています。彼らのアドバイスから2019年12月よりYouTubeをはじめ、それを今も続けています。 メンタル系YouTuberの会 専門家による情報発信には正しい情報は当然として、他にも責任と高い倫理観が求められます。しかし、目先の再生数や人気に目が眩みやすいのも人間の弱さであり、その弱さに支配されないように、相互監視の場として2021年2月ごろより、メンタル系YouTuberの会を発足し、色々な人に参加してもらっています。相互監視のみならず、情報交換やコラボ撮影の依頼など、さまざまな助け合いをする場として機能しています。 彼らと交流していると、やはり面白いな、と思うことが多いです。基本的にみなさん優しく、親切なのは当然ですが、それぞれが個性的です。そういう彼らの様子を見ていると、教科書的には精神科臨床というものが目指す先は標準化された、画一的な医療サービスと書かれていますが、実際は、とてもそんなふうにはなれないだろうな、と確信します。 僕自身は自衛隊出身なので、全て統制されるべきという教えが身体に染み込まされているのですが、人間の心を扱い、人間という温かさを伝えていく職業である医療は、そうであってもいけないんだろうな、と気づかされます。 サイエンスやエビデンスを重視しつつも、自由さが滲み出る彼らの言動を見ていると、励まされるというか、まぁ、いいか、と自分の不自由さに気づくことができ、さらに自由に自己表現をしていこう、という勇気をもらえます。 周囲の人たち同様、僕も彼らの表現を外野から見ていて、ヒヤヒヤすることもあります。しかし、コメント欄などその後の反応を見ていると、案外、すんなりと視聴者さんや患者さんらに受け入れられていることも多いです。それらを見たり、知ったりすることで、医療者ももっと自由で、人間らしくあっていいのだろう、と気づかされます。 実際の臨床でのプレッシャーは計り知れず、僕ら医師は優秀であることをアピールし続けなければならないことが多いです。そうしなければ生き残れない厳しさは、自分達の首も締めていることになっているのでしょう。医師も人間であり、同じような弱さを持っていることを伝えていくことは、患者さんのみならず、他の医師や医療従事者にも良い影響を与えられるのではないか、と思っています。 精神科医開業医の会 数ヶ月に一度、精神科を標榜している開業医の人たちと集まり、食事会をしています。2020年の発足当初は経営やスタッフ教育など様々な相談もあったのですが、最近は皆の経営が安定し、ほとんど食事を楽しむだけの会になっています。経営者同士でしか話せないようなものもあり、色々と相談したり、愚痴を言ったり、お金の使い方などを相談するのは、心の安定に大変役立っています。 彼ら全員に言えるのですが、やはり「元気」です。バイタリティに溢れ、経営を拡大したり、趣味を極めたり、スケールが大きく面白いです。相手から見ても、益田のYouTube活動に対して、感心していると思うので、同じエネルギーや成果が他の方面で花開いている、といえばみなさんもイメージが湧くかもしれません。グルメや旅行、外車購入など月並みなものかもしれませんが、身近な話として、贅沢話を聞くのも面白いです。 地域や医師の専門性、所属している医師やスタッフの人数によっても、治療のやり方や価値観、思想は微妙に異なります。どれが正しい、最適なのか、というよりも、それぞれがそれぞれのやり方で最適化した末での個性なので、それらは尊重されるべきなのだ、という全員の共通理解が心地よいです。 治療者は鏡のようであるべきか、それとも人生の先生か? 僕自身のキャリアは、最初は自衛隊という医師が極めて少ない環境から教科書と現場で必死に学ぶところから始まり、大きな医局などに属することなく、若いうちに開業、YouTubeでの情報発信というほとんど未開の分野を突き進んできた、という自負があります。 大きな医局に属さなかったメリットとして、若いうちから決断や判断をする機会に恵まれ、新しいことにチャレンジしやすかったことが挙げられます。一方で、先輩や権威ある人たちからお墨付きをもらえていない、常にエビデンスやサイエンスと向き合いつつ、正解を模索し続けねばならなかった、というデメリットがありました。 僕が今考えているのは「治療者は鏡のようであるべき」という誤解についてです。もちろん、治療者が人生の先生として、患者さんに説教をたれるのは問題でしょう。彼らの価値観や思想を尊重し、その上で一緒に正解を探していくべきです。鏡のようにあるべきとは、自らの主観を押し付けない態度の例えとして登場しましたが、今は誤解されていることも少なくないかと思います。 臨床とは、自衛隊の兵隊のように個性を殺し、皆が同じ行動や態度をとるものではありません。一人の人間として向き合い、笑顔や悲しみを引き出し、共に悩むことを指します。ここでのありようは多様であり、様々な正解がありえるでしょう。 僕が今出会い、交流している彼らは皆個性的で、変わっていて、でも素晴らしい人たちです。YouTubeやSNSなどの個人メディアの登場によって、治療マニュアルやガイドラインで語りきれないものを表現できるようになってきている今、これらの個性を表現し、受け入れられるような土壌を作りたいなと思っています。

占いアンチの皆さんにも読んでほしい、法律家がロジカルに語り尽くす【占い】の深い深い世界

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「占いアンチの皆さんにも読んでほしい、法律家がロジカルに語り尽くす【占い】の深い深い世界」。ナツメミトさんが書かれたこの記事では、占いへの偏愛を語っていただきました! ☆占いと法律とは組み合わせとして水と油ではないのか。というお話。 はじめまして、ナツメ ミトと申します。タイトルからして「コイツ占い師なのか?」とお思いでしょうが、さにあらず。普段はIT系企業の法務部で、契約書まみれの日々を過ごしています。 自分が過去にやってきたことの一例を挙げると、司法試験受験、大学院生。放送作家、探偵、夜逃げ屋の内勤(この辺はいずれもバイトですが)社畜、等々。そしてこれらよりもずいぶん長く続いたのが占いということになります。占いをやり始めてからもう15年くらいは経つのでしょうか。 話は変わって「占いなんて、占い師が口先だけでテキトーなこと言ってんじゃん!」 とお考えのそこのアナタ。 占いは科学でなければ統計学でもないという点には同意します。ただし、全く出まかせでやっているわけではなく、それなりのロジックはあったりするんですよね。そうでなければ「占いの方法が書いてある本」は書けないですし、師匠から弟子に占いのやり方を教えるなんてことも出来ません。 そして上記プロフィールをお読みいただいた皆さんが次にお考えなのは「なぜ法律屋が占いなんぞをやっとんねん?」でしょう。法律なんて「現実」の最たるものですし、占いなんて言ってしまえば「精神世界」的なジャンルですもんね。全く真逆なのですからそりゃそういう感想にもなると思います。 ところで、法律というのはロジックを使って、「権利や義務」と言った目に見えないものを確定する作業です。そうであれば、ロジックを使って「運勢」という目に見えないものを観測しようとする営みであるところの占いをやっていることだって、そう不思議なことではないと思う…のですが、どういうわけだかこの理屈を理解してくれる人はいないんだな、これが。 そんな変人が今回何を行うのかというお話ですが、どういうロジックを使っているかによって占いを分類してみたり、占いごとに使い分けの方法を解説してみたりとそのような内容となっております。 占いアンチの皆も占い師を罵倒するときに「お前ら口から出まかせばかりだな!」みたいな罵倒よりもこのガイドを熟読して「○○は××のはずなのに、お前はそうではないから占いを使いこなせていないよな!」という煽りを行って頂いたほうが占い師的にはキツいです。 下記を熟読の上それぞれ煽ってみてくださいね。(※本当にやるとケンカになるので止めましょう) ~注意事項~ ・世の中にはいろいろな占いがありますが、自分が使っている占いは東洋の占い(四柱推命、易占い、風水)が多いので例えとしては西洋占星術やタロットと言った西洋の占いよりも東洋の占いが良く出てきます。 ・今回の目的は「あまり占いに詳しくない人になんとなくでイメージしてもらうこと」を主眼としていますので、色々はしょっちゃった結果占いに詳しい人が読むと「ん?」となることがあると思いますがそこは大目に見てください。ゴメンて。 ・つらつらと書いていたら全体の文字数が15,000字に膨らんでおりました。休み休みお読みください。 ☆どういう方法論で答えを出しているか で占いを分類してみる。 台湾では占いを「命卜相」という分け方で分類しているらしいのでこれに乗っかって説明してみます。(以下「命占」「卜占(ぼくせん。と読みます)」「相占」と分類します。) ・命占 四柱推命や西洋占星術 めっちゃ簡単に言うと「自分の誕生日(と誕生時間)で何かが決定してしまう」占い。とでも言うのでしょうか。誕生日によって何が決定するのかは占いごとに異なるので、これは解説が必要でしょう。 四柱推命: 生まれた年月日時の暦(こよみ)で諸々が決定する占い。なのですが、そんなことを言われても何が何だかですよね。 例えば皆さん自分の「生まれ年の干支(えと)」はご存じだと思いますが、実は月日時にもそれぞれ十二支が配当されています。「土用丑(うし)の日」ですとか、「丑三つ時」なんて言葉を聞いたことはないでしょうか。要はコレ、「丑の日」と「丑の刻」があるということです。さらに生まれ月にも十二支が存在します。 実際にこのサイト(※)で皆さんの誕生日を入れてみると分かりやすいのかな。 ※四柱命式計算 (by八字仙人):https://www.moonlabo.com/calendar/?OpDv=stewcore_spclこちらは老舗の四柱推命用サイトでして、全く怪しくないのでその辺りはご安心を。 はい、誕生日や性別をポチポチ入力して「四柱命式計算開始」のボタンを押したあと、「四柱組織の基礎計算結果 (命式)」をご覧頂くと、「年月日時」にそれぞれ「干支」という欄があったりしますが、そちらをご確認ください。 この八文字(それぞれ年柱、月柱、日柱、時柱の四つの柱となっているため、四柱推命と言います。そのためこの八文字は八字とか四柱と呼ばれます)があなたの生まれた日時を表す暦で、この暦を使って色々と占っていくことになります。なお、生まれた時間が分からないと時柱が不明となり、それでも占えなくはないですが精度はかなり落ちます。 例えば今これを書いている2025年1月26日15時51分。この瞬間に生まれたお子さんがいる場合、この八文字は以下の通りです。 年:甲辰 月:丁丑 日:乙亥 時:甲申 それぞれ2文字あるうちの右側が十二支ですね。(子、丑(うし)、寅、卯、辰、巳、午(うま)、未(ひつじ)、申、酉、戌、亥。「年:」の欄を見て、あれ?もう辰年が終わって巳(み→へび)年になったのでは?と思ったアナタ…なかなか鋭い。この占いでの年の変わり目は太陽暦とは別の(一般的には)立春とされるため、まだ辰年扱いなのです) 戌月とか午日は分かったけど、その上の「甲」とか「丁」とかってなんだよ。というお話になりますが、これは十干(じゅっかん)と呼ばれていて、それぞれに十二支とは別の性質をもつものです。この十干と十二支を組み合わせた60種類の2文字×四柱。という構成になっております。(鬼滅の刃でほぼ忘れられている設定ですが、鬼殺隊は強さによって甲~癸までの階級があったはずでして、アレが十干なのです) 「辛亥革命」や「壬申の乱」といった歴史用語、ご存じではないでしょうか。あれは1911年が「辛亥(かのと+い(のしし))年」だったり672年が「壬申(みずのえ+さる)年」であったりすることから来ています。 この四柱八字で後述の「生まれつきの性質、特性」を占ったりしますが、どう占うかまでは文字数が足りないので今回は省略。次があればそんな話をするかもしれません。 西洋占星術: これも実際にホロスコープを作ってもらった方が早いと思うので、西洋占星術業界の大有名人、鏡リュウジ先生のサイト(※)をお借りするとしましょう。 ※ホロスコープを作成する|鏡リュウジ公式サイト:https://kagamiryuji.jp/horoscope/ ホロスコープとはなんぞや。とりあえずは星の配置図くらいに思っておいて頂ければ良いのかと。今しがた鏡先生のサイトで誕生日誕生時間の入力をお願いしましたが、そうであれば生まれたその日その時間の星の配置図が表示されているはずです。これを使って占っていくのが西洋占星術です。 本来太陽の周りを諸惑星が回っているはずですが、この占いでは天動説というか地球の周りを星が回っていることになっています。(そのため円の中心が地球)その周りの惑星(太陽は恒星ですが以下、ここに含めてください)同士の角度や各惑星が何座や何ハウスに入っているか。等々で占うのがこの占いの基本です。 各惑星は地球の周りを周っていることになっているのでこの円内を周っていくことになります。地球を中心としたこの円を1周するのにどのくらいかかるのかは地球と各惑星の位置によってかなりばらつきがあります。月は約28日でこの円内を1周する(月は一つの星座を約2.5日で移動するので生まれ時間が分からないと月の正確な位置がわからないことになります)のに対して土星は約30年で1周、冥王星にいたっては約250年をかけて1周するのだとか。 そのため、どの星がどの位置にいるかは都度都度ホロスコープを出す必要があるのですが、ひとつだけ誕生日を聞けばそのときどの位置にいるか分かる星があります。さて、その星とはなんでしょうか。 はい、太陽ですね。まぁ太陽暦(地球が太陽の周りを1周すると約365日が経過する)なんだから当然なのですが、これの良いところは、昭和平成何年生まれでも1月26日生まれであれば、朝の情報番組で見かける十二星座占いではみずがめ座であることが確定する点です。これがとにかくお手軽でわかりやすい。 世間ではこの「太陽がどの星座にあるか(太陽星座と言ったりするようです)」だけで性格や相性占いなどをしたりするようですが、ホロスコープを使い、他の惑星との関係性も考えることで、さらに詳しく性格をみたり、才能や特性、金運、特定の相手との相性を見たりすることが出来たりします。(こちらも誕生日から割り出したモノで生まれつきのなんやかんやを見ることが出来る。とするのは先ほどの四柱推命と同じです。) ・卜占 タロットカード、易占い これは「問いを立てたのち、偶然出てきた何かをその答えとしてしまう」占い。とでもいうのでしょうか。 タロットカード: 今これをご覧の皆さんであれば、上記12星座占いと共に一番見たことのある占いというのはこれでしょう。不朽の名作「ジョジョの奇妙な冒険 第三部」の幽波紋(スタンド)名にも使われたため、タロットカードの名前くらいであればご存じの方も多いのではないでしょうか。 質問をしたのち、たまたま出てきたカードをスプレッド(カードの配置方法)に従ってたまたまその位置に配置(配置された場所によって色々意味が変わってくる)。その結果が、その質問に対しての答えとなっている。という手法なのは何となくご理解いただけるでしょうか。 例えばスリーカードと呼ばれるスプレッドで占ったとしましょう。「自分が浮気をして彼氏に振られてしまったが、そんな自分に新しく彼氏は出来るでしょうか」みたいなお題で占ったと仮定します。 結果ですが、画像を見ると3枚のカードが並べられています。左から「過去」「現在」「未来」を表しており、左からそれぞれの位置に、「悪魔」「審判」「恋人」のカードが出たとします。 となると、『欲望に負けて浮気をしてしまうが(過去=悪魔)今回のことでそれが良くないことに気づき(現在=審判)、将来的には彼氏は出来るであろう(未来=恋人)』…みたいな感じに読んだりしますが、これはたまたまその位置にたまたまそのカードが来たための結果ということになります。 なお、カードは正位置で出るか逆位置で出るかも偶然に頼っています。(逆位置を考慮しない考え方の人も一定数いるみたいですが、正位置か逆位置かで意味が変わる考え方も根強いように思います。)ということは、たまたま「悪魔」「審判」「恋人」が出たとしても… 過去=恋人の逆位置 現在=審判の正位置 未来=悪魔の正位置 という配置であれば、『誘惑に負けて目移りして浮気をし(過去=恋人の逆位置)、バレて反省の機会があったものの(現在=審判)将来的には欲望や快楽に負けてしまう(未来=悪魔の正位置)』という割と大変な結果になってしまうのですが、まぁ偶然出てきたもので占うわけですからそうなってしまえばしゃーないんですよ。 当たるか当たらないかの問題はありますが、こうなってしまえばあとはお客さんへの伝え方とこの予測に対しての対策をどうするかの話になるのだと思います。 易占い: なお、自分が使っている卜占は易占い(最近全く触っていないですが)という占いです。いらすとやさんのこの画像。 画像の向かって左側に竹の棒(のようなもの)が筒に入っているのを確認できるでしょうか。ざっくりいうとこの竹の棒(49本)を二つに分け、今たまたま何本持っているか?を使って占うやり方です。タロットカード同様にこれまた偶然を使った占いであり卜占に分類されます。 はるか昔だと飲み屋街の片隅にこういう感じの占い師さんがいたと思うんですが、今はもう絶滅しとるんやないやろか…それはともかく、よく「当たるも八卦当たらぬも八卦」と言いますが、その偶然持っていた竹の棒の本数から八卦を出し、それを掛け合わせて八×八の六十四卦を出す。というのがこの易占いのやり方です。 この竹の棒でどうやって占うの?という方用にYouTubeで筮竹の動画の検索結果(※)を貼っておきます。ご興味ある方は各自色々とご覧頂ければ幸いです。 ※「筮竹」での検索結果|Youtube:https://www.youtube.com/results?search_query=%E7%AD%AE%E7%AB%B9 ・相占 手相人相風水 これが一番(原理としては)簡単と言えば簡単なのでしょうか。ズバリ形などの「見た目」で判断する占いです。 手相人相: 人相や手相は分かりやすいんじゃないかと思います。顔の輪郭の形、ほうれい線のある無し、眉毛の位置、生命線や頭脳線の長短、あるいはそれらの線の曲がり具合…徹頭徹尾どういう形か。という「見た目」で判断する占いです。 (あとは皮膚の色なども見たりしますが、これも「見た目」の一種ですね) 風水: まぁ人相手相は分かったとして、風水のどこが「見た目」やねん、黄色いものを西に置いておけばええんとちゃうんかい。と思ったアナタ。 どこかに何かを置くことで運を上げる感じのテクニックが無いわけでは無いんですが、実はお家やお店の風水の吉凶は周りの地形でそこそこ(あるいはそれ以上の場合もありますが)吉凶が決まってしまっているのです。 「地形」という言い方は大雑把すぎるかもしれません。お家の周りにどのような建物があるかや周りの道路の形、玄関を開けたら何が見えるか等々。言ってしまえば「家の周りの形」とでも言うことになるのでしょうか。 あと家の中だと玄関やベッドがどこにあるかという「間取り」が問題になりますが、これもある種「家の中の形」の問題なのです。 ☆それぞれの占いにはそれぞれの得意不得意があるというお話 さてさて。ここまでどういう根拠で吉凶を占っているかを説明してみましたが、続いてそれぞれの占いは何を得意としているか。そしてどういう場面でその占いを使うか。というお話となります。 ・命占が得意としていること:生まれつきの強みや生まれつきの傾向をつかむ。遠い将来の吉凶の把握。 先ほど四柱推命の説明に使ったサイト(※)をもう一度ご覧頂きましょう。 ※四柱命式計算 (by八字仙人):https://www.moonlabo.com/calendar/?OpDv=stewcore_spcl こちらの一番上には先ほど説明した四柱が載っていますが、まずこの四柱のどこにどういう十干十二支の文字があるか。また、その文字の組み合わせでその人の先天的な能力や傾向が読めるとされています。 西洋占星術であれば、自分が生まれた瞬間の星々の配置を見て、その星がどの星座やハウスにいるか。また、それぞれの星と星の関係(角度)で色々なことがわかるとされているわけですね。 何が読めるかというと、金運とか恋愛運や特定の相手との相性なども大丈夫なのですが、十干十二支の文字や惑星の配置が特徴的であればそれ以外にも色々とわかる場合もあります。実際に自分が読めた例で言うと…「自営業が向いている」「頭が良い」「メンタルが弱い」「キツい仕事をしがち」「オタクの傾向がある」「冷え性である」「占いに向いている」等々でしょうか。 わかる「場合もあります」と書いたのは、文字や星の配置が極端で「これはだれがどう見てもそうだよな」という場合は上記の事柄を読むのは比較的簡単なのですが、世の大半の人は自分も含め凡人なわけです。 そうすると四柱や星の配置も普通というか、見るべき特徴があまりはっきりせず「ここから何を読み取ればええんや?」となることもしばしばではあるのですが、そういう微妙な差異から色々読み取れるのが実力ということなので、単に精進が足らんということになるのでしょう。 四柱推命の話が続きます。先ほどのサイトに戻り、四柱から少し下にスクロールすると「大運」という文字が出てきます。何歳からスタートしているかは人によって差異がありますが、並んでいる2文字が全てキッカリ10年ごとに入れ替わって行っていることにお気づきでしょうか。(○○歳のすぐ右隣りの十干十二支の2文字のみ。あとは見なくてOKです) 先ほどは生まれた年月日時で決定した四柱にどういう文字が入っているかやその組み合わせを考えましたが、今度はその四柱をひとまとめにします。10年ごとに入れ替わるこの文字が、ひとまとめにした四柱のどこにどう作用するか。(先ほどは四柱のそれぞれの文字間の関係性でしたが、今度は四柱全体と大運の関係性の話になります)それによってその時々の吉凶が出てくる。と、そのような感じです。 生まれた時の暦や星回りで元来の性質が決定するというお話をしたのですが、それにプラスしてその時々の運の巡りにも影響を受けることになります。元々金運の良い生まれの人が この大運で更に金運が良い時期に入り確変モードに入ることがあれば、元来割とモテるタイプのはずなのに若い頃の大運が「非モテ」期だったり…と言った感じの悲喜こもごもが起こるわけです。(なお、10年という長期スパン以外にも1年単位での短期スパン運もあります。) 少し話をはしょっちゃいますが、西洋占星術も出生時のホロスコープに知りたい時期の天体図を重ねることで未来を予測する手法等がありますので、生まれたときの星の巡りと時間の経過で変わっていく運を割り出すことは出来ると言って良いでしょう。 そして、今の時代PCを使えば50年先の暦も50年先の天体図もすぐに割り出せるわけで、そうなれば50年先の『大体の』運の良し悪しについて予想が出来るということになります。 命占は『遠くは見えるかもしれないがあまりはっきりは見えない、望遠鏡みたいな占い』と例えることがあります。 ・卜占(ぼくせん)が得意としていること:割となんでも。ただし遠めの未来を占うのは難しいことが多いよ。 突然ですが「財布を無くした」ことにします。この財布が見つかるかを占いたい場合、上記の誕生日を使った命占で占うことは難しいでしょう。今日落とした財布が見つかるかどうかは生まれたときから決定しておらず、10年ごとに変わる時の運(大運)で決定しているとも考えにくいからです。 1年単位の運で金運が良ければよいのでは?ですか。なるほどそれも悪くないかもしれませんが、今2万円の入った財布が出てこないものの、今年は仕事運が良く年単位で考えるとトータルでプラスになっている。という可能性もないわけではありません。 ということで登場するのがタロットをはじめとする卜占です。これがまぁわりとなんでも占える。「さっき無くした財布は出てくるか。」「今日行く合コンで好みの人に出会えるか」 「職場に気に入らない上司がいますがどうしたらいいか」占い師にとってはド定番質問の「気になる彼は私のことをどう思っていますか」というアレもタロットに聞くことが多いんではないでしょうか。 先ほどの財布の応用で行くと、命占で今年は就職運が良いらしいとなったとして、「これから1日おきに3社の就職面接があります。どこかに受かるでしょうか」と聞くならばやはり卜占になるのでしょう。 しかし万能にも見える卜占ですが、命占と違い流石に20年先とかの未来を読むことは難しいように思います。 では卜占でどのくらい先までのことが占えるの?となるとその卜占を行う人が「どのくらい先まで占えるか」についてどう考えているかと、腕の良し悪しの要素などが関係してくるんでしょうか。どのくらいまでの未来が読めるか。近時の流行りとしてはタロットだと長くても1年くらいまでかな。という気がしているんですがタロット使いの皆様方、いかがでしょうか。 卜占は『わりと何でも占えるかわりにあまり遠くは見えない。』 命占が望遠鏡だとすればこちらは顕微鏡や虫眼鏡に近い占いと考えて良いかもしれません。 (別に「私は結婚出来ますか」等を卜占で聞いても良いんですが、「生きているうちに結婚出来ますか」という超ロングスパン質問になると当たらなくなる気がするので、時間的射程距離については占い師に相談の上、質問をしましょう) ・相占が得意としていること:誕生日と道具が無くても出来るのはデカい。占える事柄としては命占寄りかも?風水は自分で運をつかめる(場合もある) めちゃめちゃ重要なことを忘れていました。卜占と相占は誕生日が不要なのです。これだけで俄然取り回しが良くなるんですよ。命占はきちんとやろうと思うと出生時間まで必要ですし、命占で相性占いをするとして合コンで知り合ってすぐの子とか、職場の嫌な上司に誕生日なんて聞けないですからね。 そして卜占は基本タロットカードや筮竹(上の方の動画を見てください)と言った道具が必要になりますが、先ほどお話ししたように相占は「見た形」で吉凶を占うため、占いのための道具すら不要です。 ここまでは占う側の都合(?)でしたが、占われる側としては相占ってどういう事柄を占えるんですっけ。というお話ですよね。 実は人相と手相は勉強中なのであまり確かなことは言えないのですが、その人の特性や才能とか、結婚とか職業に関する大きな出来事であれば、大体このくらいの年齢でこういうことが起こるかも。という答えを出せる気がするので卜占ほど自由自在ではなく命占寄りなんでしょうか。 ただ滅茶苦茶な達人になると、「ペットがいなくなったがきちんと帰って来るか」という卜占にて尋ねるべき質問を人相で当てたりもできるらしいので油断が出来ません。自分も人相で「父親と母親の実家は距離的に離れていること」を当てられたり、同じく人相で数か月後に東南アジアに旅行する計画のあることを当てられた人を見たことがあるので、少ないながらもそういう鬼みたいな達人がいることはどうやら事実のようです。 もう一つ相占(形で占う)で風水を挙げましたが、これは今までの占いとはもう劇的に意味合いが変わってきます。今までが「受動的」と言うならば、こちらはかなり「能動的」と言えます。 これまで占いで悪い結果が出た場合、占いのアドバイスに従って良い時期を待ったり、それまでに現実的な面で努力するという対応策が必要で、占いの結果自体を変えることは出来ませんでした。しかし風水は簡単です。悪い風水の家に住んでいれば、良い風水の場所に引っ越せばいいわけです。 ここでは触れませんが、方位術も「自分で良い方角を選んでそちらに行く」ということであれば「能動的」に使える占いの一種ということになりますね。 た!だ!し!これも今回は触れませんが、「運とはいろいろな運の複合体である」という問題があるため、風水で全てをひっくり返せるかどうかのワンチャンあるかと問われると難しい場合が多いというのが実情でしょう。 ・応用問題:なぜ占い師は占いで万馬券を当てて生活して行かないのか問題について。 ここまで占いの種類と種類ごとの使い方をやってきましたが、競馬で勝ち馬を占うにはどの種類の占いを使えば良いでしょうか。はい。卜占ですね。今日のこの日のレースの馬の勝ち負けについて誕生日で色々を決定する命占を使うのは中々難しいからです。 じゃぁ、卜占が上手ければ万馬券当て放題じゃね?占い師ボロ儲けやん。と思ったアナタ。 コトはそう簡単ではありません。「命占でその人の傾向が読める」としたこと、お忘れではないでしょうか。傾向って何よって話ですが、「モテる」とか「健康運が良くない」とか「引越しが多い」とか「倹約家である」とかまぁ色々ある中に「金運がある」とか「ギャンブルが強い」みたいなものがあったりしたらどうなるでしょうか。 占い師だって人の子です。命占の結果の影響を受けないわけではありません。ということは「ギャンブル運の弱い」傾向のある占い師がギャンブルを占ってその馬券を買うとどうなるでしょう。 占いが当たっていれば万馬券が買えそうなものですが、万馬券が当たりにくい傾向があるのであれば、負ける方向に運が引っ張られる結果、卜占も自ずとはずれる方向に引っ張られると思いません? なお、お客さんでもギャンブルがらみの質問をしてくる人はたまにいますが、およそそういう人ってそもそもギャンブル運が強くない人ばかりなので、いくら当たる占い師に助言をもらったとて博打がはずれる世界線に集束してしまうのです。そういうものなのです。 ちなみにワタクシも「ギャンブル運の無い」占い師の一人でして…去年の6月くらいに占い師仲間の皆さんと初めてオートレースを見に行きました。そんでもってその場で占って当たりそうな車券を買う。というイベントに参加してきたんですね。 オートレースなんて1mmも知らないのですが、占いだけを頼りに8レース分くらい車券を買って回収率が120%程度というなんだか微妙な結果を叩き出してきました。しかし自分に元来ギャンブル運がないことは分かっていたので、大きく賭けず100円単位でチマチマ賭けていたのがマイナスにならなかった理由の一つではないかと考えています。 卜占に通ずれば、高級焼肉何回か分のお金が当たることはあるのかもしれませんが、大きくギャンブル運が無いのであれば占いで人生が変わる額のお金を手にするのは難しいんではないですかね。というお話でした。 ただし、ギャンブルで卜占の腕を磨くこと自体は大変良いことだと思います。大体占いの結果は数か月が経たないと当たりがわからないものも多いですし、当たるにせよはずれるにせよお客さんから結果を聞かせてもらえることもそう多くないのです。 そのため、占ってすぐ即結果の判明するギャンブルや天気、スポーツの試合を使い、腕を磨くことは悪いことではありません。 (易占いでも古くは「米相場を占う」的な本だって存在していたくらいですし) あと何より重要なことは、占いを使っても使わなくてもギャンブルや相場で大当たりした場合、ある程度寄付をした方が後々後悔しない場合が多いということです。もう文字数が大概なことになっているのでなぜかはここでは触れないですけどね…続編があればあるいは… ☆占いにもやってくる近代化の波 ・古い時代に成立した占いによって出てくる象徴を、現代アイテムに当てはめる必要がある場合もあるというお話。 タロットカードを見て頂ければわかるのですが、絵柄中のアイテムとして剣や舟や二頭立ての戦車が出てきます。ですが、マシンガンやスマホやラザニアは出てきません。 そらまぁ占いというのはかなり古い時代からある(自分がやっている四柱推命だと宋代(西暦960年頃から1300年くらいまで)に今の形になったのだとか)わけでそれは当然なのですが、タロットカードの意味、易占いの卦の意味について現代の状況やアイテムに当てはめる必要に迫られることもしばしばです。 (詳細は避けますが、八卦や気学を使う方は「八卦や九星でパソコンを表現する際ってどの星や卦に配当すべきか」を思考実験としてやってみると良いと思います。個人的には「震」だけが正解ではないと思っています。) 「スマホを落としたのですが、見つかりますか」を占う場合において「見つかりますか。」にフォーカスする場合はまだ何とかなりそうですが、問題は「スマホ」部分にフォーカスする必要がある場合です。これをお読みである占いビギナーの皆様に対して説明が難しいのですが、こうなると星や十干十二支やカードや卦にどう新しい時代のアイテムを対応させるかという問題が出てきます。 極端な例だと「射覆」(せきふ。品物を箱の中に入れたり布で覆った状態でその品物が何であるかを占うもの。通常何らかの卜占の練習として行われます)でしょうか。これはもう「スマホを無くした」とか「新しいスマホが欲しい」とかそういう話ではなく、只々箱の中身がなんなのかを占うしかないのです。射覆を行う際、考えるべきことは多岐にわたりますが、新しい時代のアイテム問題もその一つでしょう。 自分が出会った一例を。 飲み会の帰り道「あたしぃ今転職活動中なんですけど、どんなとこに勤めると思いますぅ~」と問われれば「しらんがな、せめて業種くらい教えやがれ」とコンマ5秒くらいはムッとするも、数少ない後輩は大切にした方が良いと思えるくらいには酔っていなかったため、とりあえず占いを開始するわけです。 オフィス街であるこの近辺、芝公園方面から下っていく坂道を通る車もめっきり減ってくる時間帯。コンビニ用と思しき配送車と多分何らかの配達用三輪バイクが連なって赤いランプと共に坂を下って行きます。 はい、占い終了! 卜占には道具が必要(自分の場合易占いなので、さっきのいらすとやさんの画像やYouTubeで出てきた竹の棒です)。と書きましたがこの場合は車両のナンバーを占いの道具に使い出した結果は「地水師」(このワードで卦の解説が出てきますので興味のある方はweb検索してみてくださいな)です。 卜占の際にぼんやりとした質問を投げかけられた場合、ぼんやりとした答えを投げ返すのがワタクシ流。とりあえず言えるのは… ・なんか職場としてはそこそこ以上の人数がいそうだから、大きな会社なんかね。 ・規律の厳しい職場っぽい。官公庁なのか、そうでなければ「皆で右向け右」ってカラーのトコだと思うよ。 と言ってはみたものの、このちゃらんぽらん女子がそんなトコに就職すんのかねぇ。 そんなため息も木枯らしにかき消され季節が1つ進んだ頃、やってきた彼女よりの連絡は「あたしぃ百貨店で美容部員になりましたー」というもの。 …そうかい。うーん百貨店とか化粧品みたいな華やかさのある卦ではないしまぁはずれよね。などとガッカリしつつ卦の形を何となく見ていたんですが、このちゃらんぽらん女子。大きな駅ビルにある百貨店で働くんだそうです。 はい、都会の駅ビルにありがちな1階より少し上階部分(赤で囲った部分)に線路が通っているビルの形になっていること。なんとなくお分かりいただけるでしょうか。低層階は百貨店。その上はオフィスなんだそうです。 しかし、寒風吹きすさぶ中その場ですぐ「駅ビルだ!」なんて思いつくわけも無いですし、そもそもこれが駅ビルの形として良いのかって話すらある。まぁでも有名百貨店なら職場に人が多いし、接客業の中でもかなり規律は厳しいと言えるから全くの落第点でもないのかな。 …長く占いを続けていくためには、ときにはこうして自分を慰めるすべを持つことも重要です…なんか主旨が変わって来ていますが。 なお、問題はこれだけではありません。 音楽で生計を立てている方を四柱推命で占ったことがあるのですが、その方が音楽を仕事とされている理由と言うのが音楽の適性があったから。というよりは四柱八字を見た感じパソコンに強いからだろうなぁ。みたいな事例もありまして(ピアノは多少弾けるが、作曲等はほぼPCのみでDTMとして行っている。ゲーム音楽や地下アイドルへの楽曲提供だとそんなんでも何とかなりますよーとのこと。そんなもんなの?)何というか、時代やなと。 別のところでは、占いに関する80年代の古本を読んでいた際、「恋愛結婚が出来ないのでお見合いをする方が良いでしょうか」みたいな質問を誌上で見かけたことがありました。 80年代であればその質問で良かったのでしょうが、現代であれば合コンや街コン、SNS、結婚相談所、マチアプ(これで結婚にたどり着けている人は稀だと思いますがまぁ一応)手段だけは沢山あるわけです。 上記質問を占うとき、恋愛とお見合いの間にグラデーション的に存在する(あるいは恋愛やお見合いにこれらが含まれる場合の)様々な手段。命占や卜占ではどう扱うべきなのか、これも悩ましい点の一つです。 人の世に悩みが尽きないことは永久不変なのかもしれませんが、科学技術の発達に伴う新アイテムの登場、社会や職業の変化、文化の変化は時代が進むごとにそのスピードを増し、悩みの対象になるもの、悩みの質の変化のスピードも速くなっています。占いと占い師はその変化のスピードにどこまでついて行けるのでしょうか。 ☆一億総中流社会の崩壊した日本で占いに何が出来るのか いきなり話が大きくなってきましたが、これも前の章の続きと言えば続きです。経済が上向きで男性は年功序列で働いていればなんとかなり(あるいは小さい自営や町工場でも普通に食べていけ)、家に帰れば子供と奥さんがいて普通にマイホームに住み…みたいな世の中で無くなってしまったことはもうずいぶん昔に皆さんお気づきのことと思います。 そんな過去の景気の良い時代にあってもそのレールに乗り損ねたマイノリティの人々がいて、その人達の悩みを占っていたことは想像に難くありません。ですが、現代はそもそも「これに乗っていれば安心」というレールが無くなったか、先がどこに続いているかわからないレールが複数あってどれに乗るべきか。というような世の中になった気がしています。 そして「今の世の中は多様化している」と言えば聞こえは良いですが、これって一億総中流社会で提供できていた安心に満ち満ちた「これに乗っていれば安心」という大きな物語の提供ができなくなった結果の副産物なのでしょう。 私見ですが、占い師は占断(占いでの判断)に当たって『基本的には』自分の価値観を挟むべきでは無いと考えています。悩みに関して自分の目線でアドバイスしてしまえば、それは普段顔を合わせず自分のことをよく知らない口うるさい親戚の説教と大差が無くなってしまうからです。 …ですが、出てきた占いの結果をどう解釈するか、どう相談者に伝えるかに当たって、時代の雰囲気や先が見えないながらも世の中の流れを考慮しないといけない場面というのは存在するように思えて、そのときの難しさは上記の「カードからスマホを読むときってどうしたらいいんだっけ?」「合コンって恋愛に入れていいんだっけ?」問題よりも数段上なのではないかと感じています。 ただ、一億総中流社会の崩壊が遠因とはいえ「世の中の多様化」については、単純に悪いことばかりでもない気がします。副産物の一つとしてマイノリティーとされた人々が声を上げやすくなったということがあるからです。 しかし、これは悩んでいる内容の多様化を意味し、占い師が困る事態にも発展しがちです。「このお悩みに対して占いは何が出来るんだ」というものについて、見聞きしたものの中から一例を挙げてみます。 ・LGBTの方の相性占い。 (お付き合いや結婚に関して「男女間」しか想定できない占いには鬼門なのです) ・自分がADHDかどうかと言った相談。 (ADHDかどうかは占い上、わかる場合もあるのですが、目の前のその人の様子を見て「この人は本当にADHDなのか」を判断する訓練を占い師は受けていない上に、それをやってしまうと医師法違反となるでしょう) ・自分(奥さんです)や子供が旦那や転がり込んできた彼氏から虐待を受けているがどうしたらいいか。 (もはや占いでどうにかという段階では無いですし、たまたま筆者が法律に詳しいからと法的な手段で手を出すと、もちろん弁護士法72条違反になる可能性が高いです) ・2020年上半期辺り、緊急事態宣言で営業できなくなった店の夜職の子達(の中でも本当に貯金の無い子)の「お店が閉まってしまって手持ちのお金が無いので来月の家賃を払うことが出来ない」等のお金が稼げないがどうしたらいいか問題。 一昔前だと社会の陰に潜っていたものが、色々と表面に出てくることは悪いことではない反面、それに向き合う占い師には難しい局面も多くなっているような気がします。悩みの多様化と共に一億総中流化社会の崩壊に関連して問題視しているものがあります。それが各種中間団体の崩壊と、各種専門家へのアクセスのしにくさです。 中間団体とは何か。一番大きい団体が国や社会とした場合、それと個人の間にあるものです。中間団体の例としては、家族、会社、学校、地域社会辺りがイメージしやすいのでしょうか。 そして、この中間団体の崩壊が始まって久しい(親族は高齢化が進み亡くなっていき、核家族化が進む。会社では正規雇用と非正規雇用で分断が起こり、終身雇用制の崩壊により転職も容易に。学校ではクラス内でグループ間で断絶が起き、都市部の賃貸であれば自分の隣に住む人がどのような人か知らないことも珍しくはないでしょう)わけで、どの中間団体の構成員も頼りにならないということになれば、何か困りごとが起きたときに相談できる人というのもいないことになります。 各種専門家について考えると、数十年前に比べ弁護士の数が増えたとはいえ、司法にアクセスするにはまだハードルも高く、行政的な支援はその制度を知っている人の下へしか届きません。 先祖供養について聞きたくても昔ほど檀家寺との距離は近くなく、精神的なもやもやがあっても欧米に比べると心理カウンセラーへの敷居が低いとはまだまだ言えない状況です。 矢野経済研究所によれば、2023年度の占いサービスに関連した市場規模は約1000億円なのだそうです。 この章は仮説だらけで突っ走ってきましたが今までの仮説たちが正ければ、約1000億円規模の悩みが中間団体の誰かや各種の専門家にではなく占い師に襲い掛かって来る(?)時代はまだまだ続くのかもしれません。占いの館や電話占いでは「気になっているあの人の気持ちを占ってください」という今も昔も変わらずの牧歌的なお題も多いようです。しかし「(自分も含めて)ちょっと変わり者程度の人」であることが多い占い師からは想像もつかないような多様化しまくった内容の悩みや相談は社会の黄昏が深まるほどにいくらでも増えるのだろうという暗くて深くて静かな確信を持っています。 そのとき、それまで考えたこともないような事象についての吉凶をどうやって出し、どう適切に伝えるか。占い師の手腕が問われる時代はまだまだこれからのようです。