
昭和日本からドラクエまで、日本でいちばん賛否を呼ぶ映画監督・山崎貴の作品世界を再評価する。
偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「昭和日本からドラクエまで、日本でいちばん賛否を呼ぶ映画監督・山崎貴の作品世界を再評価する。」。海燕さんが書かれたこの記事では、映画監督・山崎貴への偏愛を語っていただきました!
山崎貴は、議論の余地なく現代日本で最高の映像作家のひとりだ。
――と、こう書くとそれだけでひとつの議論が巻き起こりそうだ。
山崎貴が現代日本映画産業で随一のヒットメーカーであることはたしかだが、その作品の出来不出来に関してはさまざまな意見があり、その評価に「議論の余地がない」とはとてもいえそうにない。
それでは、このように書き直してみたらどうだろう?
山崎貴は議論の余地なく現代日本で最も賛否が分かれる映像作家のひとりだ。
こうすると、前の文よりずっと多くの賛成票が集まるのではないだろうか。そのくらい、山崎貴の映画に関しては賞賛と批判が拮抗している。
山崎貴は、きわめて多作でありながら、新作を出すたびに必ずヒット作となるいまの日本では数少ない人気作家であることは間違いない。だが、それにもかかわらず、あるいはそれだからこそ、そのフィルモグラフィを批判的に語る人は少なくないのだ。
それはかれがアカデミー賞を受賞したいまですら変わらない。今回は、この稀代の「商業映画監督」の作品世界を取り上げ、詳細かつ好意的に分析することとしたい。
そう、はじめに書いておくが、ぼくは山崎の業績をすこぶる高く評価する立場に立つ。どんなにたくさんのシネフィルが批判しようが、山崎の映画は(そのすべてがとはいわないまでも)素晴らしい。ぼくはそう信じる。その根拠を、これから書いていくことにしよう。
ハイペース、ハイアベレージ。
https://www.youtube.com/watch?v=fmeB08Qd4Qo
客観的に見て、山崎貴はあきらかに現代日本を代表する映画監督のひとりである。そのキャリアといい、受賞歴といい、興行成績といい、一般観客からの評価といい、かれに匹敵する監督はそうとう広く探し求めてもそうはいないだろう。
何といっても注目するべきはその多作ぶりだ。高度なVFXを多用する独自の作風にもかかわらず、ほぼ1~2年に1作ずつ、場合によってはそれ以上のペースで新作を発表しつづけていることには驚くしかない。
しかも、その大半が10億円を越す興行を記録しており、50億円を越えた作品すら複数ある。これはハリウッドの大作と比べれば平凡な数字かもしれないが、その予算規模が相対的にかぎりなく小さいことを考え合わせると、驚異的な事実だといえるだろう。
しかも、かれは延々と同じシリーズを作りつづけているわけでもない。つねに新しい作品にチャレンジしつづけながら、いままで一度たりとも興行的大失敗を記録していない。そのすべての作品が高い水準で観客を動員しているのである。これはやはり、ふつうに考えても凄いことではないだろうか。
ただ、そのいっぽうでいわゆる「シネフィル(映画通)」からの評価はからいものがある。
もちろん、すべての映画好きが「アンチ山崎貴」を標榜しているわけではないだろうが、自分は映画をよく理解していると考える人のうちかなり高いわりあいが、山崎作品を否定的に見ている印象は否めない。
少なくとも、比較的「薄い」一般観客層がかれの作品をいたって高く評価している事実と比較すると、「マニア」はとても批判的だといって良いのではないだろうか。
その理由として挙げられそうなことは、主にふたつある。ひとつは、山崎映画の一様にウェットでセンチメンタルな作風だ。
初期の『ALLWAYS』三部作で大ヒットを飛ばして以来、山崎は一貫して「泣ける」ことをウリにした、きわめてウェットな作品を作ってきた。
そこが俗ウケをねらっているとみなされ、より繊細なシナリオを期待する観客から忌避されているという一面はあるように思える(とはいえ、かれの全作品を一望してみれば、ほんとうにそれほどウェットなばかりの作家なのか? その点には一考の余地があるだろう)。
そしてもうひとつは、山崎がほとんどいつものように何らかの原作をもとに映画を撮っている監督である点だ。
前述の『ALLWAYS』の原作は名作マンガ『三丁目の夕日』であり、そのあとも『クレヨンしんちゃん』『宇宙戦艦ヤマト』のような国民的知名度を誇る作品から、『永遠の0』のようなベストセラー、『寄生獣』などの異色作に至るまで、幅広く原作ものを手がけ、そしてそのほとんどをあてている。
おそらく映画会社にとってはきわめてありがたい監督だろう。Amazonやフィルマークスを見るかぎり、世間一般の評価も高い。
つまりは、一部の映画ファン、あるいはマニア、あるいはフリーク、あるいはオタクと呼ばれる人を除いては、ごく素朴に山崎貴の映画を楽しんでいると見て良いようなのである。
天才でもなく、芸術家でもなく。
https://www.youtube.com/watch?v=7iIoHGv9hZU
しかし、やはりそれでも山崎の映画を批判的に語る人は少なくない。
もちろん、スピルバーグだろうがキューブリックだろうが悪くいう人はいるわけで、すべての人に愛されることはそもそも不可能だろう。だが、山崎貴の場合、そのかがやかしいキャリアに比して、苛烈な批判的意見が目立つ。
とにかく好き嫌いが分かれる作風であり、しかも嫌いな人はみな自分の意見の正当性を信じて疑わないように見えるのだ。この現象はいったい何なのだろう?
ウェットな作風の監督は他にいくらでもいる。かれと同じようにマンガや小説を原作にしている人だって何人もいることだろう(そもそも、最近の邦画のヒット作はその多くがマンガ原作ではないか)。
それなのに、山崎貴を嫌いな人たちはそれはもう激烈に「議論の余地なし」という調子で批判する。その激しさは、ぼくのようないたって素朴にかれの映画を楽しんでいる人間から見ると面白い限りである。
当然、山崎の作品にも出来不出来はある。歴史に残るほどの傑作だと思う作品があるいっぽうで(『アルキメデスの大戦』とか)、わりあい凡庸な展開に終始している作品もなくはない(『ルパン三世』とか)。だが、より重要なのは平均して一定水準を越える作品を出しつづけ、高く評価されつづけていることだ。
そう、くりかえしになるが、これは広く見て平成以降の映画界ではまったく類を見ない、ワン・アンド・オンリーの個性である。
わが国では、何十年も映画を撮っていないのに堂々とカントクと呼ばれている人がわりにいることを思えば、その職業に対する誠実さは疑う余地がないように感じられる。
思うに、映画監督とは映画を撮ってこその職業である。どれほどまわりで賛否について騒がしかろうと、いっさい頓着することなく淡々と延々と映画を撮りつづけている山崎は、いま、日本でもっともプロフェッショナルな映画人といっても良いのではないだろうか。
もちろん、監督業が、優れた作家であればあるほど身も心も削るほどのハードワークであることを考えれば、庵野秀明や宮崎駿のように一作撮ったらそれで消耗し切ってしばらく撮れなくなってしまう天才作家を責めることはできない。
むしろ、恐ろしいほどのハイペース、ハイアベレージで新作を創りつづける山崎のほうが例外的な存在なのだ。
「いや、数ではなく質こそが重要なのだ」という意見もあるだろう。なるほど、その通りではある。しかし、一定の質が担保されているのなら、たくさんの「数」を生み出していることもまた評価の対象になるのではないだろうか。
生涯にただ一作か二作、傑作を撮って歴史に名を残す作家はかっこいいかもしれないが、何十本という作品を撮りつづけて大衆を魅了する作家もまたかっこいい。ぼくは心からそう思う。
そして、単純にひとりの観客としてありがたいのは後者のほうなのだ。
たしかに山崎の作風はいかにもウェットである。しかし、そのウェットなナラティヴを成立させているものは際立ってドライな計算であり、戦略なのである。
現実問題として商業的な失敗作を撮りつづけたら監督業は成り立たないわけで、映画監督は「芸術的な」自己満足に留まることを許されない。山崎の姿勢は、その意味でとても映画という産業とマッチしているように思える。
かれは天才でもなければ芸術家でもないかもしれない。だが、最高の職人であり、しかもときに驚くほど挑戦的に「常識的な作法」から足を踏み出してみせる。
まあ、だからこそ嫌いな人には嫌われるのだろうが、そのようなやんちゃな姿勢もぼくのような一ファンには魅力的に映る。
とにかく、好悪はさておき、凡庸なクリエーターではないことだけは間違いない。
責難は成事に非ず。
https://www.youtube.com/watch?v=x7ythIm0834
それにしても、山崎の作風の一貫性には驚くべきものがある。どれほど膨大な非難が寄せられても、かれはそのスタイルを変えようとはしない。そして、あくまでもエンターテインメントの最前線に踏みとどまって、一歩一歩、その評価を高めていっているのだ。
動かざること山のごとし。かれの姿勢はたしかに天才作家とか芸術家というにはあまりに現実的で、面白みがないように感じられるかもしれない。だが、この社会で大人が仕事をするとはこういうことなのではないだろうか。
世の中には、「おれだって十分な予算さえあれば大傑作を撮ってやる」と思っているような無名の監督がたくさんいることだろう。
だが、実際にはどのような才人もかぎられたスケジュールとバシェット、うんざりするような人間関係のしがらみのなかで撮るしかなく、「条件さえ整えば」良い作品を創れるなどというのはどこまでいっても戯れ言の域を出るものではない。
山崎の映画も、ときにその映像表現がいかにもチープに見えることはある。おそらく、かれ自身もまたいくらでもいいたいことがあるだろう(じっさい、ときどき愚痴をこぼしている)。が、かれはそれでもなお、つねに最善を尽くすだけのように見える。
もっと予算があれば、もっと時間があれば、もっと俳優に恵まれれば、かれより良い映画を撮れる者はいるかもしれない。しかし、それはしょせん「イフ」の話でしかない。それに対し、山崎は現実に『寄生獣』や『アルキメデスの大戦』を映画化してのけているのである。
原作ファンにはいいたいこともあるだろうが、これらの企画のそもそもの困難さ、あえていうなら無謀さを考えるとき、山崎の功績は巨大なものと見るしかない。
かれはそうやって賛否のあらしをあの、かれ一流の気さくな態度でかいくぐりながら、いっそ頑固と思えるほど作風をつらぬき、キャリアを築いて、ついに『ゴジラ-1.0』を生み出した。
これは紛うかたなき不世出の天才映像作家である庵野秀明の代表作『シン・ゴジラ』に比肩する山崎の集大成にして、おそらくは最高傑作である。
この映画の出来栄えを観て一驚したハリウッドの映画人たちは、その予算の少なさを耳にして二驚したともいう(こんな日本語はないが)。
山崎はいつも現実の制約に立ち向かい、きっと切歯扼腕(せっしやくわん)しながらなのかもしれないが、その範疇でどうにかこうにか最善の成果を出しつづけた。ぼくはひとりの社会人として、その姿勢を心からリスペクトする。
だれだって、最高の環境がととのえば最高の成果を挙げることができるだろう。問題は、いつまで待っていても最高の環境がととのう日など来ないということで、現実に成果を生み出そうとする人間は現実の制約の内側で何とかするしかないのである。
あるいは、何かを成し遂げることをあきらめて口だけ達者な傍観者になりおおせるか。
山崎は前者の道を選んだのだろう。そして、いま、アカデミー賞の受賞を経て、さらなる高みへ飛躍しようとしている。これが、これこそが現代社会を生きる大人のあるべき姿でなくて何だろう? ほんとうに素晴らしい。
山崎貴にかぎらず、だれかの仕事を横から批判することはたやすい。しかし、責難は成事に非ず。ただ批判しただけでは、なにかを成したことにはならないのである。
成すことだけが成すことなのであり、だからこそぼくはときに失敗しながら、挫折しながらでも成しつづける人を尊敬する。
山崎貴は責難の人ではなく成事の人である。かれが真にプロ中のプロであることは、もはや疑う余地がない。新作が楽しみでならない。またも山崎は、なんらかの意味で想像を超えてくるに違いない。そう――この現実世界の冷淡なる制約が許す、その範疇で。