アニメ放送目前! 戦慄と陶酔の神マンガ『メダリスト』は「天才」を因数分解する。
「司くんが夢中になった理由が少しわかったよ 美しさや芸術性だけじゃない できたかできなかったかだけじゃない フィギュアスケートは奇跡を見守るスポーツなんだ」
司といのり、メダリストをめざすふたりの無謀に見えるチャレンジ。
つるまいかだのフィギュアスケートマンガ『メダリスト』がアニメ化すると聞いたとき、とくに驚きはなかった。人気から考えても内容の面白さから考えても当然のことであり、遅かれ早かれ実現するに違いないと考えていたからだ。
この原稿を書いている段階で放送はまだ先のことで、成功作になるかどうかは何ともいえないが、もし原作の魅力を十全に再現することが叶ったなら、素晴らしい作品ができあがることだろう。
何しろ、原作は現代のスポーツマンガを代表する傑作である。いま、すべての雑誌を見回してもこれほど「熱い」スポーツものは他にない。
このマンガの魅力はいくつも挙げられるが、何より他を圧倒するのはその「熱量」に違いない。とにかく読んでいてすさまじいまでの「熱さ」に圧倒される、そういう格別な作品なのだ。
物語は、オリンピックをめざすも挫折した元アイスダンス選手の司が、フィギュアスケーターとして成長することをめざす少女いのりと出逢うところから始まる。
さまざまな事情でフィギュア選手として生きる夢をあきらめざるを得なかった司と、スケートの他は何もできないいのり。それぞれがそれぞれに欠落を抱えたふたりは遥かなオリンピックの金メダルをめざして、あらたな戦いの日々を開始する。
そのまえに立ちふさがるのは幾人もの選ばれた天才少女たち、そして彼女たちを指導するコーチたち。はたして遅れてスケートを始めたいのりに勝機はあるのか、一見、無謀とも見える挑戦の行方は――?
とくに序盤のあたりのいのりは、ほんとうにスケート以外の能力はすべて平均以下という平凡な少女でしかない。その彼女が、自分が実力を発揮できるかもしれないジャンルに、いわば「一点賭け」して、人生のすべてをそこにつぎ込む様子は、胸を打つ。
アニメでも描かれるはずだが、いのりの過剰なまでに熱い情熱は、ときとして暴走しさえする。それをスケーターとしての「正しい道」に修正するのは司の役割である。
この、いままでにない二人三脚の子弟が、ほとんどマイナスからのスタートでオリンピックへの階段を駆け上がっていくところは、圧倒的な迫力で読ませる。
幼少期から特異な才能を見いだして育成するフィギュアスケートの世界で、致命的なまでのスロースタートを切ったいのりを巡る物語は、彼女と司にフォーカスした序盤を経て、しだいに多数のキャラクターの波乱万丈の人生を描き出す群像劇へと変わってゆく。
どこまでも子細に描写されるその一人ひとりの人生模様とフィギュアに賭ける情熱が読みどころ。
濃密をきわめる情報がオーバーフローし脳を焼く。
とはいえ、ただ「熱い」マンガなら他にもある。いったい、きわめて特異な印象を受けるこの作品独特のオリジナリティはどこにあるのだろう?
わたしは、一つにはそれはきわめてていねいに整理された膨大な情報量にあると考える。このマンガは、一般的なスポーツマンガと比べても、非常に文字情報が多い。
フィギュアスケートのルールの説明から始まって、この競技がいま、いかなる技術によって成立しているのか、あるいはそれを軸にどのような人間関係が存在するのか、そのことが際だって詳細に説明されるためだ。
あるいはこの種のマンガを読みなれていない人は、そういった文字情報をひと通り読み取るだけでも苦労するかもしれない。
また、各登場人物の表情や仕草も多彩であり、だれもがコミカルな場面からシリアスきわまりない箇所に至るまで、さまざまな様子を見せてくれる。物語に出てきていのりたちと関係する登場人物の数も一人ひとり名前と顔を覚え切れないほど多数。
そして、何より、主人公たちが氷の上を滑る際のダイナミックなアクションの数々を活写する線の一本一本に「いのち」が宿っていると感じられる。読者はその言葉に、表情に、描線に、マンガならではのあふれるほどの情報を感じ取り、思わず圧倒されるのだ。
この「いちどさらっと読んだだけでとても終わらせられない」濃密な情報量は現代のマンガ独特の読みごたえである。『メダリスト』のアニメ化に不安が残るとすれば、はたしてこのマンガならではの「情報のオーバーフロー」を映像のかたちで再現することができるかどうか懸念されるからだろう。
マンガの絵の描線に宿る「いのち」や「たましい」は、なかなかアニメーションで表わすことはむずかしいものだ。そのくらい『メダリスト』の一話一話に込められた情報は濃密である。
とはいえ、それだけでもない。もうひとつには、この作品がまさに令和のスポーツマンガとして、いまの時代にトップアスリートをめざすことの困難を直視していることの魅力が挙げられる。
かつてのスポーツマンガの傑作では、主人公たちが並外れた「努力」や「才能」によって成長し、夢を叶えていくその様子が熱く描かれることが常だった。しかし、令和のいま、『メダリスト』が見つめる現実はそれよりもっと複雑である。
そこでは、スポーツはシンプルに才能があれば、努力していれば、それで勝てるというものではないということがはっきりと描かれている。
物語の序盤を過ぎたあたりから、いのりはいくつもの大会で優れた実力を見せつけることによっていつしかまわりに天才あつかいされるようになっていくのだが、この物語は決して「天才だから勝てたのだ」というふうにその勝利のプロセスを単純化しない。
ここでも膨大な情報量で「どうして勝てたのか」のディティールが描き込まれ、圧巻の説得力で読者を納得させるのである。
努力神話も、天才神話も超えて、さらにその先へ。
いい換えるなら、この作品はいわばあまりにも簡単に「天才」という言葉で表されてしまう一部の傑出したアスリートのその秘められた内実を因数分解しているのだといっても良い。
わたしたちは大谷翔平や、それこそ羽生結弦といった「別格」の成績を収めたアスリートを目撃すると、つい、かれらはその才能が秀でていたからそうなったのだ、と考えてしまう。
かれらが人並外れて努力していることは分かっていても、ただそれだけではその非常識なほどの成績を説明できないと考えるのだ。いわば「天才神話」である。
なるほど、ただ懸命に努力したから成長できたのだという説明は、少なくとも現代においてはもはや説得力を持たないだろう。だが、そうかといって才能のひと言で済ませてしまうのもあきらかに問題がある。
たしかに「天才」とは、他を圧倒する成績を成し遂げた人物に対し、その他の凡俗が絶大なる敬意をもってささげる無二の桂冠だ。しかし、じっさいには、ある人物が生み出した結果や業績を「才能」のひと言で片づけられるはずもないのである。
「努力」か、さもなければ「才能」かという問いは、とても単純で分かりやすい。だが、その分、無意味かつ無価値でもある。現実には、ひとつの栄光にはそれよりはるかに複雑な多数の要素がかかわっている。
もちろん、じっさいにすさまじく強靭な肉体や、常識を超えた身体能力を持って生まれる人物は存在するだろう。そういった人はその分野における「天才」であるのかもしれない。だが、それならそういう意味で「天才」であれば必ずスポーツで成功できるのかといえば、そんなはずはない。
天才神話は、努力神話がそうであったように、まさに砂漠に浮かぶ蜃気楼のような儚い幻想に過ぎないわけである。
もっとも、そうはいっても、マンガにおいても現実においても、アスリートとして活躍しようとする人間一人ひとりは、いろいろな「前提条件の違い」を抱えていることはまちがいない。
もし、だれもが同じように努力すれば同じように成長するのなら、話はシンプルだが、現実はそうではない。
ひとりの人間が一つの勝利にたどり着くまでには、動機や才能や努力はもちろん、競技そのものとは一見して関係ないかと思われるような家庭環境や経済的な事情といったこともかかわってくる。
スポーツの世界はまさに強烈な格差社会であり、不条理というしかないような「才能」や「環境」の差が物をいうことがありえる。だからこそ、「どうやってその理不尽なまでの格差を乗り越えるか」が物語のテーマとなるわけである。
これは他の現代スポーツマンガでも同じことがいえるが、『メダリスト』がこのテーマを描き出すそのクオリティは他を圧倒する。
べつのいい方をするのなら、ひとつフィギュアスケートに、あるいはスポーツに限らず、「ひとがだれかと競うこと」はすべて「競う前の前提からして大きく違う」という非常な不条理との戦いである。
それゆえにこそその内実を描くことはフィギュアスケートやスポーツのフレームを超え、万人にとって普遍的な意味を持っているのだーーひとが生きることとは即ち不条理な現実に立ち向かうことに他ならないのだから。
くりかえす。いのりは、本来、フィギュアスケート以外はほとんど何もできない子である。だからこそ、彼女は自分に残されたたったひとつの可能性にすべてを賭け、膨大なコストを使い果たすことで奇跡を成し遂げようとする。
しかし、フィギュアスケートはただ単にしゃにむに努力すれば成功するものではない。そこで彼女を導くのが「合理的な指導者」としての司なのだ。
かれはいのりに自分を抑えること、その熱意をコントロールすることを教え、傑出した能力が最大に発揮できる一点へ彼女を導いてゆく。
一方で、いのりの最大のライバルとなる光は、社交的な性格に秀でた美貌、優秀な頭脳と、まさに天才型の「何でもできる」キャラクターであるかのように見える。だが、彼女にもまた彼女なりのストーリーがあり、「闇」があることがやがてあきらかになっていく。
いのりと光、物語を牽引するふたりの抜きん出た「天才」は、その性格もまた微妙に異なる。いのりの「お化けみたいな」パーソナリティは、あえていうならたとえば曽田正人の作品に登場する数々の「天才」たちを思わせる。
それに対して、光はすべてを計算し最適の答えを見つけようとする少女だ。ふたりの対決は、即ちふたつの才能の型の勝負であり、はたしていずれが優位にあるものなのか、物語の現時点では答えが出ていない。
また、このふたり以外にも、じつに膨大かつ多彩なキャラクターが、それぞれの人生をかけてフィギュアスケートでの勝負に挑み――そして、そのほとんどはふたりの「天才」をまえに敗れ去っていく。
その非情。その平等。その不条理。その理不尽。あたかも、これこそが世界の縮図としてのフィギュアスケートなのだ、といっているかのよう。
なんという物語であるのだろう。『メダリスト』はまちがいなく現代におけるスポーツマンガ、あるいは「勝負マンガ」の一つの気高い到達点である。アニメの放送が楽しみだ。これで無惨な失敗作になっていたりしたら(まあ、ないと思うけれど)、泣いちゃう。
みんなで最大の期待と不安を抱えて放送の日を待つことにしよう!
おまけ
――と、ここで終わる予定だったのだけれど、ささやかな偶然の目配せのおかげで放送開始前に『メダリスト』第一話の先行上映を鑑賞することができたので、おまけとして感想を書いておきましょう。
うん、良かったよ! 最新話まで読んだうえであらためてこの序盤をふり返ると、まだ未熟で未完成ないのりと司、遅すぎたはずのふたりが何とも愛おしい。
また、映像のかたちでたしかめたことによって「あ、司ってほんとうに声が大きいんだな」とか「いのりさん、じっさい、フィギュア以外は何もできないんだな、北島マヤみたい」とか、いまさらにあらたな発見がいくつもありました。面白かった。
まさにここから、かれらの挑戦と挫折、栄光と敗北の物語は幕をあける。いや、素晴らしい。みんな、楽しみに待っていたまえ。ぼくはひと足早く見たけれどね(ドヤァ)。
遅れてきたふたりが奇跡を起こす、ドラマティックなアイスショーの、始まり、始まり。
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