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我が青春のアルカディア~僕の人生にはいつもファミコンがあった~

フミコフミオ
偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「我が青春のアルカディア~僕の人生にはいつもファミコンがあった~」。フミコフミオさんが書かれたこの記事では、ファミコンへの偏愛を語っていただきました!

僕のゲーム史のはじまりは「アルカディア」だった。


ファミコン最高。テレビゲーム最高。ファミコンは事件だった。僕が小学生のときに発売されたファミコンことファミリーコンピュータはそれまでの子供たちの遊びを一変させた。そこから日本のテレビゲームは一気に発展していったけれど、その流れをリアルタイムに体験できたのはラッキーだった。

我が家にはアルカディアという謎のテレビゲームがあった。父親が仕事関係でもらってきた代物。スティックが突き出ている形状の、クソ操作しにくいコントローラーだったけど、テレビに映る「ガンダム」や「マクロス」のキャラクターを動かせるのが新鮮で、面白かった。

しかし、友人の家でファミコンを見たとき、我が家のアルカディアはポンコツになり下がった。ファミコンのグラフィックはアニメのように鮮やかで、操作がしやすく、軽快な音楽が鳴っていて、とにかくかっこよかったのだ。

友達の家で遊んだ「ベースボール」と「マリオブラザーズ」からはじまるファミコンの衝撃が忘れられない。謎のアルカディアは、想像力を500%加味して、なんとか画面上の物体をキャラクターと認識できたが、ファミコンは見たまんまキャラクターだった。マリオはマリオで、コングはコング。しかもフルカラー。アニメのような細やかな動き。その瞬間、アルカディアのことは忘れた。僕はファミコンに夢中になった。

友達の家で遊んだファミコンが営業マンに必要なことを教えてくれた。

我が家にファミコンがやってくるのは遅れた。忌々しいアルカディアのせいだ。「アルカディアがあるからファミコンはいらないでしょ」という母の鉄の意思を崩すことに時間がかかってしまったのだ。だから、もっぱら友達の家にある友達のファミコンで遊んだ。何人かで集まって対戦ゲームで盛り上がった。「ベースボール」「アイスクライマー」「マリオブラザーズ」「ハイパーオリンピック」。アイスクライマーやマリオブラザーズの殺し合いでお互いの性格の悪さを知ることができた。

ハイパーオリンピックでは、専用コントローラーのボタンを交互に高速連打する。早く連打すると好タイムが出るシステムだ。ビー玉や棒を持ってこする頭脳派、人差し指から薬指までの右手の3本の指の爪を並べてこする肉体派に別れて肉体の限界まで挑戦した。対戦ゲームのカートリッジを持ち寄っていろいろなゲームで遊んだ。

面白かったのは、ゲームプレイのうまさだけではなく、奇声をあげたり、身体をぶつけたり、駄菓子をなげつける、などの駆け引きが勝敗にかかわっていたことだ。今、僕は営業職として働いているが、駆け引きや交渉はこのときに学んだといっていい。ファミコンはひとりでこもって遊ぶものではなく、コミュニケーションツールだった。

我が家にファミコンがやってきたのは、スーパーマリオが登場したときだ。スーパーマリオと本体を買ってもらうはずだったが、売り切れで代わりに買ってもらったのがカプコンの「1942」。第二次世界大戦を舞台にした空戦もの。パッケージに描かれたロッキードP38ライトニング戦闘機がかっこよかったのだ。中身は……小学生には渋すぎたとしておこう。なおファミコン版の1942の苦い記憶を払拭するために、数年後にゲームセンターで再会した続編「1943」で僕は学業を蔑ろにして死闘を演じることになるのだが、それはまた別の話である。

ファミコンがついに自宅に!という喜びは半減する。原因は兄弟の存在。スーパーマリオは弟と二人でプレイしなければならなかった。兄弟仲良く遊ぶという約束があったからだ。それぞれがやられるまで相手のプレイを観ている状態。弟を優先させなければならないので僕が弟のルイージを使い、弟が兄のマリオを使うという逆転状態なのも納得いかなかった。僕は弟のマリオが穴に落ち、ハンマーブロスの投げるハンマーに当たり、クッパの業火に焼かれるのを祈り続けた。残念ながら運動神経と反射神経に優れる弟マリオはなかなかやられず、僕の操るルイージは力が入りすぎてすぐ穴に落ちていった。弟とは二人でお年玉を出し合ってセガの家庭用ゲーム機、セガマーク3、メガドライブ、を買っていった。いい思い出だ。

ドラクエが教えてくれた大人のきたなさ

中学に入学した直後にドラクエの第一作が発売された。僕の中学三年間で二作目、三作目が発売されて大ブームになった。三作目のときは、事前から大盛り上がりの社会現象になった。発売当日は大混乱だった。日本各地で大行列ができた。ネットショップを使ったり、ダウンロードで買ったりするようになった現代では考えられない。

僕もある情報筋から(ネットがなかったから口コミがすべて)、隣町にある某量販店で発売されるという情報を入手し、友達と学校をサボらずに行列に並んだ。僕らはラッキーなことに全員ドラクエ3の入手に成功した。僕らの後ろでお兄さんが買えなくて暴れていた。彼がドラクエ入手失敗を糧に人生の成功者になっていると信じたい。

ここまでは良い話のような気がするが、大人のきたない一面を思い知らされていた。ドラクエ3は買えた。だが抱き合わせのソフトと一緒でなければ買えなかったのだ。汚い大人がドラクエ3人気に便乗して店にあるソフトと二本セットにして売る(ドラクエ3単体では売ってくれなかった)という悪行を働いていたのだ。今からでも独禁法で捕まってほしい。

というわけで僕はドラクエだけでなく、抱きあわせで「飛龍の拳」を手に入れた。これもアルカディアの呪いだろうか。ところで飛龍の拳はドラクエをクリアするまで放置しておいた。「せっかく買ったのだから」と思い直して遊び始めたら、クセの強いゲーム性にはまり、最後まで遊んでしまった。そして飛龍の拳をシリーズ3作目まで遊んでしまうことになるのであった。

ドラクエ3は最高だった。ストーリー終盤の仕掛けに僕らは感動した。そうくるかと。ドラクエは1作目から終盤の仕掛けがすごかった。革命的だった。1は戦闘画面からはみ出るような「りゅうおう」の大きさ、2はやっと倒したボスの後に現れる真のボス、そして紙のような防御力のサマルトリアの王子、3は主人公パーティーを待ち受ける運命とロト伝説につながる見事なオチ(そういえば11のラストも…)。

ファミコン草創期の友達と集まって遊ぶスタイルと、一人で遊ぶロールプレイングゲームの遊びのスタイルは、見た目は違っていたけれども、ドラクエという大きな冒険にみんなで挑戦しているような感覚だった。ネットがなかったので攻略法のほとんどは、学校で入手していたからだ。現代のネットを介したゲーム体験の原型だったように思われる。という美しいドラクエ初期の想い出とともに思い出すのは、飛龍の拳を抱き合わせで売りつけた大人たちのきたないやり方である。

ゼルダの伝説で、受験をしくじる。

中学から高校にかけて家庭用ゲーム機において、次世代機16ビット機戦争が起こった。スーパーファミコン、PCエンジン、メガドライブが覇権をかけて争った。まあ、スーパーファミコンの圧勝で終わるのだけれども、我が家にはスーパーファミコンとメガドライブが導入された。もちろん弟との共同所有である。

メガドライブはいとうせいこうさん出演のCMの未来感がやばかった。「ビジュアルショック!スピードショック!サウンドショック!」といとうさんが叫ぶCMで「次の時代はメガドライブが覇権を取る」と信じた。ソフトもクセの強いものが揃っていて、獣王記、スーパー忍、ヘルツォークツヴァイ、ゲイングランドは滅茶苦茶はまった。メガドライブはいい線いっていた気がする。

しかし、後発のスーパーファミコンがガンダムのように颯爽と現れるとあっという間にスーパーファミコンの時代になった。メガドライブは中毒性のあるゲームソフトはあったが、残念ながら一般受けしなかったように思われる。個人的にはコントローラーの差が大きかったと思う。メガドライブのコントローラーとスーパーファミコンのコントローラーを比べると後者の方が圧倒的に操作しやすく疲れなかったのだ。しかし僕はメガドライブを見捨てなかった。面白そうなソフトが出たときはチェックをし続け、大学時代を通じて現役の機体だった。少年時代のアルカディアの呪いがゲーム機を大事にしようという精神に繋がっていたのだ。

スーパーファミコンにはメガドライブ以上にハマった。1990年に発売されたスーパーファミコンが僕の人生設計を狂わせた。新スーパーマリオ、スーパーメトロイド、ファイナルファンタジー4と5、ゼルダの伝説神々のトライフォース、スーパーメトロイド。特に大学受験において大切といわれる、高校3年の夏から秋にかけて発売された、ファイナルファンタジー4と神々のトライフォースにはハマりすぎて、受験勉強にまったく集中できなかった。

なかでも、秋に発売された神々のトライフォースにはドはまりし、センター試験前日の夜まで遊ぶくらいで、それが原因で国公立大学受験にしくじってしまった。神々のトライフォースは何度クリアしたかわからないくらいだ。受験勉強にとりかかろうとするとスチャダラパーが歌う神々のトライフォースのCⅯソング「出る出る ゼルダの伝説 出る出る出るでるついに出る出る出る!」が、脳内に大音量で奏でられ、気が付くとコントローラーを握ってテレビの前に座っていた。呪われていたとしか思えない。

この時期は、ソフトの大容量化が一気に進んだこともあって、一人でしこしこ進めるゲームにはまっていた。テレビゲームは、皆で遊ぶものというよりは少しマニアックな趣味になっていたように思われる。ヲタクという言葉が流行ったりしたように。ゲーム好きとの会話はマニア化したぶんディープで面白かった。だから全然後悔していない。もういちど人生をやり直せたとしても、僕は試験前日に神々のトライフォースで遊ぶことを選ぶだろう。

オンラインで、ファミコンで遊び始めた頃を思い出した青年期

大学から社会人にかけてはお金を稼げるようになって、主要なゲーム機を買い続けた。据え置き機は、プレステ1、プレステ2、プレステ4、64、ゲームキューブ、Wii、Switch、Xbox360。携帯機はゲームボーイ、ゲームボーイカラー、ゲームボーイアドバンス、DS、3DS、PSP。あれだけ愛したメガドライブとサターンを出していたセガはドリキャスの自虐CMを最後にゲーム機市場から撤退していた。アルカディアは人知れず滅びていた。

時期によって遊ぶゲーム機は変わっていったが、ゲームと共にあった。オンラインゲームで朝まで遊んだりした。オンラインで最も遊んだのは360の「ギアーズオブウォー3」。Hordeという対CPU共闘モードがあって、すでに30代になっていたが、仲のいい友達と夜遅くまでチームを組んでモンスターと戦った。仕事でヘロヘロになっても週末のゲームがあったからやってこられたといったら大袈裟だろうか。「ポータル2」を協力プレイでクリアしたのも懐かしい。オンラインが流行って、会話しながらゲームを楽しむようになり、最初期のファミコンの楽しみ方を思い出すように遊びまくった。体力もまだあった。

あとはスカイリムとかフォールアウトシリーズのようなオープンワールドゲームに時間を費やした。いや、マジで数百時間は溶かした。その時間をスキルアップに使っていたら僕はそれなりの大人物になっていたのでないか…そんな現実を振り返って「僕は何をやっているんだ」と後悔するポーズを取っていたけれど、それは対外的なポーズで1ミリも後悔はしていない。

50歳になってあのゲーム機に対して感謝する。

僕は今年50歳になった。反射神経と視力の衰えは顕著で、ゲームにもその影響は思い切り出ている。プレステでときどきフォールアウトやディアブロで遊ぶほかは、ニンテンドーSwitchをメインで遊んでいる。体力もなくなった。30代までは出来た夜を徹してのオンラインゲームはもうできない。寝落ちしてしまうだろうし、翌日以降を考えると恐ろしい。それでもほぼ毎日ゲームで遊んでいる。新作もときどき遊んでいる。ペースを落としながら楽しんでいる。

ニンテンドーSwitchは過去作を遊べるのがいい。ニンテンドースイッチオンラインやリメイクやリマスターで過去の名作・迷作が遊べるようになった。僕はここ1年で受験失敗の元凶であるゼルダの伝説神々のトライフォース、スーパーメトロイド、ファンタシースター、ロマンシングサガ3、ドラゴンクエスト2、ドラゴンクエスト3、ドラクエモンスターズテリーのワンダーランドといった過去の名作をクリアした。このうちファンタシースターやロマンシングサガ3はオリジナルが発売された当時(1987年/1995年)にクリアすることが出来なかったのを50歳になってリベンジした形だ。子供の頃、クリアできなかったゲームや遊べなかったゲームが遊べるような未来が来るとは思っていなかった。だから僕はその時代時代の全力を投じてゲームに取り組んできたのに…なんてことだ。

だが後悔はしていない。なぜなら、ふりかえってみると僕の人生のかたわらにはいつもゲームがあったからだ。嬉しいときも悲しいときも苦しいときも楽なときも何もないときもゲームは僕を落ち着かせ励まし癒し隙間を埋めてくれた。ゲームとは40年来の付き合いだ。全然飽きない。最新のゲームにはついていけなくなってはいるけれど、まだまだ楽しんでいきたい。今はニンテンドーswitch後継機がどんな遊び方を見せてくれるのか楽しみでならない。僕にゲームの素晴らしさを教えてくれたガンダムやマクロスがガンダムやマクロスに見えない、あの忌まわしいアルカディアにも感謝しかない。わが青春のアルカディア、と。

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